あ、やべ、とぼくはカウンターを飛び出した。
「なにどうしたの?」
 一緒にレジに立っていた森川さんに返事することなく、店を出て行こうとするお客さんのほうへと駆けていった。
「すみません、おつり、間違えました」
 ぼくは平謝りしながら、おきゃくさんに小銭を渡した。
「桃井くん、最近、ぼーっとしてんじゃないのお?」
 カウンターに戻ると森川さんが呆れた顔でぼくを迎えた。「なんかあった?」
「いや、なんもないっす」
 ぼくは再びレジに立ち、手持ち無沙汰なものだから、しおりを補充したりした。
「なんか前にシフト入ったときから変なのよねえ、心ここにあらず、というか」
 森川さんがぼくを見て言った。
「いや、なんか疲れてるのかも」
 ぼくは首を回してみせた。
「ふーん。どっちかっていうと、べつのこと考えてるって感じ。もしかして……」
「もしかして?」
「彼女できた?」
「……できませんよ」
 ぼくはため息をついた。なんか、肌年齢があがった気がする。白髪が増えているかもしれない。
 ニセの彼氏はできましたけどね、とはさすがに言えない。彼氏、もパワーワードだが、ニセの、がついていて説明しづらい。
 そのとき、スマホが鳴った。
「あ、すみません」
 音を消し忘れていた。スマホをカウンター下でお客さんに見えないように操作していると、森川さんがスマホを覗きこんだ。
「誰これ?」
「いや、これは」
 昨日のデートで撮影した翔真だった。笑顔でソフトクリームを舐めている。よりによって、見られるとは。
「栗原じゃなくなってる」
 森川さんがついにワンピースの秘宝でも見つけたみたいに大袈裟に言った。
「レジにいるんですから、声を小さく……」
「なに、ファンやめたの?」
「そこですか」
 森川さんは年配の女性で、バイトの先輩である。お子さんが成人したことで趣味と実益(従業員価格で本を購入)を兼ねて働いているという。
 ぼくは森川さんとシフトが被ることが多かった。
 人当たりがいい、いや、すっごくずけずけと人のプライベートに踏み込んでくる森川さんに、バイトを始めた頃、スマホのロック画面を見られ、
「あら、栗原陵矢。桃井くんもホークス好きなの?」
 と急に親近感を持たれた。
 森川さんが応援している球団はソフトバンクだったらしい。それから暇なとき、試合の感想を伺うようになった。
「いまのホークスはイケメン揃いで女性ファン多いのよ」
 なんて自慢げに語っていた。ときどき九州まで、夫婦で応援にも行くらしい。
「そうですよねえ、かっこいいですよねえ」
 ぼくは野球がまったくわからない。ただ、栗原陵矢の顔がめちゃ好きなのである……。待受にするほどに。野球選手なら、待受にしても勘繰られないよな、と思っていた。
 だがいまのぼくのスマホには、マロン砲をぶっぱなす栗原ではなく、別の男が映っていた。
「この人、俳優かなにか?」
 森川さんが言った。
「ああ、まあ、はい」
「へえ。テレビで観たことないけど」
「売り出し中なんですよ」
 大学の演劇サークルに所属する野良のイケメン(二丁目でも学校でもモテモテ)ですけどね、と言いたいところだが、やはり説明しづらい。そもそもなんで男子大学生がまだ見つかってない俳優を待受にするのか、という疑問は依然として残っている。なんとか、うまい理由を捻り出さなくてはならない。
「ふーん、かわいいじゃん」
 森川さんが言った。
「最近飲み会で知り合ったんですけど、そのときなんかノリで勝手に待受に登録されちゃって」
 わりかしうまい嘘をつけた、とぼくは思ったのだが、
「その飲み会、女の子もいた?」
「いや、いなかったなあ。野郎ばっかで」
「でも桃井くんて、女の子に興味ないもんね」
 と森川さんがさらりと核心をついてきて、どきりとした。
「いや、そんなことないすよ」
「だって、俳優の名前は詳しいけど、女優とかあんまり知らないじゃない。ほら、つい最近週刊誌で不倫スキャンダルがあったときも、あの女優さんがなんのドラマ出てるかは知ってても名前知らなかったし」
「いや、ど忘れしただけですよ」
 森川さんが妙に察しが早いのではなく、それはぼくのへまである。たしかにぼくは、女の人の名前を覚えるのが苦手だ。
「でも、こんなかっこいいこと友達なんてうらやましいわあ」
 ちょうどお客さんがきたのでこの会話は終わった。
 まじでぼくは、脇が甘い。

 昨日は学校が終わってから、翔真とデート? をしたのだ。
「どうする、どっか行きたいとこある?」
 翔真が訊ねた。
「ああ、わかんないかも」
「なんだそりゃ」
 翔真が笑った。
 実際どこに行ったらよいのかわからなかった。直哉と付き合っていた頃は、直哉が行きたい場所へついていく、みたいだった。
「映画でもいくか?」
 翔真がスマホを操作した。
「ああ、そういえば」
「観たいのある?」
 そう問われて、躊躇した。
「うん、でも一人で観ようかな、マイナーだし」
 直哉と行く映画はいつも大作のアクションもので、べつに嫌いではないのだけれど、自分が好きなジャンルのものは言い出しづらかった。
「いいじゃん、観たいものを観よう。和寿がどんな映画好きなのか、俺も知りたいし」
 そう言われたとき、なんだが急に景色がひらけたように思えた。自分の好きなものを言っても、いいのかな? と。でも恐る恐る、題名を言った。
「あ、それ俺も観たかったやつ」
「ほんとに?」
 ぼくはびっくりした。
「カラックスは最高だろ。なにが好き?」
「『ポーラX』」
「ああ、いいな。俺は『汚れた血』」
「カラックス、好きなの?」
「けっこう好きかな。あとはカウリスマキとか、グザヴィエ・ドランとかも」
 翔真がいくつも映画監督をあげた。ぼくが好きなものばかりだった。知らない監督も、観てみたいと思えてくる。入学したときに映画サークルで、「タルコフスキーも観ていないのか」と呆れられて以来、タルコフスキーなんて観てやるか、と思っていたけれど、翔真がその名前をあげたとき、観てみたいな、自分も好きかもしれない、と思えた。
「ぼくも、好きだな」
 お互いの映画の趣味が一致しているのを発見して嬉しかった。
 一緒に映画を見て、喫茶店で感想を話し合う。
 翔真はぼくの意見を興味深そうに聞いてくれた。
「なんだかテンション上がってきた、糖分とんなきゃ」
 と言ってソフトクリームを追加注文して食べ始めた。
「ほら、写真オッケーだぞ」
 翔真がおどけたので、ぼくは撮影した。
「めちゃ口についてる」
 写真を見せてぼくは言った。
「はい」
 ソフトクリームを僕の口の前に向けた。
「食えってか」
「うまいよ」
 なんとなく周りが気になったけれど、きっと友達同士ではしゃいでいると思ってくれるにちがいない、と思い、僕は口に入れた。
「あ、めちゃ食った」
 翔真が笑った。
「おいしいねえ」
 ぼくは口のなかでソフトクリームを溶かしながら味わった。
 間接キスということになるのか。唾液の交換か? などと頭によぎったが、そんなことを恥ずかしがるより、いまの楽しい気持ちを優先したかった。
「そういや、ツーショ撮ってないな」
 店を出たとき、翔真が思い出したように言った。するといきなりぼくに翔真が寄ってきた。
「なに、なに」
「写真撮るんだよ」
「なんで、ここで」
 渋谷の街中である。
「ノリだよ、ノリ」
 ノリって言葉はなんて便利なんだ、と思いながら、翔真はスマホを遠くにして、ぼくの肩を抱き頬を寄せた。
「うーん。ぎこちないな」
 写真を見て、翔真が苦笑いした。
「急すぎる」
「やっぱ慣れるために、もっとどんどん撮っておこう」
「えーっ」
「写真フォルダにたくさんあったほうがいざというときいいだろ」
 そんな「いざ」などあるか、と思った。
「……頑張ります」
 べつに、一緒に撮るのが嫌なわけではなった。ただ、まだこの関係に慣れていない。
「なに、誰こいつ」
 ぼくのスマホのロック画面を見て、翔真が眉をひそめた。
「え、栗原」
「好きなの?」
 急になんとなくふてくされたような物言いになった。
「まあ、はい」
「こういうのがタイプなんだ。ふーん」
「そうだね、けっこう、いやかなり好き」
「チャラそうじゃん。俺と似てる?」
 翔真が挑むように言って、笑った。
「人間だし、男だし」
 ぼくの答えに、
「目と鼻の穴は二つあるし、似てるか」
 と不満げに続けて、「待受変えてよ」
 と言った。
「なんで?」
「俺たち付き合ってる設定なんだから、彼ピの写真待受にすんの当然でしょ」
「ピって」
 ぼくは笑った。そんなワードが翔真の口から出てくるのが面白かった。
「さっきのツーショ送るわ」
 翔真がスマホを操作した。
「いや、それまだハードル高い」
 僕が言うと。
「本番なんてすぐだぞ。まだまだ硬いなあ」
 と笑った。「やっぱもっと打ち解けなくちゃな」
 ぼくのスマホが震えて、さっきの写真が送られてきた。
「とりあえず、これにする」
 さっきのソフトクリームを舐めてキメ顔の翔真の写真をひらいた。
「じゃあ、俺も待受変えとく」
 といってぼくの横顔の写真を見せた。
「いつのまに」
「付き合いたてって、やたら撮るもんだろ」
 その写真のぼくは、心から楽しそうに笑っていて、見たこともない自分をしていた。
「じゃあ、部屋行っていい?」
 唐突に翔真が言った。

 ぼくは昨日のことをぼんやり思い返しているときだった。
「これ」
 とレジに雑誌が置かれた。お客さんが近付いてくるのに気づかなかった。
「すみません、あ」
 お客さんの顔を見たとき、ぼくは硬直した。
 翔馬のことを好きな、手塚詩織がぼくを睨んでいた。