花本朔良が通うM大学、建築学部の一学年上に、人気男性アイドルグループ『ASKET』のメンバー、ナツがいる。
ナツは顔が極上に整った人で『ASKET』の中で、一番顔が良い人って呼ばれていた。
朔良が初めて彼に会ったのは大学一年生の頃。
大教室の一番後ろ、チャイムの音と同時に入って来たナツは、滑り込むように朔良の隣に座った。
すぐに講義が始まったから、芸能人のナツに気づいているのは朔良だけで、女の子たちの黄色い声が上がることはなかった。多分ナツは騒がれるのを見越して、ぎりぎりに入ってきたのだろう。
座った瞬間、目の前でレモンを切ったようなみずみずしい香りがした。変に押しつけがましい感じがなくセンスのある香水。
ただ、そのとき朔良は、とにかくお腹が空いていた。
隣にいる容姿の整ったアイドルを見て、今すぐレモンをかけた唐揚げが食べたいと、そんな失礼なことを考えていた。感性の問題かもしれないが、要は美味しそうな匂いの男だと思った。
前の席から回って来た出席票は、朔良が最後で自分の机の前に置いてあった。何も言わずに、そっと隣に出席票を回したら「ナツ」に春の日差しのように微笑まれた。
彼のファンなら講義の中、気もそぞろになっただろう。あいにく朔良は身内に芸能人がいる関係で、綺麗な顔も芸能人も見慣れていた。
(――里村夏生、先輩か)
出席票に書かれた学籍番号を見て、一学年上の二年生だと、そのときに知った。
午後一の気だるい空気が大教室の中に満たされていた。
昼に演劇サークルの部室に顔を出していたせいで昼食を食べ損ね、今にもお腹が鳴りそうだった。朔良の周りにはナツが来るまで誰も座っていなかった。
誰だって身内以外に腹の音を聞かれたら恥ずかしい。
ぐーとか、もっと分かりやすく鳴ってくれればよかったのに。キュルルルルなんて、小動物の鳴き声みたいな微妙な音が鳴ってしまった。
聞かなかったことにして欲しいという朔良の願いは叶わず、隣から、ふふっと小さく笑う声が聞こえてくる。
ナツは笑いのツボに入ったのか机に伏して小刻みに震えて笑っていた。
――あの、よかったら、チョコどうぞ。サンプル品だけど。今度CM出るんだ。あ、でもまだ秘密ね。
鼓膜をくすぐるような声で、こそこそ耳元で囁かれた。これがアイドルのナツとの恥ずかしい感じの出会いで、朔良は人気アイドルに腹を空かせた男として認識された。彼が放つ微かな空気の振動を朔良が独り占めしていた。
手渡されたオシャレなクラフト素材の袋には、小さな板チョコが数枚入っていた。
顔がいい人に耐性があったはずなのに、ナツに耳元で囁かれた瞬間、ただのどこにでもいるファンに成り下がっていた。
辿々しく小声でお礼を言って口の中に入れたチョコレートの味はしなかった。舞い上がって味が分からないなんて、人生で初めての経験だった。
その講義の間は、ずっと英語のプリントに目を通しながら横目でナツを観察していた。
顎のラインがシャープで、首までスッキリしている。普通の大学生が髪の色を脱色したら、ボロボロにするのが関の山なのに、赤茶色に染めた色はツヤツヤと発光していた。マッシュヘアーにニュアンスパーマ。オシャレに興味のある男子大学生なら一度はチャレンジする。ただ理想とかけ離れた出来や、スタイル維持の難しさから、人を選ぶ。
朔良は自分でメンテナンス出来るとは思えないので、過去一度も染めた経験がなかった。それに母親譲りの光を通さない黒髪直毛は、アレンジヘアーには向かなかった。もし自分が「サクラ」という名前の通り女に生まれていたら、腰まで伸ばして黒髪ロングヘアーを楽しめただろうが男なのでその恩恵がない。清潔感以外は特にこだわりもなく、年中切りっぱなしだ。
(本当、こういう人が、芸能人なんだよな)
横目で観察しながら、思わず、ため息を漏らしていた。
ナツが学内で「神」って呼ばれているのを知っていたが、興味を持ってよくよく観察すれば、確かに、そういった選ばれた人のみに許される「何か」を感じた。
白のデザインカットソーに、シンプルな黒の細身のパンツ。大容量の灰色のデイバッグ。どこにでもいる量産型の大学生の格好なのに、彼が着れば全部が特別に見える。
「――まぁ見た目と本当の中身は、全然違うんだろうけど」
その日の帰り道、朔良は薄く雲がかかった空に向かって呟いた。春の空は、ふわふわと捉えどころがなくて、何だか今の何者でもない自分を見ているみたいだった。
+++
花本朔良はアイドルが好き。
でも、同時にアイドルに夢なんて持っていない。朔良の思う「好き」は嗜好品としての好きだ。
魚より肉、コーヒーより、紅茶。
あと、女の子じゃなくて、男の子が好きだ。
(あぁ、コレは、違う)
自分がゲイだと気づいたのは、中学生の頃だった。
クローゼットゲイなのに男の趣味は派手な人。そんな救いようのないゲイだったから、二十二まで恋人が出来た試しはない。それもこれも育った環境のせいで、人に対する美の基準が厳しくなってしまった。朔良の周りには、いつだって見目麗しい男女ばかりいる。
「えーっ! 花本くん。X建設の就職、蹴ったの。嘘、なんで将来安泰なのに」
同級生女子の驚愕の声に、大学四年で培った人から好かれる笑みを作った。この場の十人は、今日限りで会うことがなくなる大学の演劇サークルのメンバーだ。
誰に嫌われようと、好かれようと構わない。それでも朔良は飲み会での付き合いを人並みにこなしていた。
「なんとなく、かな」
居酒屋の天井のスピーカーからは、ヒットソングがループで流れ、さっきまで周囲の座敷からは絶えず会話が聞こえていた。それなのに、目の前の女の子が叫んだタイミングで周囲の全ての音が途切れた。
自分を含め、みんなカラフルな袴や黒スーツを着ている。ただでさえ賑やかで目立つ格好の集団だったのが災いした。
(なんで、今、静かになるんだよ!)
半径五メートルの人間全員に「大手ゼネコンを蹴った変わり者」という情報が共有されてしまった。
朔良は大学の卒業式が終わった後にサークルの飲み会に誘われた。特に断る理由もなかったので二つ返事で参加したが、どうやら間違いだったらしい。意識的に話題の外に居たのに、流れで酒の肴になってしまった。
「朔良の実家太いし、食いっぱぐれることないからじゃね?」
「え、そうなの? 全然知らなかった。花本くんって、いいとこのお坊ちゃんなんだぁ。そういえば、いつも綺麗めな服着てたよね」
サークルでは、いつもジャージ着ていたけど。と心の中で返事しておいた。大学生のドレスコードは守っていたし、そもそも服にそれほどこだわりがない。友人と同じ服を着ていれば変に浮かないからと、同じような系統の服を選んで着ていた。今日まで変だと指摘されなかったので、溶け込んではいたのだろう。
「そうそう。こいつのマンション、一回飲み会で終電逃して泊めてもらったけど、ホテルみてーでさぁ、すげーんだよ」
「別に僕のじゃないけど。この年で親の持ち物を自分のものみたいに言うの痛いだろ。スネ夫じゃあるまいし」
「あと朔良のお母さんて、元アイドルだしさ――」
そう言いかけた友達の口を手で塞いだ。外で言うことじゃなかったと視線で謝られる。普段からノリがいいお調子者の友達。去年、善意から一度家に泊めた。口止めしたが、酒酔いで忘れてしまったらしい。
朔良の母親について根掘り葉掘り聞きたそうにしているサークル仲間に「昔だよ、今は、引退しているし。ただの一般人のオバさん」と、その話を無理やり終わらせた。
「ま、まぁ。けどさ、かじれる親の脛は齧っておけよ。就職蹴ったってことは、役者志望に決めたんだろう? なら尚更、金と時間に余裕ある方が有利だって夢追い人は、な」
バシバシとブラックスーツの肩を強く叩かれた。
「なんか言い方に悪意あるなぁ、もぉ」
「一般論だって、怒るなよ」
「怒ってないよ。明日から僕だけ職なしなんだから、ちょっとは優しくしてくれてもいいだろ」
「ごめんって! ま、飲め飲め」
軽い冗談に、学生らしい戯れあいで応える。――これがこの場で朔良に与えられた役柄だ。家がお金持ちで、母親が元アイドル。父親は中学生の頃に離婚して出ていった。
そういう家庭の事情がない、どこにでもいるタイプの量産型、大学生の役。
明日からは無職。
そういう特別は要らなかったと自分で自分に呆れていた。
「でも花本くんだけだよねー。うちで外部監督に役者として見込みあるって言われたの。自信持ったらいいよ、才能あるって! デビューしたら若手俳優と合コン設定してね!」
朔良は、それには乾いた笑いを返した。
大学四年間、演劇に打ち込み、勉強のために外のワークショップにも積極的に通っていた。
けれど、そのせいで血迷った。結果、何も手に入れず大学を卒業して新卒切符を捨ててしまった。
希望していた劇団の応募書類も机の中にしまったまま、締切まで提出出来なかった。もちろん完全に、朔良の自業自得だ。
「そういえば、うちの大学って、何気に芸能系のコネあるよね。女子アナよく出てるし。あと『神』もいるじゃん」
「あたし在学中、一度も会えなかった。『ASKET』のナツ。いいよねー。さっきも曲かかってたし」
彼女は店内のスピーカーをピンクのネイルの指で差した。
「メンバーでナツは顔だけって言われてるよね」
「顔、綺麗なの大事じゃん、それだけで全部許せるよ私!」
「――僕、一回だけ会ったことあるよ。里村夏生。一年のときの般教で」
「え、朔良なんで、ナツの本名知ってんの」
「な、何でって、出席票回したとき名前見たからだよ。一つ上の先輩」
朔良は慌てて、興味なさげに言い直した。油断すると『彼』の解像度が他の人より高いことがバレてしまう。
一言でいうならナツは朔良にとって『嗜好品』だった。好みの顔、好みの体、好みの声。
全部が完璧だった。
だから出会った日から四年間、彼の名前を忘れたことがない。今は朔良の最推しのアイドルだ。
「いいなぁ、学内で神と出会えたらなんか、いいことあるらしいじゃん」
「神話かよ」
「でもさーアイドルとして売れたし、もう大学は退学するんじゃないかな。――大学の留年って何年までだっけ?」
居酒屋で酒を傾けながら、朔良は過去の恥ずかしい感じの出会いを思い出していた。あれ以来一度も、校内でナツには出会っていない。
見ているのはメディアを通したアイドルの姿だけ。
きっと朔良のことなんて、彼はとうに忘れているだろうし、個人として認識もされていないはずだ。
朔良が最後まで劇団に願書を送れなかったのは、きっと芸能人の現実を知り過ぎているせいだ。
身内の件もあるが、ナツのファンで彼を神と崇めているせい。
「あ、そうだ、朔良ぁ。明日から予定ないならさ。いつもの例のバイト入ってもらっていいか」
「え、また僕?」
「うん、ご指名」
大学の演劇サークルではOBからの紹介で、よく「サクラ」のバイトがあった。正確には、代理出席のアルバイトと呼ばれるものだ。朔良は社会経験、芸の肥やしくらいの気持ちで、よく仕事を受けていた。
人を騙すみたいに感じて嫌がる学生も多いので、二つ返事で受けている朔良は先方からすると常連のアクターだった。
朔良個人としては、純粋に人助けと思っている。
「もう大学卒業してるのに。いいの?」
「昨日、頼まれてたんだけど、卒業式のバタバタで引き継ぎするの忘れてて、明日なんだけど」
「急だなぁ。予定は空いてる、けど、そのバイトって元々サークルのメンバーの演技力向上って名目だろ。僕とかじゃなくて後輩に」
「んー難しい役だから、大根じゃダメなんだって。お前なら絶対先方のOK出るし」
「そうかぁ?」
「しばらく大学の演劇も顔出すんだろ?」
「それは、まぁ。手伝いくらいは、しばらくするつもりだけど、呼ばれたら行くって言ったし」
「頼む! な? お願い!」
「僕さぁ、いま結婚式って気分じゃないんだけど。無職だしさ」
「いや、結婚式じゃなくて、葬式」
「……それも極端だな。まぁ、分かったよ。詳細ラインでちょうだい」
「さんきゅ、助かる」
最初は卒業したのに、この先もしばらく大学のサークルに関わるなんてと思った。後輩から頼りにされるのは純粋に嬉しいが、それでもモラトリアムを満喫し過ぎだろう。
周囲に隠れてため息をこぼした。
早めに新しい居場所を探さないと、人間として駄目になる気がした。
葬儀の代理出席の多くは、参加出来ない人に代わって香典を出しに行く程度の簡単な仕事だ。
しかし今回は少し事情が違った。
夕方、斎場に着くと周囲には異様な空気が漂っていた。桜の花弁が舞い散る遊歩道を歩いているのに、その花びらを雪と錯覚するほどだ。
朔良が感じた居心地の悪さは、代行会社から借りたサイズの合わない喪服のせいだと思っていた。肩の位置が二センチくらい落ちているし、気になる人は思わず見てしまうだろうが、探るような視線を集める原因は、そこではなかったらしい。
斎場の前には葬儀に相応しくないラフな格好の人間が大勢立っていた。
最初、公園の入り口でカメラマンを数名見たときは、近くの公園でスポーツ大会でもあったのだろう思っていた。
朔良が視線を振り切り、斎場に入った途端、まるで獲物を狙うハイエナのような嫌らしい視線を感じた。
この斎場は五年ほど前に完成した比較的新しい大型の施設だった。待合ロビーは全面ガラス張りの吹き抜け。エントランスを抜けると窓側に美しい意匠の椅子と机、ソファーが整然と並べられている。
葬儀場というよりは、外観は美術館のような佇まいをしていた。
(え、なに、ごと)
生気を奪うような視線を一身に浴び、不快さに思わず眉を顰めていた。彼らの取材対象が、スポーツ大会なんかではなく、この斎場の関係者だと分かった。
朔良は近くのソファーに流れるように座り込み、故人の名前をネットで調べた。
仮にもサクラのバイトだ。演技する役について事前に調べてくるべきだったが、急に頼まれた仕事でおざなりにしてしまった。名前を調べたあとに、会社からスマホに届いているオーダーシートを開いた。
(なる、ほど。そういうことか)
難しい役だから、大根じゃダメ、そう言われた意味を理解した。
朔良は葬儀の代理出席を今日まで数回経験しているが、いずれも八十を越えた、お年寄りばかりだった。身内の葬儀も同じで離婚している父方の祖母だけ。年齢も百歳近かったので、葬儀で泣いた経験がない。
調べて分かったのは亡くなった「彼」が自分と同じ年頃の男の子だということ。詳しい事情は伏せられているものの、不幸な経緯で亡くなったのは容易に想像できた。
――アイドルを目指していた男子高校生、月山翠。謎の神隠し真相に迫る!
下世話な記事を目にするだけで思わず吐き気がした。数年後、遺体が見つかった経緯は分からない。ASKETのライブの日に失踪したバックダンサーと書いていた。
分かったのは、それだけ。けれど、その情報だけで十分だった。
朔良が今日演じるのは、故人の友人役。
依頼者は母親。同じ年頃の子に息子を送ってもらいたいから、と。オーダーシートには書いてある。
スマートフォンから顔を上げ、高い天井を仰ぎ見た。役は分かったが、依頼された経緯は理解できない。それは自分が依頼者と同じ母親の立場で物事を見れないからだ。
だから故人と同じ気持ちになる。
見ず知らずの他人に来られたところで故人は少しも嬉しくない。
それでも朔良がこの場にいることで、家族の心が救われるのなら朔良の嘘にも多少の意味はある気がした。誰かを救うための嘘なら、それは、いい嘘で人助けだから。
ただ現実は、家族が憂いた「寂しい葬儀」と様相が異なっている。
当時のネットの記事に名前があったアイドルグループ、ASKETの文字。
現在人気絶頂のアイドルグループと関係のあった人間だ。ハイエナのようなメディアが嗅ぎつけて取材にくる可能性はあった。
現に外には複数のメディアが集まっている。
この建物のように静かで優しい空気の中、家族と友人たちで最後の時間を送る予定だったのに、悪い意味で斎場は騒がしくなっていた。
家族が心配すべきだったのは誰も来ない可能性ではなく、招かれざる客がやってくる可能性だった。
「もしかして、メンバーの誰かが来る、とか」
朔良は灰色の大理石の床に向けて、ぽつりと一人ごちていた。
ASKETのメンバー五人、あるいは何人かが、葬儀に参列する。
別に不思議なことではない。養成所からのデビューなら、同じようにデビューを目指し、切磋琢磨した親しい仲の可能性はある。ただ、寂しいが今日、彼らはここへ来ないだろう。マスコミが殺到しているなら尚更、行きたくても行けない。それが芸能人だ。
――会いたい人に、会いた時に会えないんだから。辞めるまで。
昔、母親が、そう言っていたのを思い出しながら、手持ち無沙汰にスマホを触っていると、一瞬で自身を取り巻く空気の密度が高くなるような感覚を覚えた。
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、カメラのフラッシュの音が鳴り響き、目に映る景色がスローモーションのように見えた。
入ってきたのは、喪服に身を包んだ、ASKETのリーダー、アサトと。里村夏生――ナツ、だった。
朔良は椅子に座ったまま、微動だにせずメンバーを視線で追っていた。
「――ナツ、なんで」
三年前、演劇のワークショップで役が自分の中に降りてくる感覚について話を聞いた。
与えられた役が自分の内側でまざまざと生きているように感じる。オセロの裏と表のように人が切り替わる。
朔良は、それをこの場で初めて経験した。押し寄せる感情の洪水を制御できなかった。その瞬間は自分が自分じゃなくなっていた。
思わず両手で口元を手で覆っていた。この場で朔良は『月山翠』の友人だ。
――もう翠のことなんて、ASKETのメンバー達は忘れていると思った。もし覚えていても、一般人の葬儀に参列したりしない。
そう、降りてきた役に思わされていた。
「あり、が……と」
彼らと視線が合った瞬間、溢れてきた気持ちと共にお礼を口にしていた。朔良に仕事を依頼した母親も同じように思ったのだろう。会場受付で彼らの姿を見つけ駆け寄り、何度も何度もお礼を言っていた。
外の騒ぎと正反対の静かな空気の中、葬儀は滞りなく進んだ。一番後ろの席で祭壇を見上げている間に、朔良の内側に渦巻いていた役の感情は、すっきりと消えていた。
(一体、あれは何だったんだろう)
幽霊に憑かれていたなんて、オカルトじみた想像をしながら焼香をあげる。実在しない架空の人物を作り上げて感情移入するなんて、本物の役者みたいな経験をした。でも本当の友人は、嘘つきの自分じゃなくて、いま後ろに座っているアイドル二人だ。
朔良は遺影を前にして心の中で謝罪した。
(初めまして、翠くん。本当の友達が来たし、偽物の僕は邪魔だったよね。どうか許してください)
その足で会場を出ると、ホールの奥にあったトイレに入った。無事に仕事が終わって力を抜こうとしたときだった。
「月山くんのお友達だよね?」
洗面所で手を洗っていると、突然後ろから声をかけられて思わず肩を震わせた。振り返ると、そこには舞台衣装みたいに喪服を着こなしているナツが立っていた。
「ぁ、ぅ、うん」
朔良は仕方なく演技を続け、その場限りの嘘を重ねていた。
「えっと、里村さんは?」
言った瞬間、しまったと思ったが口に出した言葉は取り戻せない。仕事が終わったからと完全に油断をしていた。役なら、ASKETのナツ、と失礼な感じに呼ぶ方が正しい。
「あれ、なんで、俺の本名知ってるの?」
「ぁ、その……大学が、同じで、先輩と」
「んー?」
苦し紛れに答えると、マジマジと顔を覗き込まれた。朔良の顔を確かめるためにナツは少し首を傾けた。彼の白く透き通った頬にサラサラと赤茶色の髪が流れる。以前と違い、軽くかけていたパーマはストレートになっていて、暖色の照明の光を反射していた。
心の準備をしていなかった。誰よりも整った顔が近くにあって心臓がジクジクと張り裂けそうに痛い。
同じように美しい顔でも、リーダーのアサトだったら心臓は跳ねなかった。自分好みの極上品の造形美が呼吸が触れそうな距離にいる。
「あーわかった。思い出した。第二講義室でチョコレートあげた子だ」
なんで覚えてるんだよって本気で驚いた。
元アイドルだった母親が、ファンイベントに来てくれた子の顔は全員覚えていたと嘯いていた。けれどファンとの交流会とは訳が違う。朔良は、たった九十分の講義で隣に座っただけのファンでもない一般人だ。――今はファンだけど。
「あーその、節は、ごちそうさま、でした。なんで、僕のこと覚えてるんですか」
「え、話したじゃん。それに、君も覚えてくれてる。えっと、名前は」
朔良がナツを覚えているのは芸能人だからだ。一体、どんな記憶力をしているんだろう。一度会ったら顔と名前を忘れないなんて政治家みたいだ。
「花本、です」
「花本くん、ね。お節介かなぁって思ったけど。お腹空いてるみたいだったから。なんかさ、アンパンマンになった気分だった」
「あ、はは」
こんな美形のアンパンマン見たことないや、と内心ツッコミを入れていた。バックに花が咲き誇るようなアイドルスマイルを向けられて、ここがトイレなのを一瞬忘れそうだった。
美しく整った外見とは違い、驚くほど素朴な人柄が滲み出ている。
見た目は欠点ひとつ見つからないのに、あまり芸能人らしくない。ただ芸能人という生き物は何重にも仮面をかぶって生きている。
これも外向けの演技かもしれない。彼の本当なんて、彼の自宅で二人きりにでもならない限り、この先も知ることは叶わないだろう。
「あの里村さんって、月山くんと同じ養成所だったんですか?」
「ううん違うよ。俺じゃなくてリーダーが月山くんと親友で。俺はリーダーが心配だったから、その付き添い」
「そうなんですね。月山くんのお母さん喜んでました。誰も翠に会いに来ないかもしれないって、ずっと僕に言っていましたから。里村さんたちが来てくれて、喜んでると思う」
「だといいけどね。俺自身は深く関わりがなかったから、ほぼ部外者だし」
ナツは申し訳なさそうに眉を寄せた。そんなナツの言葉に一種の連帯感みたいなものを覚える。この場で故人を思う気持ちはあるけど、申し訳なさが心の隅を占めていた。
「あと、ずっと、ここに来てみたいって思ってたから、なんだか少し後ろめたくて」
「ここに、ですか?」
「うん。俺、ここ建てた建築家のファンだから」
「もしかして、伊坂さんの設計ですか」
「あ、知ってる? 俺、大学は現代建築専攻で」
朔良自身は経営学部なので、それほど詳しくないが、単位のために取った現代建築史の講義の内容をぼんやりと覚えていた。内部空間に柱がほとんどない、曲線を大胆に取り入れた造形が特徴。教科書に書かれていた文章と小さな写真が思い出せる程度の浅い知識だ。
ナツは思い入れがあるのか、それらの建物構造を熱弁し始めた。大学時代よく見た、研究室のオタクみたいな話し方だった。そんなナツの姿が面白くて、思わず笑みが漏れてしまう。
「――写真で見るのと全然違う。勉強になったなぁ、本当はもっと、フィールドワークに参加したいんだけどね」
不思議な時間を共有していた。普通の、大学の先輩と後輩みたいな。
そもそも、なぜ朔良に声をかけたのだろうと思っていたら、その答えは、すぐにナツがくれた。
「あぁ、それでね、君に話があって。うちのリーダーと一緒で申し訳ないんだけど。今から一緒に外に出ようか」
「え」
「あのね、マスコミすごいし、車で近くの駅まで送らせて。マネージャーに了承はもらってるから」
予想していなかった提案に驚いて、思わず足を一歩引いていた。芸能人が一般人を車で送るなんて状況は普通ない。親しい友達でもない限り。そこまで考えて思い当たる。――あ、今、友達の役だった。
「え、そんな、僕は別に一人でも大丈夫ですから」
「外、多分すごく不快だろうから、ね。俺らが来たせいで、君がマスコミに追い回されるなんて、きっと月山君も望んでない」
きっと自分が翠の友人だと知って、アサトが気を遣ってくれたのだろう。けれど、それは嘘だったから、申し訳なさでいっぱいになった。
仕事で吐いた嘘に、さらに嘘を重ねていた。
結局、押し問答の末、断りきれずにナツたちと共に外に出ることになった。
ロビーでアサトと合流すると、深々と頭を下げられて恐縮してしまった。別に騒ぎになったのはASKETのせいではない。マスコミが取材に来たからだ。
親友なら葬儀に参列したいと思う気持ちは理解できるし、彼らが矢面に立って一般人の朔良を送る義務なんてない。
常々、身内から聞かされてきたが、改めて芸能人というのは不便な生き物だと思い知った。
自分が正しいと思う通りには生きられないし、結果的に良くも悪くも、巻き込まれる人数が多すぎる。
外に待機していた車に乗り込んだあとは、誰も口を開かず終始無言だった。
寄りたい場所があったので、新橋駅の前で車を停めてもらい、そこから地下鉄の銀座方面に向かった。このまま自宅に帰ったところで眠れないし、何か気が紛れることをしたかった。
――さっき僕、ナツ、と普通に話してたんだよな。
別れ際に丁寧に挨拶をして、車で降りるまでは役に徹していられた。外じゃなかったら今頃、床を転がってジタバタして、部屋の中を無意味にぐるぐる歩き回っていただろう。今になって、手にじんわりと汗をかいていた。
(ぁ、ナツ……本当、肌、白くて、ツヤツヤで。まつ毛長くて、ぅ。やっぱり、神……だぁ)
目的地に向かう足は自然と早歩きになっている。雑踏を進みながら、しばらく夜風に当たっていると、やっと人に見せても引かれない顔に戻った。朔良の感情を揺らして人に見せられないような顔にするのは、今のところ、この世でナツだけだ。
朔良は、その足で母親の経営しているミニクラブに向かうため夜の並木通りを歩いた。喪服のままだったが周囲にスーツ姿の人が多く特別目立つこともない。
地上八階、地下一階のビルは母の持ちビルで、高校までは場所柄もあり近寄りもしなかったが、大学になってからは何度か足を運んでいた。二階に母の店がある。
裏口から店に入りバックヤードからホールを覗くと、母親が背中の空いた黒のドレス姿で客と談笑していた。とうの昔に不惑を過ぎているが、化粧が上手いからなのか、少しも衰えたように見えない。
親に対して使いたくない言葉だが、いわゆる美魔女って奴だろう。人に好かれる愛想笑いに思わず眉を顰めた。ため息を吐いたタイミングで母と目が合ってしまう。
「――あら、どうしたの朔良、何か用事?」
朔良に気づいた母は、他の女の子に席を任せてバックヤードにやってきた。薄暗い廊下で向かいあうと、母親の白い肌がキラキラと発光していた。何だか悍ましい化け物か何かを見てしまった気分になる。
「用はないけど、店手伝おうと思って。暇だから」
「変な子、いつも用事がないと来ないのに」
「無職だから、社会勉強」
アイドルのナツに会って興奮してるから気を紛らすために来た、などと言えるわけがない。そもそも自分がナツのファンなのも、ましてやゲイなのも母には話していない。
「ふーん。社会勉強って、で、その喪服も社会勉強?」
「多分、そんなところ」
また危ないことしてる、と呆れ声と共に肩をすくめられた。以前、大学の演劇サークルのつながりで、代行会社のバイトをしていると説明はしたが、裏の仕事だと、あまりいい顔をしない。
「危ないことはしてないけど」
「やっぱり朔良って、あたしに似たのかしらねぇ」
真っ赤な口紅の唇をへの字にして女子高生みたいな変顔をされた。
「似てないよ」
「似てるわよ。親子だもの」
「え、どこが」
「恵まれた環境に胡座をかかないところ」
褒め言葉で貶された。働かなくても生きられるのに、と暗に言われている。欲しいと思えば何でも手に入る境遇なのに、朔良は、それをしない。
「もしかしてX建設、入らなかったの怒ってる?」
「いいえ、あなたの人生だもの。危ないことしないなら好きにしたらいいわよ。役者だって、やりたいならやればいいし。普通に働きたいなら働けばいい」
「じゃあ、なに?」
「なんか、あたしと同じところで足掻いてるなぁって、それだけよ」
普通とか些細なものとか、当たり前の「何か」にばかり憧れて執着している。
目の前の母親は、華やかな芸能界にいたのに、働いてお金を稼ぎたくなったからと、今は銀座でクラブを経営していた。芸能関係者がよく訪れる隠れ家的な店は、母の大切な城だと聞いている。
別に働かなくても親の財産だけで生きていける。それなのに、親子揃って、目の前にある楽で安全で堅実なものを、決して手に取ろうとしない。
「仕事探しているならパパに相談したら? 少なくとも、あたしよりは堅実に生きられるわよ。電話したら喜んで飛んでくると思う」
「死んでも嫌。あの人、才能ない人が嫌いなんでしょ。会っても、なんか、いつも馬鹿にされるし」
朔良が間髪を入れずに拒否すると、母親は、元芸能人とは思えない、ごく普通の人みたいな馬鹿笑いをした。バックヤードとはいえ、今の声は店まで聞こえただろう。
芸能人を辞めた母を捨てたのが、朔良の父親だ。子供の頃は何者でもない朔良でも、未来に対する期待から興味を持てただろうが、今の朔良なんて会ったところで虫ケラ以下に思うはずだ。
虫ケラにも、虫ケラなりにプライドがあった。わざわざ笑われるために会いになんて行きたくない。
「かわいそ、あんなに朔良こと溺愛しているのに、一生伝わらないのね」
そう言うと母は店に戻っていった。お客たちとくすくす笑い合う声が背中から聞こえる。どうやら新しい客が来たらしく、また母親の年齢にそぐわない、甲高い声が聞こえた。
そのまま裏のスタッフルームへ入ると従業員の崎田がいた。小さな店なので裏方は崎田一人しかいない。ボーイと言っても年は若くない。目尻が垂れ下がった中年の男だ。ミニキッチンの換気扇の下で、タバコをくわえ、気だるげに天井を仰いでいた。
「おー、さっくん、遊びに来たのか。ケーキあるよ?」
朔良は部屋に入ると隅にある木製のコートかけにジャケットをかけた。振り返ると崎田は久しぶりに孫にあった祖父のように相好を崩した。馴れ馴れしい呼ばれ方は、最初こそ律儀に嫌がっていたが、子供の頃からの付き合いだし、もう最近は諦めている。
「遊びに来たんじゃなくて、店の手伝いです」
「そうか偉いねぇ、じゃあ、そこに置いてる料理テーブルに持って行ってくれる? おっちゃんが顔だすより、お客さんも若い子の方が喜ぶから」
崎田は昔、母のいたアイドル事務所でマネージャーをしていたらしいが、母とどういう関係だったのかは知らない。あまり深く追求したくないし、おそらく、今後も尋ねるつもりはない。物心つく頃から知ってるし、なんなら父親より見た顔だと思う。
父には成人するまで、月に一回の面会日くらいしか会ってこなかった。
「これ、着ていいですか」
「おう、いいよ」
一着だけある店用の黒のベストやエプロンは、自分以外が着ているのを見たことがない。私服で店に出るわけにはいかないので、それに着替えると、鏡の前に立ち、髪を適当にワックスで上げた。
「ところで、さっくん。さっき廊下でミカさんに話してたの無職って本当? 大学で勉強頑張ってたのにねぇ、不況かな」
「別に、不況とかじゃなくて」
「ん、どうしたどうした」
崎田は話題に飢えているのか、若者の悩み相談に乗りたそうに目を爛々とさせていた。付き合いは長いが、悩み相談をするような間柄でもない。
油断も隙もない。危うくあれこれ聞き出されるところだった。
もし話せば、その話題は流れるように母親に共有されてしまうのを朔良はこれまでの経験上、身を持って知っている。
「なんでもないですよ。これ、持ってきますね」
適当に相槌を打って逃げるように、スタッフルームを出た。
デリバリーの軽食とフルーツ盛り合わせを持ってホールに入ると、一目で業界人と分かる客がいた。薄暗い店内でもキラキラと眩しい芸能人オーラが漂ってる。
(SNN5だ。いま何代目だったかな)
仕事帰りに見える中年男性二人と有名アイドルグループの女の子三人がボックス席にいた。席には母もついていた。恐らく上客だろう。他のホステスに目配せされたので、そのローテーブルに料理を並べた。
「あー待って、君が朔良くん、だよね。さっき、お母さんのミカちゃんに聞いたよ。サクラのバイトしてるんだって? 面白いね」
朔良が踵を返したところで上座にいる男に呼び止められた。比較的アットホームな店といっても、今までバイトの自分に声をかけてくる客などいなかった。男は朔良が元アイドル『ミカ』の子供というのも知っているらしい。
「もう水谷さんったら。面白いじゃなくて、危ないですよ。息子が変なことにばかり興味持ってるってお話で」
「えー危ないかな? 当ててあげようか、君の代行業社って、A社だろう」
唐突に悪の親玉みたいな表情を向けられた。
「……そう、です、が」
都内に限ったとしても代行業社は数えきれないほどある。それなのに男は、何故かあっさりと朔良の仕事先を言い当てた。
「前にエキストラで、そこ使ったことあるんだ。別に危ない会社じゃない。だからミカちゃんも安心していいよ」
そう言って男はウイスキーのグラスに口をつける。
日に焼けた肌、自信と生命力が全身から満ち溢れていた。会社に命じられなくても出世欲で二十四時間働けそうなビジネスマンの顔をしていた。適当に着ているが上等なスーツで、シャツの上からでも筋肉質な体型がよく分かった。同席しているのは今をときめく有名女性アイドルだし、芸能事務所の敏腕プロデューサーか、役員クラスだろう。
「で、君は、役者志望だったりするの?」
「えっと、僕は……劇団に、入りたくて」
「ふーん、どこよ?」
席を離れる機会を逃してしまい、その場で立ったまま会話を続けていた。
「『ステージ飛鳥』、です」
男に気圧され無意識に本音を言わされていた。自分は芸能人になれるような男じゃないと分かっているのに、まだ役者に未練があったらしい。
「じゃあ、落ちたんだ。あそこ今、入団試験中だろ?」
「違います……あ、いえ、今年は、出せてないです。えっと、僕は、これで」
「ふーん、待ってよ」
朔良がバックヤードに下がろうとしたところ、水谷と呼ばれた男に唐突に手首を握られた。まったく予想していなかった動作に驚いて体が硬直する。
「ねぇ、サクラのバイトしているならさ、うちの仕事してみない」
「僕が、ですか」
「もー水谷さん、酔ってるんですか? うちの子は芸能人じゃないですよ」
「んーだからだよ。今、急ぎで一人探してるんだよね。一般人で演技が出来る、若い男の子」
「あの、それはエキストラ……でしょうか。構いませんが、今、仕事してないですし」
「朔良っ」
目の端に映った母が、一瞬だけ厳しい躾をする親の顔をしていた。朔良は今日まで、そんな表情を母から向けられた経験がない。それは朔良が特別いい子だったからではなく、母が放任主義だからだ。
それに、この場で母は、元アイドルだった自分を売りにしている接客業のプロ。突然、普通の母親の顔が現れたので違和感を覚えた。
「今、君がしているのと同じサクラのバイトだよ。もちろんA社よりは、お金を出す。そうだなぁ……難しい役だから、それなりの報酬も別で用意しようか。――もし成功させてくれたら、俺が個人的にステージ飛鳥に口を利いてあげるよ。君に実力があれば、研修生からスタートできるんじゃない? どう? やる?」
「やる、やりたいです」
突然舞い込んできた好条件。二つ返事で受けていた。
「はい、じゃあ、これ」
朔良は、水谷から名刺を差し出された。
「もー朔良、そんな簡単に決めてはダメよ。あのね水谷さんは、ESKプロダクションの方で」
「へぇミカちゃんも、ちゃんと人の親なんだねぇ、でも過保護だよ。これは俺と朔良くんのビジネスの話だ。この子はチャンスを掴んだ。それを親が断るなんてナンセンスじゃない?」
ESKプロダクション、誰でも知っている大手芸能事務所の名前だった。もちろん朔良も知っていた。
「燻ってる人間っていうのは目を見れば分かる。俺は一瞬で、いけるって思った」
「燻ってるって」
「それは自分でも分かってるんじゃない? 俺は君を見て今回の仕事に適任だって思った、だから声をかけた。それだけだよ」
その瞬間、自分の中で、やる以外の選択肢がなくなっていた。
「母さん、僕、この仕事やるからね」
「おっ、いい目だ。男の子はそうでなくちゃ」
「朔良……でも、ねぇ」
さっき「なんでも好きにしたらいい」と言ったばかりなのに、母は、なぜか水谷から仕事を受けたのをよく思っていないらしい。思えば、初めて母に反発していた。
これも、一つの自立の形じゃないだろうか。
「なんだよぉーミカちゃん。俺が悪い大人に見える? 困ってる若人に仕事を斡旋してあげるいい人だろう?」
「芸能界のことは、身を持ってよく知っていますからね。心配もしますよ」
「俺の身元は確かだろう、悪いようにはしない」
「でも、いいようにもしない、じゃないですか」
「それは、本人次第ってやつだよ。うちに限った話じゃないな」
最後まで、危ないことに巻き込まれると、心配していた母だが、朔良が元々役者志望なのを知っていたからか、きちんと連絡をよこすことを条件に許してもらえた。
いままでラインひとつ送ったことがないのに、自立の段階になって、急に母が過保護になった気がした。
翌朝、指定された時間にESKプロダクションのビルへ向かった。
水谷からは当面の生活用品を持ってくるように言われたので、大きめのボストンバッグに必要最低限の着替えを詰めて家を出た。
――仕事が終わるまで家に帰らず、役に徹して欲しい。
今日まで色々なサクラのバイトをしていたが、泊まり込みでやる演技の仕事なんて初めてだった。
社外秘らしく役については現地で話すと言われている。
家を出るとき、母親から芸能界の闇について切々と語って聞かされた。犯罪に関わるような匂いを感じたら、何を置いてもすぐに逃げるように言われたが、さっきまでは、いまいち自分ごととは捉えていなかった。
(……なんか、早まったかな。流石に出会い頭に監禁、とかはないだろうけど)
目的地に到着した瞬間、灰色の巨大ビルから得体の知れない威圧感が押し寄せてくる。
大企業に勤める人だから安心などと思っていたが、吹き上げるビル風も相まって悪の根城へ向かう心境になっていた。それでも大学四年間で培った役者魂と就職活動の経験のお陰か、受付の前に立った頃には、ざわざわしていた心境は不思議と凪いでいた。
朔良が名前と用件を伝えると、あらかじめ話は伝わっていたらしく、スムーズに打ち合わせスペースへ案内された。名刺に書かれていた、コンテンツ制作部、水谷武蔵の肩書きも事実だった。
しばらくソファーに腰掛けて待っていると、入り口の扉が突然開き、昨夜クラブで見た男が現れた。立派な会社勤めの人間なのに、入る前のノックはなかった。
朔良がすかさずソファーから立ち上がると、ドアの前で立ったままの水谷から不躾な視線を向けられた。頭の先から足の先まで、まるでファッションチェックでもしているかのように観察される。
「へぇ、A社に聞いた通りだ。ころころと印象が変わる。その服、自分で準備したの?」
「服、ですか」
「そう、いいスーツだね。もしかして、それも役作り?」
いつも代行会社で借りている衣装ではなく、家にあった細身のダークグレーのスーツだ。特に深い理由などなかった。
「役というか、企業を訪問するときはスーツだろうなって、それだけです。今日は仕事の依頼を受けて来たので。演じる役については、まだ聞いてないですし」
「あーそうか、分かった。そういえば、君、いいところのお坊ちゃんだったね。忘れそうになるけど」
朔良が答えると大袈裟に手を叩いてリアクションされる。
先日のサークルの飲み会と同じ言葉なのに、当人の豪快な性格のせいか水谷の言葉は不快に思わなかった。良くも悪くも言葉に事実以上の含みを感じさせない。
「二十歳そこそこの男なのにブランド物のスーツが板についてると、結構、目立つよね。どこの売れっ子若手俳優かと思った」
「変、でしょうか」
「んー今回の役は、制作部の新人って設定だから、違和感あるかな。吊るしのスーツ渡すから着替えて。最初だけでプライベートは普段通りの服でいいから」
「分かりました」
「じゃ、ついてきて、仕事場に案内する」
水谷の車に乗って連れてこられたのは、都内にある高級マンションだった。エレベーターで最上階の二十五階で降りると、奥の角部屋に入った。
「あの、ここは」
「んー俺の持ち家だけど。社員寮みたいな扱いにしてて、いまは別の人に貸してる。鍵あるから俺もたまに来るけどね。大家みたいな?」
玄関を入ってすぐ、覚えのある匂いが微かにした。柑橘系の甘い匂いに誘われるように廊下を進みながら、その匂いにパブロフの犬みたいに反応していた。その香水は朔良が好きなものだった。
ESKプロダクション所属の人間でタワーマンションに住んでいる人間なんて、大御所を除けば、数えるくらいしかいないだろう。
一般人が大手芸能プロダクションのプロデューサーに直接仕事を依頼されるなど、ただの幸運だけが理由のはずがなかった。無論、結果だけみれば幸運かも知れない。
それでも結果には必ず原因がある。
朔良が元芸能人の母の息子だから、おそらく、それもある。身元が確かな人じゃなければ、極秘の仕事なんて依頼できないから。それが、一つ目の幸運。
玄関入ってすぐ横には、シューズクロークがあり、たくさんのブーツやスニーカーが並んでいた。若い男性が住んでいる家だ。全面ガラス張りの開放的なリビングダイニングからは都内の景色が一望できる。水谷はリビングに入るとL字型のソファーに寛ぐようにして座った。
「さて、じゃあ仕事の話だ。座って」
「はい」
「昨日さ、君、ASKETのメンバーと一緒にいただろう」
二つ目の幸運。それは、昨日ASKETのメンバーに会って、おそらくテレビに自分の姿が映っていたこと。モザイクがかかっていても元の映像を見られる立場の人間なら、朔良が誰かくらい分かるだろう。映像でなくても、ASKETのマネージャーを通して状況を聞けば、いくらでも特定可能だし、ASKETの所属事務所はESKプロダクションだ。
玄関先で香った覚えのある香水の匂い。それは予感、だった。
「昔うちの養成所にいた子の葬儀。昨日、君は、そこに居た。調べたんだよね。君のことを色々」
「色々って、あの、もしかして、母の店に来たのは、僕に用があったからですか」
「んーそれは、接待で、たまたまあの辺りで飲める店探してたし。ついでに君に会えたら手間が省けていいなと思ったけど、ま、偶然にしても運命だよね」
運命なんて一番信じていなさそうな男に見える。水谷は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、タバコに火をつけた。朔良は手を膝の上でぎゅっと握り、意を決して先を促した。
「それで、僕に演じて欲しい役って」
「うん。まだ表に出してないけど、今ね、ASKET解散の危機なんだよ」
「解散、ですか」
「そ、リーダーのアサトがね、今回の件で少し休養が必要で。事務所としても、それは了承したんだが」
水谷はタバコの灰をローテーブルの灰皿の上に落とす。
「最近は、そういうの厳しくて。昔みたいに、死ぬ気で死んでも頑張れなんて体育会系の時代じゃないし。役員からも厳しく言われてるのよ。商品は大事にしてねって」
「そう、なんですね」
「うん、つらいときは仕事を休ませる。芸能人も普通のサラリーマンと変わらない。ただ、企業としては、その間ASKETのコンテンツを維持していく必要がある。それだけの魅力がリーダーのアサトにあるから、というのもあるが」
朔良は昨晩見たアサトの憔悴しきった顔を思い出していた。親しい友人を亡くしたのだから、心の整理に時間がかかるのは、外野の自分でも理解できる。母親に散々脅すように聞かされた話より、クリーンな業界のようで少し安心していた。
「もちろん、いつまでもってわけじゃない。彼の復帰がダメならいずれ損切りも考えるが、今はその時じゃない。だからね、プロデューサーの俺は、考えないといけない。一番の収入源であるライブが出来ない状況で、他のメンバーをどう使っていくか」
「どう使う、ですか」
「そ、ASKETのメンバー五人は、それぞれ持ち味があるだろ。リーダーのカリスマは別格として、歌、音楽、演技に特化していたり、バラエティーで重宝されたりとか、皆、個性がある。で、問題はナツなんだよね」
「問題なんて」
「顔がいいだろう。あいつ」
「そうですね」
朔良が前のめりで即答すると吹き出して笑われた。
「そうそう、顔がいいんだよ、とびきりね。けど元々、家族からの推薦で上京して芸能人になった子だし、動機が弱いんだ。顔を生かすなら、モデルの仕事をもっと入れたらいいんだが、その当人にやる気と自信がないんだよ。顔がいいだけなら、他にもいるって思ってるし」
「そんなこと、ないと思いますけど」
朔良からすれば、国宝級の造形美だと思っている。もちろん自信満々のナツというのもあまり想像できないが、それでも芸能人としての価値は十分にある。
あの優しげな瞳とか、極上に甘いマスクが最高にいい。
「口に出さないけど、あいつさ、リーダーが抜けたら、これ幸いとこのままフェードアウトして引退する気でいるんだよ。けど、そうは問屋が卸さない。いままで金かけた分、アサトの休業中は、ナツにも他のメンバー同様にきっちり稼いでもらう。あの顔、でな」
水谷の表情が急に遊郭のやり手婆のようにいやらしくなった。本人の都合が一番優先されると言いながら、取れるところはきっちりとっていく方針らしい。
「で、もう、君は気づいているよね。ここASKETのナツの部屋だよ」
「そ……そう、なんですね」
不意打ちに心臓が跳ね上がり、思わず声がうわずってしまった。
「ほんと、分かりやすいな。好きなんだ、ナツのこと。ライブとかイベント、いつも後方彼氏面して見に来てるよね」
「なっ……え」
確かに、いつも会場では後ろの方でナツを見ていた。女性ファンに混じって前の席を取る勇気はないけれど、どうしてもナツを見たかったから。
けれど一般人の自分が関係者に存在を把握されているとは思っていなかった。ファンレターやプレゼントだって送ったことがない。握手会なんてもってのほかだ。
「関係者席にいると、色々見えるんだよね。ほらナツのファンって、ほぼ百パーセント女だから、めずらしいなぁって、なんか君の顔覚えてて」
「す、好きとか。ただのファンなだけで」
「ふーん、別に、俺、ゲイに偏見とかないけど。クローゼットって生きにくくない?」
「ち、違います! 違いますから」
思わず大声を上げて、ソファーから立ち上がっていた。
「そうなの。ま、どっちでもいいけどさ、そんな怖い顔して……座りなよ」
一体どこまで自分のことを調べられているのだろう。言われるまま力無く座っていた。
「それでさ、強い心って人を動かすだろ。だから俺は、君を利用しようと決めた。――ナツをその気にさせてよ、そのファン心理ってやつで」
「ファン心理って」
「それが、君のお仕事。ナツに自信をつけさせて、バリバリ芸能界で仕事させて欲しい。――ここでナツと一緒に住んで、あいつのお世話してよ」
また心拍数が一気に上がった。ナツと一緒に住むなんて、死ぬかもしれない。
「お……お世話って……マネージャーとか、それに自信をつけさせるなら、僕じゃなくて、もっと綺麗な女性とか、他にいくらでも」
自分で言っていて虚しかった。男の自分がファンだと伝えたところで、ナツは喜ばないし自信をつけたりしない。だから隠れファンを貫いていた。それに朔良のような邪な気持ち百パーセントのファンの存在など、絶対本人に気づかれてはいけない。
「マネージャーは、ASKETのメンバー全員で一人なんだよ。で、明日からは個別に仕事してもらうからナツだけに構ってられない。マネージメント部門は、万年人手不足だし。それで君の扱いとしては、制作部の新人を代マネとして貸し出しているって形になってるから」
「僕が、代マネ……ですか」
「そ、だから、親身になってお世話してあげてよ」
鬼だと思った。朔良がナツの熱狂的なファンで、彼が困るようなことは絶対にしないと分かっているから、代マネを依頼している。
推しと二十四時間一緒に暮らすなんて、ある種の拷問だ。
「君がやることは、二つだけ。代マネとしてナツと共に仕事をする。その中で、ナツに自信を付けさせて、どんな形でもいいから彼のやる気を出させる。以上だ、質問は」
「その……どうして、僕がナツと一緒に住んでも大丈夫だって思えるんですか」
水谷は目を丸くして少し驚いた顔をした。
「何、君、ここでナツを襲う気なの? それは困るなぁ。弊社の大事な商品だし」
「し、しません! そんな……こと、絶対に」
「だよねぇ、推しに幻滅されるのが、一番、ファンとして怖いものね」
水谷はアイドルのファン心理を知り尽くしていた。
「それにな、あいつに女付けたところで、逆効果だって分かってるから、君が一番適任なんだよ。ナツ、興味ないんだよね、女に」
「興味がないって」
「言葉の通り。ゲイじゃないんだけど、あの見た目で思考回路が、小学生で餓鬼なんだよ」
「餓鬼、ですか」
「顔だけは、誰よりいいのにな、本当、残念なやつでさ。あれは、恋愛映画とかに絶対出したらダメなタイプの男だよ。あーそれも、なんとかしてくれたら助かるんだけど。どうにかならない?」
ひどい言われようだった。水谷がそう言ったとき、玄関で大きな物音がした。
「あぁ、帰って来た。じゃあ、今から――演技開始だ。ほら、行ってこいよ、玄関」
待っていれば、すぐにリビングに入ってくるだろうと思っていた。けれど、いつまで経っても部屋に来る気配がない。
水谷に促されて、玄関先に行くと、そこには仰向けに倒れているナツがいた。
「ぁ、あの里村、さん。大丈夫、ですか」
「あれ……なんで、チョコレートあげた花本くんがここにいるの? また、お腹すいてるの?」
電池が切れた完全オフモードのアイドルなんて、こんなものだろうなって、ずっと前から分かっていた。驚きもあったが、少し安心していた。
――まぁ見た目と本当の中身は、全然違うんだろうけど。
そこにいたのは、四年前の春に知りたかった、本当の彼だった。