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朔良が代理マネージャーの仕事に慣れてきた頃だった。
テレビ局で、お昼の情報系バラエティ番組の収録が終わったあと、朔良はナツと共にESKプロダクションに呼び出された。
自分たちを事務所へ呼んだのは、三上という女性だ。
(そういえば僕、まだ、ちゃんと三上さんに挨拶してなかったなぁ)
三上はASKETの正式なマネージャーで、朔良は、この仕事を始めて数週間経った今日まで、彼女とメール上でしか関わっていない。
社会人経験のない朔良が滞りなく仕事ができているのは、彼女の助けがあるからだ。ASKETのメンバー全員のスケジュールを管理して、さらに右も左もわからない朔良へ適切に指示ができる。言うまでもなく、仕事のできる女性だろう。
彼女の顔を初めて見たのは、件の葬儀で車に乗せてもらったときだ。黒髪を後ろに一つ結びにして、フォックス型のメガネをかけている。アイドルのマネージャーというよりは、敏腕弁護士のようなオーラを放っている。
待ち合わせのESKプロダクションの地下駐車場へ着くと、そこには三上とASKETのメンバー、ケイとエディが待っていた。
「あっ、あの、お疲れ様です。ご挨拶が遅れました。僕」
「別に、いいわ。水谷くんから君の事情は聞いてるし。時間ないのよ、早く車乗って」
「あ……はい」
朔良が自己紹介をしようとしたら、三上は目を細めて朔良を一瞥したあと、早々と社用車の運転席に乗り込んだ。自分が運転します、と伝える隙もなかった。
あっという間のことで朔良がその場で戸惑っていると、近くに立っていたエディとケイが駆け寄ってきて肩を叩いた。
「三上ちゃん、いつもあんな感じだから、怒ってないし大丈夫だよ。デレが少ないツンデレなの」
「そうそう、エディの言う通り、無愛想だけど、仕事は完璧だから、安心して!」
「は、はぁ……」
ナツから、自分はASKETで末っ子ポジションだと聞いていたが、二人はタイプは違うけど、お兄ちゃんを絵に描いたような二人だ。
今、バラエティ番組に引っ張りだこのエディとケイ。二人ともメインで冠番組を複数持っている。垂れ目の優しそうな方が、エディ。人懐こくテンションが高い方がケイだ。ステージで見た印象通りの二人だった。
(やっぱ、オフでも仲良いんだなぁ。ステージで見るのと一緒)
いつも二人は漫才師のコンビのように小突きあっている。
「朔良、時間ないみたいだから、車乗ってから話しようか。でないと、三上さんに怒られちゃう」
運転席の方を見ると、ギリっとこちらを睨んでいる三上の顔が見えた。
ナツに手を引かれ、朔良はいそいそと車に乗り込んだ。二列目にエディとケイ。三列目が朔良とナツだ。
メンバーが集合したのは、ASKETの中でドラマや舞台方面で活躍しているトキの舞台を観劇するためだった。
後々ネットニュースに載せたいというスポンサーからの依頼で、要は話題作りのお仕事だ。三上がいるので、この仕事に朔良の参加は必要ないのだが、演劇が好きな朔良のためにナツが三上に頼んでくれたらしい。
人気の舞台の初日で、S劇場の客席のチケットは完売だった。
前方ブロックと後方ブロックの間、通路が近い席に一際眩しい空間がある。いわゆる関係者席だ。舞台全体が見渡せる良席だろう。朔良自身、何回もこの劇場に来たことがあるが、人気の舞台だとチケットは戦争で、良い席で見ようとすると、お金より運が大事だったりする。
(……もしかして、三上さん機嫌悪いの、僕が分不相応に関係者席に入り込んだから、とか)
三上の機嫌の悪さに戸惑いながらも、その居た堪れなさが吹き飛ぶくらいに朔良は興奮していた。叶うなら、もう一度見たいと思っていた舞台の再演。人気の役者が揃い踏みで、朔良が端からチケットを諦めていた舞台だったから。
「朔良、お節介だった、かな。どちらにしても、関係者席のチケット余ってたし」
「ううん! 嬉しいありがとうナツ、僕、この舞台の初演を見てて、もう一度みたいと思ってたから」
「へぇ、前は、どうだったの?」
隣の客席でナツは、朔良の喜びように満足しているような笑みを浮かべていた。
「ほんと、すごい舞台で……あの頃は、それほどチケット取るのが難しくなかったから、僕、何回も見に行って。毎回、違う演出があったんですよ。舞台は生き物って言葉では知っていたけど、この役たちは四角い箱の中で、ちゃんと生きているんだって……そう思って。すごく、憧れたなぁ」
「どんな話?」
「ジャンルは、スパイ物かなぁ。人気コミックが元になってて」
千秋楽で朔良は、裏切りによって殺されてしまう先輩役に感情移入し過ぎて、涙が止まらなかった。いつまでも鳴り止まない拍手。終わってからも放心状態で、しばらく席から立ち上がれなかったのをよく覚えている。
「けどトキは、よくこの仕事受けたなぁ。前回の大成功があるから、プレッシャーすごいだろうし。けど俳優としてもいい経験になるからって。すごく頑張ってる」
ナツは隣の席でパンフレットをめくっていた。
「主演の二人が交代して、先輩役が俳優の『柳理玖』さん。ドラマの方で、いま引っ張りだこですよね。トキさんと同じで」
大成功をおさめた舞台の再演が決まったとき、メインキャストの後輩役の役者が中々決まらなかったそうだ。ASKETのトキが抜擢されたのは、制作中止のデッドラインギリギリだったらしい。
きっとプレッシャーもあるだろうし、ドラマと舞台は同じ演技の仕事でも違う部分も多く、稽古も大変だっただろう。
そういえば、大学の演劇サークルで練習を見ていた二人は、あの後どうなっただろうか。演技が小さく客席まで届かないことが課題になっていた。例年通りなら公演日はそろそろだ。
そう思い出したところで、客席の照明が落ち幕が上がった。
*
目的のために嘘を吐き続け、唯一心を許している相手にも真実を伝えず逝ってしまう。――そんな最後まで自分の意思を貫く男。この舞台の初演を見たときの朔良は、そんなキャラクターを演じた『岬圭一』の演技に心が震えた。
現実世界を思い通りにできる芝居。そんな幻想に魅了された。
彼の圧倒的な演技力は朔良の希望だったと思う。生まれた環境を生かせず燻っていた朔良は、今と違う世界に憧れていた。
多分、それが朔良の役者の世界への入り口だったように思う。
(ずっと……あの演技が理想だった)
けれど、なぜか今日は先輩役ではなく、トキの演じている残された男の苦悩にばかり心を揺らされている。
嘘を吐き通し、幸せに逝った男。嘘を吐かれて、残された男。
どちらにも正義があり、理想があり、誰も悪くない。
でもそれは、これが、お芝居だからだ。現実は絵に描いた通りにはならない。
ナツと付き合ってから、朔良は幸せの中でも罪悪感があった。
ナツに、まだ伝えていないことがある。
水谷の仕事で、ここにいること。
その仕事の成功の見返りに憧れの劇団へ入れること。
全て話して楽になりたい、自分の軽率で浅はかだった部分と向き合いたい。
けれど話した瞬間がナツとのお別れのときだ。
(だって、絶対……許せないと思う)
墓場まで持っていく嘘、人の幸せのために貫き通す嘘。
それはナツと出会う前、朔良が良しとしていた理想の世界だ。サクラの仕事で、誰かを幸せにしていると思っていた。実際、演技で誰かを救えていたかもしれないが、もう出会うことのない人たちだから、彼らの未来を朔良は知らない。
けれど、ナツはこれから先も一緒にいる。知らない誰かじゃない。
自分も登場人物の一人だ。
ナツを本気で幸せにしたいと願うなら、過去に憧れた役と同じように、最後まで、嘘を貫くべきだろう。
朔良はナツが好きだ。アイドルのナツじゃない、里村夏生も好き。
愛した人だから、嘘をつきたくない。彼の前では、誰よりも誠実な自分でいたい。
ナツの前で、偽りない自分でいたいと思うのに、どうしても、あと少し、あと少しだけと欲が出る。
そんな自分を叱るように、嘘を吐いたまま逝く「彼」の演技が、朔良に届いた。
『バイバイ、君は、君だけは、幸せになってね』
覚悟と共に彼は、さよならを告げた。
本当の自分で、ナツの隣に居られない限り、朔良は――。
朔良は、何が目的で、なんのために、この場所へ来たのか。
――役者になりたい。
それだけだった。
*
公演が終わり、ASKETのメンバーはトキの楽屋に向かった。バックステージは関係者が絶えず行き交っている。舞台は初日なので明日からも公演が続く。熱気は途切れることなく雰囲気は忙しない。
エディとケイが前を歩き、その後ろをナツと朔良が並んで歩いている。
舞台が終わってから朔良は、ずっと気分が落ち着かず、まとまらない思考の海の中にいた。
「ナツ、ちょっと。監督の酒井さんが話したいって、一緒に来て」
メンバーたちから、少し離れていた三上は、この舞台の監督をしている酒井と話をしていたらしい。
「え、俺? 何だろう。朔良、行こっか」
「ぁ、はい」
「あー花本さんは、いいわ。エディたちと、トキの楽屋へ先に行っててくれる? あとで合流するから」
ナツのマネージャーは代理とはいえ朔良だ。朔良に聞かれて、まずい話でもあるのだろうか。結局、朔良は、三上に言われるまま、エディたちと、その場にとどまった。
そもそも、三上は水谷からどこまで朔良の話を聞いているのだろう。
――ナツに芸能人としてやる気を出させる。その見返りに、劇団へ入れるように話をする。
(相手がナツだなんて、知らなかった、だから……)
こんな条件、受けなければ良かった。今更、後悔しても遅い。
母親が、この仕事を止めた理由を、やっと理解した。仕事の見返りで入団できたとして、その後、自分は胸を張って舞台に立てるだろうか。どんなに努力したとしても、後ろめたい気持ちは無くならない。
全部、全部最初からやり直したい。
ナツと三上が、その場を離れて廊下の先で姿が見えなくなると、前に居たエディとケイが顔を見合わせて朔良を振り返る。
「行ったな、よし。花本さん、ちょっと走ってくれる?」
「えっ」
「いいから! エディ、二人戻ってくるまで時間どれくらいだと思う?」
そう言って二人は、朔良の手を掴み前を走り出す。
「あー多分、次の舞台の話だろうから、小一時間はかかるはず。でも時間欲しいから急いで」
訳もわからないまま、二人に手を引かれ連れて来られたのは、トキの楽屋だった。
部屋の奥の鏡の前には、既に衣装から私服に着替え終わったトキが座っていた。エディやケイと比べると細身で小柄なトキは、あらかじめ二人が来るのを知っていて、到着を待っていたようだった。
賑やかな二人とは対照的に、真面目でクールな印象は、ステージで見る姿と変わらない。
急いで連れて来られた理由が分からず、朔良が戸惑っていると、正面で足を組んで座っているトキが口を開いた。
「時間がないから単刀直入に。花本さん、水谷プロデューサーと裏で何かやってるでしょう」
「え……あの」
「あの人さ、お金使えば、どうにでもなると思ってるところあるからさぁ。なぁ、ケイ」
エディの隣に立っていたケイが頷いた。
「うん。別に悪い人じゃないんだけど、昔からやり口が強引っていうかさぁ。今、アサトが休みで、なりふり構っていられない状況は理解できるけど、それでもね。僕たちには、ナツを守る義務があるから、グループの大事な仲間として」
ASKETのメンバーに、朔良は探るような視線を向けられる。
「あの、僕は」
「花本さんが、水谷さんが連れてきたナツの代理マネなのは僕も、エディとケイも知ってる。けど、やっぱり変だと思って。ナツが辛い思いをしないなら別にいい。でも、そうじゃないなら……」
トキに促されて、朔良は口を開いた。
「――僕は、ずっとナツのファンで……水谷さんは、それを知って、僕を代理マネージャーにした」
夢の終わりは、ここでいいと思った。十分幸せだったから。ナツには、こんなに心配してくれるメンバーがいる。朔良がいなくても、大丈夫だと思えた。
「どうして? 理由は?」
「その……ナツは、アイドルを辞めるつもりなんです。けど水谷さんは、ナツに仕事を続けて欲しくて。僕みたいな、熱狂的なファンが身近にいたら、ナツが仕事やる気になるからって、それで」
「なるほど。それで、か。最近ナツに仕事がたくさん入るようになったのは。ほんと可愛いというか、ナツも単純だよね」
トキはそう言って考えるような仕草をした。
「やっぱり、ナっちゃん、もう芸能界辞めるって心決まってたんだ。水臭いなぁ、困ってるなら相談してくれたらいいのに」
「ほんと、ナツは周りのことばっかりだねぇ、単純というか流されやすいというか」
エディとケイが顔を見合わせて頷き合っている。
朔良もナツのそんな性格に気づいていたから、彼が自分の望んだ道を選べないのではないかと危惧していた。
ナツはメンバーとは、ビジネスライクな付き合いで線引きされて寂しいと言っていた。けれど何年も一緒に活動してきた仲間だ。やっぱりお互いのことをよく分かっていた。
「僕が、水谷プロデューサーが何か企んでるって知ったのは、ナツのマンションに連れて来られてからで、そもそも、ナツと一緒に住むって話も知らなかった」
「で、水谷Pが企んでるって知って、まだナツの隣にいるのは、なぜ? 水谷さんの企みに加担してるから? もしかしてナツが芸能人続けることで、花本さんに見返りでもあるの?」
トキに尋ねられ、朔良の肩がびくりと跳ねた。
「見返りは……確かにありました。もし、ナツが芸能人を続けてくれたら、自分の夢が叶う」
「ほんと、やり口がきたないね。人の欲につけこんで、あの人は」
トキは呆れたように息を吐いた。
「でも僕は、もう、それ要らなくなっちゃって。ナツには自分の夢を叶えて欲しいし、僕も、もっと欲しい物ができたから。だから早くこの仕事やめないといけないって、ちゃんと分かってて」
ナツと一緒に暮らせて、恋人同士になって。キスをして。なんの取り柄もない、ただの、いちファンだった自分をナツは本気で愛してくれた。
これ以上の幸せはない。
劇団へ入るって話も、誰かに世話されて入っても嬉しいと思えない。
それに気づいた。
ナツの隣にいて、恥ずかしくない自分になりたい。たとえ幻滅されて、嫌われても。
ナツが認めてくれた役者の才能を信じたい。
メンバーがナツの近くにいて守ってくれるなら、自分なんていなくても大丈夫だと思った。
「――僕、本物の役者になりたいんです。ずっと、サクラのバイトで、裏で役者の仕事をしてました。だから今まで嘘を吐いても、罪悪感なんてなくて。人を救うための嘘なら平気だって。でも、もう終わりにします」
一筋の涙が頬を伝った。それを袖で拭った。
「だから、皆さん心配しなくても大丈夫ですよ。ナツのことは、絶対、僕が守りますから。だから、この話はナツに秘密にしてください」
朔良はメンバーたちに頭を下げると、先に帰ることを伝え、ナツのマンションに戻った。ボストンバッグに少ない荷物入れる。
まだ幕は降りていない。朔良は、今から演技をするのだから、ナツのために。
「ごめんね、ナツ。短い間だったけど、楽しかった。――わがままでごめん。けど、この役だけは、最後まで演じてみせる」
現実世界での演技は、これが最後だ。
思えば朔良は、いつも演技をしているときの方が、普段の自分より自由だと感じていた。
なりたい自分になれる。それが演技の世界だった。
ままならない現実から逃げるために、演劇やサクラのバイトに明け暮れていた。
けれど、今からするのは逃げるための演技じゃない。
戦うためだ。
ナツのためなら、何でもできると思った。
翌日、朔良は水谷に連絡して会う時間を作ってもらった。
朔良が仕事を投げ出しナツのマンションから出ているのは、既に三上を通して伝わっているはずだ。
三上は朔良を叱ったりはしなかった。不義理の謝罪もしたが「あぁ、そう」と返事はあっさりしたものだった。突然連絡もなしに消える人間の方が多いので、電話してくるだけマシだそうだ。一ヶ月ほど前、水谷にナツの部屋に連れてこられて代理マネージャーになったが、事務的なやり取りは全て三上がやっていた。
朔良が想像している以上に、三上は仕事で苦労しているのかもしれない。
約束した午後にESKプロダクションの前に着くと、以前と同じ光景が広がっていた。再び灰色の巨大ビルから得体の知れないプレッシャーを感じている。
(本当、悪の根城だよね……)
外は五月晴れなのに、ビルの反対側に太陽があるせいか、周囲は影になっている。
気合を入れて整髪料をつけた髪は、ビル風に煽られ早々に崩れた。数時間後の自分の姿が頭をよぎり、髪を撫でつけて気合を入れ直した。気温が高く灰色のスーツのジャケットが蒸し暑く感じたが、ビルに入ったあとも脱ぐ気がしなかった。脱いでしまうと気が抜けて、この戦いに負けてしまいそうだったから。
受付に要件を伝えて向かったのは、以前と同じ応接室。
水谷に見せたい偽りの自分があった。廊下を歩きながら、その役柄を頭の中でイメージする。折衝で絶対に負けない人間になりたい。一番に浮かんだのが、父の姿で腹立たしかった。
父は演技しているときの朔良が、自分に似ていると言っていた。その話を信じるわけじゃないけど、本当にそうなら負ける気がしなかった。
応接室には朔良より先に水谷が到着していた。
ビジネスマンとして隙がないのは、父と同じなのに身にまとっている空気が違う。水谷は全身が炎のような男だ。風で吹き飛ばすのが父なら、炎で焼き尽くすのが目の前の男だ。
扉を開けて入ってきた朔良を見るなり、水谷はくわえタバコのまま片手を上げて挨拶した。
「よぉ、それで? 何で仕事投げ出したの。……まぁ、もう別に花本くんの仕事は終わりでもいいんだけどさ。俺が言ったことは達成しているし」
すぐに本題に入ってくれて助かった。朔良は部屋の中に進むと、奥のソファーに座っている水谷の対角線上に立った。
「その件ですが、きちんとお話したくて、僕は」
「俺が言った通りに花本くんは演技出来てたんだろう?」
朔良の言葉を遮るように水谷は話を続けた。
「雑誌の写真は好評で、今SNSでも話題になっている。顔だけのアイドルなんて言われたのにさぁ、人間味が出てきたっていうか。――君のお母さんと一緒だね。さすが羽鳥カメラマンだ、そのうち人間国宝とかになるんじゃないの」
「水谷さん、羽鳥さんの写真の件も含めて、最初から僕を使う気だったんですよね」
朔良の指摘に水谷はニヤリと歯を見せて笑った。
「そ、お察しの通り。いやぁ俺の描いたシナリオ通りに進んで良かったよ。嫌がっていた仕事もナツは進んでやってるし。花本くんの仕事は百点だね、完璧。ありがとうね報酬を上乗せしてもいいくらいだ」
水谷は朔良の仕事の出来を讃えるように手を叩いた。
「僕、水谷さんに、お願いがあってきました」
「お願い? 劇団に口を利く件なら、心配しなくても」
「いえ、劇団の件じゃなくて」
「じゃあ何、金か? 実家金持ちなのに、きっちりしてるねぇ、いくらだよ」
「違います」
水谷に訝しげな目で見つめられる。すっ、と水谷が息を吸う音が聞こえた気がした。この空気を朔良はよく知っている。父も自分に有利な立場で話を進めようとするとき、一瞬だけこんな空気を漂わせる。
勝ちを意識したときにする、あの、いやらしい父の顔が朔良は大嫌いだった。あの男の場合は好意と悪戯心が根底にあるが、水谷はこのあと会話で朔良を煙に巻くつもりだろう。
「劇団の話を、なかったことにしてください」
「はぁ、何で? じゃあ、何のために花本くんは、この一ヶ月頑張ったんだよ」
朔良の報酬辞退の申し出は、水谷にとって意外なものだったらしい。水谷は朔良を馬鹿にするように大袈裟に手を広げて見せた。
「僕は、ナツの前で一度も演技が出来なかった。だから、役者として報酬をもらう立場にない」
「ん、どういうこと。ま、聞くから、続けてよ」
「こんな依頼は演技じゃないです。誰かの思惑に合わせて、必要なコマを連れてきて置いただけだ。役者は人形じゃない」
朔良の吐き出すような訴えは、水谷に届いていないようだった。水谷は少しも表情を変えない。
「若いねぇ、それで役者としてのプライドが傷つけられちゃったの? 何甘えたこと言ってんだよ」
水谷の凄む声に心を揺らさないように、朔良は必死にその場に立ち続けた。
「芸能界って、元々そういうところだよ。いや、別にこの業界だけの話じゃない。企業で働く行為そのものが、そう。適材適所。誰かに使われるのが嫌なら、一人で会社起こすしかないよね」
水谷はタバコの火を灰皿で消すと膝の上で手を組み、朔良を値踏みするように見上げる。
「俺にいいように使われていたことが気に入らない、君が言いたいことは、それだけだよ。でもさ、その件に関して、俺は花本くんの頑張りに見合う報酬を用意しただろう。文句を言われる筋合いはない」
「僕は、ナツのファンだから、ナツの一番の夢を応援したい。彼が望んでいない未来に協力はしたくない。それだけです」
「――夢ねぇ。それって、大事?」
「大事ですよ」
「長く生きたおっさんからしたら、そんなもん結果論だよ。辿り着いた場所で、幸せならそれが夢でいいんだ。現に、今ナツは楽しそうにお仕事しているだろ? ファンだって増えて、より大衆から求められている。アイドルとしての成功が夢になったからじゃないの?」
「夢は、自分で選んで掴むものじゃないですか」
「青いなぁ、まぁ、そういうの可愛いけどね」
水谷は目を細めて、にこりと毒のある笑みを浮かべた。
「おねがいです。ナツが望む形で芸能界を引退できるようにしてください」
そう言って、なりふり構わずに頭を下げた。すると朔良の頭の上から大きなため息が聞こえてきた。
「ASKETの事務所移籍の話がある」
「……移籍」
「もちろん、すぐにじゃない。そういう計画がある。まぁESKもいいんだけど、彼らの名前を看板にして会社を作りたい、と考えている人たちがいる。俺も、それに噛んでるのよ。今回、ナツに個人で仕事頑張って貰った件も、それが理由だ」
「そういうの勝手に進めたら、ダメなんじゃないですか」
「勝手? ただのプロモーション戦略だろう。別に、嫌なら彼らがハンコついて契約しなければいいだけの話だ」
「そう、かもしれないですけど」
「俺らの仕事は商品を売ること。そして会社に利益をもたらすこと。夢を見て芸能界へ来たのは彼ら、彼女らだ。最終的に去ると決めるのも、そう。俺はASKETがまだ売れる商品だと思っているし、続けて欲しいと思っているから最善を尽す。何か会社員として俺、間違ったこと言ってる?」
筋は通っている。
水谷に間違いがあるとすれば、一つだけ。やり方、だ。
――朔良、お金で他人を思い通りにするなんて、ろくな人間じゃないよ。
それは、脅迫で犯罪だから。
水谷が「金か」と口にしてから、会話を録音しておいて良かった。この件が犯罪にあたらなくても、交渉材料にはなるから。
「水谷さんはナツに芸能人を続けさせるということですね」
「そうだね。彼に、価値がなくなるまで。それが俺の仕事だし」
「――ところで水谷さん、ここでの僕との会話、全部録音してますから」
朔良はそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見せた。
「は、なんでよ」
「水谷さん。背任罪ってご存知ですよね。もしそれに当たらないとしても、ここで僕にした話、絶対コンプライアンス違反じゃないって言えますか?」
「あ、何だよ俺をゆする気か?」
「後ろ暗いことがないなら、僕がこれを使って、誰に何を言っても問題ないですよね」
「あ、そ。んーそれにしても花本くん。随分、親身になってナツの気持ち考えてるんだね。……あぁ、分かった。もしかして、ファンの一線越えた? 体でも使ったとか?」
水谷に軽蔑するような声で言われた瞬間、硬直してしまった。唇が震えて、先の言葉が続かない。
「へぇ、そう、カマかけたんだけど、マジなんだ。ところでお母さんたちは、知ってるのかな、君がゲイって。――君が俺をゆするなら、俺にも手があるのをお忘れなく」
ニヤリ、と笑われた。急に涙が溢れそうになり、手を握って爪を立てた。
今まで誰にも男の人が好きだと打ち明けてこなかった。
けど朔良は、ありのままの自分を受けいれてくれる人に、もう出会えたから、少しも怖くない。そう臆病な自分を騙して、鼓舞する。
まだ演技をやめるわけにはいかない。幕はあがったままだから。
朔良は顔を上げた。
「水谷さんには、僕感謝しているんですよ」
「はぁ? なんだよ急に、感謝ぁ?」
水谷は間の抜けた声を上げる。朔良は、穏やかな笑顔を作って水谷に見せていた。イメージしたのは、ナツの笑顔だ。アイドルの彼はいつだって春の桜が舞うように穏やかに微笑んでいる。
そんなステージ上の彼を思い出していた。
「だって、短い間だったけどナツと暮らせて楽しかったですから。推しと大学行って、学食でご飯食べたんですよ。あとスーパーで買い物したり。……知らなかったナツの素顔を知って、もっともっと好きになった。本当に夢みたいだった。――僕は、ナツが好きで、ナツを好きになったから、男の人が好きな自分を許せた」
「……ふーん」
「さすが、水谷さんは人に夢を与える会社で働いている人ですね。僕の夢を叶えてくれたんだから」
にこりと笑ってみせる。
これは演技だ。自分の秘密を知られるのは、怖いに決まっている。それでも誰よりも幸せになって欲しい、大好きな人がいるから。負けたくない。
「なんだよ面白くない。ゲイ隠すのやめたんだ。いじめがいがない。あー分かったよ、お前の要求のめばいいんだろう。ナツが辞めたいって言ってきたら話聞くし、希望通りに引退させる。これで、いいんだな」
「はい、ありがとうございます」
水谷は朔良から顔を背けると再びタバコに火をつけ、窓の外を見た。
「……花本くんさ、演技できなかったって、してんじゃん。別に俺が口利かなくても、親のコネがなくても。花本くんなら希望の劇団どこでも受かんだろ」
水谷は、そう言って手をひらひらと動かして朔良を部屋から追い出した。あと少し、あと少しで、この舞台の幕が下りる。そう、思った次の瞬間だった。
扉を開けると、そこにはナツが立っていた。
「……朔良」
「ぁ、な、ナツ。なんで、ここに」
「水谷さんに話があるって呼ばれてたから」
分かっていた。やっぱり、ナツの前でだけ、朔良は思うように演技ができない。
「ナツ、もしかして」
「うん……話、外で全部聞いてた」
いつも春の日差しのように穏やかに笑っているナツが、眉間に皺を寄せ顔をこわばらせていた。ナツは嘘に塗れた芸能界で何度も傷ついてきた。表と裏の顔を便利に使い分け相手をいいように利用する、そんな彼らと朔良は同じことをしていた。軽蔑されて当然だ。
朔良はその場で勢いよく頭を下げた。
「な、ナツ、ごめん、ごめんなさい。僕、嘘つきなんだ」
涙が溢れてきて止まらなかった。ぽたぽたと灰色の絨毯の上に染みができていく。
仕事の成功と引き換えに、劇団へ口を利いてもらう約束をしていたなど知られたくなかった。
「ずっと、本当のこと言えなくて。ナツの代理マネージャーになったのも、僕はっ」
朔良が顔を上げた瞬間、ナツは朔良の口を手で塞ぎ、ゆっくりと首を横に振る。もう、これ以上聞きたくないと言われているみたいだった。
後悔しても遅いし、傷つく資格なんてないと分かっている。それでも、世界一大好きな推しに軽蔑されて、この世から消えてしまいたかった。
「朔良、俺、怒ってるからね。でも、それは、嘘や隠し事をしていたからじゃないよ」
「え……」
「ちょっと、一緒に来てくれる?」
勢いよくナツに手を握られ、朔良が戸惑っている間に再び応接室の中へ入っていく。
水谷の前で見せていた朔良の強気の演技は、すでに崩れ、今は顔が涙でびしょびしょに濡れていた。
ナツの手によって、楽屋裏の情けない顔が水谷の前に晒されてしまう。
これが罰だとでも言われているみたいだった。
ソファーに座っている水谷は、思案するような顔でタバコを吸っていた。朔良たちに気づいた水谷は鬱陶しそうに顔を上げる。
「あ、何だよ、いま俺、目の前の仕事で頭いっぱいなんだよ」
顎を突き出し不遜な態度で顔を顰めた。部屋に入る前から分かっていたが、機嫌が悪い。ナツは朔良の手を握ったまま水谷の前に立った。
ナツは水谷に少しも怯んでいないし、その表情には迷いがなかった。
「先に俺をここに呼び出したの、水谷さんでしょう」
「あーそうだな。お陰で話が一回で済んだだろ。俺と花本くんの話聞いたんなら」
水谷に用があったのは朔良だった。理由は分からないが、水谷は最初から、この応接室にナツを呼んでいたらしい。
訳が分からず朔良が戸惑っていると、ナツは眉を寄せ、困った顔で朔良の顔を見下ろした。そして朔良の泣き顔を水谷から隠すように胸元に抱きしめてきた。
「ぇ、あの、ナツ?」
「ん、朔良は、あとで話しようね。とりあえず、先に俺の問題を片付けるから」
そう言ってナツは朔良を胸に抱いたまま、水谷に向き直る。
「あのなぁ、もう問題は片付いただろ。そこの花本くんのおかげで引退の件も纏まったんだし」
「色々言いたいことありますけど、一番言いたいのは、俺の彼氏を泣かさないでください」
ナツの言い放った言葉に、水谷は眉をへの字にして、呆れたような声を上げた。
「……お前はなぁ、男と付き合う葛藤とか、少しは隠すとかしねーのかよ。それでもアイドルか」
「葛藤はないですね。言いふらす必要もないですけど、でも隠す必要もないでしょ」
「そうかよ。時代は変わったねぇ。アイドルとしては褒められねーけどな」
「はい。それについては、すみません」
戸惑う朔良を置いてけぼりにして二人の話は目の前で進む。その間もナツは朔良の手を握ったまま、決して離そうとはしなかった。
「あと悪いことしちゃダメですよ。水谷さんはASKETのプロデューサーなんだから」
「してねぇよ! 少なくとも、まだ、法には触れてないからな」
「できれば、この先も法に触れるのは、やめて欲しいですけど。俺たちのグループのためにも」
「……この先は分からないな。お前が辞めるんじゃ、なりふり構ってられないし。つか、もう、お前には関係ない話だろ?」
「水谷さん、また、そんな悪ぶったこと言う。そんなんだから誤解されて会社で孤立するんですよ。って三上さんが言ってました」
水谷はナツを脅すような口調だった。けれどナツは水谷の言葉を、少しも大ごとには捉えていないようだった。それどころか、ナツから水谷に対しては、どこか信頼みたいなものを感じる。
「三上も十年後には、出世して俺と同じになってるよ」
ナツは朔良の頭の上で小さくため息をついた。
考えてみればグループ立ち上げから一緒に仕事をしてきたのだ。ASKETのメンバーたちは水谷プロデューサーのことをよく理解しているのかもしれない。彼がどんな人間か、を。
「芸能界で働く人間は自然とこういう顔になんだよ。毎日お前らみたいな、鬼や悪魔と仕事してんだから当然だろう」
「水谷さんは元々怖い顔でしたよ」
「うるせー」
水谷も昔は違う顔をしていたのだろうか。ナツは話を続けた。
「でも、水谷さんは、俺たちを売ることに熱心なだけのプロデューサーですよね。そこは信用しています」
ナツの言葉を聞いた水谷は、それを鼻で笑った。けれど、その笑い方は決して嫌な感じではなかった。
「で、辞めるでいいんだろう。こっちも、やる気がない人間を売るために動きたくねぇし、慈善事業をやってる訳じゃないからな」
「いえ、よくないです」
その言葉に驚いて目を見開いたのは朔良だけじゃなかった。水谷も同じ顔をしていた。アイドルを辞めて新しい夢を追いたいと最初に言ったのは、ナツだった。
しかし思えば、ナツは、もう一つ言っていた。
――アイドルとして、俺に出来ることが全部終わったら、だけどね。
タイミングを見て辞めるけれど、もう少し先の話だと。
ナツのその言葉を朔良は周りに流されているからだと思っていた。
けれど隣にいるナツの目に迷いはなく自信に満ちていた。他人に言われて嫌々続ける状況には見えない。
「はぁ? 何言ってんだよ。お前、アイドル辞めたいんだろ」
「朔良も水谷さんも、俺抜きで勝手に話を進めないでください。ちゃんとメンバーたちとも話し合って決めましたから」
「ナツ、あの」
ナツは朔良を安心させるように微笑んだ。そして水谷に向けてまっすぐに決意を口にした。
「水谷さん。俺、アサトが帰ってくる場所をメンバーと作って待ちます」
夢が一つじゃなきゃいけないなんて。誰が決めたんだろう。
朔良は端から全部叶えるなんて、できないことだと思っていた。朔良自身、器用な人間じゃないし、大学卒業時に、一般企業に就職するか劇団か、そのどちらかしか選べないと考えていた。
そして、結果どちらも選べずに全て失った。
でもナツは違った。
最初から諦めず、全て叶えるつもりだった。
「……言うのは簡単だけどな。人の心なんて分からねーだろ。アサトの先のことなんて」
「でも、水谷さんだって、アサトが芸能界に戻ってくるって信じているから、色々裏で動いてたんですよね。危ない橋渡って」
「――アイツは多分、本物だからな」
水谷は朔良たちから視線を逸らし窓の外を見た。
「はい、俺も、そう思います。だって、メンバーの中で一番、ファンのことを考えて、一番、グループを愛しているから。それに誰よりも一番上を目指して頑張ってたアサトが、ここで全部投げ出すはずない。絶対帰ってきますよ」
最前線にいるアイドルとしての自負、覚悟。仲間への信頼。
マンションの部屋で朔良に甘えたことをいう恋人のナツも本当の彼だ。けれど、それと同時にナツは芸能人なんだとあたらめて思い知らされた。
「俺、夢には責任があるって思うんです。たとえそれが、人に勧められたから選んだものでも。その夢はちゃんと納得できる形で綺麗にして終わらせないと、きっと俺、後悔すると思うんです」
「ちょっと前は、アイドルなんて、もうどうでもいいみたいに言ってたじゃねーか、だから俺はなぁ」
水谷は非難するような声を上げた。
「あの時は、そう思っていたのも事実だし。毎日毎日、どんなに頑張っても、所詮顔だけみたいに言われて落ち込まない人なんていないでしょ。――でもね、朔良に出会って、何も飾っていない自分でも愛してくれる人がいるんだって知って、なんか感動しちゃって、こんなに応援してくれる子がいるんだから、もっと頑張らないとって勇気づけられた」
「現金なやつだなぁ」
「切り替え早くないと、アイドルなんてやってられないよ。傷つくことの方が多いんだから」
「それで? 真実の愛を知って目覚めたなら、俺としてはこのまま落ちぶれるまでアイドルやってくれるとありがたいんだがなぁ」
ナツはそれには首を横に振った。
「それは違うよ。一番の夢じゃなくなった時点で、俺は、もうここにいるべきじゃない。同じ方向を向いていないグループなんて遅かれ早かれ上手くいかなくなる。アサトが帰ってくる場所を守る。この場所での一番の夢が終わったら、俺はアイドルを引退する。そう決めています」
「変わったなぁ、前なら、すぐに俺にころっと騙されて流されてくれたのに」
「水谷さんが、朔良と出会わせてくれたからだよ」
そこには名前の通り、夏の青空みたいな笑顔のナツが立っていた。
「あぁもう勝手にしろ。自分の思う通りの最高の引退の舞台を作りたいなら、せいぜいそれに向けて頑張るんだな」
「はい。そのつもりです。話はそれだけなので、仕事に戻りますね」
朔良は惚けた顔をしたまま、ナツに手を引かれて廊下に出た。
「……朔良」
応接室の扉が閉まると、ナツは朔良を呼んだ。
何を言われるか、分からなくて。びくびくしていたら。握っていた手をそっと離された。
(……部屋に入る前、怒ってるって言ってたし)
今度こそ怒られる覚悟を決めて顔を上げると、ナツは朔良の両肩に手を置いた。
「あのね、下の駐車場で三上さん待たせてるんだ。今から急いで撮影の仕事終わらせてくる」
「え、え? う、うん?」
「だからね、朔良、俺の部屋で待ってて、七時には帰るから」
早口でそう言ったあと、手のひらの上に鍵を落とされた。そして、その手を握って朔良を引き寄せると、耳元で甘く囁かれる。
言われたことの意味が理解できず、意識が飛んでいる間にナツは走って仕事に行ってしまった。
ナツの体温の残った合鍵を朔良の手のひらに残して。
*
――今日は、最後まで抱くからね。
どんな理由があったとしても、推しのアイドルに迫られて断れるファンなんていない。
言われた瞬間、大事なことが全部吹き飛んで、頭の中が「抱く」で埋め尽くされていた。
こんな、ふわふわした頭のまま車に乗ったら事故を起こしそうで、ESKプロダクションに乗ってきた車は駐車場に置いてきてしまった。
朔良がナツのマンションに着いたのは、午後三時頃。電車に乗って冷静になる時間を作ったのに、頭はずっと混乱したままで、戸惑いは時間と共に増すばかりだった。
「え……な、ナツの、最後までって、どこまで」
合鍵を使って家主のいないマンションに入り、広いリビングを一人でぐるぐる歩き回っているうちに夕方になっていた。
結局、朔良は言葉の通りの意味と解釈して、覚悟を決め、ふらふらと薬局に必要なものを買いに向かった。
以前、車のなかで、エッチなことを勉強しておくと言っていた。ナツは、どこまで勉強したのか、どうやって勉強したのか。
ナツと付き合うまで、散々ナツで人には言えない妄想をしていたのに、いざとなったら推しの綺麗なところしか想像できない。付き合ったその日に、キスをして、バニラセックスはしたし、一緒にお風呂だって入った。
アイドルも生身の人間だと理解している。けれど最後の点と点が線で結ばれない。
――挿入るの? ナツのが、僕に!?
薬局からマンションに帰ってきて、そのまま風呂に入って後ろの準備をした。そのための性具やジェルを見ていると、酷く汚く浅ましい気持ちになってくる。決して綺麗なだけじゃない。
本当に、こんなことをナツが望んでいるのか、朔良に対して望んでくれるのか。進めているうちに不安になっていた。
風呂に入ったのに、すっかり冷えた体で、家主のいないリビングに戻った。
自分の荷物は既に自宅に持って帰ってしまったので、マンションに帰る途中、着替えの服は最寄りのコンビニで買った。ここまで着てきたスーツを再び着る気にはなれないし、ナツから服を借りるにしても、勝手にクローゼットを開けるのは気が引けた。
買ってきた長めの白のTシャツだけを着て、リビングの中央に立ち尽くした。
その時点で、ようやく頭が冷静になり今の状況を理解した。
朔良はナツに嘘をついていた。
けれど、ナツは、それに対して怒ってるわけじゃないと言っていた。
「……謝らないと」
けれどナツが何に対して怒っているか分かっていないのに、理由が分からないことに謝罪するのは一番許されない。
朔良はナツの私室の扉を開け中に入った。
一緒に住んでいたのに、ナツの部屋に入ったのは初めてだった。普段一緒にいる時はリビングだったし、朝はちゃんと時間通りにナツは起きていたので、朔良が起こしに行くこともなかった。
(そういえば、まだ一緒にプレステしてなかった。誘ってくれたのに)
アイドルの部屋というより、大学生の一人暮らしの部屋だ。机の上には調べ物をしたノートの束、筆記具や講義資料のプリントが載っている。奥にある本棚には朔良が使っていたのと同じ一般教養の英語の教科書、建築学の本と一緒に少年漫画が綺麗に並んでいた。
部屋にはナツが教えてくれた趣味のゲームや漫画の本が当たり前のようにある。朔良が知っている彼の人柄が、そのまま部屋から伝わってきた。
改めてナツは朔良に対して誠実で秘密がなかったんだと知った。
全部、全部、大学一年生の、あの春の日からやり直したい。
嘘なんて何もない綺麗な自分に戻りたいと思うのは、傲慢だ。今の朔良の全部が、嘘偽りない本当の自分だから。
「……ナツ」
今すぐにナツに会いたい。そう、胸が締め付けられるような気持ちになった時だった。
玄関の扉が開く音がして、目の前の机から顔をあげた。しばらくすると部屋のドアが開く。
「な、ナツ。あのね、僕っ」
机の前に立っていた朔良のところまでナツは無言で歩いてきた。怒られる覚悟をして目をぎゅっと閉じた。
その数秒後だった。くすりと笑う気配を感じて、唇に柔らかい感触が当たった。目を開けるまで、それがナツの唇だって気づいていなかった。
「ただいま、朔良」
「ぁ、お、おかえり、なさい」
震える唇で、たどたどしい挨拶を返したあと、至近距離で見つめ合った。
「一緒に住んでるのに、ずっと朔良と一緒に行動してたから、おかえりって言ってもらうの新鮮」
「そ、そう、だね」
「なんか、いいね。お迎えがあるのって。幸せーって感じで」
和やかに会話を進めているのに、次に何を言われるのか分からなくて朔良の心臓は、ばくばくしていた。目を細めたナツは朔良の肩に額を置く。
「え、なっ、ナツ? どうしたの?」
そのままナツは朔良の首筋に唇を当て、すんと鼻を鳴らした。ナツの唇が首筋に触れた感触で一気に皮膚が粟立つ。
「ん、いい匂いだなぁって、お風呂入ってたの? 俺も一緒に入りたかったのに」
耳元で甘えるような声で囁かされると、そのハチミツみたいにとろける声に、また全部吹き飛ばされそうになる。まだ何も解決していないと、慌てて頭を振る。朔良には言わなければいけない大事なことがたくさんあった。
「あのね、ナツ、ごめんなさい。僕、ずっと、ナツに嘘ついてて……。そのことちゃんと謝りたくて」
首元にあったナツの頭が離れていき、ナツは朔良の正面に立った。
「でも昼間、事務所でナツは僕の嘘には怒ってないって、だから……。どうしたらいいか、分からなくて。それも、ごめんなさい」
一生懸命に伝えた朔良に対して、ナツは朔良の前で目を瞬かせ急に笑い始めた。
「えー? 朔良。俺が何に怒ってるか、本気で分かってなかったの?」
「ぅ、えっと」
目を泳がせていたら、ナツの手のひらが、そっと頬に当てられる。
「黙ってマンション出て行ったから、だよ。仕事も勝手に辞めてさ、だから怒ってたの。三上さんから聞いて、びっくりしたじゃん。俺が何かやらかしたのかと思った」
「ご、ごめん、なさい。ナツは何も悪くないです」
朔良の謝罪にナツは口元を綻ばせる。その瞳からは嘘や偽りは伝わってこなかった。本当に朔良が黙っていなくなったことを心配していたのだろう。自分のことばかり考えていて、ナツが不安になっているなんて、これっぽっちも思っていなかったので反省しきりだった。
「俺、朔良の恋人なんだけどなぁ。何か困ってるなら、もっと頼ってよ? 大学は、まー留年してるけど、社会人としては、俺の方が先輩だよ?」
そう言ってナツに顔を下から覗き込まれる。
「僕、もう、ナツに……嫌われるって思った。怖くて……」
「不安だったの? こんなに大好きって、言ってるのになぁ」
二人の体の間で、両手で恋人繋ぎをされる。ナツの手の温かさに不安が吸い取られていくようだった。
「それで、大体はもう知ってるけど。朔良は俺にどんな嘘ついてたの?」
「あのね、僕、ずっと、サクラのバイトをしてたんだ。葬儀場にいたのも、それで。……月山さんから翠くんを一緒に送って欲しいって依頼だった」
「あれも、お芝居だったんだ、へぇ」
ナツは感心したような声を上げる。
「それだけじゃない、僕はナツに出会うまで、演技で人に嘘がつける人だったんだ。罪悪感なんてなかった。仕事だからって」
人を幸せにできる嘘があるって思ってた。けれど大切な人についた嘘は、ずっと心にしこりを残し続け朔良を苦しめた。
「サクラのバイト、ねぇ」
「うん。大学の演劇サークルで部活の伝統っていうか、ずっと代々紹介で、結婚式の友達役とかが多いんだけど」
「そんなバイトがあるんだね。じゃあ朔良は、いつも現実世界でお芝居をしてたんだ。なるほど即興のお芝居が上手いわけだ」
「な、納得するんだ」
ナツは目を細めて笑った。
「――俺、あの葬儀場でさ。朔良にまっすぐに見つめられて、亡くなった後も、こんなふうに思ってくれる友達が居て羨ましいなぁとか思ってた。俺に、そんな気持ちにさせるってことは、朔良、真剣に役と向き合っていたってことでしょう? 誰かのためについた嘘なら悪くないと思う」
「でも、あの、僕は、ああいうことが平気で出来る人間なんです」
声が詰まった。
「ナツの代理マネージャーになったのだって」
「うん。俺に仕事させるためでしょう? けどさ、朔良がお芝居していたとき、誰かを騙してやろうとか、貶めてやろうみたいな気持ちでしたこと、一度でもある?」
「それは……ない、です」
誰かの助けになるなら、そのために自分の演技を使いたい。それだけだった。
「俺のファンだったっていうのも嘘?」
朔良は、それだけは絶対に違うと首を横に振った。
「ナツが、大好きなのは本当!」
ナツはくすくす笑う。
「嬉しい。もし俺が朔良に言いたいことがあるとすれば、劇団の口利きのことかな」
「……はい」
「本当、駄目だよ、そんな約束で仕事を受けたりしたら。分かってると思うけど! お金で人を動かせると思ってる人間はろくな人じゃないんだから。水谷さんも悪い人じゃないんだけど、いい人でもないから。――でもさ、それはもう自分で分かってるし反省してるんだよね」
「うん。もう、絶対にしない」
「じゃあ、俺から叱ることは、もうないですよ。本当、心配だから危ないことはしないでね」
小さな子供を褒めるみたいに髪をぐしゃぐちゃとかき混ぜられた。ずっと心の中にあった重石が、その瞬間ふっと軽くなって消えた気がした。
「……考えてみれば、俺さ。あの葬儀の日の朔良に一目惚れしてたのかもね。ほんと、かっこよかったし。周囲の空気が張り詰めて、息をするのも怖いくらいだった」
「え、あのときに」
ナツは、その日を思い出すように遠い目をしていた。
「綺麗な目だったって、前に俺、言ったでしょう。あの日、朔良が車から降りたあと、また朔良に会いたいなぁって思ってた気がする」
「え、嘘、だ」
「嘘じゃないよ。本当! 一緒に暮らすようになって、朔良が自分のファンだって知ったときは、もう嬉しくて嬉しくて、たがが外れたっていうか。この子を絶対離さないって思った」
ナツはベッドの上に座ると朔良の手を引いた。
「それで、朔良は、何がきっかけで俺に惚れてくれたの?」
忘れたことがない。ナツと初めて会った春の日。
――あの、よかったら、チョコどうぞ。
鼓膜をくすぐるような、甘い桜の花びらのような囁き。
「な、ナツにもらった、チョコレート……食べたとき」
味の分からなかったチョコレート。その瞬間が、朔良の初恋だった。
「それ、アイドルの俺じゃないじゃん。えーアンパンマンがよかったの?」
「な、ナツは、いつだって僕のアイドルだから! お仕事してるときも、してないときも、全部! ナツだけが……僕の中で一番特別で綺麗だったから!」
朔良が早口で答えると、そのまま手を引いて、ベッドの上に押し倒された。
「それ最高の、褒め言葉」
ナツが片手で黒のデザインカットソーを脱いでいる姿を、ベッドの上で陶然とした瞳で見上げていた。極上の身体を朔良がこの場で独り占めしている。
朔良の顔の横に手を置かれ、顔がゆっくりと近づいてくる。
ベッドの上で啄むようなキスをして見つめ合ったあと、上に一枚だけ着ていたTシャツをナツに脱がされた。下の服は元々着ていなかったので、下着一枚だけになってしまう。
「ぁ、あの、ナツ、最後まで、するって」
「ん、するよ。せっかく勉強してきたんだから、帰りに薬局寄ってもらったし」
そういえば部屋に入ってきたとき、ナツが黒いビニール袋を持っていたのを思い出す。今それは机の上にあった。
ナツは机の上に置いていた袋を持ってきて、中身を布団の上に出す。
コンドーム、潤滑剤。
「え、こ、これ、ナツが薬局で買ったの」
驚いた声でいうとナツは吹き出して笑った。
「何言ってんの、朔良。三上さんに買わせるわけないじゃん。ちゃんと自分で買ったよ」
「それは、そう……だけど、うん」
一体どんな顔をして買ったんだろう。周囲に人はいなかったんだろうか。ナツが、これを堂々とレジに出したところを想像して顔が真っ赤になる。夕方、自分も同じものを買ってきて、それはリビングにあった。
最後まで、と言われた意味が自分の想像と同じだったと答え合わせができた。
理解した瞬間、再び昼間マンションにたどり着いたときの気持ちに逆戻りして、頭がふわふわになってしまった。
「朔良を大事にしたいからね。それに、お互い気持ちいい方がいいでしょ?」
「き、気持ちいい……こと」
こくりと生唾を飲んだ音が静かな部屋に響く。ベッドの上に座ったまま、目を白黒させていたら、ナツから鼻の頭に猫の挨拶みたいにキスされた。
「朔良はすけべだなぁ。今、どんなこと想像したの?」
「それは……そ、それより、ナツ。べ、勉強って、どんなこと、したの」
「それは、ひみつ」
そう言ってナツは唇の前に指を立てる。その弾けるアイドルスマイルに心臓が張り裂けそうになるし、頭の中がわやくちゃになった。
「あ、あのね、僕も、い、今から何か見て勉強した方がいい? よね」
どんなことを期待されているのか、急に不安になって探るように恐る恐るナツに尋ねた。
「もう朔良はこれ以上勉強しないでいいよ。採点厳しくなっちゃうじゃん」
「な……なつ」
見つめ合っているうち、互いが磁石で吸い寄せられるように唇を合わせていた。
「ナツ……ナツ、すき、大好き」
「俺も、大好きだよ。――朔良、アイドルの俺を見つけてくれて、好きになってくれて、ありがとう」
「そ、そんなの、僕のセリフだよぉ」
ナツに切実に求められる感覚に酔いしれ、朔良は身体中で幸福を感じていた。
■
ナツは自分で決めた通り、翌年の二月、ドームコンサートを最後に芸能界を引退した。
リーダーのアサトが芸能界に復帰し、グループとしても人気絶頂。ASKETが、これからってときだった。
芸能ニュースでも、しばらくはナツの芸能界引退の報道が続いていたが、桜が咲く頃には、それも落ちついていた。
――季節は、ナツと出会った春になった。
その日、薄紅色の桜の花びらが舞う中で、朔良はナツを待っていた。
待ち合わせは、大学の校舎裏の山。眼下には袴やスーツ姿の学生たちが写真を撮りあっている姿が見える。去年の自分も、同じ輪の中にいた。周りに合わせようと、本当の自分を演技で覆い隠し、踠き苦しんでいた、その頃の自分は、もういない。
今、朔良は劇団『ステージ飛鳥』で研究生になり、役者の道をスタートさせていた。
約束の時間になると坂道の下からスーツ姿のナツが歩いてくるのが見えた。
芸能界を引退して、アイドルじゃなくなったからといって、その美貌やスタイルが失われた訳じゃない。
やっぱり『ステルス』は健在で、誰もナツを振り返っていなかった。
桜が咲き誇るこの場所で、彼の美しさを独り占めしているのは、今、朔良だけだ。
「お待たせ朔良。ライン見たよ! 舞台決まったんだって! おめでとう、今日はお祝いだねぇ。焼肉? それともすき焼きかなぁ」
今日は大学の卒業式で、お祝いされるのは、ナツの方だ。それなのに先に、おめでとうと言われてしまった。
「ナツってお肉好きだよね」
「え、朔良も好きでしょ?」
「うん。好き」
「スーパーで買って帰ろうか」
――魚より肉、コーヒーより、紅茶。
――あと、女の子じゃなくて、男の子が好きだ。
去年の今頃、そういえば、そんなことも考えていた気がする。
「僕じゃなくて、おめでとう! はナツだよ。大学、ご卒業おめでとうございます!」
「ありがとうございます。あー本当、単位取れてよかった。今夜は一緒にお祝いだね」
そう言って手を差し出される。ナツが当たり前のように、外で手を繋いでくれるのが嬉しかった。
本当の自分を知られるのが怖かった、以前の自分じゃ考えられない。
ゆっくりと桜の舞う山道を二人手を繋いで歩いた。
「ところで、ナツ。僕、ずっと訊きたかったんだけど」
「ん?」
「前に、役者の僕に一目惚れしたって言ってたよね」
「んーそうだね」
二人の間に、春の柔らかな風が通り抜けた。
あの日、朔良にとって掴みどころのなかった春の日は、今、同じように存在している。
「役者じゃないときの僕って……ナツ、どう、思っている?」
「そんなこと気にしていたの?」
「だ、だって……」
なんの取り柄もないと、毎日、灰色で燻っていた頃の自分。何かになりたくて、なれない自分が大嫌いだった。
なりたい自分になっても、以前の、情けなく臆病で、カッコ悪いままの朔良は、そのままのこってる。
憧れた役者になっても、全てが思い通りにならないって、もう分かってる。朔良は、それも愛おしい。
アイドルじゃないナツも好き。じゃあ、あなたは?
「そんなの、決まってるよ。好きなのは――」
そっと、耳元で囁かれる。
役者になった花本朔良と、新しい夢に向かって歩み出した里村夏生。
――好きなのは、朔良。
おわり