「……………………」
 教室の一角で、机の一点を見つめてぼーっとしている彼。話しかけないでほしい、近寄らないでほしいというオーラが出まくっている。私は悩んだが、声をかけるのは控えておく。もう少し様子を観察しよう。
 特に理由もなく彼を見つめていると、私が大嫌いな数学の授業が始まった。前はつまらなすぎてずっとペン回しとかしてたなぁ。そもそも意味わかんないし。三角関数、ベクトル、指数関数・対数関数……。もう考えたくもない。まぁでも、もう受ける必要はなくなったし、適当に時間潰そう。
 私が最近観察している彼とは、私の初恋相手。よく話したし、交際にだって至ったのに、急に素っ気なくなったのだ。素っ気ないというか、私のことを完全に無視している。大好きなはずの読書だってしなくなったし、時々見えるその表情は魂が抜けているみたいだ。この授業だって、教科書は出しているものの、ノートをとる様子は全くない。別人、というより幽霊? みたいな。部活も辞めてしまったみたいで、ここ数日はとぼとぼと帰宅している。何してんだ、ほんと。

 つい最近秋が来たと思ったら、もう世間は冬。気温は一気に低くなって、度々吹いてくる風が寒さに追い打ちをかける。十二月になって予想はしていたものの、秋があっという間過ぎて気を抜いてしまっていた。
 そんな寒さを全く気にしていない彼は、今日も真っ直ぐ家に帰る。そう思っていたのだが、なぜか普段は通らない道を使っている。それを私は、不思議に思いながらもいつも通り追っていく。
 彼が進んでいる道は、私にとってはとても馴染みがある。だから彼が向かう場所も、だいたい想像できる。何度も彼とこの道を使い、そこへと歩いたから。数えきれないくらい、歩いたから。
 冬至の日も近づいてくるこの月は、日が暮れるのが本当に早い。茜色に染まった空から照らされる彼の後ろ姿は、以前とは違ってどこか寂しさを帯びている。たくましかった面影は、もう消えてしまったみたい。やっぱり何かに取り憑かれてるのか?
 予想は的中したようで、想像していた場所——私の家の前で足を止めた。インターホンと向き合った顔を横から覗き込むと、魂が抜けていた顔ではなくどこか緊張しているようだった。それに躊躇するような素振りも見せている。てか、相変わらずこんなに見ても反応してくれないのか。悲しいなぁ……。
 彼は無言のまま考えるようにした後、恐る恐る伸ばした指でインターホンを押す。恐怖がありありと滲み出ているその動作は、全くもって彼らしくない。いつもは私の家に来るときはこんなんじゃない。まるで共有の家かのように振る舞っていたのに。
 私は見つからないように物陰に隠れる。母と会うのは少し気が進まないし、できれば顔も見たくない。彼を観察したいけど、ここは会話だけ盗み聞こう。
 そう思っていたのだが、なかなか会話が聞こえない。そのことに疑問を持ち始めて少し顔を出してみると、もうそこに彼の姿はなかった。いつの間にいなくなったんだと驚きながらも、私は気づかれないようにこっそりと家へ侵入する。自分が過ごしてきた、育ててもらった場所なのに、こんな風にしなければならないのがもどかしい。
 彼を探しがてら興味本位で自分の部屋へ向かう。久しぶりだなぁ、なんて思いながら入ったそこにはなぜか彼の姿が。今まで何度か招いたことはあるけど、流石に急に来られると恥ずかしい。ちゃんと綺麗にしておいてよかった。
 部屋の中央にただぽつんと立ったままの彼は、私の勉強机の上にある一つの手紙を眺めている。普段は虚空を眺めている瞳は、今はしっかりと生気がある。ただやっぱり、こんなに顔を近づけても無視してくるのは変わらない。目鼻立ちが整っていて、優しいだけじゃなくてイケメンな彼のことが、こんなにも私は好きなのに。なんで君は無視するの?
 傷つけないようにそっと手紙を手に取った彼は、ゆっくりと中を見る。
 涙を流し、手紙を持つ手が震えている彼を見るのは、本当に心苦しい。





『付き合ってください……!』
 中二の冬、クリスマスを一週間前に控えた日。俺は告白された。それもずっと大好きだった人に。
 それを聞いたとき、俺の頭はフリーズし、処理に時間がかかった。ちゃんと認識したときには、もう飛び跳ねたいくらい嬉しかった。恥ずかしいから跳ねなかったけど。
『一年間、よろしくね』
 きらきらと輝く笑顔を見せながらそう言った彼女に出会ったのは、中学校に入学したとき。一年生から同じクラスで、席も近かった俺たちはすぐに仲良くなった。そして、いつも明るくて優しい彼女にみるみる惹かれていった。好きだってことを自覚した頃には、彼女を気づけば目で追ってしまい、めっちゃ気持ち悪いことしちゃってるな、と一人で猛反省する日々が続いていた。だからといって、溢れかえる好意を抑えることなんてできず、俺は何度もアタックした。気になっている映画に誘ってみたり、夏祭りに誘ってみたり。少ししつこいかなとも思ったが、彼女と時間を共有する日々が楽しくてしかたなかったのだ。
 どんどん膨れ上がっていく想いに苦しむ日々に終止符を打たれる日が、まさかあの日だなんて思ってなかった。彼女の告白には、迷うことなく首を縦に振った。
 それからの日々は、今まで足に錘(おもり)をつけていたんじゃないかってくらい軽くて楽しく、あっという間だった。なかなか遊びに行くことができなかった受験期間も、彼女がいたから乗り越えられた。同じ高校に進学して、そして同じクラスだったときは、これからもそばで時間を共有できると思って本当に嬉しかった。いろんな場所へ出かけたり、ただ適当に散歩したり。手を繋いだこともあったし、ハグもキスもして、何度も『好き』を確かめ合った。その度に、これからもずっと一緒なんだって思った。
 だからこそ、わからなかったのかもしれない。
 彼女の様子に変化が表れ始めたのは、高二へと進級したとき。勉強の難易度の高さに苦しめられながらも、修学旅行も控えて楽しみにしていた矢先のことだった。
 彼女は少しずつ学校を休むようになった。その原因を何度訊ねても、『なんでもないよ』と笑顔で答えてくる。なぜか俺は、その笑顔を一切疑わなかった。今になってわかる。全くなんでもなくなかった。こうして消えてしまったのだから。
 もっと彼女のことを気にかけるべきだったと、今更ながら後悔している。会ったときはほぼ毎回薬を持ち合わせていたこと、時々苦しそうに咳き込んでいたこと、長期欠席や早退を繰り返していたこと、夏休みにはなかなか会うことができなかったこと。今思えばたくさん気づける瞬間があったのに、それを全て見逃してしまっていたことに悲しく、悔しさから怒りが湧いてくる。
『出会ってくれてありがとう。ずっと、大好きだよ』
 最後にあった日の別れ際、脈略なくそんなことを言われた。木の下には落ち葉によって足の踏み場がなく、まだそんなに寒さが厳しくなかった時期のことだ。どこか違和感のある言葉だったのに、俺はただ好意を伝え合って、それで満足してしまった。別れを悟った最後の言葉、気づく最後のチャンスを、あっさり手放した。彼女の笑顔が見れなくなってしまうことにも気づかず、呑気に微笑んでいた。
 その日から数日後。なかなか登校しない彼女を少し不安に思っていた時、突然絶望に叩きつけられる。
 彼女の訃報は、朝のホームルームで担任の先生から伝えられた。きっと彼女は、先生内でも評判が良かったのだろう。悲しみを押し殺したような、やるせないような感情を声に含んでいた。クラスは全く騒がしくならない。悲鳴も響かない。愛されていた彼女の死に、ただただ絶句することしかできなかったのだろう。時間が止まったように、音が聞こえない。何も見えない。少し温かみのある何かが頬を伝っている感覚を僅かに感じた。
 我に返ったときには、彼女と親しかったクラスメイトが声を上げて泣いていた。そして終始、『ふざけんな! 勝手に一人で死ぬな!』と嘆いていた。その気持ちは、俺にもすごくわかる。だが俺は、長い時間を彼女と共有したのに、たくさんのヒントをくれたのに気づかなかった。そんな自分が許せなくて、惨めで……。だから、その場で決意した。彼女の元へ向かうと。
 生きていけるわけない。辛すぎて、耐えられるわけない。そんなことを思いながら泣いて、放課後に向かった先は、マンションの屋上だった。

 自分の住む街が、こんなに綺麗だなんて思わなかった。煌々と輝く景色が、本当に美しい。こんな世界ともお別れだと思うと、なんだか寂しい気もする。でも、生きることは無理だろう。生きている姿が、想像できない。
 柵を乗り越えて、僅かなスペースに足を乗せる。想像以上の高さに身震いしてしまう。
 勇気がいるなぁ、これは。でも飛んでしまえば終わる。マンションは八階もある、頭を下にして落ちよう。
 さようなら。
「うっ」
 覚悟を決め、柵から手を離したとき、次に聞こえていたのは俺の呻き声だった。突然後ろに引っ張られて、屋上に引き戻された。目の前に広がっていたのは、身震いしてしまうような高さではなく、無数の星が煌めく夜空。叩きつけられたことで、背中にズキズキと痛みが走る。
「は……? なんで……」
 気づけばそんな言葉を漏らしてしまう。当たり前だ。どこを見ても人なんていないのに、急に引き戻されて、そして叩きつけられたら驚くのは普通だろう。
「後追い自殺なんてするな」
 不思議すぎる現象と、決めた覚悟を台無しにされたような感覚に陥って複雑な気持ちを抱えていると、闇の中から突然低い声がした。
「だ、誰? どこから……」
 柵とは反対側の暗闇に目を向けると、僅かに輪郭が見える。目を細めて捉えていくと、真っ黒の服を着ていることが判別できる。右手には大きな鎌のようなものと、少し浮遊している体……。
 これって……。
「うわあああああああああ!」
 街に俺の悲鳴がこだまする。迷惑がかかっていませんように。
 出したこともないくらい大きな悲鳴を上げながら距離を取ろうとすると、柵に思いっきり背中をぶつける。遅れて痛みがやってきたが、こんな異常事態でそんなこと気にしている暇はない。
 今俺の目の前にいるやつは一体なんなのだ。知っている限りで思いつくのは、死神。
「今日の生活を見ていたが、そんな声が出るとはな」
 相変わらず低く怖い声でそう零す。
 今日の生活を見ていた? どういうこと?
 全然意味がわからない。いつからいたのかも、そもそも俺は変な夢でも見ているんじゃないかとも思う。
「俺が何か、わかるか? ヒントは、このでかい鎌だ」
 そう言って俺に鎌を向ける。月明かりに照らされた、きらきらと反射するそれを見て、俺は確証する。絶対そうだ。
「し、死神……?」
「ご名答! まぁ、もうそろそろクビになるんだがな」
 ……いやいや。「ご名答!」って言われて「あぁそうなんだ」とはならんだろ。そもそも死神なんて本当にいるのか……? 死神がクビになるっていうのもよくわからないし。
「く、クビってどういうこと?」
「俺はそこそこ優秀な死神だったんだが、以前人を助けてしまってな。そしたら、ただ死ぬのを待つよりそっちの方が楽しくて。繰り返してたら、これが最後の仕事だって言われちまったよ」
 恋しそうに鎌を撫でながら語る。
 死神が人助けを楽しく感じるってどうなんだよ。てかもう滅茶苦茶じゃないか。
 死神は自ら対象を殺すことはできないと聞いたことがある。だから俺の自殺を止めたことで、もうクビは決定したということになる。きっと自殺という楽な仕事を与えただろうに、それを棒に振るとは……。
「何でわざわざ死神を辞めるの?」
 彼……と言っていいのかはわからないけど、とてもフランクに接してくるので、いつの間にか恐怖という感情はどこかへ行ってしまった。なんかもう友達みたいな感じ。
「……何人も死ぬ人を見て来たけど、死が定めだとはいえ、やっぱりこっちも辛いんだ。それに、決まって良い人ばかりだったしな」
 良い人、という言葉を聞いて、彼女が思い出される。気配りができて、誰にでも優しくて、彼が言う良い人に絶対当てはまる人だった。もうこの世にはいないけど。
「俺も一応神だから、お前がどんな状況なのかはもちろんわかってる。どうせクビになるから、お前に不思議な経験をさせたいんだ」
 不思議な経験……?
 まさか生と死の狭間にでも連れていくんじゃないだろうな……。
「お前の大切な人を、見えるようにしてやる」
「えっと……、どういうこと?」
「大切で大好きな彼女がいなくなっちまったんだろ? 運の悪いことに、あいつは成仏できてないんだ。それに未練にはお前が関わってるみたいで、もうそろそろこっちに来るみたいだぞ。だから成仏するまでの間、姿が見えるようにできるっつうわけだ」
 もう一度彼女を見れる。それだけですごく嬉しいから、不満なんて一つもなかったのだが、こういう時は決まって代償がある。
「……何を要求するの?」
「ふふっ……。話が早いじゃないか。条件はただ一つ。本人を見つけても、それを行動に出さないことだ」
「具体的には?」
「話してはいけないし、目も合わせてはいけない。“見えていなように振る舞う”必要があるんだ。もしそれを破れば、お前はこの世界から消える。だってこれは、掟を壊しかねないからな」
 たとえ彼女と出会えたとしても、無視し続ける必要がある。こんなにも辛いことってあるのだろうか。
 世界の秩序は壊せない。わかってはいるが、神様ってのは本当に残酷なことをする。
 でもやっぱり、彼女に会いたい。もう一度だけ、最後にこの目に焼き付けたい。それに彼女を成仏させてあげるためにも、この誘いは乗った方がいいだろう。
「わかった。見えるように、してくれ」
「……俺の最後の人生、いや神生? 楽しませてくれよ」
 こうして俺は、数日後に彼女を目にすることになる。このよくわからない心優しい死神によって。

 彼女のことが見えるようになったことを、俺は今更ながら後悔している。
 思っていたよりも苦しい。彼女が見えても話しかけれない、触れられない、目も合わせられない。苦しすぎて頭がおかしくなってしまいそうだ。
 学校では机をただぼーっと眺めて過ごしている。そうすれば、彼女と目を合わせてしまうことはないだろうから。厄介なのは、浮遊できるが故に顔を覗き込んでくる時。下校中なんかにそれをされると、どうやって自然に目を逸らすべきか迷ってしまう。一回だけ失敗したことがあったが、今俺が消えずに生きていることが証明している。
「苦しそうだな」
 俺の部屋に居候状態の死神が、少し面白そうに訊ねてくる。元凶のくせに。優しいのかどうかわからんな……。
「うん、めっちゃ苦しい。胸が張り裂けそう」
 部屋にある本棚を興味深そうに見つめている彼女を、視界の僅かな片隅に捉えながら、死神と会話する。……(はた)から見たらえげつない状態だけどな。死神なんて他の人からは見えないだろうから、なんもないところを見て勝手に喋ってるやばいやつ……。
「まぁ、頑張れ。未練を見つけて、成仏させてやればいいんだ」
 そう言って一度姿を消す。度々彼はこうしていなくなる。どこで何をしているのかは知らないが。
 ところで彼女の未練とはなんなのだろう。死神が言うには俺も関係していることらしい。死神と出会った日にいろいろと考えてみたが、それらしきことはあまり思い浮かばない。何か喧嘩をしていたわけでもないし、大事な約束があったわけでもない。
 こうやって考えを深めていくと、一つの可能性に結びつく。彼女の未練が、『俺の知らないこと』だとすれば、彼女の家に行ってみることしか手段はない。何度も行ったことはあるし、彼女の両親とも会ったことはあるので、そこは心配ない。だがやっぱり、遺族のもとへどんな態度で行ったらいいのかはわからない。今は誰かに訪ねられることを嫌がっている可能性だってある。
 でも、行かないといけない。きっとそれが、答えに最も近づける手段だ。それに彼女の近くにいた者として、何か一つ行動しないといけない気もする。
 いつまでも感傷に浸ってられない。
 俺は顔をペチンと叩き気合いを入れる。
 明日、訪ねよう。俺はそれを心と、漂っている彼女に誓ってその日を終えた。

 彼女の死に心を打ちのめされてからは、真っ直ぐ家に帰っていた。だが、今日は違う。
 この道を使うのはいつぶりだろうか。彼女が欠席と早退を繰り返すようになってからは一緒に下校できなかったし、家に行くこともなかった。もう三ヶ月ほど空いているのではないだろうか。
 最後に一緒に使ったのは、まだ暑さが残っていたっけ。今はもう気温も一気に落ちて、コートを身に纏う人も増えてきている。きっと彼女も、『寒い寒い……』って呪文のようにぶつぶつ言っていただろうなぁ……。
 彼女の家が見えてくると、走馬灯のように思い出が掘り起こされる。
 これからも、ずっと一緒にいられると思っていたのに。
 最後ですらそばに居てあげられなかったことが本当に悔しい。その時を呑気に生きていた俺が、本当に憎らしい。
 彼女の家のインターホンを前にして、そんな邪念を振り払う。今から俺は、本当に辛い人に会うのだから。俺がこんなではいけない。
 震えながらも伸ばした指は、ボタン手前で止まってしまう。動けと思っても、なかなかそれは動かない。ただ小刻みに震えるばかり。
「ご両親は、お前が来ることを望んでるよ」
 うるさかった心音を遮るように、死神の声が背後からかかる。俺は振り向かずに、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「迷惑とかは考えるな。感情を全部吐き出してこい。それは少なからず、未練に繋がるはずだ」
 彼のそんな言葉に答えるように、俺はボタンを押す。まだ少し呼吸が荒いが、結構楽になった。
 返事が来るよりも先に、彼女の母が玄関の扉を開けた。そして俺を見て驚いたように目を見開いた後、少しずつ顔が歪んでいく。
「本人も、待っているはずだから、行ってやって」
「……はい」
 ただそれだけ言って、俺を部屋に向かわせてくれた。
 彼女の部屋は何度か行ったことがあるからわかる。迷うことなく階段を登る最中(さなか)、背後からは啜り泣く声が聞こえてくる。ここまで時間を空けてしまったことが、却ってだめだったのかもしれない。
 部屋の扉を開けて、中に入る。いつものように、扉は閉めておく。
 彼女の部屋とは思えないくらい片付いていた。毎回行くたんびに散らかりまくっていて、片付けを手伝わされたこともある。彼女が死ぬ前に自分でやったのか、あるいはご両親が整理したのか。
 太陽の日差しが差し込んで、充分明るい部屋の一角にある勉強机。そこにはたった一つ、手紙が置いてあった。
 ——裕人(ひろと)
 便箋に書かれているのは、間違いなく俺の名前。
 そっと手に取り、傷つけないようにゆっくりと中身を取り出す。半分に折られた一枚の手紙には、びっしりと文字が書かれている。

『この手紙を読んでいる君は、きっと私が死んだことにめっちゃ落ち込んで、別人みたいになってるんじゃないですか? なぜかわからないけど、私には簡単に想像できます。三年近く一緒にいたからかなぁ。』

 書き出しから本当に彼女らしい。何度も見てきた彼女の字も、とても懐かしく感じる。まるでそこに居るかのように、声までもが想像できる。

『たっくさんの思い出を書きたいけど、そんな体力ないし多すぎるし、何より書かなくても君なら覚えててくれるよね。だから割愛!』

 うん。しっかり覚えてるよ。
 二人で出かけた日に急に雨が降って君が思いっきり転んだことも、大好物だからと言ってハムスターみたいに口にぱんぱんに食べ物を詰めていたことも。あれ、なんか面白いことばかり浮かんできちゃうな。

『ここから本題。まず、病気を患っていること、余命宣告をされていたことを黙っていてごめんなさい。
 病気が発覚したのは小学五年生の時で、余命宣告をされたのは高校一年生の冬。もう少しで高校二年生になる時でした。』

 そんなに前から患っていたのか。彼女の元気だった姿からは想像もつかない。多分彼女も、勘付かれないように必死に隠していたのだろう。

『医療ってすごいんだよー? 私は多分高校生になれなかったもん。
 そんなことはどうでもよくて、病気だったらなんで告白したの? って君は思ってるでしょ』

 まるでそこにいるかのように、俺の心を読んでくる。なんでそこまでわかるんだよ。

『こんなこと言うのは失礼かもだけど、正直君とはすぐに別れるだろうなーって思ってたんだ。こんな私だからさ、すぐに嫌われちゃうだろうし。でもやっぱり、最後くらい好きな人と恋愛したいじゃん? だからダメ元で告白したんだー。まさかオッケーされるなんて思ってなかったけどね。』

 こんな私、という言葉が俺の心に引っ掛かる。そんな自分を下げるようなこと言うなよ。充分素晴らしい人だったじゃないか。実際、君が居たから俺は何度も救われたし、君が居なくなっただけですぐに自殺しようとした。

『ずっっっっと思ってた。早く別れないと、早く終わりにしないとって。でも、できるわけなかった。君は私を心の底から愛してくれるし、私もどんどん君を好きになってしまったから。そしたら、最期まで言えなかった。』

 どんどんと視界が滲んでいく。彼女のあまりにも苦しすぎる心情が、ありありと浮かんできたから。でも、涙は流してはいけない。まだ、流してはいけない。
 どんどんと文字を追っていく。一字も漏らさず、隅々まで。

『さいごに、大切なことを言います。ちゃんと、読んでください。』

 さいごなんて……言うな。

『君のことだから、ずっと私のことを引きずり続けると思います。でも、そんなことはしないでください。私のことを忘れ、大切な人を作って幸せに暮らしてください。それが、私の幸せでもあります。』

 一雫の涙が、ぽたりと落ちて手紙を濡らす。

『君の幸せを、心から願っています。
 君のことが、本当に大好きです。
 ずっと、見守っています。』

 彼女の名前とともに、その手紙は終わってしまった。
 ……ふざけんな。
「ふざけんなよ! 何が忘れて幸せになれだ! 勝手なこと言ってんじゃねぇよ!」
 もう、限界だった。
 流さないと決めていた涙は、滝のように溢れてしまう。手紙にも、複数の雫がポタポタ落ちていく。

『私のことを忘れ、大切な人を作って幸せに暮らしてください。それが、私の幸せでもあります。』

 嘘つけ。お前はそんな人間じゃないだろ。
 忘れられたくなくて、ずっと覚えていて欲しいくせに。
 俺がもし忘れて、大切な人を見つけたら、大泣きするくせに。
「忘れられるわけ……ないだろ……。っ……勝手に、死ぬなよ……」
 嗚咽混じりに、彼女への怒りをぶつける。怒りではないかもしれない、この変な感情を、早く消したい一心で。
 もう手紙が見えなくなるくらいに破ってしまおうかとも思った。でも、そんな勇気はこれっぽっちもなかった。
 途端に、半透明の腕が後ろから回ってきて、俺の体を抱擁する。
 彼女が優しく抱きしめてくれる。実体はないけど、わかる。
「あず……さ……」
 本当に、意志の弱い人間だなと思う。
 ついに、反応してしまった。耐えられるわけ、なかった。
(あずさ)、……勝手に逝くなよ」
 後ろに振り向き、彼女顔を捉えてそう言う。
 彼女の口がぱくぱく動いているが、声は聞こえない。少し残念だが、そこに彼女がいるとわかっただけでもう充分だ。
 今から、そっちに行くから。
「大好きだよ」
 目を瞑って覚悟を決めていたのに、突然声が降ってくる。
 あぁ、そういうことか。
 俺の体も透けてきている。掟を破った罰、もうこの世界の生物ではないのか。
 後悔はない。彼女と一緒なら、これでいい。
「俺も、大好きだよ。もう絶対、一人にしない。絶対、離さない」
 酷い顔をして、彼女に顔を埋めて泣く俺を、ただ優しく撫でてくれる。彼女に触れることができるなんて、思ってもなかった。
「私の、未練はね。さいごに君から、『大好き』って言ってもらうことだよ。私が臆病で、病気のことを告げてあげられなかったから、君はさいごにそばに居なかったけどね」
「ごめん……ごめん、気付けなくて、辛いままに、しちゃって」
 君は悪くないよ、というように彼女は、俺を強く抱きしめてくれる。
 死んでも、消えても、掟を破っても、彼女といたい。
 もうそばから、離れたくない。
 ほぼ消えたも同然の中、不意に顔を上げると、そこには消えかかった死神の姿があった。
「な……? 言っただろ? 自殺なんか、するなって……。もっと、幸せな死に方が、あるんだよ……」
 少しだけ顔を動かして頷く。
 あの時、死ななくてよかった。本当に。
 満足そうに笑みを浮かべた彼は、俺たちより少し早く消えてしまった。
 俺たちも、もう間もなく消える。
 彼女は成仏、俺は掟を破った罪人として。
 来世があるかわからないけど、彼女と一緒にいたい。
 できることなら、あの心優しい死神とも会ってみたいな。今度は人間として。
 あるかもわからない未来を思い描きながら、強く抱き合ったまま、俺たちは世界から旅立った。





「梓ー!!」
 私の大好きだった、今も大好きな彼の声で、名前が呼ばれる。
 もう、ずっと聞けないと思っていたのに。
 振り向く前に、彼は後ろから抱きついてくる。
 こんなに強く抱きしめられるなんて、いつぶりだろうか。
 彼の力って、こんなに強かっただろうか。
 待ち続けた彼からの抱擁に、涙が溢れてくる。
 くしゃくしゃな顔で彼の顔を見ると、彼も同じようなものだった。
「もう、離れないから、ずっと、……っ、そばにいてね」
 嗚咽混じりに、そんなことを口にした。
 私たちは、今から罪を償う。
 世界の掟を破ろうとした者として。
 でも、怖くなんかない。
 だって、彼がいるもん。
 かっこよくて、優しくて、素敵な笑顔の彼が。
 大好きな、彼が。
 ずっと、ずっとそばにいてくれる。
『大好き』
 私たちの声は、綺麗に重なった。