翌朝、指定された時間にESKプロダクションのビルへ向かった。
 水谷からは当面の生活用品を持ってくるように言われたので、大きめのボストンバッグに必要最低限の着替えを詰めて家を出た。
 ――仕事が終わるまで家に帰らず、役に徹して欲しい。
 今日まで色々なサクラのバイトをしていたが、泊まり込みでやる演技の仕事なんて初めてだった。
 社外秘らしく役については現地で話すと言われている。
 家を出るとき、母親から芸能界の闇について切々と語って聞かされた。犯罪に関わるような匂いを感じたら、何を置いてもすぐに逃げるように言われたが、さっきまでは、いまいち自分ごととは捉えていなかった。
(……なんか、早まったかな。流石に出会い頭に監禁、とかはないだろうけど)
 目的地に到着した瞬間、灰色の巨大ビルから得体の知れない威圧感が押し寄せてくる。
 大企業に勤める人だから安心などと思っていたが、吹き上げるビル風も相まって悪の根城へ向かう心境になっていた。それでも大学四年間で培った役者魂と就職活動の経験のお陰か、受付の前に立った頃には、ざわざわしていた心境は不思議と凪いでいた。
 朔良が名前と用件を伝えると、あらかじめ話は伝わっていたらしく、スムーズに打ち合わせスペースへ案内された。名刺に書かれていた、コンテンツ制作部、水谷武蔵の肩書きも事実だった。
 しばらくソファーに腰掛けて待っていると、入り口の扉が突然開き、昨夜クラブで見た男が現れた。立派な会社勤めの人間なのに、入る前のノックはなかった。
 朔良がすかさずソファーから立ち上がると、ドアの前で立ったままの水谷から不躾な視線を向けられた。頭の先から足の先まで、まるでファッションチェックでもしているかのように観察される。
「へぇ、A社に聞いた通りだ。ころころと印象が変わる。その服、自分で準備したの?」
「服、ですか」
「そう、いいスーツだね。もしかして、それも役作り?」
 いつも代行会社で借りている衣装ではなく、家にあった細身のダークグレーのスーツだ。特に深い理由などなかった。
「役というか、企業を訪問するときはスーツだろうなって、それだけです。今日は仕事の依頼を受けて来たので。演じる役については、まだ聞いてないですし」
「あーそうか、分かった。そういえば、君、いいところのお坊ちゃんだったね。忘れそうになるけど」
 朔良が答えると大袈裟に手を叩いてリアクションされる。
 先日のサークルの飲み会と同じ言葉なのに、当人の豪快な性格のせいか水谷の言葉は不快に思わなかった。良くも悪くも言葉に事実以上の含みを感じさせない。
「二十歳そこそこの男なのにブランド物のスーツが板についてると、結構、目立つよね。どこの売れっ子若手俳優かと思った」
「変、でしょうか」
「んー今回の役は、制作部の新人って設定だから、違和感あるかな。吊るしのスーツ渡すから着替えて。最初だけでプライベートは普段通りの服でいいから」
「分かりました」
「じゃ、ついてきて、仕事場に案内する」

 水谷の車に乗って連れてこられたのは、都内にある高級マンションだった。エレベーターで最上階の二十五階で降りると、奥の角部屋に入った。
「あの、ここは」
「んー俺の持ち家だけど。社員寮みたいな扱いにしてて、いまは別の人に貸してる。鍵あるから俺もたまに来るけどね。大家みたいな?」
 玄関を入ってすぐ、覚えのある匂いが微かにした。柑橘系の甘い匂いに誘われるように廊下を進みながら、その匂いにパブロフの犬みたいに反応していた。その香水は朔良が好きなものだった。
 ESKプロダクション所属の人間でタワーマンションに住んでいる人間なんて、大御所を除けば、数えるくらいしかいないだろう。
 一般人が大手芸能プロダクションのプロデューサーに直接仕事を依頼されるなど、ただの幸運だけが理由のはずがなかった。無論、結果だけみれば幸運かも知れない。
 それでも結果には必ず原因がある。
 朔良が元芸能人の母の息子だから、おそらく、それもある。身元が確かな人じゃなければ、極秘の仕事なんて依頼できないから。それが、一つ目の幸運。
 玄関入ってすぐ横には、シューズクロークがあり、たくさんのブーツやスニーカーが並んでいた。若い男性が住んでいる家だ。全面ガラス張りの開放的なリビングダイニングからは都内の景色が一望できる。水谷はリビングに入るとL字型のソファーに寛ぐようにして座った。
「さて、じゃあ仕事の話だ。座って」
「はい」
「昨日さ、君、ASKETのメンバーと一緒にいただろう」
 二つ目の幸運。それは、昨日ASKETのメンバーに会って、おそらくテレビに自分の姿が映っていたこと。モザイクがかかっていても元の映像を見られる立場の人間なら、朔良が誰かくらい分かるだろう。映像でなくても、ASKETのマネージャーを通して状況を聞けば、いくらでも特定可能だし、ASKETの所属事務所はESKプロダクションだ。
 玄関先で香った覚えのある香水の匂い。それは予感、だった。
「昔うちの養成所にいた子の葬儀。昨日、君は、そこに居た。調べたんだよね。君のことを色々」
「色々って、あの、もしかして、母の店に来たのは、僕に用があったからですか」
「んーそれは、接待で、たまたまあの辺りで飲める店探してたし。ついでに君に会えたら手間が省けていいなと思ったけど、ま、偶然にしても運命だよね」
 運命なんて一番信じていなさそうな男に見える。水谷は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、タバコに火をつけた。朔良は手を膝の上でぎゅっと握り、意を決して先を促した。
「それで、僕に演じて欲しい役って」
「うん。まだ表に出してないけど、今ね、ASKET解散の危機なんだよ」
「解散、ですか」
「そ、リーダーのアサトがね、今回の件で少し休養が必要で。事務所としても、それは了承したんだが」
 水谷はタバコの灰をローテーブルの灰皿の上に落とす。
「最近は、そういうの厳しくて。昔みたいに、死ぬ気で死んでも頑張れなんて体育会系の時代じゃないし。役員からも厳しく言われてるのよ。商品は大事にしてねって」
「そう、なんですね」
「うん、つらいときは仕事を休ませる。芸能人も普通のサラリーマンと変わらない。ただ、企業としては、その間ASKETのコンテンツを維持していく必要がある。それだけの魅力がリーダーのアサトにあるから、というのもあるが」
 朔良は昨晩見たアサトの憔悴しきった顔を思い出していた。親しい友人を亡くしたのだから、心の整理に時間がかかるのは、外野の自分でも理解できる。母親に散々脅すように聞かされた話より、クリーンな業界のようで少し安心していた。
「もちろん、いつまでもってわけじゃない。彼の復帰がダメならいずれ損切りも考えるが、今はその時じゃない。だからね、プロデューサーの俺は、考えないといけない。一番の収入源であるライブが出来ない状況で、他のメンバーをどう使っていくか」
「どう使う、ですか」
「そ、ASKETのメンバー五人は、それぞれ持ち味があるだろ。リーダーのカリスマは別格として、歌、音楽、演技に特化していたり、バラエティーで重宝されたりとか、皆、個性がある。で、問題はナツなんだよね」
「問題なんて」
「顔がいいだろう。あいつ」
「そうですね」
 朔良が前のめりで即答すると吹き出して笑われた。
「そうそう、顔がいいんだよ、とびきりね。けど元々、家族からの推薦で上京して芸能人になった子だし、動機が弱いんだ。顔を生かすなら、モデルの仕事をもっと入れたらいいんだが、その当人にやる気と自信がないんだよ。顔がいいだけなら、他にもいるって思ってるし」
「そんなこと、ないと思いますけど」
 朔良からすれば、国宝級の造形美だと思っている。もちろん自信満々のナツというのもあまり想像できないが、それでも芸能人としての価値は十分にある。
 あの優しげな瞳とか、極上に甘いマスクが最高にいい。
「口に出さないけど、あいつさ、リーダーが抜けたら、これ幸いとこのままフェードアウトして引退する気でいるんだよ。けど、そうは問屋が卸さない。いままで金かけた分、アサトの休業中は、ナツにも他のメンバー同様にきっちり稼いでもらう。あの顔、でな」
 水谷の表情が急に遊郭のやり手婆のようにいやらしくなった。本人の都合が一番優先されると言いながら、取れるところはきっちりとっていく方針らしい。
「で、もう、君は気づいているよね。ここASKETのナツの部屋だよ」
「そ……そう、なんですね」
 不意打ちに心臓が跳ね上がり、思わず声がうわずってしまった。
「ほんと、分かりやすいな。好きなんだ、ナツのこと。ライブとかイベント、いつも後方彼氏面して見に来てるよね」
「なっ……え」
 確かに、いつも会場では後ろの方でナツを見ていた。女性ファンに混じって前の席を取る勇気はないけれど、どうしてもナツを見たかったから。
 けれど一般人の自分が関係者に存在を把握されているとは思っていなかった。ファンレターやプレゼントだって送ったことがない。握手会なんてもってのほかだ。
「関係者席にいると、色々見えるんだよね。ほらナツのファンって、ほぼ百パーセント女だから、めずらしいなぁって、なんか君の顔覚えてて」
「す、好きとか。ただのファンなだけで」 
「ふーん、別に、俺、ゲイに偏見とかないけど。クローゼットって生きにくくない?」
「ち、違います! 違いますから」
 思わず大声を上げて、ソファーから立ち上がっていた。
「そうなの。ま、どっちでもいいけどさ、そんな怖い顔して……座りなよ」
 一体どこまで自分のことを調べられているのだろう。言われるまま力無く座っていた。
「それでさ、強い心って人を動かすだろ。だから俺は、君を利用しようと決めた。――ナツをその気にさせてよ、そのファン心理ってやつで」
「ファン心理って」
「それが、君のお仕事。ナツに自信をつけさせて、バリバリ芸能界で仕事させて欲しい。――ここでナツと一緒に住んで、あいつのお世話してよ」
 また心拍数が一気に上がった。ナツと一緒に住むなんて、死ぬかもしれない。
「お……お世話って……マネージャーとか、それに自信をつけさせるなら、僕じゃなくて、もっと綺麗な女性とか、他にいくらでも」
 自分で言っていて虚しかった。男の自分がファンだと伝えたところで、ナツは喜ばないし自信をつけたりしない。だから隠れファンを貫いていた。それに朔良のような邪な気持ち百パーセントのファンの存在など、絶対本人に気づかれてはいけない。
「マネージャーは、ASKETのメンバー全員で一人なんだよ。で、明日からは個別に仕事してもらうからナツだけに構ってられない。マネージメント部門は、万年人手不足だし。それで君の扱いとしては、制作部の新人を代マネとして貸し出しているって形になってるから」
「僕が、代マネ……ですか」
「そ、だから、親身になってお世話してあげてよ」
 鬼だと思った。朔良がナツの熱狂的なファンで、彼が困るようなことは絶対にしないと分かっているから、代マネを依頼している。
 推しと二十四時間一緒に暮らすなんて、ある種の拷問だ。
「君がやることは、二つだけ。代マネとしてナツと共に仕事をする。その中で、ナツに自信を付けさせて、どんな形でもいいから彼のやる気を出させる。以上だ、質問は」
「その……どうして、僕がナツと一緒に住んでも大丈夫だって思えるんですか」
 水谷は目を丸くして少し驚いた顔をした。
「何、君、ここでナツを襲う気なの? それは困るなぁ。弊社の大事な商品だし」
「し、しません! そんな……こと、絶対に」
「だよねぇ、推しに幻滅されるのが、一番、ファンとして怖いものね」
 水谷はアイドルのファン心理を知り尽くしていた。
「それにな、あいつに女付けたところで、逆効果だって分かってるから、君が一番適任なんだよ。ナツ、興味ないんだよね、女に」
「興味がないって」
「言葉の通り。ゲイじゃないんだけど、あの見た目で思考回路が、小学生で餓鬼なんだよ」
「餓鬼、ですか」
「顔だけは、誰よりいいのにな、本当、残念なやつでさ。あれは、恋愛映画とかに絶対出したらダメなタイプの男だよ。あーそれも、なんとかしてくれたら助かるんだけど。どうにかならない?」
 ひどい言われようだった。水谷がそう言ったとき、玄関で大きな物音がした。
「あぁ、帰って来た。じゃあ、今から――演技開始だ。ほら、行ってこいよ、玄関」
 待っていれば、すぐにリビングに入ってくるだろうと思っていた。けれど、いつまで経っても部屋に来る気配がない。
 水谷に促されて、玄関先に行くと、そこには仰向けに倒れているナツがいた。
「ぁ、あの里村、さん。大丈夫、ですか」
「あれ……なんで、チョコレートあげた花本くんがここにいるの? また、お腹すいてるの?」
 電池が切れた完全オフモードのアイドルなんて、こんなものだろうなって、ずっと前から分かっていた。驚きもあったが、少し安心していた。
 ――まぁ見た目と本当の中身は、全然違うんだろうけど。
 そこにいたのは、四年前の春に知りたかった、本当の彼だった。


 玄関先の廊下は両手を伸ばしても当たらないくらいの広さだ。その廊下で一流のアイドルが無防備に寝転がっている。メディアに出ているときのナツは完璧で無敵のアイドルだが、今は隙だらけだった。
 まだ昼を少し過ぎたところで、売れてる芸能人が仕事を終えて自宅に帰ってくるような時間ではなかった。疲労困憊しているのか額の上に腕を乗せ、気だるげにしている。黒のデザインシャツの首元からは白い肌がちらりと覗いていた。
 一見、兎とかポメラニアンみたいな愛らしく甘えたな瞳に見える。――けれど。
(いや、ダメだ、これを表に出したら、死人が出る)
 朔良を見上げる視線からは疲労感より濃密な色気の方が優っていた。朔良の邪な心が瞳を曇らせている可能性もゼロではないが、それくらい危うい空気を放っていた。
(けど、僕が、なんとかしなきゃ……)
 床に転がっているのは朔良より年上の芸能人で、立派な大人。ステージ上では、誰よりもノーブルで王子さまに見える。けれど今のナツを見ていると、それ以上に、絶対に自分が彼を守らなければいけないという母性愛のようなものも湧いてきた。
「おいナツ、なに寝てるんだよ」
「だって、七時から現場入ったんだよ、五時起きだし、もー疲れた、昼ごはんもまだだし」
「はぁ、今日から代マネの子ここに住むって聞いてなかったのか。花本朔良くん。てか、お前知り合いなんだろう?」
 後ろから声が聞こえて振り返ると、水谷がくわえ煙草をしたままナツを覗き込んでいた。
「え、さくら?」
 寝転んでいたナツは上体を起こすと、水谷と朔良を交互に見て目をパチパチと瞬かせる。
「昨日、例の葬儀でお前ら一緒に居ただろう。知り合いだって聞いたから、調べて特別にお前の世話係につけてやったのに」
「知り合い……えっと花本くんは、俺の大学の後輩で、いや留年してるから、もう俺が後輩になっちゃったんだけど。そっか、さくらって名前なんだ。可愛いね、花の桜?」
 ナツはふわふわと桜の花びらが舞うように話す。目の前に妖精がいる。このままでは思考がファンタジーに犯されそうだった。
「い、いえ、僕、四月一日生まれだから。朔って漢字で、一日に、良いって、書きます」
「それは良い名前だね」
「あり、がとうございます」
 説明のために漢字を伝えたが、改めて朔良なんて本当に分不相応な名前だなと感じた。音も意味も、目の前のアイドルの方がよっぽど似合っている。自分達の名前は逆の方が、それぞれに相応しく感じた。里村夏生、なつお、夏に生まれた。けれど、その素朴な分かりやすい名づけは、今の疲れて、ふにゃふにゃになっている目の前のナツとリンクして不思議と納得感があった。
「昨日は、今後のこととか、色々ドタバタしてて、頭回ってなかった。で、朔良が俺の面倒見てくれるんだ?」
 首を少し傾げて微笑みかけられる。せっかく心臓が落ち着いていたのに、視線が合うと簡単に跳ねてしまう。
「さ、里村さんが、嫌、じゃなければ」
「ナツでいいよ。そんな嫌だなんて。広いマンションで、ずっと寂しかったからルームメイトが来て嬉しいなぁ」
 芸能人なんて裏表や秘密があって当然なのに、目の前のナツは朔良に全てさらけ出してるように見えた。
「あのなぁ、二十歳過ぎた大人が寂しいとか外で絶対言うなよ、無駄に色気振り撒きやがって、勘違いされる。そんなんだから、メンバーに餓鬼だって言われるんだよ。ちったぁ、しゃきっとしろ」
「仕事のときはしているよ。水谷さん」
 そう言いながらナツは床から立ち上がった。
「ねぇ水谷さん。昨日言った通り、俺はこれを機に引退を考えてる。大学だって楽しいし、もっと建築の勉強したいし。芸能界で生きるより、よっぽど向いているし幸せになれる」
「お前なぁ、自分のことばっかりじゃなくて、ちったぁファンの幸せを考えてやれよ、泣くぞ?」
「ファンなんて。水谷さんだって、俺は顔だけって思ってる。ホントいつも嘘ばっかりだね」
 さっきまで幼く見えていたナツ表情が、急に年相応の大人の顔に変わっていた。ナツは、そのまま朔良たちに背を向けてリビングへ向かう。
「ナツ、とにかく、今受けてるモデルの仕事は、ちゃんとやれよ。分かったな」
「分かってるよ。でも大学は行くよ、せっかくライブ無くなって、スケジュール空いたんだから」
「あー分かったよ、仕事するなら、そこは勝手にしろ」
「ありがとう、水谷さん」
 朔良はリビングへ入るナツの背をその場で水谷と見送った。
 子供っぽく見えたと思ったら、すぐに大人の顔になる。一流の演技者みたいなナツの表情に朔良は翻弄されていた。リビングに続く扉が閉まり、ナツの姿が見えなくなったところで水谷に耳打ちされた。
「今ので事情とお前のすることは分かったな」
「はい」
「じゃ俺は帰るから、あとのことは頼む。ナツのスケジュールは、これに送っておくから。とりあえず、今日は、このあとナツはオフだ」
 水谷は朔良の手のひらにスマートフォンを置くと、そのまま玄関で靴を履き始める。
「わかり、ました」
「あ、そうだ、大事なこと言い忘れた」
「え、何ですか」
 玄関の扉を振り返ると、ニヤリといやらしい顔で歯を出して笑われた。
「――襲うなよ」
「なっ!」
 反論する前に、玄関の扉は閉まっていた。


 朔良は慎重に呼吸を三度繰り返し、リビングのドアを開ける。意を決して中に入ると、ナツは服を着替えているところだった。慌てて視線を逸らしたが、目にはっきりと透明感のある絹肌の背中が焼きついている。
「あの、今日は、このあとオフだって、里村さん」
「ナツって呼んで良いよ。――うん、だから着替えたら、大学行く。単位、残りゼミの研究だけなんだよね。あー学食の日替わり定食、急げば残ってるかな?」
 ゼミだけということは、それ以外の単位は留年しながらも全て取得出来ているのだろうか。大学で神(ナツ)と出会えたら、いいことがあると言われるくらい低い遭遇率なのに、と考え込んでいたら、いつの間にか着替え終わっていたらしく、朔良の目の前にナツが立っていた。ナツは黒のチノパンに灰色のオフショルのトレーナーを着て、赤いセルフレームのメガネをかけている。さっきまでの色気を振りまくような服ではなく、ごく普通の大学生が着るような私服になっていた。
「ん、どうかした? 朔良(サクラ)」
 初めて名前を読んでもらえた喜びを隠し必死で話を続けた。そう何度もナツの一挙一動に驚いてばかりもいられない。
「芸能活動あんなに忙しいのに、残りゼミだけなんですね」
 朔良が意外そうな声で言うと、ナツは得意そうに微笑んだ。
「すごいだろ、俺、結構、真面目な学生だよ。知らなかった?」
「四年前、あの日以来、僕、な、ナツ、に学内で出会えなかったから、もう大学には来てないと思ってて」
 頭の中では、いつもナツって呼んでいるのに本人を前にすると、呼び捨てにするのはぎこちない。けれど朔良の呼び方に満足したのかナツは、やりきったような顔をしている。
「会いたかった? けどなぁ、俺、特技があるから、そう簡単に見つけられないよ?」
「特技、ですか」
「見せてあげようか、朔良も今から大学、一緒に行く?」
「一緒に、ですか」
「え、ダメ? 卒業生なんだし、用事あるなら別にキャンパス入ってもいいよね」
「それは、多分、守衛さんに断れば、全然、入っても大丈夫」
「じゃあ、決まり! 行こ!」

 一緒に大学へ行こうと言われてから、朔良もスーツから白シャツとデニムパンツに着替えた。その数分後にはアイドルと一緒に路線バスに乗っている。住宅街から山側にあるキャンパス周辺の道路に入ると、窓から視界に入る人が学生ばかりになっていく。
「なに、緊張してるの? 朔良」
 隣にいるナツが朔良を揶揄うように微笑んだ。
「だ、だって、ナツ、騒ぎになったら」
「大丈夫、大丈夫。まずは、学食でランチしようか」
「学食、で」
 声が引き攣っていた。
「だって、お腹空いてるでしょう? もう一時過ぎてるし」
「それは、うん」
 ナツを一人大学へ向かわせるのが心配だったのもあるが、水谷から世話を頼まれているなら、ナツがオフでも自分は仕事中だし、彼の近くにいるべきだと思った。
 道中は一緒にいるのが芸能人だと気づかれないよう、SPばりにナツが人の視界に入らないように注意して歩いたし、バスは周囲に人が座っていない、後ろの方にある二人掛けの座席を選んだ。
 四年間通学した慣れ親しんだ道なのに、隣にアイドルがいると思うと、気が気でなかった。窓から初夏を思わせる強い日差しが差し込んでいる。昼過ぎで朝と比べれば大学方面へ向かう人数は少なく、席はまばらに埋まっている程度だが、日差しで車内の空気が少しこもっているせいか息苦しく感じた。
「ほんと大丈夫だって、俺、魔法が使えるからね」
「ま、魔法って」
「んーステルス?」

 心配しきりだったが、本人が大丈夫と言っていた通り、本当にいつまでたっても黄色い声は聞こえてこなかった。
 キャンパス前でバスを降り、朔良が校舎前の警備室で入校手続きをしている間も、誰もナツの存在に気づかなかった。
 そうして無事にA校舎の地下食堂に辿り着き、一番端の席に座ったとき、やっと肩の力が抜けた。
「ここまで俺のお守り、お疲れ様。でも、大丈夫だっただろ?」
「そう、ですね」
「存在感を消せるんだよね、俺の特技」
 目的の日替わりランチを前に、ナツは唐揚げを口に放りこみながら至極ご満悦の様子だった。大きな口を開けて、揚げたての唐揚げを頬張る仕草は、見ていて気分がいい。実にアイドルらしくない豪快な食べっぷりだった。
(まー当たり前、だよな)
 芸能人だって、一般人と変わらない日常生活がある。人気アイドルだった自分の母親だって周囲に騒がれることなく、無事に朔良を育てあげ、今は一般社会に溶け込んで生活している。
 母親だけじゃない。彼女の交友関係から、見飽きるほど芸能人と接して来たし、素の芸能人がどういう物か頭では理解していた。なのに、この瞬間までナツだけは特別だと思っていた。
(あーファン心理って、本当、人を盲目にさせるんだなぁ)
 変装して、目立たないように学生の格好をしていれば、誰も気に留めたりしないし、良識ある大人なら、一般社会で生活しているアイドルを追いかけ回したりしない。
 そんな当たり前のことを忘れていた。
「安心、しました」
「それは良かった。まぁ流石にゼミに行けば、個人として認識されてるけど、大教室とか普通にキャンパス歩いているだけじゃ、全然声かけられたりしないな。ほら、さっき家で寂しいって言ったでしょう? 全然、外で声かけられないから友達だっていない」
「友達、いないんですか」
「うん。だから、今初めて心から学食を楽しんでる。一回くらい、こうやって誰かと外で食べてみたかったんだ」
「そんなの、僕がいくらでも、一緒に、ぁ……」
 つい前のめりに言いかけて、気持ち悪いファンの自分を隠そうとしたが、ナツは別段不快に思わなかったらしく、目の前でにこりと微笑んでくれた。
「じゃあ、また一緒に学食で食べてよ。そういえば一緒に住むんだし、今日は夕飯も一緒に食べられるね。何作ろうか、何食べたい? 帰り、スーパー寄らないとなぁ」
「は、はい」
 スーパーで買うものを考えているナツの伏し目がちの視線。長いまつ毛が下瞼に影を落としていた。
 改めてアイドルと二人暮らしをしているんだと自覚して頭がくらくらする。ナツの美貌を近距離で、余すことなく独り占めしていた。こんな幸福を自分なんかが享受していいはずがない。気を抜けば顔を真っ赤にして感情をぐちゃぐちゃにしてしまいそうだった。そんな幸せの海で揺蕩いそうになったすんでのところで、ナツに呼ばれハッと我に返る。
「ところで、朔良は、ESKプロダクションに新卒で入社したの? 優秀なんだぁ。エンタメ系って倍率すごいんでしょう」
「いえ、僕は」
「ん?」
 ピリリと緊張が走った。いつかは訊かれるだろうと、頭の中でシミュレーションしていた質問だった。色々、演技プランを考えた結果、自分がナツの熱狂的ファンなこと以外は、全部、真実を話そうと決めていた。
 少しナツと話しただけで無理だと分かった。どんなに役を作り込んで演技したところで、ナツ相手だと本能に振り回され簡単にボロが出る。それなら話せるところは全部、本当を伝えた方がいい。
「僕、バイトなんです。その……今年就職決められなくて、ESKプロダクションは、母親のコネ……みたいなもので」
 朔良が面倒な家庭で育ったとか、母親が元アイドルとか。そのせいで父親が出て行ったとか。そんな自分という人間を形作った根っこの部分。今までは友人に隠して違う自分を演じていた。
 けれどナツは芸能人だし、家庭の特殊な事情を必死に隠す必要もなかった。
「コネ?」
「母がESKプロダクションで昔アイドルしていたんです。結局、色々あって、もう芸能界にはいないですけど」
「へぇ、そうなんだね。親が有名人の子供だと色々大変だって聞くし、朔良も苦労したんじゃない?」
「苦労」
「うん。ほら、どこ行っても親の話ばっかりされるでしょう」
「……そう、ですね」
 下を向いたまま、ぽつりと吐き出していた。
 朔良はナツの反応に、生まれて初めて本当の自分のまま人前に立っている気がした。
 実際はナツにも嘘をついている。先日の葬儀のときだって演技している偽物の自分をナツに見せていた。
 普通で当たり前で、何も特別じゃない、そんな自分になりたい。ずっと違う自分になりたいと願っていた。
 いつだって、自分の母が芸能人と知られたあとの、友達の反応は決まっていた。
 話は盛り上がる、でも自分じゃなく母の話ばかりになる。芸能人の母は、自分を構成する、たった一要素に過ぎないのに。誰も自分を見なくなる。――それが嫌だった。
「朔良、大丈夫、お腹痛いの?」
 箸を握ったまま、急に動かなくなった朔良を心配したのか、ナツは朔良の顔を覗き込む。
「あ、ち、違います。大丈夫です、なんか、嬉しくて。ナツの反応が、普通だし」
「嬉しい?」
「ナツが……僕を見て話してくれたから」
 母親じゃない、目の前にいる朔良と話してくれている。
「――うん、分かるよ。目の前に自分がいるのに、他の人の話されるのって、嫌だよね」
 他の誰でもないナツに、自分を見つけて貰えた喜びが込み上げていた。




 ナツに付き合う形で大学へ来たものの、朔良は先月すでに卒業している。
 大教室の講義なら一人くらい増えていてもバレないだろうが、流石に少人数のゼミに生徒として紛れるわけにもいかない。朔良は悩んだ末、演劇部が活動しているホールに顔を出すことにした。
「じゃあ、また。四限終わったら連絡するね」
「は、はい。いってらっしゃい」
 食べ終わった食器を返却口に置き、学食の入り口までくるとナツと分かれた。心配する必要なんてなかったと納得したはずだったのに、やっぱり気になって廊下の突き当たりの階段を上がるまでナツを見送ってしまった。
 ちょうど休憩時間で学生たちが絶えず廊下を行き交っているのに、朔良だけがナツを見ていた。
 ステルスは、どうやら本当だったらしい。


 思えば卒業のとき、演劇サークルでは他の部活でよくあるような涙のお別れはなかった。朔良の居たサークルには、卒業してからも数年は繋がったままという伝統がある。どうせ近いうちにまた顔を合わせるんだから「またね」くらいの別れ方だった。
 公演チケットの販売や人集め、そういった部分で「人脈はあればあるほどいいに決まっている」という考えかららしい。いい意味でも悪い意味でも互助会だ。素人の公演を人に見てもらうのは、それくらい難しいものがあるし、自分たちも在学中、卒業生に助けてもらったのだから、朔良も出来る限り後輩を助けたいと思っていた。
 さっきまで居たA校舎と反対側にある演劇ホールは、コンクリートの螺旋階段を降りたところに入り口がある。周囲は草木が生い茂っていて年中日陰のままだし、心霊スポットになってもおかしくない外観をしていた。
 この崩れかけの古びた建物は基本出入り自由の場所で、勝手に入っても誰にも咎められない。役者として見られることに慣れる意図もあって、昼間は入り口を開放した状態にしている。
 朔良はひび割れた入り口のガラス戸を押し開けると、埃臭いロビーを抜け客席に続く厚い扉を開けた。
 正面の舞台には見知った後輩が二人いて、スポットライトが当たっている。客席の明かりは節電のため落とされたままだ。
 男女の喧嘩の掛け合いは毎年やっている演目で春公演の練習だった。邪魔にならないように後方の座席に座って見学していると、しばらくして賑やかな足音が背後から近づいて来た。振り返ると、今年四年生で部長の浜田が木材を担いで立っていた。黒のジャージ姿で首にはタオルがかかっている。
「花本せーんぱい。いまラインで練習に呼ぼうと思ってたのに、何でいるんですか俺の気持ち届いた? エスパーだったりする?」
 人懐っこい軽口に冗談めかして肩を落とす。
「嘘つけよ。絶対適当言ってるだろ」
 たまに演技もするが、主に裏方をメインにしている男だ。頭を個性的に刈り上げていて、いまのところサークルのどの役者より目立っている存在だった。
「本当だって、春公演の練習見て欲しいって思ってたもん。ついでにジュースの差し入れとかあったら嬉しいなぁ〜とかね」
「今日は別の用事で大学に来たから差し入れはないよ。手ぶらで悪かった、時間潰しに寄っただけなんだ」
「別の用事って、あ、もしかして就職センター? 就職届って大学に出さないといけないんすよね」
「あーいや、違うけど」
 確かに卒業してから大学に来る用事があるとすれば、大体は就職関係だ。アイドルの代理マネージャーをしているとはいっても、定職についた訳ではない。それにASKETのナツと一緒に住むことになったなど口が裂けても言えない秘密だ。
「てか先輩、練習見てたんなら分かりますよね。今のままじゃ今年の部員獲得出来ない」
「そこまでじゃないだろう。毎年同じ演目だし、あの二人だって演技上手だし」
 そう言って朔良は再び舞台に視線を向けた。
「だって! いま僕たちには先輩たちが、いない!」
 唐突に背後から降ってきた浜田の演技がかった声はホール全体によく響いた。舞台役者向きの芯のある声だ。舞台上の二人は朔良の存在に気付き、はしゃぐように両手を振って朔良を呼んでいる。
「ね、全然駄目でしょう。あいつら俺より声が届かない。腹から声出せっていつも言ってるのに」
「言われてみれば」
 確かに裏方をしている浜田に声をかき消されているのは問題だろう。
「だからさ、花本先輩ちょっと練習見てやってよ」
「浜田が今年の部長だろう」
「だって俺、声はいいけど大根だからなぁ。あと裏で大道具やらないと、他のメンバーは今日校舎でビラ配りだし手が足りなくて」
「呼ばれてないし部外者だけど」
「いま呼んだ、ね。はい、じゃーお願いしまーす!」
 どちらにしても一時間ほど時間を潰さなければいけなかった。
 言われるまま照明の下に連れて行かれ、監督のようにパイプ椅子に座らされてしまう。毎年同じ演目だからセリフは全部頭に入っている。春公演は家族愛をテーマにした短い劇だった。
 ずっと両親から愛されていないと思っていた少女が、母親からの手紙をきっかけに、本当は愛されていたと知る場面。
 一番観客を惹きつけなければいけない見せ場のシーンだった。
 元々役者をやりたいと言ってサークルに入ってきた二人だ。演技自体は直すところがない。けれど同じ役者でも演劇はテレビドラマとは違う。演技が客席に届かなければ意味がない。だから、すごく勿体無いと感じた。
 一通り最後まで通したところでアドバイスを求められた。
「――演技は、すごくいいんだけど。やっぱり声は、もう少し出した方がいいね。今のままだと、多分後方じゃ何を言っているか分からない。もちろんマイクはあるけど、セリフがぼやけて聞こえると思う」
「うーん、でも。結構、声張ってるんだけどなぁ」
「えっと、声を張るじゃなくて、届かせるイメージで、でないと喉痛めるから」
「届かせる、か」
「要所で視線を客席の方に向けて、もう少し胸を開ける感じのイメージで立つと、練習のときと同じように届く」
 体の力を抜き、楽な状態を維持したまま姿勢を正す。腹式呼吸やロングトーンの練習は部員も普段からしている。けれど頭では分かっていても、セリフを読む段階になると同じように出来ないのはよくあることだ。
「一人ずつ相手するから、僕と同じように立って台本のセリフ言ってみて」
「はい」
 朔良は椅子から立ち上がると妹役に向き合った。

『……兄様は、私の気持ちなんて知らないくせに』
 言われたセリフを朔良が受け兄のセリフを続けた。
『――お前は、一度でも母様に自分の心を伝えたことがあるのかっ、僕には分かる』
『分かりっこないわ!』
『分かるさっ! だって……僕だって、君と同じように――嘘つきだったから』
 客席に向けてセリフを放ったときだった。客席の一番後ろの席にナツの姿を見つけた。舞台以外の電気は全て落としているのに、その場所だけスポットライトが当たっているように錯覚した。朔良にしか見えていない彼のまぶしい光に思わず目を見張った。
 おそらく誰もナツがホールに入って来たのに気付いていない。
 演技に集中している間に、どうやら四限目の講義が終わっていたらしい。それでも中断してすぐに離れる訳にもいかず最後までセリフを言い切った。
『……僕は、とても後悔しているよ』
 最後まで母と本音で語り合えなかったと後悔する兄のセリフに今の自分の境遇を重ねていた。
 ――良かれと思って嘘を吐いた。悪意はなかった。
 朔良は自分の本当なんて、ナツは知らない方がいいと思っている。でも、いつか自分も後悔するんだろうか。真実を、本当の自分をナツに全部知って欲しいと、願ったりするんだろうか。
『――この手紙に、僕たちの全てが書いていた』
 一通り演技が終わり、改善ポイントを後輩たちにいくつか伝えると、朔良は五月の公演には顔を出すと言って舞台を離れた。
 客席に置いたままだった鞄を掴み急いでホールから出ると、壁を背にしてナツが待っていた。
「待たせてごめんなさい。いつの間にか時間過ぎてて」
「ううん、全然。いま来たところだし、演劇ホールに居るのは聞いてたから。ここ初めて来たよ。部外者の俺が勝手に入って良かったのかな」
「あ、はい。ここはいつも開放されているし出入り自由なので」
「そっか、よかった。じゃ、帰ろうか」

 *

 帰りも行きと同じバスに乗り、また並んで後方の座席に座っている。通勤客が乗る時間には少し早く、乗客はまばらに座っている程度だ。
 半日一緒にいて流石に慣れたのか、アイドルが隣にいるという緊張感は薄れていた。
「ねぇ、ところで朔良って、もしかして役者になりたい人だったりする?」
「ど、どうしてですか」
「演技上手だったし。あと、なんか、目が違ったから」
「目、ですか」
「うん。この業界にいると、あ、この人は他と違うなって分かるんだよね。ほら、うちのリーダーも只者じゃないでしょう。なんか、その目と似てた……本気の人がする目っていうのかな」
「えっと、僕は、ただの趣味、で」
「えー本当に? 嘘だぁ」
「ぇ、ぁ」
 首を傾げて顔を覗き込まれる。赤いセルフレームの向こうの瞳にじっと見つめられ、朔良は言い淀んでいた。人気アイドルグループASKETのリーダー、アサトと同じ目をしているなんて、恐れ多いにもほどがある。それに朔良からすれば、ナツの目の方が、いつだって特別な輝きを讃えていた。
 窓から差し込む夕日に照らされて、瞳の奥に星が見える。さっきだって薄暗い客席に座っていたのに朔良には彼の姿がはっきりと見えていた。隠そうとしても、隠せない特別なアイドルとしての輝きだ。
「さっき、なんかさ。あの葬儀のときと同じ目をしていたよ。朔良」
「え」
「あ、ごめん、違う。もちろん、あれは演技じゃないけど。あの時も綺麗な目だなって思って見てたからそう思ったのかな」
 ナツに何の前触れもなく演技を言い当てられて、息が詰まりそうになった。真実を伝えられないのが、こんなに苦しいなんて、この瞬間まで知らなかった。
 同じアイドルでもナツだけが特別に見えるのは、ファンで、推しだからだけじゃない。
 クローゼットゲイで、人間とまともな恋愛をしてこなかったし、ナツのことを最高の嗜好品だとか心の中で思っていた。そんな自分だから、こんな簡単なことも知らなかった。
 好きな人の前では、誰よりも誠実な自分でいたい。
 気づいたときには、また一つ、本当の自分を伝えていた。
「――ナツ、僕、役者に、なりたい。その……なりたかったんだ」
 この人には、心から知って欲しいと思っていた。誰かに言わされたんじゃなく、自分の口から。
 朔良が一生懸命口にした決意をナツは笑わなかった。
「やってないのに、過去形にしちゃダメだよ。なりたいなら、やらなきゃ、でないと後悔する。俺は応援するよ、朔良の夢」
 ナツは朔良の夢を決して嘘や冗談だとは思っていないのだろう。まっすぐに真剣な眼差しを朔良に向けていた。
「僕、後悔する、かな」
「んーほら、やらない後悔よりやる後悔って言うでしょう。俺は、自分のこと芸能界向いてないなぁって、ずっと思ってて、でも、違ったって納得するためにやったのは悪くなかったよ。そうしないと次のステージにいけないしね」
 水谷はナツが芸能界に入ったのは、家族からの推薦だと言っていた。ナツがはっきりと次のステージと言ったことで心臓が深く脈打つ。
「ナツは、やっぱりアイドル、辞めたい、の」
「――俺、建築士になりたくて」
「建築士、ですか」
「うん、もちろんアイドルとして、俺に出来ることが全部終わったら、だけどね。流石に、いま仕事投げ出したら、水谷さんも倒れちゃうし。だからタイミングを見て辞めるつもり」
 きっとタイミングを見て、なんて言ってる間は、そのいつかは一生来ない。
 ナツの眩しい笑顔に心がじくじくと痛んだ。水谷が自分をナツの代理マネージャーに選んだ理由も、ナツの人柄に触れて予想がついた。
 ナツは口では嫌だ、辞めたいと言うが、実際に目の前で困っていたり悲しんでいる人がいたら、自分のことを後回しにしても、手を差し伸べてしまう性格なんだろう。
 せっかく叶えたい夢が見つかったのに、ASKETの他のメンバーや、水谷の仕事の苦労を思って、すぐに辞めないのがその証拠だ。
(……僕の推し、アンパンマン、っていうか、聖女だった)
 朔良の頭の中には今言うべきセリフがあった。
 ――ずっと、ファンです。だから、辞めないで。
 例え男の朔良でも、本気でナツのファンだから辞めて欲しくないと涙ながらに訴えれば、ナツはアイドルを続けてくれるだろう。そしてナツがアイドルを続けてくれたら、朔良は憧れだった劇団へ入る切符が手に入る。そう、ロジックは単純だった。
(僕には、無理だなぁ。言えない)
 サクラの仕事で、初めて罪悪感を覚えた。
 芸能界には、鬼しか住んでいない。昔、母の友達の芸能人が、笑い話のように朔良に聞かせてくれたが、実際、その通りだった。ナツは、まだ売れるアイドルで辞める時期じゃないし、周囲も簡単には辞めさせないだろう。彼の優しさにつけこんで、あの手この手で引退を阻んでくる。水谷が朔良に演技を依頼したのが、その一つだ。
 けれど朔良にとっては、好きな人が笑顔でいてくれるのが、一番の幸せだ。どうやら朔良は自分の夢より推しの夢の方が大事だったらしい。
 せっかくのチャンスを棒に振るが、人を騙して鬼になってまで自分の夢を叶えたいとは思えなかった。
「さて、スーパーで何買おうかなぁ。朔良は何食べたい? 肉、魚?」
「え、ナツ、料理するんですか」
「意外? 料理上手だよ、俺。朔良は?」
 マンションの最寄りバス停に着き、夕焼けのなか並んで帰る道中、朔良は絶対に芸能界の魔の手から推しを救い出そうと決意していた。

 ナツが住んでいるマンションは一階に高級スーパー、二階にはスポーツジムが入っている。それに今の時代、ネットで注文すれば大抵のものは部屋まで届けてくれる。わざわざアイドルが、人目を気にしてまで外に買い物に出る必要などない。それなのにナツは帰り道、お肉が新鮮で安いからと言って、マンションから一番遠いスーパーに向かった。
 夕食のメニューは関西風のすき焼きだった。
(僕、何のために、ここに来たんだっけ)
 推しのアイドルと一緒に大学に行って、スーパーでは二人でカートを押して買い物をして、最終的に目の前で肉を焼いてもらった。
 いつもメディアを通して見ていたアイドルのナツは、どこまでいっても自然で普通だった。思えばナツから感じる「普通」はずっと朔良が憧れて欲しかったものだ。
 友達と買い物したり、家で鍋を囲んで笑い合ったり。そんな些細な幸せが欲しかった。もちろん家が裕福で親がアイドルだったから出来たことだってある。所詮は無い物ねだりと分かっていても、周囲から浮かないよう人目を気にして過ごしてきた日々は苦しかった。
 出会った当初は、芸能人のナツを自分から一番遠い存在だと感じていた。そんな自分なのに、ナツと一緒にいた今日一日は、なぜか自然体で過ごせていた。
 もちろんドキドキし過ぎて心臓には悪いし、実際は全てを見せているわけじゃない。――朔良はナツに対して、嘘を吐いているから。
「僕、もしかして今日死ぬのかな」
 使っていいと言われたゲストルームに入ったのは、夜の十時を過ぎてからだった。それまでは、ずっとナツとダイニングで一緒だった。一人になると全身に疲れが押し寄せてくる。
 スウェットを着た朔良はベッドの上で両手を広げて白い天井を見上げていた。部屋にはクローゼットとベッドがあって、他は持ってきたボストンバッグを置いているだけの殺風景な部屋だ。
 朝の時点では『サクラ』の仕事を頑張れば、憧れていた劇団へ入れるかもしれないなんて夢みていた。今は、そんなこと微塵も考えていない。それよりもナツが大学を卒業して建築士になりたいというなら、その夢を叶えるために自分が出来ることをしたかった。
 今日ほど身内に感謝をしたことはない。今まで出自を恨んでばかりだった自分を猛省した。当面の生活費を心配する必要もないし、何なら自分の就活も後回しにしていいのだから。
 ナツは朔良と入れ替わりで今は風呂に入っている。
 水谷に仕事を頼まれたときは、まさか推しの部屋に来るなんて思ってなかった。だから朔良の鞄の中には、大変、危険な物(ブツ)が入っていた。今になって、それを思い出した。
 絶対にナツに見られてはいけない、朔良の宝物。
 長期間、家に帰れないからと鞄の底に大事に入れて持ってきた。仕事の合間にこっそり見て癒されようと思っていた。
(嘘デス、もっと邪な用途としても使ってた)
 推しの風呂シーンどころか、人には言えないような酷い妄想をしたことがある。アイドルのナツを、極上の嗜好品だとか思っていた酷いファンだから、AVまがいの際どいシチュエーションだって想像していた。――要は、俗な言葉でいうならオカズだ。
 健全な若い男だし、それなりに欲はある。その欲が一生満たされないのも分かっていたから、ここ最近の妄想は、かなりエスカレートしていた。この先ゲイをカミングアウトするつもりはないし、恋人が欲しいとも思っていない。そもそもナツくらい綺麗な男じゃなきゃ満たされないなんて、分不相応な望みだ。
 朔良がカバンの中に入れて来たもの。一つは『さくらちゃんへ』ってナツの自筆のサインが入ってるチェキだ。ファンクラブの抽選に応募して当選したもので、応募したときは性別を女性と偽っていた。
 そもそも、さくらって名前で男だと思う人はいないだろう。
 そして二つ目は、ナツに貰って四年間、食べずに置いておいた残りのチョコレート一個だ。賞味期限はとうに切れている。
(何かの弾みで見られでもしたら、死ぬ)
 少し前までドアの向こうで物音がしていたが、すでに外は静かになっていた。風呂から上がったナツは、もう部屋で休んでいるはずだ。朔良はベッドから降りて、床に座り下に置いていたボストンバッグから、カードケースとチョコレートを取り出した。
(……本当、変態だった、よな。僕)
 一日ナツと過ごして、何だか急に全部が後ろめたくなった。いい加減ナツで変態的な妄想をするのは卒業しようと決め、おもむろにチョコレートを口の中に放り込んだ。賞味期限が切れていたところで、別にチョコレートの味なんて変わらない。
「うん。チョコレート、だな」
 あの春の日、舞い上がって味が分からなかったチョコは、どこにでも売っている普通のチョコだった。今の自分に似合いの、叶わない初恋の味がした。カードケースから取り出したチェキに写っているナツは、顔の横でピースサインをして朗らかに笑っている。この神々しい笑顔に何回お世話になっただろう。今は正直、写真を見ても申し訳なくて、前みたいな妄想が出来るとは思えなかった。もうナツは自分の中で聖女枠だ、絶対に汚してはいけないし、芸能界の魔の手から守るべき存在だ。
 そんなことを考えながら、長いため息を吐いたときだった。突然、何の前触れもなく部屋の扉が内側に向けて開いた。
「ねー朔良、俺の部屋で一緒にゲームしようよ。プレステ」
 ナツの声に被せるようにゾンビに襲われた村人みたいな声をあげていた。
「えぇ、どうしたの? 大きな声出して」
 驚いた拍子に朔良の手からチェキが飛んでいった。お掃除ロボットの掃除が行き届いているフローリングはよく滑った。そうして『さくらちゃんへ』とサインが入っているチェキは、ナツの足元に落ちた。
「あ、これ俺のチェキだ。え、さくらちゃんって、朔良だったんだ」
 ファンクラブの抽選グッズは三年くらい前のものだ。なんで、そんなに記憶力がいいんだよ! って心の中で叫んでいた。建築士を目指すような男は、やっぱり地頭がいいのだろうか。水谷からはファンの立場を使って、ナツにアイドルとしてやる気と自信をつけさせて欲しいと言われている。けれど朔良は、自分がナツのファンだと知られたくなかった。ちょっと好き、程度のライトなファンなら全然よかった。
(……終わった)
 ガチ恋勢なんて本人には絶対に知られたくない。いくら演技が得意といっても、名前入りのチェキが見られたこの状況で、ファンを隠し通せるとは思えなかった。
「朔良」
 ショックで固まっていたら、いつの間にか目の前にナツが膝をついて座っていた。
「ッ、ぁ。えっと。それは、違って」
「ん、何が違うの?」
 少し首を横に傾げて、甘いマスクで推しに見つめられている。周囲の空気が薄くなったみたいで呼吸が苦しかった。
「ご、ごめん、なさい、僕、それは」
 顔をあげて謝ったが、居た堪れなくなってすぐに下を向いてしまう。
「え、どうして、謝るの?」
 怖くて手が小刻みに震えていた。自分の存在を知られて、推しに嫌われたくなかった。男の熱狂的なファンがいると知ったところで、ナツは気持ち悪がったりしない。頭では分かっていても、その万が一が怖かった。もう一度、顔を上げてナツの顔を見るのが怖くて、じっと自分の手を見ていた。手にはナツがくれたチョコレートの箱を持っていた。その箱をナツに気づかれないように自分の後ろに隠そうとしたときだった。頭の上にナツの手が乗せられて、思わず顔を上げてしまった。
 灰色のパジャマを着たナツは、とろけるような笑顔で朔良を見ていた。
「な……ナツ」
「朔良、好きになってくれてありがとう。嬉しいな」
 嘘偽りない感謝の言葉を貰って、心からナツが推しで良かったと思えた。きっと今の自分は、ぐちゃぐちゃに蕩けた情けない顔をナツに晒している。それなのにナツは少しも嫌な顔をしていなかった。
「あ、朔良、もしかして、そのチョコって、俺があげたやつ? え、四年前でしょ」
 隠すタイミングが遅れて、箱をナツに見つけられてしまった。
「な、ナツが……ずっと、好きで、でも、僕のこと知られたくなくて」
「……へぇ。朔良は、そんなに、好きなんだ俺のこと」
 目を細めて朔良を見つめるナツは、今まで見てきた、どの推しの表情とも違った。こんなナツを朔良は知らなかった。その真摯な眼差しが、少し怖かった。
「ぇ、あ……ち、ちがっ」
 ファンだと伝えるつもりが、焦って告白みたいになってしまったと気づき、慌てて否定しようとしたら、突然右手首を掴まれた。
「え、じゃあ、嫌いなの?」
 桜のように柔らかに笑うナツに出会ってファンになった。けれど妄想の中のナツはいつだって、朔良の耳元で意地悪なことを囁く。甘えるような声で命令されたら、朔良はなんだっていうことをきいてしまった。
 けれど、それは朔良の妄想の中の話だ。現実と妄想の境が急に曖昧になる。
「ねぇ、教えて。誰が好き? もしかしてリーダーじゃないよね?」
「な、ナツが大好き、一番好き、です」
 顔を真っ赤にして、慌てて好きだと言っていた。
「……顔、真っ赤、かわい。俺も、朔良が好きだよ」
「え」
 アイドルに好きを伝えたら「ありがとう、これからも応援よろしくね」と返されるだけだと思っていた。アイドルとファンの関係なんて、それ以上でも以下でもない。朔良はナツからの予想していなかった返事に頭が真っ白になった。
「朔良の、その好きってファンの好きじゃないでしょ。朔良は演技上手だけど、俺の前では下手だね」
 ナツの言葉に体が急速に冷たくなっていくのを感じた。それは一番、本人に知られてはいけないことだった。
「っ、ご、ごめん、なさい。ゲイだって黙ってて、ごめんなさい。ナツに迷惑かけたくなくて、気持ちバレないように隠れてるつもりだったのに。演技出来なくて、ごめんなさい」
 涙腺が崩壊して、ぼたぼたと涙が溢れた。突然、壊れたように泣き出した朔良を見たナツは、その場で慌てふためいた。
「ぁ、違う、違うよ。朔良を困らせたいわけじゃなくて。ほら、大丈夫だから、泣かないで」
 ナツは朔良に手を伸ばし、ぽんぽんと優しく宥めるように背中を叩いた。涙で濡れた朔良の頬をナツが指先で、そっと拭ってくれる。
「ご、ごめん、なさ。気持ち悪くて」
「気持ち悪いとか思ってないよ。俺に知られて怖かったんだね。大丈夫、誰にも言ったりしない」
「っ、ぁ……」
「嬉しいよ。朔良の気持ち」
 ナツの広い胸に抱きしめられて、ふいに身体の力が抜けた。ナツには年下の弟や妹がいるんだろうか。なんだかあやし方が手慣れていた。ナツの胸に抱かれていると不安や恐怖を吸い取られているみたいで、急に小さな子供になったみたいに感じていた。
「俺が役者の才能あるって思った朔良が、その演技出来なくなっちゃうくらい、俺が好きってことでしょう。そんなの、とびきり嬉しいに決まってる」
 恐る恐る顔を上げると、そこには大好きなナツの優しい微笑みがあった。
「う、嬉しい、ですか」
「うん」
「朔良、俺も好きって、本当だよ。ちゃんと伝わってる?」
「え……なん、で。僕を」
「朔良は、アイドルじゃない本当の俺を見ても、幻滅しなかったよね。俺と自然に接してくれて、特別扱いしない。そういうの、いいなって思った」
 たくさんのファンに囲まれていても、アイドルは孤独だ。けれど、ほんの少し、そばにいただけの自分に、ナツが欲しがってくれるような特別な価値があるとは思えない。頭の片隅で、今のナツは雰囲気に流されているだけなんじゃないかって思っていた。初めての当たり前の普通の日常が楽しくて、キラキラと輝いて見えて、この時間を失いたくないと感じた。
 けれど、それは朔良だって同じだった。神聖視していたアイドルの素顔に触れて、恋に気づいた。
「でもナツは、ゲイじゃない。だから、その気持ちは……」
「んーどっちでもいいかな。好きになった人が好きじゃダメ? あんまり気にしたことがなくて」
 ナツは、そう言って、もう一度、朔良の背中に腕を回した。余すことなく抱きしめられると、風呂に入ったせいか、昼間した柑橘系の香水の香りがしなかった。代わりに自分と同じシャンプーの匂いがする。プライベートな香りを共有している事実に、頭の片隅へおいやっていた欲を思い出してしまった。じわり、じわりと、身体の内側に落ち着かなさを感じた。
 それはナツも同じ気持ちだったらしい。
 気づいたときには、ナツに抱えあげられて後ろのベッドの上にいた。ナツがベッドに膝を乗せると、スプリングの軋む音が微かにする。
「ぁ……あの、僕。こんな、つもりじゃ」
「ん、どんなつもり。俺と一緒じゃない?」
 朔良のいやらしい頭の中を全部、ナツに見透かされているみたいだった。鏡写しのように、ナツが欲にくらんだ瞳を朔良へ向けていた。
「幻滅した? アイドルだって性欲はあるよ」
 もしも幻滅されるなら自分の方だと思った。

 *

 ナツの灰色のパジャマが肩から滑り落ち、余すことなく推しの裸体が、目の前に晒される。神様を見つめるみたいに、ベッドの上でナツを観察していたら、ニヤリ、と意地悪く微笑まれたあと、朔良の着ていたスウェットをあっさりと奪われてしまった。
「ねぇ朔良、ドキドキするね。悪いことするって」
「……あの、ほ、本当に、僕とする、んですか」
 悪いことをしている自覚はあるらしい。アイドルを辞めるつもりだからなのか、あるいは「アイドルはみんなのもの」って自覚がないのか。
 水谷には商品には手を出すな、襲うなと釘を刺されていたのに。言われたその日の夜に推しとベッドの上にいる。罪悪感はあれど、推しにベッドに誘われて断れるファンなんていない。
「駄目? 無理強いはしたくない、けど。もしかして、朔良は俺とはエッチしたくない?」
 何百回と妄想していたナツと同じように、甘えるようにねだられて、夢みたいだった。
「し、したい、です」
「じゃあ、しようよ。ね、朔良は、俺を抱きたい? それとも抱かれたい」
「……だ、抱かれたい人、です」
 消え入りそうな声で答えていた。
「うん。分かった。ほら、そんな隅っこじゃなくて、こっち、おいでよ」
 こんなつもりではなかった、がいくつもある。死ぬまで自分がゲイだとカミングアウトするつもりはなかったし、そもそもナツにファンだと伝えるつもりもなかった。それにナツが、こんなに性に対して奔放だったのも驚きだった。お互いの気持ちを確認したその日にセックスするなんて、これは普通なんだろうか。もっとナツは恋愛に対して奥手な人だと思っていた。
 ナツは朔良が考えていた恋愛のハードルを易々と飛び越えてきた。
 迷いからベッドの上で動けずにいると、ナツに手を引かれ広い胸に抱き止められた。
「僕、は、鼻血、でる、かも」
「えーそんなに、好き? 俺のこと」
 ベッドでお互い余すことなく肌を晒し合っていた。ナツはドキドキすると言ったが、推しの白い肌を見ているとドキドキどころじゃない。今にも口の中から心臓が出そうだし、興奮から鼻血を吹きそうだった。
「嬉しいな、こんなに俺のこと欲しがってくれて」
 向かい合ったまま探るように額にキスされた。推しに口付けられた衝撃に呆けていると間髪入れずに唇を重ねられた。朔良の頭の後ろに回された右手は洗いざらしの黒髪を優しく撫でている。
 セックスも初めてなら、キスだって初めてだった。朔良の性的な知識なんてAVくらいだ。自分と違ってナツは経験豊富なんだろうと思いながら、夢中でナツと初めてのキスをした。最初、唇を合わせるだけだったキスは、いつの間にかお互いを求めるように舌が交わっていた。
「あれ朔良、チョコレート、食べたの。甘い」
「ぁ、えと、ナツに、見られたくなくて、あのチョコ」
「ふーん。ずっと俺があげたチョコ持ってたの、恥ずかしかったんだ」
「ッ、ぁ」
 ナツの唇は首筋を伝って朔良の胸元へたどりつく。女の体ではない、平たく貧相な胸に触れたら、ナツは正気に戻るんじゃないかと思った。
「キス、気持ちいい?」
「だ、駄目、ナツ」
「ん、駄目なの? 困ったな」
 朔良の身体の上で喋りながら「ふふ」と楽しそうに笑われる。
「あのね、俺さ、誰ともしたことなくて。だから朔良が気持ちいいところ、たくさん教えてね」
「…え」
「ん?」
 そのナツの衝撃の告白に、一瞬で興奮が冷めた。
「あ、あのっ、な……ナツが、童貞って、コト」
 朔良が口を震わせながら言うとナツは、はにかむように笑った。年上なのに、こころなしか、可愛らしく見えてしまう。
「な、何で、こんな国宝級の美形を世の中が放っておくなんて、世界が間違ってる」
「もう朔良。朔良は、たくさん経験あるのかも知れないけど。仕方ないでしょ、シたいって人がいなかったんだから、仕事だって忙しかったし相手なんて……」
「ッ、そんな、ど、どうしよう、僕、こんな」
 初めての相手が自分だなんてナツは、絶対後悔するだろう。朔良は特別床上手なわけじゃないし、誰かと寝た経験もない。キスもナツが初めてだった。自分はナツが相手なら最高の経験だが、ナツの初めての相手が自分という事実を頭と体が受け止められない。
 ベッドの上で膝を抱えて小さくなっていた。
「え、どうしたの朔良。もしかして食べたチョコ、古くて傷んでたんじゃ……お腹痛い? 四年前だもんね」
「そ、そうじゃなくて! ぼ、僕、何も知らないよ」
「え?」
 朔良の告白に、今度はナツが目を見張って驚いていた。
「僕としてナツが気持ち良くなかったら、ど……どうやって責任取ったら、それに、ナツの初めてが僕なんて恐れ多くて、こ、怖いよ」
 今にも泣きそうな目でナツに訴えると、突然ナツがベッドに転がって、お腹を抱えて笑い出した。
「あはは! お、恐れ多いって、えーそっか朔良も初めてなの? ふふ、よかった。ゲイの人って付き合いが派手ってきいたことあったから、俺のえっち下手でがっかりされたらどうしようってドキドキしたじゃん」
「そ、そんな、ナツにがっかりとか、絶対、ないよ」
「あー緊張して損した。頑張って朔良の理想のアイドルっぽく格好つけたのにな」
「格好つけ……?」
「ねぇ、どうだった? 俺、一生懸命頑張ったんだけど」
「……か、カッコ、よかった、です、けど」
 朔良を翻弄した際どい言葉の数々は、朔良を喜ばせるためだったらしい。ベッドの上で恥ずかしそうに顔を真っ赤にしているナツは、座っている朔良を見上げシーツの上にあった朔良の手を引いた。お互い裸で横になって至近距離で顔を合わせた。
「ね、朔良、キスも初めてだった?」
「う……うん」
 ナツの柔らかな唇を思い出して、唇が震えた。その震えに応えるようにナツの唇が再び重なる。
「こんなに誰かに触れたくなったの、俺、初めてなんだ。ね、朔良のこと、もっと教えてくれる? ゆっくりでいいから」
 朔良はナツの求めにこくりと頷いた。
 ナツの素顔に触れる度に、愛しいと思う気持ちが溢れてくる。アイドルのナツを偶像崇拝していたのに、アイドルじゃない部分のナツに触れて、恋を知った。恋を知った途端、ナツの素顔をもっと知りたくなった。
「――好きだよ。朔良」




 昨日は殺風景なゲストルームだった。
 同じ部屋にいるはずなのに、白い壁紙やベージュのカーテンまでキラキラと輝いて見えた。
 カーテンの隙間から差し込む太陽の光で目覚めてから、朔良は、かれこれ三十分くらいベッドの中で何もせずにいる。
 自分とは違う、もう一つの体温に大切なぬいぐるみのように抱かれていた。
 今日まで人間は抱きしめるのに適した形じゃないと思っていた。いま朔良の身体は、隙間なく隣のナツにくっついている。ステージに立っているナツは、いつだって細くしなやかで華奢に見えていたが、実際は無駄な肉を落としているだけで、しっかりと付くべきところに筋肉がある。きっと、普段から歌やダンスのレッスンで鍛えているのだろう。
 朔良だって演劇部だったし肺活量を高めるためと、ある程度は鍛えていた。けどナツの引き締まった身体と比べたら朔良の身体なんて、ふわふわの柔いクッションだ。
(気持ちよさそう、だなぁ)
 ナツの細い赤茶の髪がサラサラと頬をすべった。カーテンから差し込む朝日に照らされて頭の上には天使の輪ができている。スヤスヤってオノマトペが頭の上に見えそうなくらい、ナツはよく眠っていた。
 春といっても朝方は気温が低い。お互い裸で相手の体温が心地よいのかもしれない。
 ヘッドボードに置いている灰色のデジタル時計は、朝の八時。そろそろ起きなければ、と時計からナツに視線を戻したときだった。さっきまで気持ちよさそうに眠っていたナツの目が開いて、朔良をじっと見つめていた。
「ッ! ぁ、な、なつ」
「おはよ朔良。よく眠れた?」
 朔良の背中にあった手が腰の方と滑った。
 思わず口から喘ぎが漏れ、顔を真っ赤に染めてしまう。
「は、はい」
「ずっと目は覚めてたんだけど。起きたくなくて、寝たふりしてた」
「え、起きてたんですか」
「うん。起きてた起きてた。朔良が俺のこと見てる~って思いながら、薄目で見てた」
「も、もう……は、恥ずかしい」
 隣で朔良がナツを観察しているのと同じように、ナツもこっそり朔良を見ていたらしい。
「ね、朔良、俺の顔、そんなに好き?」
 ベッドの中でアイドルを独り占めしている。そんな夢みたいな状況だった。朔良は口を開けたまま、馬鹿みたいな顔でナツを見つめ返す。
「……す、すき」
「嬉しい。朔良が、そう言ってくれると、この顔で生まれてよかったぁって思うよ」
「ナツって自分の顔、嫌いなの?」
「うーん。嫌いっていうか、自分の顔だな、って感じ。でも遺伝って不思議だよね。確かに父さんと母さんのパーツが全部自分の顔に入っているのに、両親は特別、容姿でもてはやされたことがないし。普通にどこにでもいるおっちゃんとおばちゃんだよ」
「そう、なんだ」
 ナツは話しながら、するりとベッドから降りた。
「姉ちゃんも妹もそう、そりゃ身内から見たら世界一可愛い姉と妹だけどね。家族で俺だけ違うから、昔はそれが嫌だったかなぁ。なんか仲間はずれみたいで」
 昨日と同じように、ナツの白い背中に、おもわず生唾を飲み込んでしまう。その音がナツに聞こえやしないかと内心ドキドキしていた。恋仲になったからといって、そういう邪な感情が、なくなるわけじゃなかったらしい。むしろ、もっと欲深で切実になっていた。すでに寝た仲なのに全然慣れない。
 初めて尽くしの恋で、多分、浮かれている。
(あぁ、こんなんじゃダメだ。嫌われる! はやく煩悩、捨てないと)
 ベッドの上に正座して頭を横に振ったタイミングでナツが後ろのベッドを振り返った。
「朔良、俺の家族の話、聞きたい?」
「う、うん!」
 勢いよくこくこくと頷くと、ナツは寝起きだというのに爽やかに微笑む。
「朔良のことも、もっと教えてよ。――なんか、昨日は浮かれてはしゃいで、色々すっとばしちゃった気がするし。ホント……煩悩だらけで恥ずかしいなぁ」
「煩悩……ナツが」
「うん、煩悩だらけ。こんなだと朔良に、すぐに幻滅されそうだ」
 頬を少しだけ赤く染めて「いつも、昨日みたいにスケベなわけじゃないからね」と言い訳するナツを見て、幻滅どころか底なしの推し沼に落とされていた。
(これが、ギャップ萌え?)

 身支度を済ませてキッチンへ行くと、ナツはトースターの前に立っていた。朔良は仕事用のスーツだが、ナツは首元が大きく開いたロゴ入りのカットソーにシンプルなパンツを着ている。
「パン焼いてるよ」
「あ、ありがとうございます」
 昨日ナツは『明日のパン買わないと』って言って、スーパーで四枚切りのパンを買っていた。ふと、それ思い出し思わず笑ってしまう。
「コーヒー、僕が作りますね」
「うん、お願い。で、なんで笑ってるの? 朔良」
「ナツが『明日のパン』焼いてるなぁって思って」
 キッチンに二人並んで立ち、朔良はコーヒーメーカーに豆をセットする。しばらくすると香ばしい香りがキッチンに漂ってきた。
 ――同じマンションに住む、アイドルとその代理マネージャー。突然、恋人同士にはなったけど、いわゆるルームメイトみたいなものだろう。キッチンで並んだ瞬間、一瞬、同棲って言葉が一瞬頭をよぎったが、慌てて頭の奥に追いやった。幸せボケで、つい調子に乗りそうになる。
「明日のパンって、ホントに言わない? 訛りは東京に来て矯正されちゃったけど、そういう関西のオトンオカンから受け継がれたものは、抜けないなぁ」

 ナツは家族の話をするとき、目元が特別優しくなる。きっと、大事に育ててもらったんだろう。
「仲、良いんですね。家族と」
「うん。両親は実家で飲食店やってる。ここ数年、俺は仕事ばっかりだし、なかなか会いに帰ってないけどね」
「ナツ、家族についてプロフィールで公表してないですよね」
「まぁ物騒な世の中だし家族に何かあったら怖いでしょう。あとはイメージに合わない部分は、事務所が徹底的に消してる。俺は、別に実家が庶民でも全然いいと思うんだけど。働き者だし自慢の両親だよ」
 家族の話を聞くたび、段々とナツという人物が浮き彫りになっていく。自分だけがナツの秘密を知って、他のファンを思うと抜け駆けみたいで、申し訳なさもあったが、それでも幸せの方が大きい。
 誰かと話すのが心から楽しいと感じたのは、ナツが初めてだった。
「――それで、家族仲良かったからさ、姉と妹が俺に秘密で芸能事務所に書類送ったときは、泣いちゃって」
「え、泣いたんですか」
「そ、二人とも俺のこと嫌いなの! って、家追い出されるみたいに感じて。今思うと、笑えるんだけど、本気で嫌われたんだと思ってショックでさ。妹さ、朔良と少し似てる。国宝級の美形のお兄ちゃんを世界が知らないなんて! とか言ってたし」
「なるほど。そっか、家族がナツの一番のファンだったんだ」
「そう。でも、一人で東京に出てきて、寂しかったなぁ。いつも賑やかな家だったし。最初は、ここに、水谷さんも住んでたんだけどね」
「え……一緒に、水谷さんが」
 思わずコーヒーを注ぐ手が止まった。ここは水谷の持ち家で寮扱いだと聞いていた。確かに高校一年生で関西から東京に出てきたナツが、すぐに一人暮らしなんてするはずがない。公のプロフィールでは、十八まで芸能科のある高校に通っていたと書いているし、てっきり、その寮に入ってるんだと思っていた。
「僕、ナツは高校の寮に入ってると思ってました」
「最初は寮に入る予定だったんだけど、水谷Pに、お前が寮暮らしなんて刃傷沙汰になるとか言われてね」
 胸の奥で少しもやっとしたものが渦巻いた。
「――確かに、恋愛絡みで事件になりそうだけど」
「朔良は知ってると思うけど、俺、仕事以外じゃ全然芸能人オーラないのに、なんか安全のためって言われてこのマンションに住むことになって。それで、大学入学してからだったかなぁ、水谷さんは出て行ったけど……って、どうしたの? 朔良」
 急に隣で静かになった朔良を不思議に思ったのか、ナツは朔良の顔を覗き込んできた。
「……ナツと暮らしてて、水谷さん血迷ったりしなかった、の」
 恐る恐る言った朔良を見て、ナツは目を丸くした。
 水谷はゲイじゃないと分かっている。分かっていても頭に浮かんでしまう。 
 疲れたら、ふにゃふにゃになって、甘えたになってしまう愛らしいナツを見て、邪な気持ちになったりしなかっただろうか。家族と離れて暮らす寂しがりなナツが、水谷に擦り寄ったりは、しなかっただろうか。
 血迷ったから、水谷は家を出たんじゃないか、なんて極端な思考回路になってしまうのは、多分、朔良がナツに対して特別な気持ちを持っているから。
 違うと分かっていても想像してしまうのは、それくらいナツを好きだからだ。
「あ、もしかして、妬いてる」
「それは……好き、だし。昨日だって、水谷さんと親しげだったから」
 もごもごと嫉妬を口にしていた。ナツと一緒に暮らしていた水谷は、ナツのことを知り尽くしている仲なのだろう。
「嬉しいなぁ、けど、水谷さんは、俺みたいな手のかかる餓鬼が大嫌いが口癖だったし、あと巨乳が好きみたいだよ。よく部屋に女の人連れ込んでたし。もう若い青少年が、どれくらい隣の部屋でドキドキしてたかっていうと――」
 この家に女を連れ込んでいたと聞いて眉を顰めてしまう。自宅なんだから別に水谷を非難できない。
「ナツが無事で良かった」
 この年までナツが悪い年上のお姉さんの毒牙にかからず童貞だったのは、奇跡とか神様のご加護があったからなんじゃないか、なんて思った。

 *

 昨日のうちに、朔良のスマホには今週のナツのスケジュールと業務連絡が入っていた。例の葬儀のとき一度だけ顔を合わせたASKETのマネージャーが優秀なのか、あるいは朔良が信用されていないのか、移動にかかる所要時間や、各種交通手段、仕事相手のプロフィールが、きちんと引き継ぎされていた。
 十時頃、地下駐車場の社用車に乗って、ナツと撮影スタジオに向かった。
 朔良は当たり前のように運転席に座り、ナツを助手席に乗せたが、走り出すまでナツは助手席でそわそわと落ちつかない様子だった。
「ね、朔良、本当に、運転任せていいの? 無理してない?」
「うん。車にナビ付いているから、大丈夫」
「なんか意外っていうか。運転得意なんだ? 俺、免許持ってるけど、知ってるところじゃないとダメだなぁ。あと都内とかはタクシー呼んじゃうし、あと、バスとか電車の方が好き、時間通りに来るから」
 そういえば昨日、ナツは路線バスに躊躇なく乗っていた。
「僕は車の運転全然抵抗ないよ」
「へぇ朔良が運転上手で助かる。普段も乗ってるの?」
 昨日はナツの大学について行っただけだったし、送迎で、やっとマネージャーらしい仕事が出来て安心した。
「うん、あと休みとか、よくハワイで運転してたよ。だから知らないところでも、全然平気」
「ねぇ……それ笑っておいた方がいい? 『ハワイで親父に』って奴ですか?」
 某推理アニメで主人公が得意げに言っていたシーンが浮かんだが、実際ハワイによく連れて行ってくれるのは母親で、父親には何も教わったことがない。よくある家庭料理などは、いつも母と一緒にマンションに顔を出していた崎田に一通り教えてもらったが、得意かと言われると人並み程度だ。
「ウケ狙いじゃなくて本当。親父に教わってもないよ。ハワイは母親と長期休みとか、よく行ってて」
「なるほど。いいなぁ俺もハワイ行きたいなぁ、一人で行っても楽しくないし」
「ASKETのメンバーと旅行したりしないんですか」
「うん。お仕事だけ、仲はいいけどプライベートは関わってない。でも”ケイ”と”エディ”は、いつも遊んでるから羨ましいよ。言ったことないけど、いつもASKETの末っ子は、寂しく思ってる」
「ナツは末っ子ポジなんだ」
「そ、メンバーに大事に可愛がられてる。みんなと、もっと仲良くしたいって思うけど、そこは、まぁ、お仕事だから、寂しいけど線引きしてる感じ」
「そっか」
「そうだ、ね、今度一緒に行こっかハワイ。そのときは銃の撃ち方教えてよ朔良」
 ちょうど信号が赤になり隣を向くと、ナツに冗談めかしてウインクされた。
 やっぱり、ナツには自然に自分のことを話せていた。 本当の自分を伝えても、一歩引かれたり、逆に過剰に興味を抱かれることもない。
「ご期待に添えず申し訳ございませんが、拳銃は撃ったことないよ。昨日も思ったけど、ナツって、もしかして漫画とかアニメ好き?」
「うーん、世間一般の日本の男の子が好きなエンタメは一通り好き。部屋に漫画とかゲームもあるし。昨日も一緒にプレステしたかったんだよねー。今日、仕事終わったら一緒にどうですか?」
「僕、下手だよ。怒らない? 友達と家でゲームとかしたことないし」
「怒らない怒らない。二人で遊ぶのが楽しいの」
 ナツといるのが、楽しくて、幸せ過ぎて怖くなり、思わず大きく息を吐いた。
「はぁ……ホント、僕、車の運転得意で良かったな」
「どうして?」
「だって、僕、代理マネージャーだよ。ここに何しに来たかわかんなくなる。幸せ過ぎて、怖い」
 つい忘れそうになる。自分が吐いている嘘や、水谷の仕事でナツのそばにいること。本当は、この仲だって綱渡りのように不安定で不確実なものだってこと。
「朔良、推しと寝に来たみたいに思ってる? 俺といるのが後ろめたい?」
「そ、そうじゃなくて。……いや、そう、なん、だけど」
「耳真っ赤」
「だって……」
 信号が再び赤になって止まったときだった。助手席から朔良に顔を寄せ、そっと耳元で囁かれる。
「ねぇ、朔良、また、昨日の続きしようね」
「き、昨日の、つ……づき」
「うん。エッチなこと、俺、ちゃんと勉強しとくから」
「え、ナツが……えっちなことの勉強。だ……だめ。待って、は、鼻血出る」
「えー何、想像してるの? 大袈裟だなぁ。男同士は勉強要るでしょう」
「ぜ、全然、大袈裟じゃないよ! 大したことだよ! あぁ〜〜僕、運転得意なのに、事故起こす!」
「事故起こしちゃうくらい、俺のこと好きってことかー」
「喜ばないでください! もうナツ、着くまで何も言わないで。心臓破裂するから」
「えーどうしようかなぁ」

 ハンドルを握っていた手に力がこもっていた。手のひらには、じわりと汗が滲んでいる。
 ミラー越しに幸せそうに微笑むナツが見えた。



 都内でも比較的、緑の多い白金台にある『坂野上写真事務所』。個人でスタジオを構えるなら、もっと広く土地が使える場所が他にもありそうに思えた。この場所に建てたのは仕事相手に芸能関係が多いからだろうか。
 仕事面のメリットについては分からないが、同じエリアには大学や庭園美術館があるし、ごみごみした新宿の繁華街と比べたら、住環境は文句なしだと思った。
 閑静な住宅街の一角にある事務所は、地上三階地下一階。要塞のような佇まいをしている。
「前はASKETのメンバー全員で来たなぁ。俺、この建物好きなんだよね」
 事務所のガレージに車を置き庭に入ると、ナツはなんだかご機嫌だった。
「外観は美術館っぽいよね。コンクリート打ちっぱなしだし」
 写真スタジオというよりはアトリエ系建築事務所のようだ。ナツは建築士になりたいと言っていたし、変わった建物が好きなのだろうか。
「ここ、三階が坂野上さんの自宅なんだって。コンクリートなのに圧迫感なくて上手いなぁって、二階の全面ガラスがいいのかな。秘密基地みたいっていうか、顔っぽくない?」
「窓が顔なの?」
 ナツの無邪気な感想が面白くてつい笑ってしまう。
「え? 見えない? ロボットに変形しそう」
 ナツは葬儀場の洗面所で話していたときと同じ顔をしていた。好きなことについて話しているときは、急に小さな子供みたいに可愛らしくなる。
(僕から見れば、いつも美しくて可愛いんだけど)
 ステージにアイドルとして立ち、観客をおもてなししているときの貌とは違うナツの素顔。きっと今日、カメラの前では、今みたいな表情は見られない。背後にバラや百合の花が咲きほこるような、トップアイドルらしい顔をしているはずだ。
 けど、今のようなタンポポみたいにニコニコ笑っているナツだって彼を構成している大切な一つの要素だし、無理して隠す必要などないだろう。ファンなら、たとえ玄関先の廊下で、ふにゃふにゃに蕩けているナツを見ても、喜びこそすれ、幻滅したりはしない。
(でも……いまの表情が、僕にだけ見せているものなら)
 独り占めしたい、誰にも見せたくない。そんな相反する気持ちが心の中に渦巻いている。恋仲になってからの朔良は欲深だ。
「よし、朔良、今から気合い入れて、芸能人オーラ出すよ」
「芸能人オーラって……その、出し入れ出来るものなんですか」
「うん、プロだからね。求められているモノを、お客様が望む形で提供する……それが嘘でもね。夢を与えられなくなったら芸能人として終わりだって、水谷さんはいつも言ってる」
「それは、分かるけど。無理しないで欲しいって、僕は思うよナツ。ナツがやりたくないんだったら、これからはナツの思う通りに」
 朔良はナツの夢を応援したいし、ファンや事務所の思い通りに動く人形にはなって欲しくない。……例え、その結果、朔良が役者になれなかったとしても。
 そもそも仕事で来たのに水谷の指示通り演技が出来ない自分は、端からプロ失格だし、スタートラインにも立てていない。それは、もう十分理解している。
 だからこそ試合に負けて勝負に勝ちたい。朔良は人として正しいことをしたかった。
「朔良は優しいね。けどさ、昨日、朔良がアイドルの俺を一番好きって言ってくれてから、なんか視界が開けたっていうか……もっとお仕事頑張ろうって思えて」
「う……うん?」
「だから、今日は、朔良のために頑張るよ」
 ナツの背後に一面の花畑が見えた。ナツがアイドルとして今より人気になってくれるのは、嬉しい。けれどナツは、もう自分で次のステージを見つけている。
 それなら、迷わずそこへ行くべきだ。
 ――あぁああああ、推しが尊い。
 ナツの放つ後光で思わずその場に崩れ落ちそうになった。
 嬉しいのに、喜べない。心を鬼にして「それは違う、ナツの信じた道を進むべきだ」と言えばいいのに、それが出来ない。
 水谷の思惑通り、アイドルとしてやる気を出しているナツを見て、無力な自分が不甲斐なかった。

 *

 ナツが撮影している間、朔良は事務所の所長、坂野上からお茶に誘われた。応接室のソファーで坂野上と向かい合って座り、コーヒーを飲んでいる。
 ナツの撮影中に朔良にやることはないが、遊んでいるようでなんだか後ろめたかった。本当のマネージャーなら事務作業などあるだろうが、水谷から個人的に役者として雇われているだけなので、会社員がするような仕事はない。無論、企業で働いた経験のない自分では即戦力にはなれないだろう。
「あの、今日の撮影、坂野上さんじゃないんですね。僕、代理マネージャーで、あまり業界のこともよく知らなくて。資料には――『羽鳥那月』さんって方だと」
「うちの事務所に在籍しているカメラマンなんだけど。僕より腕はあるよ。でも、あの子はねぇ、もう昔からワガママで」
「わ、ワガママ? ですか」
「この仕事受けてもらうのに骨が折れたよ。水谷さんに頼まれたら断れないし。昔たくさん仕事回してもらった恩もあるからさ」
 坂野上は好々爺のような落ち着いた話し方をしているが、昔は「売れる商業写真」なら彼というくらいのプロフェッショナルな仕事ぶりだったそうだ。
(全然、そうは見えない、ケド)
 白髪混じりの髪だが、定年には遠いし今が働き盛りだろう。襟付きのポロシャツの服装のせいか、休日にゲートボールにでも出掛けていそうな雰囲気がある。
「羽鳥くんはねぇ、芸能人の宣材写真とか写真集の仕事が、大嫌いで。昔の負い目なのかなぁ、芸能関係の仕事は嫌がるんだよ。古い建物とか、犬猫なら喜んで撮影に行くんだけど」
 人間嫌いなんだろうか。朔良は地下にあるスタジオで、カメラマンとナツが険悪な雰囲気になっていないか心配になってきた。
「羽鳥さんは動物が好きなんですか」
「見た目は全然そう見えないけど、可愛いもの撮るのが上手なんだよね、彼」
「でも、アイドルの写真も撮ったことあるんですよね」
 少し心配になって恐る恐る訊いてみた。
「うん。文句は言うけど、有能だし『人間』を撮るなら、彼以上に上手い人は国内にいないんじゃないかな。――商業的に売れるかどうかは別にして。彼は芸術家だから。撮影する写真は全部、芸術写真で、美術品なんだよ」
「写真が、美術、品ですか」
「そう。水谷さんから聞いてるかな? 羽鳥くん、昔は芸能系のスキャンダル写真撮ってたんだよね。で、その中の一枚が雑誌に載ってね……」
 それは朔良のよく知っている話だった。
「そのせいで一人のアイドルを引退に追い込んじゃったんだよね。けど、その少し後だったかなぁ、その羽鳥くんが撮った写真が有名になって、彼女、もう一度、芸能界で返り咲いたんだよね。『奇跡の復活劇』みたいな見出しがついて」
 ――母だった。
 当時、弱小芸能事務所で地下アイドルだった、初代SNN5のミカ。その写真以前の母は全然売れていなかったし、普通の女子高生だった。そんな母は、つい出来心で彼氏を作った。一緒に撮られたのは離婚した父だ。ただ、その写真で、せっかく大手事務所に再びスカウトされ返り咲いたのに、母は個人的理由で再び芸能界を去った。
(本当……自分の親だけど、我儘な人だ)
 今回の撮影に羽鳥を呼んだのは、その『奇跡の復活劇』を狙ってのことだろうか。朔良を個人的に役者として雇ったのと同じで、使えるものなら何でも使う。ナツを顔で売ると決めた水谷は、どうやら本気らしい。
「花本さん、気になる? 羽鳥くんの写真」
「そう、ですね」
「じゃあ、こっそり覗きに行こうか」

 坂野上の話からは、全く羽鳥の人となりが浮かんでこない。動物を愛する優しい人かと思えば、過去に芸能界のスキャンダル写真なんてものを撮っていた人でもある。
(不良少年が実は猫が好きみたいな? そういう人とか?)
 撮影でトラブルが起きていないかも心配だったので、朔良は坂野上に案内されて一緒に地下スタジオに入った。
 暗いスタジオの正面には、照明を当てた白ホリゾントのエリアがある。被写体のナツとカメラマンの羽鳥は、一対一で向かい合っていた。
 ナツの正面でスツールに腰をかけている羽鳥は、カメラを片手に何やら難しそうな表情を浮かべている。羽鳥の近くの作業台には、ノートパソコンとそれに繋いだディスプレイがあって、撮影した写真が映されていた。
 ナツの衣装はシンプルな開襟の白シャツに黒のパンツ。
 坂野上が上手いと言った通り、そこには、いつもステージで歓声を浴びているアイドルのナツがいた。今にも触れたくなるくらいの、とろけそうな甘い表情。ただ椅子に座っているだけの構図なのに、ナツの魅力が余すことなく引き出され、ずっとみていたくなるような、温かみのある写真だった。
 今回の撮影は、女性向け雑誌の一特集記事に載せるものだ。しかし、スタジオには、ナツとカメラマンの羽鳥だけで出版社の人間は誰一人いない。それどころかさっき二階で挨拶をしたメイクスタッフもいなかった。
「えっと、他のスタッフは」
「うーん、来てもらっても羽鳥くん、邪魔になるって追い出すからね。コンセプトとか打ち合わせは事前に終わってるから、彼一人でも問題はないんだけど」
「そ、そうなんですね」
 母の写真を撮った年齢を考えると、羽鳥の年齢は五十を過ぎているはずだ。けれど、少しも年老いた雰囲気を感じさせない。撮影の邪魔になるからか、明るい茶髪を後ろで短く束ねている。モデルのように背が高く、涼しげな目元に彫りの深い整った顔立ちをしていた。きっと若い頃はモテただろう。同じ年頃のはずの崎田と比べると凄い違いだ。一方は、その年齢でイメージする男性像そのままの男だ。
(機嫌、悪そう……だな。やっぱり芸能人は撮りたくないのかな)
 目の前で撮影されているナツが愛嬌の塊だとしたら、それを撮影している羽鳥は、無愛想を絵に描いたような人に見えた。
 被写体に向ける羽鳥の灰がかった鋭い瞳は、隠しているものまで全て曝け出されそうに感じる。坂野上は、彼を芸術家だと言ったが、確かにそう表現するのが合っている気がした。
「――別に彼、人の撮影が嫌いなんじゃなくて、むしろ逆で。人間の撮影が彼の専門なんだよ。もちろん商業的な写真も器用に撮れるんだけどね、今、ディスプレイに映ってるのが、そう。本当、つまらなそうに撮るでしょ、相手に失礼だよねぇ」
 シャッター音が空間を支配していた。
 坂野上みたいなプロには商業写真とそれ以外が明確に分かるみたいだが、朔良には違いなんて分からなかった。
 ただ、いつものアイドルのナツがいる、そう思った。
「これでも丸くなったんだよ。撮影中に指示出してくれるようになっただけマシで。前は無言だったからね」
 突然、カメラを片手で持ったまま、羽鳥がこちらを振り返った。
「あ、羽鳥くん、ごめんね。邪魔だったかな。こちら、ナツくんのマネージャーさんで、花本さん」
「……マネージャー。あぁ、さっきナツと庭に居た……ちょうどいい。もう頼まれた『アイドル』は、撮ったから。次、花本さん、こっちに来て立って」
「え? 立つ」
 羽鳥はカメラを作業台の上に置き、坂野上と朔良の前まで歩いてくると、唐突に朔良の手を掴んだ。
「ナツの気持ちが、全然撮れない。――絶対、彼、面白いのに」
 羽鳥から、さっきまでの冷たそうな印象が消え、急に目が輝き出した。おもちゃを手に入れた、子供みたいな目だ。
 羽鳥は朔良の手を掴んだまま、作業台の上に置いたカメラを再び手に取る。
「さっき、上の庭で二人喋ってたでしょう、二階から見てたんだよね。――俺、アイドルのキラッキラした顔撮るの嫌いでさ。それは、もう十分撮ったし、他の彼を撮らせてよ」
「き、嫌いって、ナツは、ASKETのアイドルで……」
 朔良は羽鳥から、白ホリゾントの前にいるナツへと視線を向けた。
「え、ナツ……どうしたの」
「羽鳥さん、朔良の手、離してください」
 ナツは朔良が今まで見たこともない目をしていた。冷たい目をして羽鳥を見ている。動揺している朔良をよそに羽鳥は、片手でカメラを持ち、ファインダーを覗くことなく、ナツに向けてシャッターを切った。
 テザー撮影なので、撮影された写真は、すぐにディスプレイに映された。
 朔良は、さっきのナツの冷たい目を怖いと思った。けれど、そこに映っていたのは、朔良だけを見ているナツだった。その真摯な瞳に、心臓が、ぎゅっと締め付けられて痛い。写真が叫んでいるみたいだった。
「いいね、この写真、人間っぽい。あぁ、花本さん、無理やり手掴んで悪かった。痛かったかな?」
「いえ、それは、全然。大丈夫です」
「……俺は『ナツ』を好きに撮っていいって言われたから仕事を受けた。今の方が、彼らしいよ。ま、売れるかどうかは、知らないけど」
「そんな、う、売れないと」
「芸能人として売れるのって、そんなに大事か? それより価値があって良いものがあるなら、そっちの方が正しい」
「それは……」
 朔良は言葉が続かなかった。自分も羽鳥と同じように思っていた。ナツが芸能界で売れるより大切なことがあるなら、それを大事にした方がいいって。
「羽鳥くん、あのねぇ、大切なお客様なんだから、ね。もう少し……」
「でも、坂野上さんだって、この写真いいと思うでしょう。さっきのより」
「それは、まぁ。いい写真だけど」
「今売れなくても、写真は嘘つかないから。必要なときに、必要になったらその時に評価されるよ。けど、俺は……別に評価されなくても、自分のこと認めてくれる人が一人でもいたら、それで良いと思ってる。そういう絵撮ってるときが幸せだし。――な、ナツ、最近、一番幸せだったことってなに? 俺は、別に知りたくないけど、雑誌の読者は知りたいらしいから、撮らせてよ。俺も、それを撮りたい」
「ナツ……」
 ナツは朔良の呼びかけに応えるように薄く唇を開く。
 朔良が羽鳥の座っているスツールの隣に立つと、ナツと視線が交差する。羽鳥がシャッターを押すたび、キラキラのアイドルだったナツから、少しずつ、少しずつ、仮面が剥がれていく。
「いいじゃん。綺麗なだけのアイドルって聞いたから、どんなのかと思って来たけど、そんなことない。いい顔、してる」
 ナツは幸せな顔をしていた。自分だけが知っていたナツの無邪気な笑顔。
 アイドルじゃない顔。
(ナツが、大好き、だ)
 確信があった。ナツは、この写真で、きっと今より仕事が来るようになるし、仕事の幅も広がる。
 この先、何もない空っぽの朔良は、ナツの隣に居られなくなる日が来る。
 早くお別れしないと、お互いのために良くない。分かっているのに、ナツのわたあめみたいに甘い瞳から視線をそらせなかった。




 朔良は子供の頃から五月が苦手だった。
 ゴールデンウィーク明けの学校が憂鬱だから、みたいな理由ではない。
 毎年、五月は宇宙人のような男に会わなければいけなかったからだ。

 十八歳になるまで年に一度、父親の誕生日に食事に呼び出されていた。成人してからは、その一年に一度の交流も断って疎遠にしていたが、それでも一方的にラインで連絡は来ていた。
 ――ねぇ、そろそろ、パパの誕生日だけどさ。
 猫とプレゼントのスタンプ。離婚したくせに、いつも自信過剰で、息子に少しの遠慮もない。面倒な父親。
 苦手なのは五月じゃなくて、父親、だったかもしれない。

 *

 坂野上写真事務所でナツの撮影が終わり、ESKプロダクションのビルに雑誌の取材に来ていた。
 事務所の五階、編集者が待っている打ち合わせスペースのドアの前で朔良は足を止めた。
 スーツの内ポケットに入れていたスマホのバイブ音が鳴っている。水谷からの仕事の電話だったらいけないと思い、確認しようとして誤って通話ボタンを押してしまった。
「朔良、どうかした?」
「あ、えっ……と、大丈夫です」
 スマホから顔を上げると、朔良の顔をナツが心配そうな目をして覗き込んでいた。ディスプレイには、父親の名前が表示されている。
「電話でしょう」
 スマホの向こうからテンションの高い声が聞こえた気がしたが、慌てて通話を切った。そのタイミングで、父親の誕生日を忘れていたことに気づいた。
 朔良からの折り返しを待ってくれるだろうと思ったが、間髪入れずに再びバイブ音がする。
「急用じゃないかな。取材だし、俺なら、一人で大丈夫だよ」
「ううん、ごめんナツ、大丈夫だから、部屋入ろう編集さん待ってる」
「……そう」
 そのまま片手でスマホの電源を落とし部屋の中に入った。
 ナツの隣の席で取材が終わるのを待っている間、父親のことを思い出し、終始うわの空だった。最近は誕生日に会わない代わりに、適当なプレゼントとメッセージだけ送っていたが、今年は完全に忘れていた。
 今は父親のことなんて考えている余裕がない。そもそも成人しているのだから、もう縁を切ってしまってもいいと思っている。
 切ったところで、血のつながりはあると言われるかもしれない。でも朔良は、あの男との血の繋がりを疑っていた。――地味でうだつが上がらない、いつも母親のそばにいる崎田の方が、朔良の本当の父親なんじゃないか、と。
 どんなに考えないようにしても、年に一度、父親が律儀に連絡してくるせいで嫌でも思い出してしまう。思い出したところで訊けやしないのに。
 これ以上、苦手な父親のことで頭を占められたくないし、こんなくだらない悩みなど、早く片付けてしまいたかった。
(今は、ナツのことを一番に考えたい)
 このまま、あの写真が雑誌に載れば、おそらくナツは、もう朔良の手の届かないところに行ってしまう。売れないアイドルだった母の運命を変えた、例の写真。それと同じことが、この先起こるだろう。
 朔良は、ナツが思う一番の夢を応援したかった。その結果、自分がナツの目の前から去ることになっても、後悔はしない。
 ――しない、と思うんだけど、な。
 あまりにも、ナツと一緒にいるのが幸せで、夢みたいで。胸の奥のチクリとした痛みに気付きたくなかった。

 取材が終わったあと、ナツに断ってトイレに行き、そこで父親に電話を掛け直した。
『あぁ、やっと繋がった。無視しないでよ。パパ悲しいだろう、誕生日も忘れて、ひどい息子だなぁ』
「パパって……。何か用事ですか。僕、いま仕事で忙しいから、手短にお願いします」
『つれないなぁ。ちょっと、今日時間作ってくれないか』
 いつも人を小馬鹿にするような声をしている父親が、電話の向こうで珍しく「父親」の声をしていた。
「急だなぁ」
『今、君がしている仕事について、だよ。ミカさんさ、君のこと、すごく心配していたよ。パパにもちゃんと説明しなさい』
「なん、で、そんなこと……別に」
 思わず言い淀んでいた。犯罪に手は染めていないが、演技で他人を思惑通りに動かすなんて、褒められたことじゃない。既にそれに気付いていたので強く出られなかった。
『いいから、仕事で新宿まで来てるから。夜なら少しくらい時間作れるだろう。まさか、労働時間も守られてない仕事じゃないだろうね。そんな仕事、パパ許さないからね』
「そんなことないけど……」
『じゃあ別に、食事くらいいいだろう』
「分かりましたっ、行きますよ。今の仕事場から近いんで、XXホテルでいい?」
「いいよ。予約しておくから、七時に来なさい」
 通話を切ったあと、なんだか気力と体力をごっそりと奪われた心地がした。

 *

 一日のスケジュールが滞りなく終わりマンションに着いたとき、ナツに「今日は知り合いと食事する」と伝えて外に出た。
 ナツが住んでいるマンションから歩いて行ける距離にあるXXホテルに着くと、ロビーで、いけすかない顔をした父親が待っていた。
 朔良の姿を見つけると、キリリとした表情が一変して相好を崩し手を振ってくる。なんだか、そういうところは少し崎田と似ている気がした。
 父はベンチャー系企業で社長をしている男を絵に描いたような格好をしている。実際そうだ。
 白髪は綺麗に黒く染めて、後ろに流すように、きちんとセットしているし、ダークグレーのスーツには皺もない。
 離婚して一人で生活しているはずなのに、少しもくたびれた様子がなかった。
(若作りした元気なおじさん……だなぁ)
 なんだか痛々しく感じて思わず目を細めて見てしまった。
 老舗ホテルの一階にあるレストラン。通された席は窓側で、全面ガラス張りの窓からはライトアップされた英国風の庭が見える。金曜日の夜で、周囲は男女のカップルが多く、半分以上席は埋まっていた。
 オーソドックスなコース料理だったので、父親と仲良く注文を決めるなんて、面倒な交流をせずに済んで良かった。
「スーツ、似合ってる。いやぁ、大きくなったなぁ。七五三が、つい昨日のことのように感じるけど。スーツ着て仕事するような年になったんだね」
 感慨深い声で言われて、背中がぞわっとした。
「大きくって、会ったの三年前。そんな変わってないよ」
「機嫌悪いねぇ。急に呼び出して悪かったよ。それで、ミカさんに聞いたよ。芸能関係の仕事だって? パパに言えないような危ないことはしていないだろうね」
 両親揃って子供扱いだった。彼らにとって朔良は、いつまでたっても金持ちの家に生まれた世間知らずの息子なのかもしれない。
(世間一般の普通の父と子って、どういう感じなんだろう)
 思春期の多感な頃に、この面倒な父親と本音でぶつかっていたら、何か分かったのだろうか。本質的なところで、父親というものがよく分からない。分かりたいと思ったこともあるが、そもそも分かり合う前に出て行ってしまった。
 そのせいか父親に対して苦手意識ばかりが残っている。
 近い将来、父親の役をする機会があれば、困る気がした。――そこまで考えて頭を振った。
(いや、役者は、もう、僕には向いてないって分かってるよ。未練なんてないし!)
 父はワイングラスを傾けると、にこりと微笑んでくる。どれほど好意的に話しかけられても、やっぱり嫌いだった。何も知らないのに、朔良のことを全部分かったような目をするところが、馬鹿にされているように感じる。
「どうかした?」
「なんでもないよ。仕事は守秘義務があるから、話せない」
「守秘義務ねぇ。本当、芸能界は秘密と嘘ばっかりで、嫌になるよ。ミカさんも何にも話してくれなかったからなぁ」
「会社ならどこでも、守秘義務あるじゃん」
「少なくとも、僕は嘘を吐かないからなぁ、そこは芸能界と違うところだよ。あと僕は隠し事が苦手だし」
 昔を思い出しているようで、父は少し遠くを見つめていた。
「母さんにも言ったけど、危ないことはしてないから、心配いらない」
「そ、まぁ、仕事相手に監禁されてないって分かったから、安心したよ」
「監禁なんて、あり得ないよ」
「でも物騒な世の中だからね。親なんだから大事な息子の心配して当然だろう。――それにしても、僕の子だし、てっきり君は会社経営の道に進むと思ったんだけどなぁ。結局、芸能界かぁ、残念だよ」
 そう言って父は大袈裟に肩を落とした。
「経営ってなんで、僕、そんなの全然興味ないし」
「えーだって朔良、大学は経営学部受験したでしょう? 僕、すっごい嬉しかったんだけどなぁ。父の背中を見て育ってくれた! って」
「……出て行ったくせに。父の背中って」
「それは、それ。これはこれ。ミカさんのことも朔良のことも、今でも愛しているよ。ただねぇ、離婚については、人生に対するお互いの方向性の違い? かなぁ」
 社長だし世間一般的に見れば、常識のある大人のはずだ。それなのにバンドマンの解散理由みたいなことを言う。まったく理解できない宇宙人だった。
 嘘をつかないと言いながら、結局、父も嘘と秘密ばっかりだ。
 適当なことを言って、朔良には離婚の本当の理由を言わない。
 一度は、夫婦だった。けれど母が芸能界に戻って、しばらくして離婚した。朔良が知っているのは、それだけだ。――あの羽鳥が撮影した写真がきっかけで再ブレイクして、気持ちが離れなければ、二人は今も普通に夫婦だったんじゃないかって思う。もちろん写真のせいで不幸になったわけじゃない。むしろ父と母は離婚してからの方が、自分らしく生きて幸せそうにしている。
(じゃあ、僕は)
 身勝手な両親のせいで、二十歳を過ぎた大人なのに、いつまでも子供みたいな心の欠片が残っていて情けなかった。
 ――ずっと訊きたかったことがある。
 いい加減、大人になりたかった。
 いつまでも、もやもやしているのも嫌で、もう、これで最後という思いで伝えた。
「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど。僕の本当の父親って、崎田さんなの? 離婚理由もそれでしょう」
 やっと、言ってやった、と胸がすっとする思いがした。父はグラスを持ったまま、目を丸くしている。そして、赤ワインが入ったグラスをテーブルの上に置くと、両手をテーブルの下に下ろし、難しい顔をして朔良の目を見つめた。
 深刻にするつもりはなかったのに、少し後悔した。
「崎田って、ミカさんのマネージャーだった、あの崎田くん? 違うよ。え……そんなこと思ってたの朔良」
「だ、だって!」
「あのね、正真正銘、君は僕とミカさんの愛の結晶です。レストランじゃなかったら、抱きしめてあげるんだけど、え、どうする。場所変えてやり直す?」
「き、気持ち悪いな」
「なんで、そんな勘違いするのかなぁ。第一さ、君、僕に、すごい似てるじゃん顔」
「に、似てないよ。さ……崎田さんの方が……あの人料理上手いし、地味なこと好きだし、僕に似てて」
「それは知らないけど」
「知らないのかよ」
「だって、僕。崎田くん嫌いだもん。同級生だったんだけどさぁ、あいつ、昔から才能あるのに、全然努力しないし。そのくせ、ちょっと不良ぶってるから、あれでモテるんだよね。女の人ってどうして、ちょっと影のある男にコロっていくんだろうねぇ、僕の方が誠実なのに。昔から、おモテになって」
 完全に僻みだろう。なんだか、急に父が人間に見えた。さっきまで宇宙人だったのに。
「それに、崎田くんはゲイだからなぁ。彼は、今も昔も、僕とミカさんの友達だよ」
「は……?」
 突然の父の告白に頭が真っ白になった。
 本人の同意なしにアウティングするなんて、絶対に許されない行為だろう。
 けれど父は崎田を嫌いと言いながら、友人だとも言った。少しも悪意があるようには見えない。
 思えば、確かに崎田の近くで母以外の女の人を見たことがなかった。だからこそ朔良は、二人の仲を疑っていた。
 ただ崎田は、朔良の家によく顔を出していたが、それでも泊まってるのは見たことがない。――言うまでもなく、母親の部屋から出てきたこともなかった。
「これで安心したかい? 君が僕とミカさんの子だって」
「でも、さ、そういうの、人の秘密、勝手に言うのは駄目だと思うよ、僕。絶対……駄目だ」
 朔良がそう言うと、父は目を細めて笑った。
「僕は崎田くんより、朔良の方が大事だからね。それに彼だって、朔良がそんなことで深刻に悩んでいるって知ったら、言っていいって言うよ。碌でもない社会不適合者だけど、崎田くん、君のことずっと大事にして色々面倒みてくれただろう?」
「それは……うん」
「それに、朔良は誰かに秘密を言いふらしたりしないだろう。僕は、息子のこと信用しているからね」
 父はメリットとデメリットだけで生きているし、頭が良く回る男だ。衝動的に言ったように見えたが、ちゃんと考えていた。
 でも、父親の、そういう白黒思考で、すぐに決断するところが嫌いだった。自分は、父と違い、いつもぐずぐずと迷ってばかりで、同じところで足踏みしているから。
「しかしねぇ、いつから、そんな勘違いしてたの。あぁ、もっと早く言ってよ。普通に僕と似てるでしょ、顔とか、性格とか」
「全然似てない」
「似てるよ? 顔は若い時の僕そっくりだし。負けず嫌いで、努力家で猪突猛進なとことか」
「え? 僕、そんなとこないけど」
 父が言う性格は、自分で思っている性格と正反対に思えた。
「うーん正確には、演劇しているときの君の顔が、昔の僕に似ている、かな。……こっそり、よく見に行ったなぁ、朔良は演技上手だよね。そこはミカさんに、そっくり」
「僕、一回も父さん公演に呼んでないけど」
「ん、君の近くには、優秀なスパイがいるからね」
「スパイって……」
 父はニヤリと笑った。
 そう言えば公演のチケットを捌くのに苦労していたとき、何回か崎田に欲しいと言われたことがあった。
 朔良は父親にそんなふうに見られていたとは全然知らなかった。

 *

 食事が終わり、レストランを出ると、ホテルのロビーで父に手を握られた。
「なに……急に」
「何って握手だろ。さっき抱きしめてあげられなかったから」
「いらないよ、そんなの」
「そ? 朔良、芸能界の仕事がもし嫌になったら。僕のところにおいで」
「いい、です。絶対、嫌。親族経営なんてデメリットしかないよ」
「まぁ、それは確かにね。よく勉強しているね。とにかく、困ったことがあったら、いつでもいいなさい。といっても、お金……は君は困っていないだろうしねぇ、他に欲しい物ある?」
 父がそう言ったときだった、急に耳の横で風を切るような音が聞こえた。
 気付いたときには、父と朔良の間に人が割り込んでいる。
 ――そこにいたのは、朔良のよく知っている男だった。
「朔良、お金で他人を思い通りにするなんて、ろくな人間じゃないよ」
「な……ナツ。なんで、ここに」
「俺、朔良が心配だったから、ずっと外で見てた。昼から……様子変だったし」
「え、えぇ、見て、見てたの、ナツ。どこで」
 朔良の動揺をよそに、父は気にした様子はなかった。
「朔良のお友達かな? 僕も同意見だ。それは、脅迫で犯罪だからね。芸能界に限らず、お金で人を思い通りにする人間には、気をつけないといけないよ」
 ナツは、そう言った父を睨みつけると、朔良の腕を引いた。
「朔良、うちに帰ろう。その人と一緒に行っちゃ駄目」
「あ、う……うん、行かないけど」
 そのまま反論する間も無く、手首を掴まれて、ナツとホテルのエントランスを出た。

 ――多分、すごい勘違いをされている気がした。

 マンションへ帰る道中は二人とも終始無言で、ずっと朔良の右手はナツに握られたままだった。手を繋いでいるところを誰かに見られでもしたら、と心配を口にすることもできなかった。
 扉を開けた途端、朔良は抵抗する間も無く玄関先でナツに押し倒された。
「……ナ、ナツ。ど、どうしたの」
 普段の温厚なナツからは、想像できないような荒々しさだった。
 ナツは被っていたバケットハットとセルフレームの眼鏡を無造作に廊下へ投げる。
「朔良……」
 今にも泣きだしそうな混乱した様子で前髪をかき上げると、小さく息を吐き再び朔良の腕を掴んだ。
 絶対に逃さない、そんなナツの心の声が聞こえた気がした。
「昼間、どうして……俺に電話の内容秘密にしたの?」
 暗く澱んだ瞳が真っ直ぐに朔良を見下ろしている。朔良は怖くて、その場で小刻みに震えていた。
「ナツ、えっと……違う、からね。多分、誤解だよっ、ぅ」
 ナツは朔良の顎に手をかけるとキスで口を塞いだ。
「……朔良は、悪い子だね。俺を騙したの?」
「ッ、ぅ……ぁ、んんっ」
 性急な口づけに朔良は焦りを覚えた。
「ねぇ、朔良。キス、気持ちいい?」
 今すぐに誤解を解かなければと頭では分かっているのに、体は勝手にナツの手と唇に反応してしまう。
「っ、あっ! な、ナツ、本当に、ち、がうから。あの人、は」
「あの人……か。随分、親しいんだね。パパって呼んでたし」
「よ、呼んでないよっ!」
 ナツに必死で反論する朔良の声はうわずっていた。
「嘘、だ」
 やっぱり誤解していると分かった。父親のことをパパなんて呼んだことがない。
(いや、言った……。一回、だけ)
 おそらくナツは昼間、トイレで朔良と父の電話を聞いていたのだろう。スタジオを出てからは終始上の空で、ナツに跡をつけられていたなんて気づいていなかった。
「呼んでたよ。パパとホテルで会う約束してたじゃん。さっき、俺が行かなかったら、あの人とホテルで寝てた? そんなに上手なの? セックス」
「ないないない! 絶対!」
 あの父親と仲良く、なんて死んでも想像したくない。胸元にあったナツの手は下腹へと移動する。朔良は戸惑いながらもこくりと喉を鳴らしてしまった。
「ほ、本当、誤解だよ! ナツ、ぁああ」
「何が誤解? ねぇ、いつから、俺……騙されてたのかな」
 一際、敏感な場所を指先で撫でられ、朔良は甘やかな声をあげた。その声を聞いたナツは寂しげな表情を浮かべた。こんな傷ついた顔をさせたくないのに。
 最初のエッチが特別に幸せだったから。身体がナツの指の動きを想像して勝手に欲していた。
「朔良はえっちだね。玄関先で、とか無理やりされるのが好きなの?」
 責め立てる言葉で煽られて頬が朱に染まる。
 ナツと付き合う前の、以前の自分だったら喜んでいたかもしれない。推しで、大好きなナツに無理やり抱かれるなんて夢みたいなシチュエーションだ。
 けれど今は違う。こんなふうに誤解したまま抱かれるなんて絶対に嫌だった。
「昨日……途中までで物足りなかった? ごめんね。やっぱり……朔良も俺のこと、顔だけって思ってたんだね」
「ち、違うよ、もう、ナツ、手、止めてっ」
 朔良は自分の股間の上を動くナツの手を押さえた。けれどナツの手淫は止まらない。
「どうして? 気持ちよさそうなのに、下、こんなに熱くなってる」
「な、ナツが触るからっ! だよっ」
 ナツとした初めてのエッチは、お互いの体を触り合うだけで、それでも二人にとって特別で幸せな時間だった。今の行為は朔良を追い詰めるためのものだ。ナツの手は無理やり朔良の性感を高めるように動いている。
 心とは裏腹に素直に反応する身体に情けない気持ちになった。
「ねぇ、パパって、何。……朔良にまで、嘘つかれたら。俺、もう何を信じたらいいか分からないよ」
「ぁ、ナツ、いま、話すから! 待って!」
「俺の、セックス、下手だったから? だからパパに電話したの?」
「下手じゃないよ! そもそも、僕ナツしか知らないんだから! 比べられないっ」
「俺も朔良しか、知らないよっ!」
「それも知ってるよ! 昨日教えてくれたじゃん」
「ぅ、朔良、どこにも行かないで」
 どこにも行かないでほしいってセリフは朔良がナツに言いたい言葉だった。胸がぎゅっと締め付けられる。
「もっ、もう」
 甘えたな寂しい兎の瞳が、朔良を捕らえて離さない。朔良は必死の思いでナツに抱きつき、その勢いでナツを玄関の床に押し倒し返した。呆気に取られたナツは、きょとんとした丸い目で朔良を見上げている。
 朔良は下半身を晒したまま、ぐちゃぐちゃの格好でナツを見下ろしている。とにかく、なりふり構っていられなかった。
「ナツ! あのね! 本当に、違うから! あの人は、僕の父さんだから! うち親が離婚してて」
「え、父さん……? でも、全然、似てなかった、よ」
「それは……僕も、そう思う。実際、今日まで、本当の父親じゃないと思ってたし。その誤解は……今日解けたんだけど」
 ナツの表情がたちまち焦りに変わっていく。
「ぇ、あ……じゃあ、もしかして、俺、親子の感動の再会の邪魔を」
「それはない。絶対ないから! 年に一回は会ってたし」
「俺……父親から息子を突然連れ去った不審者じゃん」
「それも、多分大丈夫、お友達って言ってたし。ナツが芸能人なのも……父さん分かってると思う」
 少なくとも十年くらいは芸能人の母と一緒にいたし、恐ろしく頭の回転が早い人だ。本当にナツを危ない人だと思っていたら、その場で朔良がナツと帰るのを止めていただろう。父親のことが苦手でも、その程度の信頼はしていた。
(いや、信頼、じゃないな。信頼はしていない。理解とか、把握?)
 手放しに信頼できるほど長い時間を、父と一緒に過ごしていない。朔良が父に抱いていた心は、ずっと不信感だった。そのせいで、今日まで誤解を続けていたのだから。
 朔良は自分が、崎田が母親と不倫して出来た子供だと思っていた。
「朔良、えっと」
「だからね、僕、パパ活とか絶対してないから!」
 さっきとは逆の体勢で、今はナツが自分の体の下にいる。ナツは可哀想なくらい動揺してた。
「ご、ごめん、ごめんなさい! 朔良、俺、一人で暴走して、酷いこと言った」
「ううん。僕も、はっきり父さんと会ってくるって言えば良かった。……色々思うところがあって、昼間は余裕がなくて」
「何か……あったの?」
 心配そうなナツの表情に、心のなかの重石がふっと軽くなる。もっと、ナツと話したいと思った。まだ、彼のことを何も知らない。
「……うん。仕事中なのに、個人的なことでナツに心配かけて、こっちこそ……ごめんなさい」
「俺、てっきり、朔良に飽きられたんだとばかり」
「それだけは、絶対ないよ。どれだけ長い間、僕がナツのファンだったと思ってるの? ガチオタだよ」
「絶対……ない?」
「絶対!」
 さっきまで不安な顔をしていたナツは、目に涙を浮かべて、目をキラキラさせている。
「ナツ、あのね、僕の話、聞いてくれる?」
 ナツは朔良に向けて手を伸ばし、床の上で、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「そういえば、俺たち付き合ったばかりだったね。……俺も、もっと、朔良と話したい」
 ナツは目を細め、ねだるように少し唇を尖らせた。その愛らしさに胸がきゅんとなる。
 お互い磁石で吸い寄せられるよう近づき額がこつりと当たった。
「朔良、ちゅーする?」
「……うん」
 微笑み合ったあと、玄関先で長いキスをしていた。
 *

 ナツにバスルームに連れていかれて、一緒にお風呂に入ることになった。
 初めて話してから四年経っているといっても、まだお互いのことを全然知らない。
(だから、裸の付き合いで、もっと仲良くなる……って)
 恋人同士になったのだし、一緒にお風呂に入ってもおかしくはない。けれど、お互いの髪や体を洗い合ったりしていると、どうしても、アイドルとイケナイことをしている気分になる。
「ねぇ、朔良、どうして、こっち見てくれないの?」
「だって、恥ずかしい、し」
 湯船は二人で入っても十分の広さだが、ナツは朔良にぴったりとくっついてくる。
 一緒にお風呂に入るよりも恥ずかしいことをしているし、さっきだって玄関先で何度もキスをした。朔良はナツの顔にも体にも、この先慣れることなんてないと思っている。
 このまま隣にいたら、一生ドキドキしているから朔良の方が先に死んじゃうだろう。
 風呂のオレンジ色の灯りの下、あますことなくナツの裸体が晒されている。その美しい身体から逃げるように距離を取り、壁を向いて座りなおしたら、じりじりと距離を詰められて、背後から、ぎゅっと抱きしめられた。
「さーくら……」
 ナツの手がお腹に回って、下腹に触れた。すぐに緩く反応してしまって情けない気持ちになる。
「ッ……ぁ、ぅ、ごめん、なさい、だらしない体で」
「あー玄関で、中途半端に触ったからなぁ、ね、ここでさっきの続きシよっか」
「だ、ダメ、です。は、話……したい、し。あと少ししたら、多分落ち着く、し」
「じゃあ、話のあとで、ね」
 ニコッと悪意のない笑みを向けられた。
「あっ、あとで、って」
「俺、お風呂でコミュニケーションするのも、大事だと思うよ」
「ッ、ぅうう」
 体が離れるとき耳朶に音を立ててキスされて、また体が火照りそうになる。
 並んで湯船に浸かり、しばらくして、やっと人心地がついた。
(やっぱり、綺麗な顔だよなぁ。国宝級だもん)
 温まってほんのりと色づいているナツの頬とシャンプーして濡れた髪。
 あまり見ていると、また勃ってしまいそうだった。
「さっき俺、恋人のお父さんをパパ活している男を見るような目で見てしまった。どうしよう」
「全然気にしてないと思う。あの人、基本、無神経だし。そう思われても自業自得だよ」
 ナツは両手で湯船の湯を掬い、顔を覆った。
「俺は気にするよ。恋人のお父さんだよ? 近い将来、挨拶に行かないとだし」
「え」
「えって、なぁに? 俺が挨拶に行ったら、ダメかな? もちろん、すぐにじゃないよ。いつか、朔良が自分のこと周りに伝えても大丈夫になったら、ね」
 ナツの言葉に少し驚いていた。自分はクローゼットゲイだし、好きになったその先のことなんて考えていなかった。でもナツは自分との未来を考えてくれている。
 ナツとのお付き合いをいい加減に考えていた訳じゃない。ただ、長年当たり前のように思っていた、人とは違う、どうせ知ったところで受け入れてもらえないって意識は、すぐには変えられそうになかった。
(けど……理解されなくても、受け入れてもらえる人もいるんだな)
 父は崎田のことを嫌いだけど友達だと言っていた。嫌いと思うようなった事情は知らないけれど、嫌いでもゲイの崎田を理解はしているようだった。
 思えば、いつも朔良は端から諦めて自分を隠してばかりだった。
 ナツに気持ちを知られてしまったときは、ショックで身を引き裂かれるほど怖かった。けれどナツは、そんな臆病な自分や、傷ついた気持ちごと受けいれてくれた。
 ――だから、ナツのこと、特別、好きになったんだろうな。
 朔良にとっての普通を、当たり前のように思って寄り添ってくれた人だから。
「朔良、俺は、サクラの気持ちが一番大事だからね」
「嬉しいです。でもさ、そもそも、あの人、もう関係ない人だしなぁ」
「俺、遠くから見てたけど、関係ないって顔じゃなかったよ。朔良、本当は、好きなんじゃない? パパのこと」
「僕、あの人のこと、一度も、パパなんて呼んだことない」
「ふーん、そ。素直じゃないなぁ」
 ナツは、くすくす笑いながら隣の朔良を探るように見た。
「両親が離婚したの、小学校の頃だったし。仲悪いのは仕方ないんだよ。多分一生こうだと思う」
「いつか仲良くできるといいね」
 朔良は多分無理だろうなぁと思いながら小さく息を吐いた。
「ナツ、聞いて欲しかったのはね。うちの母さん、アイドルだったって言ったでしょ」
「うん」
「SNN5のミカって分かる? ……その人が僕の母さんで」
「えーすごいね。伝説の人じゃんアイドルのあと女優もしてなかった?」
「うん、それでね。『ミカ』って、一度落ち目になって引退してたんだけど」
「あーESKプロダクションに入ったのって、確か一回目、アイドル辞めた後だったかな」
「そう。その復活劇に絡んでたのが、今日、ナツの写真撮ってた、羽鳥カメラマンっていうのを、僕、昼に知って」
「えー、それなんか運命じゃない? 縁が繋がってるっていうか」
 ナツの雑誌の撮影に羽鳥が呼ばれたのは、運命じゃなくて、ナツのアイドルとしての成功を目論んだ必然だ。
 ここへ朔良がいるのだって水谷プロデューサーの計画の一つに過ぎない。
「僕さ、今日の撮影中、ナツ見てて。すごく……怖くなったんだ」
「え、怖い? なんか変な写真あった? 心霊写真とか」
「そうじゃなくて、幽霊写ってたら、それはそれで話題になって雑誌売れそうだけど」
「そーだね」
「あのね、僕の生活が一変したの、羽鳥さんの写真が、きっかけだから、それで……」
 心霊写真みたいな怖さは、朔良にとっては少しも怖いものじゃない。朔良が一番怖いのは、現実世界だ。
 自分だけが何も知らずに、取り残されていく心細さ。
 件の写真で母は芸能界で再び売れ、家に帰らなくなった。父も母と同じように仕事に楽しみを見つけ没頭するようになった。家族の気持ちがバラバラになって、朔良は家で一人になってしまった。
 昔と同じように朔良は、また羽鳥の写真が原因で一人取り残されるんじゃないかと思った。
 もう大人になったのに、子供の頃の傷は心に残り続けている。
「――そっか、じゃあ。朔良は、俺が羽鳥さんに写真撮られているの見て、寂しくなっちゃったんだ」
「だ、だって……今日のナツ、かっこ良かったんだもん。なんか、遠くに行っちゃいそうで……自分何もないやって、なんか無力さに打ちひしがれてたの」
「えー可愛いなぁ! よしよし。朔良はお芝居上手じゃん、昨日、すごいかっこ良かったし」
「そうかなぁ」
「うん」
 ナツが朔良に近づいたことで、お湯が大きく波打つ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、濡れてぺしゃんこになっている頭を撫でられた。
「なんか、小さな子供みたいで、恥ずかしいなぁ……でもさ、あの写真が掘り起こされなかったら、母さんはアイドルのあと女優なんてしなかった。坂野上さんも、羽鳥カメラマンって人を写す天才だって言ってたしナツも……って、ナツ?」
 急に静かになった隣を見ると、ナツはにこにこと砂糖菓子を溶かしたような甘さで微笑んでいた。
「それで、俺が朔良置いていくと思ったの? ――大丈夫、俺はどこにも行かないよ」
「っ、う、だからぁ……あぁ、もう。言葉にすると恥ずかしいな」
「全然、恥ずかしくないよ朔良。俺も、急に一人になったときの寂しさってよく知ってるから」
 ナツは濡れた前髪を両手でかきあげた。
「一人でいる寂しさもあるけど、俺は周りに人が沢山いるほど自分との差を感じて寂しい気持ちになるよ。芸能界なんて本当、嘘ばかりだし、空っぽの人形になったみたいに感じる」
「人形?」
「そ、言われた通りに動くお人形さん。最初の頃なんて、その周りの甘い嘘に気づかないで真に受けて、素直に喜んで調子に乗って」
 恥ずかしいなぁと言って、ナツはお湯に顔をつけた。
「調子に乗ってたの?」
「うん、乗ってた。歌もダンスも人一倍努力してるって思ってた。でも、今思えば全然足りていなかったし、上には上がいるからさ……顔だけで売れて、調子に乗ってる奴って言われて当然。そんな周りの声に傷ついて寂しいとか感じてる時点でプロ失格だ」
「それは、調子に乗るのとは、違うんじゃないかな。ナツは求められて、この場所にいるんだし、何言われても堂々としてたらいいと思う」
「朔良は、優しいね」
 ナツは浴室の天井を仰ぎ見た。
「僕さ……ナツは、今日の写真で売れると思うよ。すごく、いい表情で撮れてて」
「そ? だったら嬉しいなぁ」
「……嬉しい?」
「うん。自分じゃ全然アイドル向いていないって思うけど。今日は、朔良に喜んで欲しくて頑張ったし、だったら今日の仕事は百点だなぁ」
 嬉しいのに喜べない、複雑な気持ちだった。
 水谷が考える通り、このままナツがアイドルとして売れるのが正しいのだろうか。同時に罪悪感があった。ナツは朔良と出会わなければ、自分の手で見つけた本当の夢に向かって迷わず歩めたかもしれない。朔良の存在がナツの邪魔をしている。
「ね、朔良、そろそろ、続きしよっか」
「え、こ、ここで」
 朔良が後ろに下がって湯面が大きく揺れる。頭の横に手をつかれて逃げ場がない。
「いいじゃん、寂しいときは、えっちしたら吹っ飛ぶらしいから。朔良の不安もなくなるんじゃない」
 濡れた髪をかき上げて、ナツはにっ、と笑った。
「それ、怖い系のやつじゃん」
「どっちでも、いいよ。朔良。ね、キスしよ」
「んっ……」

 お風呂のお湯のせいだけじゃない。ナツのくれる熱で頭が真っ白になった。