朔良は子供の頃から五月が苦手だった。
 ゴールデンウィーク明けの学校が憂鬱だから、みたいな理由ではない。
 毎年、五月は宇宙人のような男に会わなければいけなかったからだ。

 十八歳になるまで年に一度、父親の誕生日に食事に呼び出されていた。成人してからは、その一年に一度の交流も断って疎遠にしていたが、それでも一方的にラインで連絡は来ていた。
 ――ねぇ、そろそろ、パパの誕生日だけどさ。
 猫とプレゼントのスタンプ。離婚したくせに、いつも自信過剰で、息子に少しの遠慮もない。面倒な父親。
 苦手なのは五月じゃなくて、父親、だったかもしれない。

 *

 坂野上写真事務所でナツの撮影が終わり、ESKプロダクションのビルに雑誌の取材に来ていた。
 事務所の五階、編集者が待っている打ち合わせスペースのドアの前で朔良は足を止めた。
 スーツの内ポケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴っている。水谷からの仕事の電話だったらいけないと思い、確認しようとして誤って通話ボタンを押してしまった。
「朔良、どうかした?」
「あ、えっ……と、大丈夫です」
 スマホから顔を上げると、朔良の顔をナツが心配そうな目をして覗き込んでいた。ディスプレイには、父親の名前が表示されている。
「電話でしょう」
 スマホの向こうからテンションの高い声が聞こえた気がしたが、慌てて通話を切った。そのタイミングで、父親の誕生日を忘れていたことに気づいた。
 朔良からの折り返しを待ってくれるだろうと思ったが、間髪入れずに再びバイブ音がする。
「急用じゃないかな。取材だし、俺なら、一人で大丈夫だよ」
「ううん、ごめんナツ、大丈夫だから、部屋入ろう編集さん待ってる」
「……そう」
 そのまま片手でスマホの電源を落とし部屋の中に入った。
 ナツの隣の席で取材が終わるのを待っている間、父親のことを思い出し、終始うわの空だった。最近は誕生日に会わない代わりに、適当なプレゼントとメッセージだけ送っていたが、今年は完全に忘れていた。
 今は父親のことなんて考えている余裕がない。そもそも成人しているのだから、もう縁を切ってしまってもいいと思っている。
 切ったところで、血のつながりはあると言われるかもしれない。でも朔良は、あの男との血の繋がりを疑っていた。――地味でうだつが上がらない、いつも母親のそばにいる崎田の方が、朔良の本当の父親なんじゃないか、と。
 どんなに考えないようにしても、年に一度、父親が律儀に連絡してくるせいで嫌でも思い出してしまう。思い出したところで訊けやしないのに。
 これ以上、苦手な父親のことで頭を占められたくないし、こんなくだらない悩みなど、早く片付けてしまいたかった。
(今は、ナツのことを一番に考えたい)
 このまま、あの写真が雑誌に載れば、おそらくナツは、もう朔良の手の届かないところに行ってしまう。売れないアイドルだった母の運命を変えた、例の写真。それと同じことが、この先起こるだろう。
 朔良は、ナツが思う一番の夢を応援したかった。その結果、自分がナツの目の前から去ることになっても、後悔はしない。
 ――しない、と思うんだけど、な。
 あまりにも、ナツと一緒にいるのが幸せで、夢みたいで。胸の奥のチクリとした痛みに気付きたくなかった。

 取材が終わったあと、ナツに断ってトイレに行き、そこで父親に電話を掛け直した。
『あぁ、やっと繋がった。無視しないでよ。パパ悲しいだろう、誕生日も忘れて、ひどい息子だなぁ』
「パパって……。何か用事ですか。僕、いま仕事で忙しいから、手短にお願いします」
『つれないなぁ。ちょっと、今日時間作ってくれないか』
 いつも人を小馬鹿にするような声をしている父親が、電話の向こうで珍しく「父親」の声をしていた。
「急だなぁ」
『今、君がしている仕事について、だよ。ミカさんさ、君のこと、すごく心配していたよ。パパにもちゃんと説明しなさい』
「なん、で、そんなこと……別に」
 思わず言い淀んでいた。犯罪に手は染めていないが、演技で他人を思惑通りに動かすなんて、褒められたことじゃない。既にそれに気付いていたので強く出られなかった。
『いいから、仕事で新宿まで来てるから。夜なら少しくらい時間作れるだろう。まさか、労働時間も守られてない仕事じゃないだろうね。そんな仕事、パパ許さないからね』
「そんなことないけど……」
『じゃあ別に、食事くらいいいだろう』
「分かりましたっ、行きますよ。今の仕事場から近いんで、XXホテルでいい?」
「いいよ。予約しておくから、七時に来なさい」
 通話を切ったあと、なんだか気力と体力をごっそりと奪われた心地がした。

 *

 一日のスケジュールが滞りなく終わりマンションに着いたとき、ナツに「今日は知り合いと食事する」と伝えて外に出た。
 ナツが住んでいるマンションから歩いて行ける距離にあるXXホテルに着くと、ロビーで、いけすかない顔をした父親が待っていた。
 朔良の姿を見つけると、キリリとした表情が一変して相好を崩し手を振ってくる。なんだか、そういうところは少し崎田と似ている気がした。
 父はベンチャー系企業で社長をしている男を絵に描いたような格好をしている。実際そうだ。
 白髪は綺麗に黒く染めて、後ろに流すように、きちんとセットしているし、ダークグレーのスーツには皺もない。
 離婚して一人で生活しているはずなのに、少しもくたびれた様子がなかった。
(若作りした元気なおじさん……だなぁ)
 なんだか痛々しく感じて思わず目を細めて見てしまった。
 老舗ホテルの一階にあるレストラン。通された席は窓側で、全面ガラス張りの窓からはライトアップされた英国風の庭が見える。金曜日の夜で、周囲は男女のカップルが多く、半分以上席は埋まっていた。
 オーソドックスなコース料理だったので、父親と仲良く注文を決めるなんて、面倒な交流をせずに済んで良かった。
「スーツ、似合ってる。いやぁ、大きくなったなぁ。七五三が、つい昨日のことのように感じるけど。スーツ着て仕事するような年になったんだね」
 感慨深い声で言われて、背中がぞわっとした。
「大きくって、会ったの三年前。そんな変わってないよ」
「機嫌悪いねぇ。急に呼び出して悪かったよ。それで、ミカさんに聞いたよ。芸能関係の仕事だって? パパに言えないような危ないことはしていないだろうね」
 両親揃って子供扱いだった。彼らにとって朔良は、いつまでたっても金持ちの家に生まれた世間知らずの息子なのかもしれない。
(世間一般の普通の父と子って、どういう感じなんだろう)
 思春期の多感な頃に、この面倒な父親と本音でぶつかっていたら、何か分かったのだろうか。本質的なところで、父親というものがよく分からない。分かりたいと思ったこともあるが、そもそも分かり合う前に出て行ってしまった。
 そのせいか父親に対して苦手意識ばかりが残っている。
 近い将来、父親の役をする機会があれば、困る気がした。――そこまで考えて頭を振った。
(いや、役者は、もう、僕には向いてないって分かってるよ。未練なんてないし!)
 父はワイングラスを傾けると、にこりと微笑んでくる。どれほど好意的に話しかけられても、やっぱり嫌いだった。何も知らないのに、朔良のことを全部分かったような目をするところが、馬鹿にされているように感じる。
「どうかした?」
「なんでもないよ。仕事は守秘義務があるから、話せない」
「守秘義務ねぇ。本当、芸能界は秘密と嘘ばっかりで、嫌になるよ。ミカさんも何にも話してくれなかったからなぁ」
「会社ならどこでも、守秘義務あるじゃん」
「少なくとも、僕は嘘を吐かないからなぁ、そこは芸能界と違うところだよ。あと僕は隠し事が苦手だし」
 昔を思い出しているようで、父は少し遠くを見つめていた。
「母さんにも言ったけど、危ないことはしてないから、心配いらない」
「そ、まぁ、仕事相手に監禁されてないって分かったから、安心したよ」
「監禁なんて、あり得ないよ」
「でも物騒な世の中だからね。親なんだから大事な息子の心配して当然だろう。――それにしても、僕の子だし、てっきり君は会社経営の道に進むと思ったんだけどなぁ。結局、芸能界かぁ、残念だよ」
 そう言って父は大袈裟に肩を落とした。
「経営ってなんで、僕、そんなの全然興味ないし」
「えーだって朔良、大学は経営学部受験したでしょう? 僕、すっごい嬉しかったんだけどなぁ。父の背中を見て育ってくれた! って」
「……出て行ったくせに。父の背中って」
「それは、それ。これはこれ。ミカさんのことも朔良のことも、今でも愛しているよ。ただねぇ、離婚については、人生に対するお互いの方向性の違い? かなぁ」
 社長だし世間一般的に見れば、常識のある大人のはずだ。それなのにバンドマンの解散理由みたいなことを言う。まったく理解できない宇宙人だった。
 嘘をつかないと言いながら、結局、父も嘘と秘密ばっかりだ。
 適当なことを言って、朔良には離婚の本当の理由を言わない。
 一度は、夫婦だった。けれど母が芸能界に戻って、しばらくして離婚した。朔良が知っているのは、それだけだ。――あの羽鳥が撮影した写真がきっかけで再ブレイクして、気持ちが離れなければ、二人は今も普通に夫婦だったんじゃないかって思う。もちろん写真のせいで不幸になったわけじゃない。むしろ父と母は離婚してからの方が、自分らしく生きて幸せそうにしている。
(じゃあ、僕は)
 身勝手な両親のせいで、二十歳を過ぎた大人なのに、いつまでも子供みたいな心の欠片が残っていて情けなかった。
 ――ずっと訊きたかったことがある。
 いい加減、大人になりたかった。
 いつまでも、もやもやしているのも嫌で、もう、これで最後という思いで伝えた。
「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど。僕の本当の父親って、崎田さんなの? 離婚理由もそれでしょう」
 やっと、言ってやった、と胸がすっとする思いがした。父はグラスを持ったまま、目を丸くしている。そして、赤ワインが入ったグラスをテーブルの上に置くと、両手をテーブルの下に下ろし、難しい顔をして朔良の目を見つめた。
 深刻にするつもりはなかったのに、少し後悔した。
「崎田って、ミカさんのマネージャーだった、あの崎田くん? 違うよ。え……そんなこと思ってたの朔良」
「だ、だって!」
「あのね、正真正銘、君は僕とミカさんの愛の結晶です。レストランじゃなかったら、抱きしめてあげるんだけど、え、どうする。場所変えてやり直す?」
「き、気持ち悪いな」
「なんで、そんな勘違いするのかなぁ。第一さ、君、僕に、すごい似てるじゃん顔」
「に、似てないよ。さ……崎田さんの方が……あの人料理上手いし、地味なこと好きだし、僕に似てて」
「それは知らないけど」
「知らないのかよ」
「だって、僕。崎田くん嫌いだもん。同級生だったんだけどさぁ、あいつ、昔から才能あるのに、全然努力しないし。そのくせ、ちょっと不良ぶってるから、あれでモテるんだよね。女の人ってどうして、ちょっと影のある男にコロっていくんだろうねぇ、僕の方が誠実なのに。昔から、おモテになって」
 完全に僻みだろう。なんだか、急に父が人間に見えた。さっきまで宇宙人だったのに。
「それに、崎田くんはゲイだからなぁ。彼は、今も昔も、僕とミカさんの友達だよ」
「は……?」
 突然の父の告白に頭が真っ白になった。
 本人の同意なしにアウティングするなんて、絶対に許されない行為だろう。
 けれど父は崎田を嫌いと言いながら、友人だとも言った。少しも悪意があるようには見えない。
 思えば、確かに崎田の近くで母以外の女の人を見たことがなかった。だからこそ朔良は、二人の仲を疑っていた。
 ただ崎田は、朔良の家によく顔を出していたが、それでも泊まってるのは見たことがない。――言うまでもなく、母親の部屋から出てきたこともなかった。
「これで安心したかい? 君が僕とミカさんの子だって」
「でも、さ、そういうの、人の秘密、勝手に言うのは駄目だと思うよ、僕。絶対……駄目だ」
 朔良がそう言うと、父は目を細めて笑った。
「僕は崎田くんより、朔良の方が大事だからね。それに彼だって、朔良がそんなことで深刻に悩んでいるって知ったら、言っていいって言うよ。碌でもない社会不適合者だけど、崎田くん、君のことずっと大事にして色々面倒みてくれただろう?」
「それは……うん」
「それに、朔良は誰かに秘密を言いふらしたりしないだろう。僕は、息子のこと信用しているからね」
 父はメリットとデメリットだけで生きているし、頭が良く回る男だ。衝動的に言ったように見えたが、ちゃんと考えていた。
 でも、父親の、そういう白黒思考で、すぐに決断するところが嫌いだった。自分は、父と違い、いつもぐずぐずと迷ってばかりで、同じところで足踏みしているから。
「しかしねぇ、いつから、そんな勘違いしてたの。あぁ、もっと早く言ってよ。普通に僕と似てるでしょ、顔とか、性格とか」
「全然似てない」
「似てるよ? 顔は若い時の僕そっくりだし。負けず嫌いで、努力家で猪突猛進なとことか」
「え? 僕、そんなとこないけど」
 父が言う性格は、自分で思っている性格と正反対に思えた。
「うーん正確には、演劇しているときの君の顔が、昔の僕に似ている、かな。……こっそり、よく見に行ったなぁ、朔良は演技上手だよね。そこはミカさんに、そっくり」
「僕、一回も父さん公演に呼んでないけど」
「ん、君の近くには、優秀なスパイがいるからね」
「スパイって……」
 父はニヤリと笑った。
 そう言えば公演のチケットを捌くのに苦労していたとき、何回か崎田に欲しいと言われたことがあった。
 朔良は父親にそんなふうに見られていたとは全然知らなかった。

 *

 食事が終わり、レストランを出ると、ホテルのロビーで父に手を握られた。
「なに……急に」
「何って握手だろ。さっき抱きしめてあげられなかったから」
「いらないよ、そんなの」
「そ? 朔良、芸能界の仕事がもし嫌になったら。僕のところにおいで」
「いい、です。絶対、嫌。親族経営なんてデメリットしかないよ」
「まぁ、それは確かにね。よく勉強しているね。とにかく、困ったことがあったら、いつでもいいなさい。といっても、お金……は君は困っていないだろうしねぇ、他に欲しい物ある?」
 父がそう言ったときだった、急に耳の横で風を切るような音が聞こえた。
 気付いたときには、父と朔良の間に人が割り込んでいる。
 ――そこにいたのは、朔良のよく知っている男だった。
「朔良、お金で他人を思い通りにするなんて、ろくな人間じゃないよ」
「な……ナツ。なんで、ここに」
「俺、朔良が心配だったから、ずっと外で見てた。昼から……様子変だったし」
「え、えぇ、見て、見てたの、ナツ。どこで」
 朔良の動揺をよそに、父は気にした様子はなかった。
「朔良のお友達かな? 僕も同意見だ。それは、脅迫で犯罪だからね。芸能界に限らず、お金で人を思い通りにする人間には、気をつけないといけないよ」
 ナツは、そう言った父を睨みつけると、朔良の腕を引いた。
「朔良、うちに帰ろう。その人と一緒に行っちゃ駄目」
「あ、う……うん、行かないけど」
 そのまま反論する間も無く、手首を掴まれて、ナツとホテルのエントランスを出た。

 ――多分、すごい勘違いをされている気がした。

 マンションへ帰る道中は二人とも終始無言で、ずっと朔良の右手はナツに握られたままだった。手を繋いでいるところを誰かに見られでもしたら、と心配を口にすることもできなかった。
 扉を開けた途端、朔良は抵抗する間も無く玄関先でナツに押し倒された。
「……ナ、ナツ。ど、どうしたの」
 普段の温厚なナツからは、想像できないような荒々しさだった。
 ナツは被っていたバケットハットとセルフレームの眼鏡を無造作に廊下へ投げる。
「朔良……」
 今にも泣きだしそうな混乱した様子で前髪をかき上げると、小さく息を吐き再び朔良の腕を掴んだ。
 絶対に逃さない、そんなナツの心の声が聞こえた気がした。
「昼間、どうして……俺に電話の内容秘密にしたの?」
 暗く澱んだ瞳が真っ直ぐに朔良を見下ろしている。朔良は怖くて、その場で小刻みに震えていた。
「ナツ、えっと……違う、からね。多分、誤解だよっ、ぅ」
 ナツは朔良の顎に手をかけるとキスで口を塞いだ。
「……朔良は、悪い子だね。俺を騙したの?」
「ッ、ぅ……ぁ、んんっ」
 性急な口づけに朔良は焦りを覚えた。
「ねぇ、朔良。キス、気持ちいい?」
 今すぐに誤解を解かなければと頭では分かっているのに、体は勝手にナツの手と唇に反応してしまう。
「っ、あっ! な、ナツ、本当に、ち、がうから。あの人、は」
「あの人……か。随分、親しいんだね。パパって呼んでたし」
「よ、呼んでないよっ!」
 ナツに必死で反論する朔良の声はうわずっていた。
「嘘、だ」
 やっぱり誤解していると分かった。父親のことをパパなんて呼んだことがない。
(いや、言った……。一回、だけ)
 おそらくナツは昼間、トイレで朔良と父の電話を聞いていたのだろう。スタジオを出てからは終始上の空で、ナツに跡をつけられていたなんて気づいていなかった。
「呼んでたよ。パパとホテルで会う約束してたじゃん。さっき、俺が行かなかったら、あの人とホテルで寝てた? そんなに上手なの? セックス」
「ないないない! 絶対!」
 あの父親と仲良く、なんて死んでも想像したくない。胸元にあったナツの手は下腹へと移動する。朔良は戸惑いながらもこくりと喉を鳴らしてしまった。
「ほ、本当、誤解だよ! ナツ、ぁああ」
「何が誤解? ねぇ、いつから、俺……騙されてたのかな」
 一際、敏感な場所を指先で撫でられ、朔良は甘やかな声をあげた。その声を聞いたナツは寂しげな表情を浮かべた。こんな傷ついた顔をさせたくないのに。
 最初のエッチが特別に幸せだったから。身体がナツの指の動きを想像して勝手に欲していた。
「朔良はえっちだね。玄関先で、とか無理やりされるのが好きなの?」
 責め立てる言葉で煽られて頬が朱に染まる。
 ナツと付き合う前の、以前の自分だったら喜んでいたかもしれない。推しで、大好きなナツに無理やり抱かれるなんて夢みたいなシチュエーションだ。
 けれど今は違う。こんなふうに誤解したまま抱かれるなんて絶対に嫌だった。
「昨日……途中までで物足りなかった? ごめんね。やっぱり……朔良も俺のこと、顔だけって思ってたんだね」
「ち、違うよ、もう、ナツ、手、止めてっ」
 朔良は自分の股間の上を動くナツの手を押さえた。けれどナツの手淫は止まらない。
「どうして? 気持ちよさそうなのに、下、こんなに熱くなってる」
「な、ナツが触るからっ! だよっ」
 ナツとした初めてのエッチは、お互いの体を触り合うだけで、それでも二人にとって特別で幸せな時間だった。今の行為は朔良を追い詰めるためのものだ。ナツの手は無理やり朔良の性感を高めるように動いている。
 心とは裏腹に素直に反応する身体に情けない気持ちになった。
「ねぇ、パパって、何。……朔良にまで、嘘つかれたら。俺、もう何を信じたらいいか分からないよ」
「ぁ、ナツ、いま、話すから! 待って!」
「俺の、セックス、下手だったから? だからパパに電話したの?」
「下手じゃないよ! そもそも、僕ナツしか知らないんだから! 比べられないっ」
「俺も朔良しか、知らないよっ!」
「それも知ってるよ! 昨日教えてくれたじゃん」
「ぅ、朔良、どこにも行かないで」
 どこにも行かないでほしいってセリフは朔良がナツに言いたい言葉だった。胸がぎゅっと締め付けられる。
「もっ、もう」
 甘えたな寂しい兎の瞳が、朔良を捕らえて離さない。朔良は必死の思いでナツに抱きつき、その勢いでナツを玄関の床に押し倒し返した。呆気に取られたナツは、きょとんとした丸い目で朔良を見上げている。
 朔良は下半身を晒したまま、ぐちゃぐちゃの格好でナツを見下ろしている。とにかく、なりふり構っていられなかった。
「ナツ! あのね! 本当に、違うから! あの人は、僕の父さんだから! うち親が離婚してて」
「え、父さん……? でも、全然、似てなかった、よ」
「それは……僕も、そう思う。実際、今日まで、本当の父親じゃないと思ってたし。その誤解は……今日解けたんだけど」
 ナツの表情がたちまち焦りに変わっていく。
「ぇ、あ……じゃあ、もしかして、俺、親子の感動の再会の邪魔を」
「それはない。絶対ないから! 年に一回は会ってたし」
「俺……父親から息子を突然連れ去った不審者じゃん」
「それも、多分大丈夫、お友達って言ってたし。ナツが芸能人なのも……父さん分かってると思う」
 少なくとも十年くらいは芸能人の母と一緒にいたし、恐ろしく頭の回転が早い人だ。本当にナツを危ない人だと思っていたら、その場で朔良がナツと帰るのを止めていただろう。父親のことが苦手でも、その程度の信頼はしていた。
(いや、信頼、じゃないな。信頼はしていない。理解とか、把握?)
 手放しに信頼できるほど長い時間を、父と一緒に過ごしていない。朔良が父に抱いていた心は、ずっと不信感だった。そのせいで、今日まで誤解を続けていたのだから。
 朔良は自分が、崎田が母親と不倫して出来た子供だと思っていた。
「朔良、えっと」
「だからね、僕、パパ活とか絶対してないから!」
 さっきとは逆の体勢で、今はナツが自分の体の下にいる。ナツは可哀想なくらい動揺してた。
「ご、ごめん、ごめんなさい! 朔良、俺、一人で暴走して、酷いこと言った」
「ううん。僕も、はっきり父さんと会ってくるって言えば良かった。……色々思うところがあって、昼間は余裕がなくて」
「何か……あったの?」
 心配そうなナツの表情に、心のなかの重石がふっと軽くなる。もっと、ナツと話したいと思った。まだ、彼のことを何も知らない。
「……うん。仕事中なのに、個人的なことでナツに心配かけて、こっちこそ……ごめんなさい」
「俺、てっきり、朔良に飽きられたんだとばかり」
「それだけは、絶対ないよ。どれだけ長い間、僕がナツのファンだったと思ってるの? ガチオタだよ」
「絶対……ない?」
「絶対!」
 さっきまで不安な顔をしていたナツは、目に涙を浮かべて、目をキラキラさせている。
「ナツ、あのね、僕の話、聞いてくれる?」
 ナツは朔良に向けて手を伸ばし、床の上で、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「そういえば、俺たち付き合ったばかりだったね。……俺も、もっと、朔良と話したい」
 ナツは目を細め、ねだるように少し唇を尖らせた。その愛らしさに胸がきゅんとなる。
 お互い磁石で吸い寄せられるよう近づき額がこつりと当たった。
「朔良、ちゅーする?」
「……うん」
 微笑み合ったあと、玄関先で長いキスをしていた。
 *

 ナツにバスルームに連れていかれて、一緒にお風呂に入ることになった。
 初めて話してから四年経っているといっても、まだお互いのことを全然知らない。
(だから、裸の付き合いで、もっと仲良くなる……って)
 恋人同士になったのだし、一緒にお風呂に入ってもおかしくはない。けれど、お互いの髪や体を洗い合ったりしていると、どうしても、アイドルとイケナイことをしている気分になる。
「ねぇ、朔良、どうして、こっち見てくれないの?」
「だって、恥ずかしい、し」
 湯船は二人で入っても十分の広さだが、ナツは朔良にぴったりとくっついてくる。
 一緒にお風呂に入るよりも恥ずかしいことをしているし、さっきだって玄関先で何度もキスをした。朔良はナツの顔にも体にも、この先慣れることなんてないと思っている。
 このまま隣にいたら、一生ドキドキしているから朔良の方が先に死んじゃうだろう。
 風呂のオレンジ色の灯りの下、あますことなくナツの裸体が晒されている。その美しい身体から逃げるように距離を取り、壁を向いて座りなおしたら、じりじりと距離を詰められて、背後から、ぎゅっと抱きしめられた。
「さーくら……」
 ナツの手がお腹に回って、下腹に触れた。すぐに緩く反応してしまって情けない気持ちになる。
「ッ……ぁ、ぅ、ごめん、なさい、だらしない体で」
「あー玄関で、中途半端に触ったからなぁ、ね、ここでさっきの続きシよっか」
「だ、ダメ、です。は、話……したい、し。あと少ししたら、多分落ち着く、し」
「じゃあ、話のあとで、ね」
 ニコッと悪意のない笑みを向けられた。
「あっ、あとで、って」
「俺、お風呂でコミュニケーションするのも、大事だと思うよ」
「ッ、ぅうう」
 体が離れるとき耳朶に音を立ててキスされて、また体が火照りそうになる。
 並んで湯船に浸かり、しばらくして、やっと人心地がついた。
(やっぱり、綺麗な顔だよなぁ。国宝級だもん)
 温まってほんのりと色づいているナツの頬とシャンプーして濡れた髪。
 あまり見ていると、また勃ってしまいそうだった。
「さっき俺、恋人のお父さんをパパ活している男を見るような目で見てしまった。どうしよう」
「全然気にしてないと思う。あの人、基本、無神経だし。そう思われても自業自得だよ」
 ナツは両手で湯船の湯を掬い、顔を覆った。
「俺は気にするよ。恋人のお父さんだよ? 近い将来、挨拶に行かないとだし」
「え」
「えって、なぁに? 俺が挨拶に行ったら、ダメかな? もちろん、すぐにじゃないよ。いつか、朔良が自分のこと周りに伝えても大丈夫になったら、ね」
 ナツの言葉に少し驚いていた。自分はクローゼットゲイだし、好きになったその先のことなんて考えていなかった。でもナツは自分との未来を考えてくれている。
 ナツとのお付き合いをいい加減に考えていた訳じゃない。ただ、長年当たり前のように思っていた、人とは違う、どうせ知ったところで受け入れてもらえないって意識は、すぐには変えられそうになかった。
(けど……理解されなくても、受け入れてもらえる人もいるんだな)
 父は崎田のことを嫌いだけど友達だと言っていた。嫌いと思うようなった事情は知らないけれど、嫌いでもゲイの崎田を理解はしているようだった。
 思えば、いつも朔良は端から諦めて自分を隠してばかりだった。
 ナツに気持ちを知られてしまったときは、ショックで身を引き裂かれるほど怖かった。けれどナツは、そんな臆病な自分や、傷ついた気持ちごと受けいれてくれた。
 ――だから、ナツのこと、特別、好きになったんだろうな。
 朔良にとっての普通を、当たり前のように思って寄り添ってくれた人だから。
「朔良、俺は、サクラの気持ちが一番大事だからね」
「嬉しいです。でもさ、そもそも、あの人、もう関係ない人だしなぁ」
「俺、遠くから見てたけど、関係ないって顔じゃなかったよ。朔良、本当は、好きなんじゃない? パパのこと」
「僕、あの人のこと、一度も、パパなんて呼んだことない」
「ふーん、そ。素直じゃないなぁ」
 ナツは、くすくす笑いながら隣の朔良を探るように見た。
「両親が離婚したの、小学校の頃だったし。仲悪いのは仕方ないんだよ。多分一生こうだと思う」
「いつか仲良くできるといいね」
 朔良は多分無理だろうなぁと思いながら小さく息を吐いた。
「ナツ、聞いて欲しかったのはね。うちの母さん、アイドルだったって言ったでしょ」
「うん」
「SNN5のミカって分かる? ……その人が僕の母さんで」
「えーすごいね。伝説の人じゃんアイドルのあと女優もしてなかった?」
「うん、それでね。『ミカ』って、一度落ち目になって引退してたんだけど」
「あーESKプロダクションに入ったのって、確か一回目、アイドル辞めた後だったかな」
「そう。その復活劇に絡んでたのが、今日、ナツの写真撮ってた、羽鳥カメラマンっていうのを、僕、昼に知って」
「えー、それなんか運命じゃない? 縁が繋がってるっていうか」
 ナツの雑誌の撮影に羽鳥が呼ばれたのは、運命じゃなくて、ナツのアイドルとしての成功を目論んだ必然だ。
 ここへ朔良がいるのだって水谷プロデューサーの計画の一つに過ぎない。
「僕さ、今日の撮影中、ナツ見てて。すごく……怖くなったんだ」
「え、怖い? なんか変な写真あった? 心霊写真とか」
「そうじゃなくて、幽霊写ってたら、それはそれで話題になって雑誌売れそうだけど」
「そーだね」
「あのね、僕の生活が一変したの、羽鳥さんの写真が、きっかけだから、それで……」
 心霊写真みたいな怖さは、朔良にとっては少しも怖いものじゃない。朔良が一番怖いのは、現実世界だ。
 自分だけが何も知らずに、取り残されていく心細さ。
 件の写真で母は芸能界で再び売れ、家に帰らなくなった。父も母と同じように仕事に楽しみを見つけ没頭するようになった。家族の気持ちがバラバラになって、朔良は家で一人になってしまった。
 昔と同じように朔良は、また羽鳥の写真が原因で一人取り残されるんじゃないかと思った。
 もう大人になったのに、子供の頃の傷は心に残り続けている。
「――そっか、じゃあ。朔良は、俺が羽鳥さんに写真撮られているの見て、寂しくなっちゃったんだ」
「だ、だって……今日のナツ、かっこ良かったんだもん。なんか、遠くに行っちゃいそうで……自分何もないやって、なんか無力さに打ちひしがれてたの」
「えー可愛いなぁ! よしよし。朔良はお芝居上手じゃん、昨日、すごいかっこ良かったし」
「そうかなぁ」
「うん」
 ナツが朔良に近づいたことで、お湯が大きく波打つ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、濡れてぺしゃんこになっている頭を撫でられた。
「なんか、小さな子供みたいで、恥ずかしいなぁ……でもさ、あの写真が掘り起こされなかったら、母さんはアイドルのあと女優なんてしなかった。坂野上さんも、羽鳥カメラマンって人を写す天才だって言ってたしナツも……って、ナツ?」
 急に静かになった隣を見ると、ナツはにこにこと砂糖菓子を溶かしたような甘さで微笑んでいた。
「それで、俺が朔良置いていくと思ったの? ――大丈夫、俺はどこにも行かないよ」
「っ、う、だからぁ……あぁ、もう。言葉にすると恥ずかしいな」
「全然、恥ずかしくないよ朔良。俺も、急に一人になったときの寂しさってよく知ってるから」
 ナツは濡れた前髪を両手でかきあげた。
「一人でいる寂しさもあるけど、俺は周りに人が沢山いるほど自分との差を感じて寂しい気持ちになるよ。芸能界なんて本当、嘘ばかりだし、空っぽの人形になったみたいに感じる」
「人形?」
「そ、言われた通りに動くお人形さん。最初の頃なんて、その周りの甘い嘘に気づかないで真に受けて、素直に喜んで調子に乗って」
 恥ずかしいなぁと言って、ナツはお湯に顔をつけた。
「調子に乗ってたの?」
「うん、乗ってた。歌もダンスも人一倍努力してるって思ってた。でも、今思えば全然足りていなかったし、上には上がいるからさ……顔だけで売れて、調子に乗ってる奴って言われて当然。そんな周りの声に傷ついて寂しいとか感じてる時点でプロ失格だ」
「それは、調子に乗るのとは、違うんじゃないかな。ナツは求められて、この場所にいるんだし、何言われても堂々としてたらいいと思う」
「朔良は、優しいね」
 ナツは浴室の天井を仰ぎ見た。
「僕さ……ナツは、今日の写真で売れると思うよ。すごく、いい表情で撮れてて」
「そ? だったら嬉しいなぁ」
「……嬉しい?」
「うん。自分じゃ全然アイドル向いていないって思うけど。今日は、朔良に喜んで欲しくて頑張ったし、だったら今日の仕事は百点だなぁ」
 嬉しいのに喜べない、複雑な気持ちだった。
 水谷が考える通り、このままナツがアイドルとして売れるのが正しいのだろうか。同時に罪悪感があった。ナツは朔良と出会わなければ、自分の手で見つけた本当の夢に向かって迷わず歩めたかもしれない。朔良の存在がナツの邪魔をしている。
「ね、朔良、そろそろ、続きしよっか」
「え、こ、ここで」
 朔良が後ろに下がって湯面が大きく揺れる。頭の横に手をつかれて逃げ場がない。
「いいじゃん、寂しいときは、えっちしたら吹っ飛ぶらしいから。朔良の不安もなくなるんじゃない」
 濡れた髪をかき上げて、ナツはにっ、と笑った。
「それ、怖い系のやつじゃん」
「どっちでも、いいよ。朔良。ね、キスしよ」
「んっ……」

 お風呂のお湯のせいだけじゃない。ナツのくれる熱で頭が真っ白になった。


 ■


 朔良が代理マネージャーの仕事に慣れてきた頃だった。
 テレビ局で、お昼の情報系バラエティ番組の収録が終わったあと、朔良はナツと共にESKプロダクションに呼び出された。
 自分たちを事務所へ呼んだのは、三上という女性だ。
(そういえば僕、まだ、ちゃんと三上さんに挨拶してなかったなぁ)
 三上はASKETの正式なマネージャーで、朔良は、この仕事を始めて数週間経った今日まで、彼女とメール上でしか関わっていない。
 社会人経験のない朔良が滞りなく仕事ができているのは、彼女の助けがあるからだ。ASKETのメンバー全員のスケジュールを管理して、さらに右も左もわからない朔良へ適切に指示ができる。言うまでもなく、仕事のできる女性だろう。
 彼女の顔を初めて見たのは、件の葬儀で車に乗せてもらったときだ。黒髪を後ろに一つ結びにして、フォックス型のメガネをかけている。アイドルのマネージャーというよりは、敏腕弁護士のようなオーラを放っている。
 待ち合わせのESKプロダクションの地下駐車場へ着くと、そこには三上とASKETのメンバー、ケイとエディが待っていた。
「あっ、あの、お疲れ様です。ご挨拶が遅れました。僕」
「別に、いいわ。水谷くんから君の事情は聞いてるし。時間ないのよ、早く車乗って」
「あ……はい」
 朔良が自己紹介をしようとしたら、三上は目を細めて朔良を一瞥したあと、早々と社用車の運転席に乗り込んだ。自分が運転します、と伝える隙もなかった。
 あっという間のことで朔良がその場で戸惑っていると、近くに立っていたエディとケイが駆け寄ってきて肩を叩いた。
「三上ちゃん、いつもあんな感じだから、怒ってないし大丈夫だよ。デレが少ないツンデレなの」
「そうそう、エディの言う通り、無愛想だけど、仕事は完璧だから、安心して!」
「は、はぁ……」
 ナツから、自分はASKETで末っ子ポジションだと聞いていたが、二人はタイプは違うけど、お兄ちゃんを絵に描いたような二人だ。
 今、バラエティ番組に引っ張りだこのエディとケイ。二人ともメインで冠番組を複数持っている。垂れ目の優しそうな方が、エディ。人懐こくテンションが高い方がケイだ。ステージで見た印象通りの二人だった。
(やっぱ、オフでも仲良いんだなぁ。ステージで見るのと一緒)
 いつも二人は漫才師のコンビのように小突きあっている。
「朔良、時間ないみたいだから、車乗ってから話しようか。でないと、三上さんに怒られちゃう」
 運転席の方を見ると、ギリっとこちらを睨んでいる三上の顔が見えた。
 ナツに手を引かれ、朔良はいそいそと車に乗り込んだ。二列目にエディとケイ。三列目が朔良とナツだ。
 メンバーが集合したのは、ASKETの中でドラマや舞台方面で活躍しているトキの舞台を観劇するためだった。
 後々ネットニュースに載せたいというスポンサーからの依頼で、要は話題作りのお仕事だ。三上がいるので、この仕事に朔良の参加は必要ないのだが、演劇が好きな朔良のためにナツが三上に頼んでくれたらしい。
 人気の舞台の初日で、S劇場の客席のチケットは完売だった。
 前方ブロックと後方ブロックの間、通路が近い席に一際眩しい空間がある。いわゆる関係者席だ。舞台全体が見渡せる良席だろう。朔良自身、何回もこの劇場に来たことがあるが、人気の舞台だとチケットは戦争で、良い席で見ようとすると、お金より運が大事だったりする。
(……もしかして、三上さん機嫌悪いの、僕が分不相応に関係者席に入り込んだから、とか)
 三上の機嫌の悪さに戸惑いながらも、その居た堪れなさが吹き飛ぶくらいに朔良は興奮していた。叶うなら、もう一度見たいと思っていた舞台の再演。人気の役者が揃い踏みで、朔良が端からチケットを諦めていた舞台だったから。
「朔良、お節介だった、かな。どちらにしても、関係者席のチケット余ってたし」
「ううん! 嬉しいありがとうナツ、僕、この舞台の初演を見てて、もう一度みたいと思ってたから」
「へぇ、前は、どうだったの?」
 隣の客席でナツは、朔良の喜びように満足しているような笑みを浮かべていた。
「ほんと、すごい舞台で……あの頃は、それほどチケット取るのが難しくなかったから、僕、何回も見に行って。毎回、違う演出があったんですよ。舞台は生き物って言葉では知っていたけど、この役たちは四角い箱の中で、ちゃんと生きているんだって……そう思って。すごく、憧れたなぁ」
「どんな話?」
「ジャンルは、スパイ物かなぁ。人気コミックが元になってて」
 千秋楽で朔良は、裏切りによって殺されてしまう先輩役に感情移入し過ぎて、涙が止まらなかった。いつまでも鳴り止まない拍手。終わってからも放心状態で、しばらく席から立ち上がれなかったのをよく覚えている。
「けどトキは、よくこの仕事受けたなぁ。前回の大成功があるから、プレッシャーすごいだろうし。けど俳優としてもいい経験になるからって。すごく頑張ってる」
 ナツは隣の席でパンフレットをめくっていた。
「主演の二人が交代して、先輩役が俳優の『柳理玖』さん。ドラマの方で、いま引っ張りだこですよね。トキさんと同じで」
 大成功をおさめた舞台の再演が決まったとき、メインキャストの後輩役の役者が中々決まらなかったそうだ。ASKETのトキが抜擢されたのは、制作中止のデッドラインギリギリだったらしい。
 きっとプレッシャーもあるだろうし、ドラマと舞台は同じ演技の仕事でも違う部分も多く、稽古も大変だっただろう。
 そういえば、大学の演劇サークルで練習を見ていた二人は、あの後どうなっただろうか。演技が小さく客席まで届かないことが課題になっていた。例年通りなら公演日はそろそろだ。
 そう思い出したところで、客席の照明が落ち幕が上がった。

 *

 目的のために嘘を吐き続け、唯一心を許している相手にも真実を伝えず逝ってしまう。――そんな最後まで自分の意思を貫く男。この舞台の初演を見たときの朔良は、そんなキャラクターを演じた『岬圭一』の演技に心が震えた。
 現実世界を思い通りにできる芝居。そんな幻想に魅了された。
 彼の圧倒的な演技力は朔良の希望だったと思う。生まれた環境を生かせず燻っていた朔良は、今と違う世界に憧れていた。
 多分、それが朔良の役者の世界への入り口だったように思う。
(ずっと……あの演技が理想だった)
 けれど、なぜか今日は先輩役ではなく、トキの演じている残された男の苦悩にばかり心を揺らされている。
 嘘を吐き通し、幸せに逝った男。嘘を吐かれて、残された男。
 どちらにも正義があり、理想があり、誰も悪くない。
 でもそれは、これが、お芝居だからだ。現実は絵に描いた通りにはならない。
 ナツと付き合ってから、朔良は幸せの中でも罪悪感があった。
 ナツに、まだ伝えていないことがある。
 水谷の仕事で、ここにいること。
 その仕事の成功の見返りに憧れの劇団へ入れること。
 全て話して楽になりたい、自分の軽率で浅はかだった部分と向き合いたい。
 けれど話した瞬間がナツとのお別れのときだ。
(だって、絶対……許せないと思う)
 墓場まで持っていく嘘、人の幸せのために貫き通す嘘。
 それはナツと出会う前、朔良が良しとしていた理想の世界だ。サクラの仕事で、誰かを幸せにしていると思っていた。実際、演技で誰かを救えていたかもしれないが、もう出会うことのない人たちだから、彼らの未来を朔良は知らない。
 けれど、ナツはこれから先も一緒にいる。知らない誰かじゃない。
 自分も登場人物の一人だ。
 ナツを本気で幸せにしたいと願うなら、過去に憧れた役と同じように、最後まで、嘘を貫くべきだろう。
 朔良はナツが好きだ。アイドルのナツじゃない、里村夏生も好き。
 愛した人だから、嘘をつきたくない。彼の前では、誰よりも誠実な自分でいたい。
 ナツの前で、偽りない自分でいたいと思うのに、どうしても、あと少し、あと少しだけと欲が出る。
 そんな自分を叱るように、嘘を吐いたまま逝く「彼」の演技が、朔良に届いた。
『バイバイ、君は、君だけは、幸せになってね』
 覚悟と共に彼は、さよならを告げた。
 本当の自分で、ナツの隣に居られない限り、朔良は――。
 朔良は、何が目的で、なんのために、この場所へ来たのか。

 ――役者になりたい。
 それだけだった。

 *

 公演が終わり、ASKETのメンバーはトキの楽屋に向かった。バックステージは関係者が絶えず行き交っている。舞台は初日なので明日からも公演が続く。熱気は途切れることなく雰囲気は忙しない。
 エディとケイが前を歩き、その後ろをナツと朔良が並んで歩いている。
 舞台が終わってから朔良は、ずっと気分が落ち着かず、まとまらない思考の海の中にいた。
「ナツ、ちょっと。監督の酒井さんが話したいって、一緒に来て」
 メンバーたちから、少し離れていた三上は、この舞台の監督をしている酒井と話をしていたらしい。
「え、俺? 何だろう。朔良、行こっか」
「ぁ、はい」
「あー花本さんは、いいわ。エディたちと、トキの楽屋へ先に行っててくれる? あとで合流するから」
 ナツのマネージャーは代理とはいえ朔良だ。朔良に聞かれて、まずい話でもあるのだろうか。結局、朔良は、三上に言われるまま、エディたちと、その場にとどまった。
 そもそも、三上は水谷からどこまで朔良の話を聞いているのだろう。
 ――ナツに芸能人としてやる気を出させる。その見返りに、劇団へ入れるように話をする。
(相手がナツだなんて、知らなかった、だから……)
 こんな条件、受けなければ良かった。今更、後悔しても遅い。
 母親が、この仕事を止めた理由を、やっと理解した。仕事の見返りで入団できたとして、その後、自分は胸を張って舞台に立てるだろうか。どんなに努力したとしても、後ろめたい気持ちは無くならない。
 全部、全部最初からやり直したい。
 ナツと三上が、その場を離れて廊下の先で姿が見えなくなると、前に居たエディとケイが顔を見合わせて朔良を振り返る。
「行ったな、よし。花本さん、ちょっと走ってくれる?」
「えっ」
「いいから! エディ、二人戻ってくるまで時間どれくらいだと思う?」
 そう言って二人は、朔良の手を掴み前を走り出す。
「あー多分、次の舞台の話だろうから、小一時間はかかるはず。でも時間欲しいから急いで」
 訳もわからないまま、二人に手を引かれ連れて来られたのは、トキの楽屋だった。
 部屋の奥の鏡の前には、既に衣装から私服に着替え終わったトキが座っていた。エディやケイと比べると細身で小柄なトキは、あらかじめ二人が来るのを知っていて、到着を待っていたようだった。
 賑やかな二人とは対照的に、真面目でクールな印象は、ステージで見る姿と変わらない。
 急いで連れて来られた理由が分からず、朔良が戸惑っていると、正面で足を組んで座っているトキが口を開いた。
「時間がないから単刀直入に。花本さん、水谷プロデューサーと裏で何かやってるでしょう」
「え……あの」
「あの人さ、お金使えば、どうにでもなると思ってるところあるからさぁ。なぁ、ケイ」
 エディの隣に立っていたケイが頷いた。
「うん。別に悪い人じゃないんだけど、昔からやり口が強引っていうかさぁ。今、アサトが休みで、なりふり構っていられない状況は理解できるけど、それでもね。僕たちには、ナツを守る義務があるから、グループの大事な仲間として」
 ASKETのメンバーに、朔良は探るような視線を向けられる。
「あの、僕は」
「花本さんが、水谷さんが連れてきたナツの代理マネなのは僕も、エディとケイも知ってる。けど、やっぱり変だと思って。ナツが辛い思いをしないなら別にいい。でも、そうじゃないなら……」
 トキに促されて、朔良は口を開いた。
「――僕は、ずっとナツのファンで……水谷さんは、それを知って、僕を代理マネージャーにした」
 夢の終わりは、ここでいいと思った。十分幸せだったから。ナツには、こんなに心配してくれるメンバーがいる。朔良がいなくても、大丈夫だと思えた。
「どうして? 理由は?」
「その……ナツは、アイドルを辞めるつもりなんです。けど水谷さんは、ナツに仕事を続けて欲しくて。僕みたいな、熱狂的なファンが身近にいたら、ナツが仕事やる気になるからって、それで」
「なるほど。それで、か。最近ナツに仕事がたくさん入るようになったのは。ほんと可愛いというか、ナツも単純だよね」
 トキはそう言って考えるような仕草をした。
「やっぱり、ナっちゃん、もう芸能界辞めるって心決まってたんだ。水臭いなぁ、困ってるなら相談してくれたらいいのに」
「ほんと、ナツは周りのことばっかりだねぇ、単純というか流されやすいというか」
 エディとケイが顔を見合わせて頷き合っている。
 朔良もナツのそんな性格に気づいていたから、彼が自分の望んだ道を選べないのではないかと危惧していた。
 ナツはメンバーとは、ビジネスライクな付き合いで線引きされて寂しいと言っていた。けれど何年も一緒に活動してきた仲間だ。やっぱりお互いのことをよく分かっていた。
「僕が、水谷プロデューサーが何か企んでるって知ったのは、ナツのマンションに連れて来られてからで、そもそも、ナツと一緒に住むって話も知らなかった」
「で、水谷Pが企んでるって知って、まだナツの隣にいるのは、なぜ? 水谷さんの企みに加担してるから? もしかしてナツが芸能人続けることで、花本さんに見返りでもあるの?」
 トキに尋ねられ、朔良の肩がびくりと跳ねた。
「見返りは……確かにありました。もし、ナツが芸能人を続けてくれたら、自分の夢が叶う」
「ほんと、やり口がきたないね。人の欲につけこんで、あの人は」
 トキは呆れたように息を吐いた。
「でも僕は、もう、それ要らなくなっちゃって。ナツには自分の夢を叶えて欲しいし、僕も、もっと欲しい物ができたから。だから早くこの仕事やめないといけないって、ちゃんと分かってて」
 ナツと一緒に暮らせて、恋人同士になって。キスをして。なんの取り柄もない、ただの、いちファンだった自分をナツは本気で愛してくれた。
 これ以上の幸せはない。
 劇団へ入るって話も、誰かに世話されて入っても嬉しいと思えない。
 それに気づいた。
 ナツの隣にいて、恥ずかしくない自分になりたい。たとえ幻滅されて、嫌われても。
 ナツが認めてくれた役者の才能を信じたい。
 メンバーがナツの近くにいて守ってくれるなら、自分なんていなくても大丈夫だと思った。
「――僕、本物の役者になりたいんです。ずっと、サクラのバイトで、裏で役者の仕事をしてました。だから今まで嘘を吐いても、罪悪感なんてなくて。人を救うための嘘なら平気だって。でも、もう終わりにします」
 一筋の涙が頬を伝った。それを袖で拭った。
「だから、皆さん心配しなくても大丈夫ですよ。ナツのことは、絶対、僕が守りますから。だから、この話はナツに秘密にしてください」
 朔良はメンバーたちに頭を下げると、先に帰ることを伝え、ナツのマンションに戻った。ボストンバッグに少ない荷物入れる。
 まだ幕は降りていない。朔良は、今から演技をするのだから、ナツのために。
「ごめんね、ナツ。短い間だったけど、楽しかった。――わがままでごめん。けど、この役だけは、最後まで演じてみせる」
 現実世界での演技は、これが最後だ。




 思えば朔良は、いつも演技をしているときの方が、普段の自分より自由だと感じていた。
 なりたい自分になれる。それが演技の世界だった。
 ままならない現実から逃げるために、演劇やサクラのバイトに明け暮れていた。
 けれど、今からするのは逃げるための演技じゃない。
 戦うためだ。
 ナツのためなら、何でもできると思った。

 翌日、朔良は水谷に連絡して会う時間を作ってもらった。
 朔良が仕事を投げ出しナツのマンションから出ているのは、既に三上を通して伝わっているはずだ。
 三上は朔良を叱ったりはしなかった。不義理の謝罪もしたが「あぁ、そう」と返事はあっさりしたものだった。突然連絡もなしに消える人間の方が多いので、電話してくるだけマシだそうだ。一ヶ月ほど前、水谷にナツの部屋に連れてこられて代理マネージャーになったが、事務的なやり取りは全て三上がやっていた。
 朔良が想像している以上に、三上は仕事で苦労しているのかもしれない。
 約束した午後にESKプロダクションの前に着くと、以前と同じ光景が広がっていた。再び灰色の巨大ビルから得体の知れないプレッシャーを感じている。
(本当、悪の根城だよね……)
 外は五月晴れなのに、ビルの反対側に太陽があるせいか、周囲は影になっている。
 気合を入れて整髪料をつけた髪は、ビル風に煽られ早々に崩れた。数時間後の自分の姿が頭をよぎり、髪を撫でつけて気合を入れ直した。気温が高く灰色のスーツのジャケットが蒸し暑く感じたが、ビルに入ったあとも脱ぐ気がしなかった。脱いでしまうと気が抜けて、この戦いに負けてしまいそうだったから。
 受付に要件を伝えて向かったのは、以前と同じ応接室。
 水谷に見せたい偽りの自分があった。廊下を歩きながら、その役柄を頭の中でイメージする。折衝で絶対に負けない人間になりたい。一番に浮かんだのが、父の姿で腹立たしかった。
 父は演技しているときの朔良が、自分に似ていると言っていた。その話を信じるわけじゃないけど、本当にそうなら負ける気がしなかった。
 応接室には朔良より先に水谷が到着していた。
 ビジネスマンとして隙がないのは、父と同じなのに身にまとっている空気が違う。水谷は全身が炎のような男だ。風で吹き飛ばすのが父なら、炎で焼き尽くすのが目の前の男だ。
 扉を開けて入ってきた朔良を見るなり、水谷はくわえタバコのまま片手を上げて挨拶した。
「よぉ、それで? 何で仕事投げ出したの。……まぁ、もう別に花本くんの仕事は終わりでもいいんだけどさ。俺が言ったことは達成しているし」
 すぐに本題に入ってくれて助かった。朔良は部屋の中に進むと、奥のソファーに座っている水谷の対角線上に立った。
「その件ですが、きちんとお話したくて、僕は」
「俺が言った通りに花本くんは演技出来てたんだろう?」
 朔良の言葉を遮るように水谷は話を続けた。
「雑誌の写真は好評で、今SNSでも話題になっている。顔だけのアイドルなんて言われたのにさぁ、人間味が出てきたっていうか。――君のお母さんと一緒だね。さすが羽鳥カメラマンだ、そのうち人間国宝とかになるんじゃないの」
「水谷さん、羽鳥さんの写真の件も含めて、最初から僕を使う気だったんですよね」
 朔良の指摘に水谷はニヤリと歯を見せて笑った。
「そ、お察しの通り。いやぁ俺の描いたシナリオ通りに進んで良かったよ。嫌がっていた仕事もナツは進んでやってるし。花本くんの仕事は百点だね、完璧。ありがとうね報酬を上乗せしてもいいくらいだ」
 水谷は朔良の仕事の出来を讃えるように手を叩いた。
「僕、水谷さんに、お願いがあってきました」
「お願い? 劇団に口を利く件なら、心配しなくても」
「いえ、劇団の件じゃなくて」
「じゃあ何、金か? 実家金持ちなのに、きっちりしてるねぇ、いくらだよ」
「違います」
 水谷に訝しげな目で見つめられる。すっ、と水谷が息を吸う音が聞こえた気がした。この空気を朔良はよく知っている。父も自分に有利な立場で話を進めようとするとき、一瞬だけこんな空気を漂わせる。
 勝ちを意識したときにする、あの、いやらしい父の顔が朔良は大嫌いだった。あの男の場合は好意と悪戯心が根底にあるが、水谷はこのあと会話で朔良を煙に巻くつもりだろう。
「劇団の話を、なかったことにしてください」
「はぁ、何で? じゃあ、何のために花本くんは、この一ヶ月頑張ったんだよ」
 朔良の報酬辞退の申し出は、水谷にとって意外なものだったらしい。水谷は朔良を馬鹿にするように大袈裟に手を広げて見せた。
「僕は、ナツの前で一度も演技が出来なかった。だから、役者として報酬をもらう立場にない」
「ん、どういうこと。ま、聞くから、続けてよ」
「こんな依頼は演技じゃないです。誰かの思惑に合わせて、必要なコマを連れてきて置いただけだ。役者は人形じゃない」
 朔良の吐き出すような訴えは、水谷に届いていないようだった。水谷は少しも表情を変えない。
「若いねぇ、それで役者としてのプライドが傷つけられちゃったの? 何甘えたこと言ってんだよ」
 水谷の凄む声に心を揺らさないように、朔良は必死にその場に立ち続けた。
「芸能界って、元々そういうところだよ。いや、別にこの業界だけの話じゃない。企業で働く行為そのものが、そう。適材適所。誰かに使われるのが嫌なら、一人で会社起こすしかないよね」
 水谷はタバコの火を灰皿で消すと膝の上で手を組み、朔良を値踏みするように見上げる。
「俺にいいように使われていたことが気に入らない、君が言いたいことは、それだけだよ。でもさ、その件に関して、俺は花本くんの頑張りに見合う報酬を用意しただろう。文句を言われる筋合いはない」
「僕は、ナツのファンだから、ナツの一番の夢を応援したい。彼が望んでいない未来に協力はしたくない。それだけです」
「――夢ねぇ。それって、大事?」
「大事ですよ」
「長く生きたおっさんからしたら、そんなもん結果論だよ。辿り着いた場所で、幸せならそれが夢でいいんだ。現に、今ナツは楽しそうにお仕事しているだろ? ファンだって増えて、より大衆から求められている。アイドルとしての成功が夢になったからじゃないの?」
「夢は、自分で選んで掴むものじゃないですか」
「青いなぁ、まぁ、そういうの可愛いけどね」
 水谷は目を細めて、にこりと毒のある笑みを浮かべた。
「おねがいです。ナツが望む形で芸能界を引退できるようにしてください」
 そう言って、なりふり構わずに頭を下げた。すると朔良の頭の上から大きなため息が聞こえてきた。
「ASKETの事務所移籍の話がある」
「……移籍」
「もちろん、すぐにじゃない。そういう計画がある。まぁESKもいいんだけど、彼らの名前を看板にして会社を作りたい、と考えている人たちがいる。俺も、それに噛んでるのよ。今回、ナツに個人で仕事頑張って貰った件も、それが理由だ」
「そういうの勝手に進めたら、ダメなんじゃないですか」
「勝手? ただのプロモーション戦略だろう。別に、嫌なら彼らがハンコついて契約しなければいいだけの話だ」
「そう、かもしれないですけど」
「俺らの仕事は商品を売ること。そして会社に利益をもたらすこと。夢を見て芸能界へ来たのは彼ら、彼女らだ。最終的に去ると決めるのも、そう。俺はASKETがまだ売れる商品だと思っているし、続けて欲しいと思っているから最善を尽す。何か会社員として俺、間違ったこと言ってる?」
 筋は通っている。
 水谷に間違いがあるとすれば、一つだけ。やり方、だ。
 ――朔良、お金で他人を思い通りにするなんて、ろくな人間じゃないよ。
 それは、脅迫で犯罪だから。
 水谷が「金か」と口にしてから、会話を録音しておいて良かった。この件が犯罪にあたらなくても、交渉材料にはなるから。
「水谷さんはナツに芸能人を続けさせるということですね」
「そうだね。彼に、価値がなくなるまで。それが俺の仕事だし」
「――ところで水谷さん、ここでの僕との会話、全部録音してますから」
 朔良はそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見せた。
「は、なんでよ」
「水谷さん。背任罪ってご存知ですよね。もしそれに当たらないとしても、ここで僕にした話、絶対コンプライアンス違反じゃないって言えますか?」
「あ、何だよ俺をゆする気か?」
「後ろ暗いことがないなら、僕がこれを使って、誰に何を言っても問題ないですよね」
「あ、そ。んーそれにしても花本くん。随分、親身になってナツの気持ち考えてるんだね。……あぁ、分かった。もしかして、ファンの一線越えた? 体でも使ったとか?」
 水谷に軽蔑するような声で言われた瞬間、硬直してしまった。唇が震えて、先の言葉が続かない。
「へぇ、そう、カマかけたんだけど、マジなんだ。ところでお母さんたちは、知ってるのかな、君がゲイって。――君が俺をゆするなら、俺にも手があるのをお忘れなく」
 ニヤリ、と笑われた。急に涙が溢れそうになり、手を握って爪を立てた。
 今まで誰にも男の人が好きだと打ち明けてこなかった。
 けど朔良は、ありのままの自分を受けいれてくれる人に、もう出会えたから、少しも怖くない。そう臆病な自分を騙して、鼓舞する。
 まだ演技をやめるわけにはいかない。幕はあがったままだから。
 朔良は顔を上げた。
「水谷さんには、僕感謝しているんですよ」
「はぁ? なんだよ急に、感謝ぁ?」
 水谷は間の抜けた声を上げる。朔良は、穏やかな笑顔を作って水谷に見せていた。イメージしたのは、ナツの笑顔だ。アイドルの彼はいつだって春の桜が舞うように穏やかに微笑んでいる。
 そんなステージ上の彼を思い出していた。
「だって、短い間だったけどナツと暮らせて楽しかったですから。推しと大学行って、学食でご飯食べたんですよ。あとスーパーで買い物したり。……知らなかったナツの素顔を知って、もっともっと好きになった。本当に夢みたいだった。――僕は、ナツが好きで、ナツを好きになったから、男の人が好きな自分を許せた」
「……ふーん」
「さすが、水谷さんは人に夢を与える会社で働いている人ですね。僕の夢を叶えてくれたんだから」
 にこりと笑ってみせる。
 これは演技だ。自分の秘密を知られるのは、怖いに決まっている。それでも誰よりも幸せになって欲しい、大好きな人がいるから。負けたくない。
「なんだよ面白くない。ゲイ隠すのやめたんだ。いじめがいがない。あー分かったよ、お前の要求のめばいいんだろう。ナツが辞めたいって言ってきたら話聞くし、希望通りに引退させる。これで、いいんだな」
「はい、ありがとうございます」
 水谷は朔良から顔を背けると再びタバコに火をつけ、窓の外を見た。
「……花本くんさ、演技できなかったって、してんじゃん。別に俺が口利かなくても、親のコネがなくても。花本くんなら希望の劇団どこでも受かんだろ」
 水谷は、そう言って手をひらひらと動かして朔良を部屋から追い出した。あと少し、あと少しで、この舞台の幕が下りる。そう、思った次の瞬間だった。
 扉を開けると、そこにはナツが立っていた。
「……朔良」
「ぁ、な、ナツ。なんで、ここに」
「水谷さんに話があるって呼ばれてたから」
 分かっていた。やっぱり、ナツの前でだけ、朔良は思うように演技ができない。




「ナツ、もしかして」
「うん……話、外で全部聞いてた」
 いつも春の日差しのように穏やかに笑っているナツが、眉間に皺を寄せ顔をこわばらせていた。ナツは嘘に塗れた芸能界で何度も傷ついてきた。表と裏の顔を便利に使い分け相手をいいように利用する、そんな彼らと朔良は同じことをしていた。軽蔑されて当然だ。
 朔良はその場で勢いよく頭を下げた。
「な、ナツ、ごめん、ごめんなさい。僕、嘘つきなんだ」
 涙が溢れてきて止まらなかった。ぽたぽたと灰色の絨毯の上に染みができていく。
 仕事の成功と引き換えに、劇団へ口を利いてもらう約束をしていたなど知られたくなかった。
「ずっと、本当のこと言えなくて。ナツの代理マネージャーになったのも、僕はっ」
 朔良が顔を上げた瞬間、ナツは朔良の口を手で塞ぎ、ゆっくりと首を横に振る。もう、これ以上聞きたくないと言われているみたいだった。
 後悔しても遅いし、傷つく資格なんてないと分かっている。それでも、世界一大好きな推しに軽蔑されて、この世から消えてしまいたかった。
「朔良、俺、怒ってるからね。でも、それは、嘘や隠し事をしていたからじゃないよ」
「え……」
「ちょっと、一緒に来てくれる?」
 勢いよくナツに手を握られ、朔良が戸惑っている間に再び応接室の中へ入っていく。
 水谷の前で見せていた朔良の強気の演技は、すでに崩れ、今は顔が涙でびしょびしょに濡れていた。
 ナツの手によって、楽屋裏の情けない顔が水谷の前に晒されてしまう。
 これが罰だとでも言われているみたいだった。
 ソファーに座っている水谷は、思案するような顔でタバコを吸っていた。朔良たちに気づいた水谷は鬱陶しそうに顔を上げる。
「あ、何だよ、いま俺、目の前の仕事で頭いっぱいなんだよ」
 顎を突き出し不遜な態度で顔を顰めた。部屋に入る前から分かっていたが、機嫌が悪い。ナツは朔良の手を握ったまま水谷の前に立った。
 ナツは水谷に少しも怯んでいないし、その表情には迷いがなかった。
「先に俺をここに呼び出したの、水谷さんでしょう」
「あーそうだな。お陰で話が一回で済んだだろ。俺と花本くんの話聞いたんなら」
 水谷に用があったのは朔良だった。理由は分からないが、水谷は最初から、この応接室にナツを呼んでいたらしい。
 訳が分からず朔良が戸惑っていると、ナツは眉を寄せ、困った顔で朔良の顔を見下ろした。そして朔良の泣き顔を水谷から隠すように胸元に抱きしめてきた。
「ぇ、あの、ナツ?」
「ん、朔良は、あとで話しようね。とりあえず、先に俺の問題を片付けるから」
 そう言ってナツは朔良を胸に抱いたまま、水谷に向き直る。
「あのなぁ、もう問題は片付いただろ。そこの花本くんのおかげで引退の件も纏まったんだし」
「色々言いたいことありますけど、一番言いたいのは、俺の彼氏を泣かさないでください」
 ナツの言い放った言葉に、水谷は眉をへの字にして、呆れたような声を上げた。
「……お前はなぁ、男と付き合う葛藤とか、少しは隠すとかしねーのかよ。それでもアイドルか」
「葛藤はないですね。言いふらす必要もないですけど、でも隠す必要もないでしょ」
「そうかよ。時代は変わったねぇ。アイドルとしては褒められねーけどな」
「はい。それについては、すみません」
 戸惑う朔良を置いてけぼりにして二人の話は目の前で進む。その間もナツは朔良の手を握ったまま、決して離そうとはしなかった。
「あと悪いことしちゃダメですよ。水谷さんはASKETのプロデューサーなんだから」
「してねぇよ! 少なくとも、まだ、法には触れてないからな」
「できれば、この先も法に触れるのは、やめて欲しいですけど。俺たちのグループのためにも」
「……この先は分からないな。お前が辞めるんじゃ、なりふり構ってられないし。つか、もう、お前には関係ない話だろ?」
「水谷さん、また、そんな悪ぶったこと言う。そんなんだから誤解されて会社で孤立するんですよ。って三上さんが言ってました」
 水谷はナツを脅すような口調だった。けれどナツは水谷の言葉を、少しも大ごとには捉えていないようだった。それどころか、ナツから水谷に対しては、どこか信頼みたいなものを感じる。
「三上も十年後には、出世して俺と同じになってるよ」
 ナツは朔良の頭の上で小さくため息をついた。
 考えてみればグループ立ち上げから一緒に仕事をしてきたのだ。ASKETのメンバーたちは水谷プロデューサーのことをよく理解しているのかもしれない。彼がどんな人間か、を。
「芸能界で働く人間は自然とこういう顔になんだよ。毎日お前らみたいな、鬼や悪魔と仕事してんだから当然だろう」
「水谷さんは元々怖い顔でしたよ」
「うるせー」
 水谷も昔は違う顔をしていたのだろうか。ナツは話を続けた。
「でも、水谷さんは、俺たちを売ることに熱心なだけのプロデューサーですよね。そこは信用しています」
 ナツの言葉を聞いた水谷は、それを鼻で笑った。けれど、その笑い方は決して嫌な感じではなかった。
「で、辞めるでいいんだろう。こっちも、やる気がない人間を売るために動きたくねぇし、慈善事業をやってる訳じゃないからな」
「いえ、よくないです」
 その言葉に驚いて目を見開いたのは朔良だけじゃなかった。水谷も同じ顔をしていた。アイドルを辞めて新しい夢を追いたいと最初に言ったのは、ナツだった。
 しかし思えば、ナツは、もう一つ言っていた。
 ――アイドルとして、俺に出来ることが全部終わったら、だけどね。
 タイミングを見て辞めるけれど、もう少し先の話だと。
 ナツのその言葉を朔良は周りに流されているからだと思っていた。
 けれど隣にいるナツの目に迷いはなく自信に満ちていた。他人に言われて嫌々続ける状況には見えない。
「はぁ? 何言ってんだよ。お前、アイドル辞めたいんだろ」
「朔良も水谷さんも、俺抜きで勝手に話を進めないでください。ちゃんとメンバーたちとも話し合って決めましたから」
「ナツ、あの」
 ナツは朔良を安心させるように微笑んだ。そして水谷に向けてまっすぐに決意を口にした。
「水谷さん。俺、アサトが帰ってくる場所をメンバーと作って待ちます」
 夢が一つじゃなきゃいけないなんて。誰が決めたんだろう。
 朔良は端から全部叶えるなんて、できないことだと思っていた。朔良自身、器用な人間じゃないし、大学卒業時に、一般企業に就職するか劇団か、そのどちらかしか選べないと考えていた。
 そして、結果どちらも選べずに全て失った。
 でもナツは違った。
 最初から諦めず、全て叶えるつもりだった。
「……言うのは簡単だけどな。人の心なんて分からねーだろ。アサトの先のことなんて」
「でも、水谷さんだって、アサトが芸能界に戻ってくるって信じているから、色々裏で動いてたんですよね。危ない橋渡って」
「――アイツは多分、本物だからな」
 水谷は朔良たちから視線を逸らし窓の外を見た。
「はい、俺も、そう思います。だって、メンバーの中で一番、ファンのことを考えて、一番、グループを愛しているから。それに誰よりも一番上を目指して頑張ってたアサトが、ここで全部投げ出すはずない。絶対帰ってきますよ」
 最前線にいるアイドルとしての自負、覚悟。仲間への信頼。
 マンションの部屋で朔良に甘えたことをいう恋人のナツも本当の彼だ。けれど、それと同時にナツは芸能人なんだとあたらめて思い知らされた。
「俺、夢には責任があるって思うんです。たとえそれが、人に勧められたから選んだものでも。その夢はちゃんと納得できる形で綺麗にして終わらせないと、きっと俺、後悔すると思うんです」
「ちょっと前は、アイドルなんて、もうどうでもいいみたいに言ってたじゃねーか、だから俺はなぁ」
 水谷は非難するような声を上げた。
「あの時は、そう思っていたのも事実だし。毎日毎日、どんなに頑張っても、所詮顔だけみたいに言われて落ち込まない人なんていないでしょ。――でもね、朔良に出会って、何も飾っていない自分でも愛してくれる人がいるんだって知って、なんか感動しちゃって、こんなに応援してくれる子がいるんだから、もっと頑張らないとって勇気づけられた」
「現金なやつだなぁ」
「切り替え早くないと、アイドルなんてやってられないよ。傷つくことの方が多いんだから」
「それで? 真実の愛を知って目覚めたなら、俺としてはこのまま落ちぶれるまでアイドルやってくれるとありがたいんだがなぁ」
 ナツはそれには首を横に振った。
「それは違うよ。一番の夢じゃなくなった時点で、俺は、もうここにいるべきじゃない。同じ方向を向いていないグループなんて遅かれ早かれ上手くいかなくなる。アサトが帰ってくる場所を守る。この場所での一番の夢が終わったら、俺はアイドルを引退する。そう決めています」
「変わったなぁ、前なら、すぐに俺にころっと騙されて流されてくれたのに」
「水谷さんが、朔良と出会わせてくれたからだよ」
 そこには名前の通り、夏の青空みたいな笑顔のナツが立っていた。
「あぁもう勝手にしろ。自分の思う通りの最高の引退の舞台を作りたいなら、せいぜいそれに向けて頑張るんだな」
「はい。そのつもりです。話はそれだけなので、仕事に戻りますね」
 朔良は惚けた顔をしたまま、ナツに手を引かれて廊下に出た。
「……朔良」
 応接室の扉が閉まると、ナツは朔良を呼んだ。
 何を言われるか、分からなくて。びくびくしていたら。握っていた手をそっと離された。
(……部屋に入る前、怒ってるって言ってたし)
 今度こそ怒られる覚悟を決めて顔を上げると、ナツは朔良の両肩に手を置いた。
「あのね、下の駐車場で三上さん待たせてるんだ。今から急いで撮影の仕事終わらせてくる」
「え、え? う、うん?」
「だからね、朔良、俺の部屋で待ってて、七時には帰るから」
 早口でそう言ったあと、手のひらの上に鍵を落とされた。そして、その手を握って朔良を引き寄せると、耳元で甘く囁かれる。
 言われたことの意味が理解できず、意識が飛んでいる間にナツは走って仕事に行ってしまった。
 ナツの体温の残った合鍵を朔良の手のひらに残して。

 *

 ――今日は、最後まで抱くからね。
 どんな理由があったとしても、推しのアイドルに迫られて断れるファンなんていない。
 言われた瞬間、大事なことが全部吹き飛んで、頭の中が「抱く」で埋め尽くされていた。
 こんな、ふわふわした頭のまま車に乗ったら事故を起こしそうで、ESKプロダクションに乗ってきた車は駐車場に置いてきてしまった。
 朔良がナツのマンションに着いたのは、午後三時頃。電車に乗って冷静になる時間を作ったのに、頭はずっと混乱したままで、戸惑いは時間と共に増すばかりだった。
「え……な、ナツの、最後までって、どこまで」
 合鍵を使って家主のいないマンションに入り、広いリビングを一人でぐるぐる歩き回っているうちに夕方になっていた。
 結局、朔良は言葉の通りの意味と解釈して、覚悟を決め、ふらふらと薬局に必要なものを買いに向かった。
 以前、車のなかで、エッチなことを勉強しておくと言っていた。ナツは、どこまで勉強したのか、どうやって勉強したのか。
 ナツと付き合うまで、散々ナツで人には言えない妄想をしていたのに、いざとなったら推しの綺麗なところしか想像できない。付き合ったその日に、キスをして、バニラセックスはしたし、一緒にお風呂だって入った。
 アイドルも生身の人間だと理解している。けれど最後の点と点が線で結ばれない。
 ――挿入(はい)るの? ナツのが、僕に!?
 薬局からマンションに帰ってきて、そのまま風呂に入って後ろの準備をした。そのための性具やジェルを見ていると、酷く汚く浅ましい気持ちになってくる。決して綺麗なだけじゃない。
 本当に、こんなことをナツが望んでいるのか、朔良に対して望んでくれるのか。進めているうちに不安になっていた。
 風呂に入ったのに、すっかり冷えた体で、家主のいないリビングに戻った。
 自分の荷物は既に自宅に持って帰ってしまったので、マンションに帰る途中、着替えの服は最寄りのコンビニで買った。ここまで着てきたスーツを再び着る気にはなれないし、ナツから服を借りるにしても、勝手にクローゼットを開けるのは気が引けた。
 買ってきた長めの白のTシャツだけを着て、リビングの中央に立ち尽くした。
 その時点で、ようやく頭が冷静になり今の状況を理解した。
 朔良はナツに嘘をついていた。
 けれど、ナツは、それに対して怒ってるわけじゃないと言っていた。
「……謝らないと」
 けれどナツが何に対して怒っているか分かっていないのに、理由が分からないことに謝罪するのは一番許されない。
 朔良はナツの私室の扉を開け中に入った。
 一緒に住んでいたのに、ナツの部屋に入ったのは初めてだった。普段一緒にいる時はリビングだったし、朝はちゃんと時間通りにナツは起きていたので、朔良が起こしに行くこともなかった。
(そういえば、まだ一緒にプレステしてなかった。誘ってくれたのに)
 アイドルの部屋というより、大学生の一人暮らしの部屋だ。机の上には調べ物をしたノートの束、筆記具や講義資料のプリントが載っている。奥にある本棚には朔良が使っていたのと同じ一般教養の英語の教科書、建築学の本と一緒に少年漫画が綺麗に並んでいた。
 部屋にはナツが教えてくれた趣味のゲームや漫画の本が当たり前のようにある。朔良が知っている彼の人柄が、そのまま部屋から伝わってきた。
 改めてナツは朔良に対して誠実で秘密がなかったんだと知った。
 全部、全部、大学一年生の、あの春の日からやり直したい。
 嘘なんて何もない綺麗な自分に戻りたいと思うのは、傲慢だ。今の朔良の全部が、嘘偽りない本当の自分だから。
「……ナツ」
 今すぐにナツに会いたい。そう、胸が締め付けられるような気持ちになった時だった。
 玄関の扉が開く音がして、目の前の机から顔をあげた。しばらくすると部屋のドアが開く。
「な、ナツ。あのね、僕っ」
 机の前に立っていた朔良のところまでナツは無言で歩いてきた。怒られる覚悟をして目をぎゅっと閉じた。
 その数秒後だった。くすりと笑う気配を感じて、唇に柔らかい感触が当たった。目を開けるまで、それがナツの唇だって気づいていなかった。
「ただいま、朔良」
「ぁ、お、おかえり、なさい」
 震える唇で、たどたどしい挨拶を返したあと、至近距離で見つめ合った。
「一緒に住んでるのに、ずっと朔良と一緒に行動してたから、おかえりって言ってもらうの新鮮」
「そ、そう、だね」
「なんか、いいね。お迎えがあるのって。幸せーって感じで」
 和やかに会話を進めているのに、次に何を言われるのか分からなくて朔良の心臓は、ばくばくしていた。目を細めたナツは朔良の肩に額を置く。
「え、なっ、ナツ? どうしたの?」
 そのままナツは朔良の首筋に唇を当て、すんと鼻を鳴らした。ナツの唇が首筋に触れた感触で一気に皮膚が粟立つ。
「ん、いい匂いだなぁって、お風呂入ってたの? 俺も一緒に入りたかったのに」
 耳元で甘えるような声で囁かされると、そのハチミツみたいにとろける声に、また全部吹き飛ばされそうになる。まだ何も解決していないと、慌てて頭を振る。朔良には言わなければいけない大事なことがたくさんあった。
「あのね、ナツ、ごめんなさい。僕、ずっと、ナツに嘘ついてて……。そのことちゃんと謝りたくて」
 首元にあったナツの頭が離れていき、ナツは朔良の正面に立った。
「でも昼間、事務所でナツは僕の嘘には怒ってないって、だから……。どうしたらいいか、分からなくて。それも、ごめんなさい」
 一生懸命に伝えた朔良に対して、ナツは朔良の前で目を瞬かせ急に笑い始めた。
「えー? 朔良。俺が何に怒ってるか、本気で分かってなかったの?」
「ぅ、えっと」
 目を泳がせていたら、ナツの手のひらが、そっと頬に当てられる。
「黙ってマンション出て行ったから、だよ。仕事も勝手に辞めてさ、だから怒ってたの。三上さんから聞いて、びっくりしたじゃん。俺が何かやらかしたのかと思った」
「ご、ごめん、なさい。ナツは何も悪くないです」
 朔良の謝罪にナツは口元を綻ばせる。その瞳からは嘘や偽りは伝わってこなかった。本当に朔良が黙っていなくなったことを心配していたのだろう。自分のことばかり考えていて、ナツが不安になっているなんて、これっぽっちも思っていなかったので反省しきりだった。
「俺、朔良の恋人なんだけどなぁ。何か困ってるなら、もっと頼ってよ? 大学は、まー留年してるけど、社会人としては、俺の方が先輩だよ?」
 そう言ってナツに顔を下から覗き込まれる。
「僕、もう、ナツに……嫌われるって思った。怖くて……」
「不安だったの? こんなに大好きって、言ってるのになぁ」
 二人の体の間で、両手で恋人繋ぎをされる。ナツの手の温かさに不安が吸い取られていくようだった。
「それで、大体はもう知ってるけど。朔良は俺にどんな嘘ついてたの?」
「あのね、僕、ずっと、サクラのバイトをしてたんだ。葬儀場にいたのも、それで。……月山さんから翠くんを一緒に送って欲しいって依頼だった」
「あれも、お芝居だったんだ、へぇ」
 ナツは感心したような声を上げる。
「それだけじゃない、僕はナツに出会うまで、演技で人に嘘がつける人だったんだ。罪悪感なんてなかった。仕事だからって」
 人を幸せにできる嘘があるって思ってた。けれど大切な人についた嘘は、ずっと心にしこりを残し続け朔良を苦しめた。
「サクラのバイト、ねぇ」
「うん。大学の演劇サークルで部活の伝統っていうか、ずっと代々紹介で、結婚式の友達役とかが多いんだけど」
「そんなバイトがあるんだね。じゃあ朔良は、いつも現実世界でお芝居をしてたんだ。なるほど即興のお芝居が上手いわけだ」
「な、納得するんだ」
 ナツは目を細めて笑った。
「――俺、あの葬儀場でさ。朔良にまっすぐに見つめられて、亡くなった後も、こんなふうに思ってくれる友達が居て羨ましいなぁとか思ってた。俺に、そんな気持ちにさせるってことは、朔良、真剣に役と向き合っていたってことでしょう? 誰かのためについた嘘なら悪くないと思う」
「でも、あの、僕は、ああいうことが平気で出来る人間なんです」
 声が詰まった。
「ナツの代理マネージャーになったのだって」
「うん。俺に仕事させるためでしょう? けどさ、朔良がお芝居していたとき、誰かを騙してやろうとか、貶めてやろうみたいな気持ちでしたこと、一度でもある?」
「それは……ない、です」
 誰かの助けになるなら、そのために自分の演技を使いたい。それだけだった。
「俺のファンだったっていうのも嘘?」
 朔良は、それだけは絶対に違うと首を横に振った。
「ナツが、大好きなのは本当!」
 ナツはくすくす笑う。
「嬉しい。もし俺が朔良に言いたいことがあるとすれば、劇団の口利きのことかな」
「……はい」
「本当、駄目だよ、そんな約束で仕事を受けたりしたら。分かってると思うけど! お金で人を動かせると思ってる人間はろくな人じゃないんだから。水谷さんも悪い人じゃないんだけど、いい人でもないから。――でもさ、それはもう自分で分かってるし反省してるんだよね」
「うん。もう、絶対にしない」
「じゃあ、俺から叱ることは、もうないですよ。本当、心配だから危ないことはしないでね」
 小さな子供を褒めるみたいに髪をぐしゃぐちゃとかき混ぜられた。ずっと心の中にあった重石が、その瞬間ふっと軽くなって消えた気がした。
「……考えてみれば、俺さ。あの葬儀の日の朔良に一目惚れしてたのかもね。ほんと、かっこよかったし。周囲の空気が張り詰めて、息をするのも怖いくらいだった」
「え、あのときに」
 ナツは、その日を思い出すように遠い目をしていた。
「綺麗な目だったって、前に俺、言ったでしょう。あの日、朔良が車から降りたあと、また朔良に会いたいなぁって思ってた気がする」
「え、嘘、だ」
「嘘じゃないよ。本当! 一緒に暮らすようになって、朔良が自分のファンだって知ったときは、もう嬉しくて嬉しくて、たがが外れたっていうか。この子を絶対離さないって思った」
 ナツはベッドの上に座ると朔良の手を引いた。
「それで、朔良は、何がきっかけで俺に惚れてくれたの?」
 忘れたことがない。ナツと初めて会った春の日。
 ――あの、よかったら、チョコどうぞ。
 鼓膜をくすぐるような、甘い桜の花びらのような囁き。
「な、ナツにもらった、チョコレート……食べたとき」
 味の分からなかったチョコレート。その瞬間が、朔良の初恋だった。
「それ、アイドルの俺じゃないじゃん。えーアンパンマンがよかったの?」
「な、ナツは、いつだって僕のアイドルだから! お仕事してるときも、してないときも、全部! ナツだけが……僕の中で一番特別で綺麗だったから!」
 朔良が早口で答えると、そのまま手を引いて、ベッドの上に押し倒された。
「それ最高の、褒め言葉」
 ナツが片手で黒のデザインカットソーを脱いでいる姿を、ベッドの上で陶然とした瞳で見上げていた。極上の身体を朔良がこの場で独り占めしている。
 朔良の顔の横に手を置かれ、顔がゆっくりと近づいてくる。
 ベッドの上で啄むようなキスをして見つめ合ったあと、上に一枚だけ着ていたTシャツをナツに脱がされた。下の服は元々着ていなかったので、下着一枚だけになってしまう。
「ぁ、あの、ナツ、最後まで、するって」
「ん、するよ。せっかく勉強してきたんだから、帰りに薬局寄ってもらったし」
 そういえば部屋に入ってきたとき、ナツが黒いビニール袋を持っていたのを思い出す。今それは机の上にあった。
 ナツは机の上に置いていた袋を持ってきて、中身を布団の上に出す。
 コンドーム、潤滑剤。
「え、こ、これ、ナツが薬局で買ったの」
 驚いた声でいうとナツは吹き出して笑った。
「何言ってんの、朔良。三上さんに買わせるわけないじゃん。ちゃんと自分で買ったよ」
「それは、そう……だけど、うん」
 一体どんな顔をして買ったんだろう。周囲に人はいなかったんだろうか。ナツが、これを堂々とレジに出したところを想像して顔が真っ赤になる。夕方、自分も同じものを買ってきて、それはリビングにあった。
 最後まで、と言われた意味が自分の想像と同じだったと答え合わせができた。
 理解した瞬間、再び昼間マンションにたどり着いたときの気持ちに逆戻りして、頭がふわふわになってしまった。
「朔良を大事にしたいからね。それに、お互い気持ちいい方がいいでしょ?」
「き、気持ちいい……こと」
 こくりと生唾を飲んだ音が静かな部屋に響く。ベッドの上に座ったまま、目を白黒させていたら、ナツから鼻の頭に猫の挨拶みたいにキスされた。
「朔良はすけべだなぁ。今、どんなこと想像したの?」
「それは……そ、それより、ナツ。べ、勉強って、どんなこと、したの」
「それは、ひみつ」
 そう言ってナツは唇の前に指を立てる。その弾けるアイドルスマイルに心臓が張り裂けそうになるし、頭の中がわやくちゃになった。
「あ、あのね、僕も、い、今から何か見て勉強した方がいい? よね」
 どんなことを期待されているのか、急に不安になって探るように恐る恐るナツに尋ねた。
「もう朔良はこれ以上勉強しないでいいよ。採点厳しくなっちゃうじゃん」
「な……なつ」
 見つめ合っているうち、互いが磁石で吸い寄せられるように唇を合わせていた。
「ナツ……ナツ、すき、大好き」
「俺も、大好きだよ。――朔良、アイドルの俺を見つけてくれて、好きになってくれて、ありがとう」
「そ、そんなの、僕のセリフだよぉ」
 ナツに切実に求められる感覚に酔いしれ、朔良は身体中で幸福を感じていた。





 ■

 ナツは自分で決めた通り、翌年の二月、ドームコンサートを最後に芸能界を引退した。
 リーダーのアサトが芸能界に復帰し、グループとしても人気絶頂。ASKETが、これからってときだった。
 芸能ニュースでも、しばらくはナツの芸能界引退の報道が続いていたが、桜が咲く頃には、それも落ちついていた。


 ――季節は、ナツと出会った春になった。

 その日、薄紅色の桜の花びらが舞う中で、朔良はナツを待っていた。
 待ち合わせは、大学の校舎裏の山。眼下には袴やスーツ姿の学生たちが写真を撮りあっている姿が見える。去年の自分も、同じ輪の中にいた。周りに合わせようと、本当の自分を演技で覆い隠し、踠き苦しんでいた、その頃の自分は、もういない。
 今、朔良は劇団『ステージ飛鳥』で研究生になり、役者の道をスタートさせていた。
 約束の時間になると坂道の下からスーツ姿のナツが歩いてくるのが見えた。
 芸能界を引退して、アイドルじゃなくなったからといって、その美貌やスタイルが失われた訳じゃない。
 やっぱり『ステルス』は健在で、誰もナツを振り返っていなかった。
 桜が咲き誇るこの場所で、彼の美しさを独り占めしているのは、今、朔良だけだ。
「お待たせ朔良。ライン見たよ! 舞台決まったんだって! おめでとう、今日はお祝いだねぇ。焼肉? それともすき焼きかなぁ」
 今日は大学の卒業式で、お祝いされるのは、ナツの方だ。それなのに先に、おめでとうと言われてしまった。
「ナツってお肉好きだよね」
「え、朔良も好きでしょ?」
「うん。好き」
「スーパーで買って帰ろうか」
 ――魚より肉、コーヒーより、紅茶。
 ――あと、女の子じゃなくて、男の子が好きだ。
 去年の今頃、そういえば、そんなことも考えていた気がする。
「僕じゃなくて、おめでとう! はナツだよ。大学、ご卒業おめでとうございます!」
「ありがとうございます。あー本当、単位取れてよかった。今夜は一緒にお祝いだね」
 そう言って手を差し出される。ナツが当たり前のように、外で手を繋いでくれるのが嬉しかった。
 本当の自分を知られるのが怖かった、以前の自分じゃ考えられない。
 ゆっくりと桜の舞う山道を二人手を繋いで歩いた。
「ところで、ナツ。僕、ずっと訊きたかったんだけど」
「ん?」
「前に、役者の僕に一目惚れしたって言ってたよね」
「んーそうだね」
 二人の間に、春の柔らかな風が通り抜けた。
 あの日、朔良にとって掴みどころのなかった春の日は、今、同じように存在している。
「役者じゃないときの僕って……ナツ、どう、思っている?」
「そんなこと気にしていたの?」
「だ、だって……」
 なんの取り柄もないと、毎日、灰色で燻っていた頃の自分。何かになりたくて、なれない自分が大嫌いだった。
 なりたい自分になっても、以前の、情けなく臆病で、カッコ悪いままの朔良は、そのままのこってる。
 憧れた役者になっても、全てが思い通りにならないって、もう分かってる。朔良は、それも愛おしい。
 アイドルじゃないナツも好き。じゃあ、あなたは?
「そんなの、決まってるよ。好きなのは――」
 そっと、耳元で囁かれる。
 役者になった花本朔良と、新しい夢に向かって歩み出した里村夏生。
 ――好きなのは、朔良(ぜんぶ)



おわり

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