あの夜のあと、しばらく実家に戻った。スマホの電源も消した。考えてみたら、ラインをブロック削除したのだから、翔真からのアクションは届くわけもないというのに、そんなことをするなんて、意味はなかった。
 急に帰ってきて、自室に籠る息子を、はじめ母は心配してくれたが、三日目ともなると、
雑に扱い出した。ほら、ふとん干さなくちゃなんないから、とか、お昼そうめんでいい? とか。
 しばらくぼんやりと過ごした。
 気を抜くと、東京でのことが蘇ってくる。
 光圀さんの言うとおりになぜしてしまったのか。
 なんでまた勢いで直哉と。
 どうして翔真にちゃんと伝えることができなかったのか。
 ぜんぶの大元は、結婚式に彼氏を連れていく、という見栄からだったし、直哉と別れてからぐだついていたから、その前は……。
 そういうふうに遡ると、すべてが間違いだったように思えてくる。
 自ら死を選ぼうとする人のプロセスを追体験したみたいな気持ちだった。
 抑えきれなくて、どうしようもなくて、時間は過ぎていき、後戻りできないから、傷つけるのだ。
 そんなことを、実家から追い出されてぶらぶら歩いているときに思った。
 故郷というのが不思議なもので、暮らしているときは「不便だな」「遊べる場所ないな」なんて思っているのに、飛び出してみると、懐かしく思える。帰省してしばらくは、そんな追憶のモードに自分が没入していて、守られているように感じる。しかし、しばらくすると、それが息苦しくなる。
 なんて人間てわがままなのか。
 それともそんなふうに思うのは自分だけなのか。人それぞれ、なのか。
 ふらついていたら、わが母校にたどり着いた。金網の向こうのグラウンドでは、サッカー部らしき男の子たちが、ボールを蹴っている。ときおり、若い声も聞こえてくる。
 自分がこの学校に通っているときも、いまと同じく暗かった。
 クラスメートに片想いするわ、クラスでゲイ疑惑(実際そうなんだけど)かけられ噂されるわ。
 ここにいたら誰ともエッチできない(付き合えない、と考えないあたりが、その頃から自分は誰かに愛されるようなものではない、と卑下してるのが窺える)と思っていた。
 まあ実際、東京に出て、願望は果たされたけれど。
 そんなことを思い出していたら、頭がぼんやりしてきた。
 眠い。
 猛烈に、眠い。
「桃井?」
 高校のほうから声がした。
 そこには、学ジャー姿の高校生が立っていた。髪は短く刈られていて、浅黒い肌。いかにもスポーツやってます、って感じ。
「やっぱそうだ、桃井和寿。出席番号二十四番」
「誰?」
 ぼくはまったく思い出せなかった。二十四番てことは、ぼくが三年だったときのことだ。
「俺だよ俺」
 と言われても、まったく思い出せない。
 そもそも、ぼくと同い年なのだろうか。なんだかちょっとだけ、若いように見える。高校生のまま、ときが止まっているみたいだった。いや、思い出せないけど、なんとなく。
 あっちは名乗るつもりもないらしいので、
「うん、ひさしぶり」
 と適当に挨拶した。
 僕たちは金網越しで向かい合った。
「いまなにしてんの?」
「東京で大学」
「すご」
「なにしてんの」
「なんも」
 ニートか、と思った。それにしては健康的だ。そもそも、高校を卒業してもグラウンドにいるかね。しかもあの在学中生徒に不評だった黄緑色の学ジャー着てるし。ぼくは卒業したとき速攻捨てたけど。
 楽しそうにサッカーボールをリフティングしている。うまい。しゃべりながらやっているのに、まったくボールを落とさない。
「脚本家さんになれた?」
 急にそんなことを言われ、ぼくはびっくりした。そんな絵空事、クラスメートに話したことなんてなかったから。
「なんで知ってるの?」
「だって、前に言ってたよ」
 当たり前のことのように彼は言った。
「言ってたっけ」
「そうだよ、すごいなーって思ったよ。やりたいことあるなんて最高すぎんか、って。ほら、おすすめしてくれたやつ、あれも面白かったよな。なんだっけ、『キッズリターン』」
「映画の話とかしたっけ」
 まったく思い出せない。
「親に買ってもらった。ほかにもなんか面白いの教えてほしかったんだけどなー」
「そっか、もっといろいろ、話せばよかったな」
 自分自身をつまんないやつだって思っていたから、だからできるだけ自分のことは語らないようにしていた。
 そんなふうに、自分の趣味を共有できる友達がいたなら、ちょっとは変わっていたかもしれない。
 でも、やっぱり彼が思い出せない。
「ねえ、将来とかどうする?」
 ぼくは言った。
 そんな真面目なことを急に、ひさしぶりにあったクラスメート(しかも名前を思い出せない)に訊ねるのもどうかな、と思ったのだけれど、言ってみた。
 なにか笑い飛ばしてくれたら、自分のとりまく空気が変わるのではないか、と期待した。
「べつに、楽しければいいでしょ」
 彼は言った。
「最近楽しくないんだよね」
「それはさー、楽しむ努力をしてないんじゃない」
「努力」
 びっくりした。
「楽しいのと楽なのって違うじゃん。辛くても楽しけりゃよくない? 先のことなんてないようなもんだし」
 なんとそんな達観したようなことを、同い年のやつが言うとは。なんか本でも読んだ? とぼくは言い返しそうになった。
「先はないかな」
「うん、先はないよね。未来なんて見えないし。見えないなら放っておけばいいんじゃない? 未来の自分がなんとかするでしょ」
「なんか、いい話かと思ったら、急にニートっぽい発言」
 ぼくは笑った。
「うん、なりたい未来を感じたら、そっちに行きゃいいじゃん。なりたくない未来のほうに行ったって、しょうがないじゃん。て、ずっと思ってたから」
 サッカー部の顧問にでも言われたのかな、と思った。意外と体育会系って、スピっぽいこと言うし。「いいな、キッズリターンみたいの書いてよ」
「桃井?」
 また声がした。
 振り向くと、メガネをかけたおじさんが立っていた。しかし、こっちは誰かわかる。
「古川先生」
 高校の担任だった。
「なにやってんだお前」
 古川先生はカバンを提げている。帰るところなんだろう。
「いや、クラスメートに」
 とぼくは金網のほうを指差した。
 彼はいなかった。
 ぼくらは駅のほうへ向かって歩いた。
「どうだ、大学」
 久しぶりにあった教え子、に古川先生が訊ねた。
「なんとか単位は取得してるんで、卒業はできそうです」
「就職は?」
「うーん」
 ぼくは困ってしまった。
「脚本家ってあれだろ、一本立ちするの大変だから、みんな働きながらするんじゃないのか」
「なんで知ってるんですか」
 ぼくはびっくりして言った。さっきのクラスメートも、先生も、絶対に話していないのに。
「お前、手紙で書いたろ」
「手紙?」
 なにも思い出せない。
「ほら、××……」
 先生が言った名前を、まったく思い出せない。
「誰ですか、それ」
「覚えてないのか」
「はい」
 そんな苗字、クラスにいただろうか。クラスメートの顔を名前を思い浮かべてみても、見当たらない。
「ほら、新型ウイルスに感染して、後遺症が長引いて、学校にこれなかった」
 たしかに、教室のすみの机は、誰も使っていなかった。
「そっか、そういえば」
「ずっと調子が悪くて休みっぱなしだった。で、クラスで彼に手紙を書いただろ」
「覚えてないです」
「だいたいみんな、短く『がんばれ』とか『お大事に』くらいのことしか書いてなかった。そらそうだよな、会ったこともないクラスメートになにを書けばいいって話だよな。でも桃井は原稿用紙に何枚も書いたよな。自分は将来こうなりたいとか、いまクラスのヒエラルキーはこんな感じとか、誰と誰が付き合ってるとか、映画とかアニメのおすすめとかさ」
「そんなことしましたっけ」
「うん、一人だけなんといおうか、見舞いの手紙でなくて、自分のことを」
「空気読めてね〜」
 昔からなにも見えていなかったらしい。俺、恐ろしい子!
「いや、嬉しかったろう。ずっと部屋で寝てたから、外の空気を知りたかったと思うし。元気になったら学校に行こうってきっと。あれだけ熱意ある手紙を読んだらさ、きっと教室に行っても、桃井が友達になってくれるって安心だろ」
 先生は言った。
「いまも病気なんですか」
 すっかり感染症のことなんてみんな忘れかけている。みんな、すぐ忘れる。もしくは、順応性が早い。当たり前になる。
「いや、去年亡くなったよ」
「そうですか」
「感染するまで、サッカー部で頑張ってたんだけどなあ」
 ぼくは息を呑んだ。
 それって。
「先生」
「ん?」
「ぼく、キッズリターンをおすすめしてましたか?」
「ああ、そうだ、覚えてる。渋いの薦めるなあ。先生も若い頃観たなあって。でも手紙を読んだって言ったら気を悪くするかもと思って、あのとき言わなかったよ。でもなあ、失礼なこと書いてあったら、それよけなきゃならないから、しょうがなく」
 先生が言った。
 もしかして、自分は、さっき、どこか感知できない場所に接続したのだろうか。それとも、グラウンドに彼はいつもいるんだろうか。サッカーをしたいという想いが消えずに。
 怖い、とは思えなかった。
 あの笑顔を怖いなんて思えなかった。
「絶対に、その子、いいやつだったんだろうな」
 ぼくが言うと、
「俺が担任した生徒に悪いやつなんて見たことないからな、多分そうだろうな」
 と先生は言った。
「書けるかな、キッズリターンみたいなの」
 ぼくは言った。
「書いてみないとわかんないだろ」