目を覚ました。入ったときは冷たかったシーツが、暖かく湿っていた。いま、何時だろう。サイドテーブルの時計を見ると、まだ日が変わっていない。
ぼくは、布団から這いでた。
入ったときはたいして眺めもしなかった、この部屋。夫夫の寝室を見回した。ダブルベッドとサイドテーブルがある。脇にヨガマットがたてかけてあり、床にダンベルがあった。トレーニングもこの部屋でしているのかもしれない。
シンプルななかに、生活感をあえて添えている、そういういやらしさが透ける。でも、そういうふうに思うのは、自分の立場のせいだと思う。
落ち着いた間接照明のあかりをぼんやり眺めた。
なんでこんなことになったのか。
勢いとか急に欲情したとか、とりあえずやってみたらあとはすっきりするだろうとか、理由はばかばかしいほどに動物的で、しょうもなかった。
部屋を出るべきか迷った。
直哉はなにをしているんだろう。
とりあえず、ぼくは床に捨ててあるボクサーブリーフを履いた。
服を身につけるべきか迷った。
ぼくはただの、間男に成り下がってしまった。
なんとなく痛快な気もするし、ひどく落ちぶれてしまったように思った。
あのとき、どちらかともなく誘ったとき、そばにあるホテルに入ろうとすると満室で、
「どいつもこいつも」
直哉は苦笑いした。「どっか部屋とるか」
と、スマホをひらいた。
「べつにヤリ部屋とかでいいよ」
とぼくは投げやりに言った。
「ばか。そんな平成のエロ小説みたいなこと」
いま直哉はそのネタがブームなのか。
「だったら令和のエロ小説はどうすんの」
べつにそこらへんの隙間でいいよ、と思い始めて、さすがにそれはアグレッシブすぎるな、と思ったとき、
「部屋、見にくる?」
と直哉は言った。
なんで頷いたのか、素直にタクシーに乗ったのか。今日は、タクシー二回目だ。しかもどっちもおごりだ。こんなことあるんだな、と思った。
たしかに、令和のエロ小説みたいなもんかもしれない。NTR?
自分が加害者になるのか。これまでずっと受け身でびくびくしていたから、その反動だ。こんなふうに、人間は簡単に悪いやつになる。
でも光圀さんに悪いことをしている、なんて思わなかった。
なぜか、ざまあみろ、と思った。
翔真のことを嫉妬しているのか、直哉をとられたから嫉妬しているのか、どちらにしても、その状況に、酒よりも酔った。
自分に酔っ払うのが、一番タチが悪い。
やっぱり、後味最悪じゃん。
帰ろう、と思って服を着た。パンツのポケットからスマホが落ちた。芝居を観る前に電源を落としたままだった。
電源をつけると、ラインの通知が数件表示された。ぜんぶ翔真からだった。
ぼくはひらくことができず、ドアをあけた。
リビングらしきほうに灯りがついている。コーヒーの匂いがした。
直哉がいるのかもしれない、挨拶もせず逃げるのも悪いかな、それこそこそどろみたいじゃないか、と思って向かうと。
「起きたの?」
ダイニングテーブルで、光圀さんがマグカップを手にしていた。
ぼくは、心臓が止まりそうになった。
「コーヒー飲む?」
光圀さんがぼくに訊ねたけれど、うまく返事できない。なんて言い訳をしたらいいのか、わからない。
光圀さんはぼくの返事を待たず、キッチンからマグカップを持ってきて、コーヒーを注いだ。
「さっき淹れたばかりだから」
とテーブルに置いて、「どうぞ」
とぼくを席に促した。
「……いただきます」
なんとかぼくは言って、わずかに手を振るわせながら、一口飲んだ。「おいしいです」
「そう? 直哉が買ってきたつまんないコーヒーチェーンの豆だけど」
光圀さんが鼻で笑った。「直哉って、そういうとこあるよね。ほんとうにおいしいものをわかってないっていうか。犬見たって、犬種とかわからないで、犬、で済ましちゃうっていうか」
そうじゃない? と光圀さんが問いかけた。
つまんない豆。
犬種を知らない大雑把さ。
自分のことを言われているような気がした。
ぼくは黙って飲んでいると、光圀さんが言った。
「酔っ払っちゃって寝ちゃったんだって?」
「え」
「しょうがないから連れてきたって、直哉言ってたよ」
「直哉……さんは」
「ああ、近所の深夜までやってるスーパーまで、酒買いに行ってる。おかしいよねえ、酔っ払って寝てる人に、起きたらいるかもとかなんとか言って。きみ、アル中なの?」
「いや、違います」
本当に、ご迷惑おかけしました、とぼくはコーヒーを飲み干し頭を下げた。
とにかく、帰ろう。一刻も早く。
「ちょっと待って。じつは一度じっくり話したいことがあったんだけど、ちょうどよかった。いまいい?」
光圀さんが笑顔を向けた。
逃げるんじゃねえよ、と顔に書いてある。
「でも、遅いんで」
「直哉は泊めるつもりだったみたいだけど?」
「すみません、お二人のベッドに寝ちゃって」
「全然、若い子の匂いのついたベッドで寝たら、気持ちも満たされるかもしんないし。いっそ三人で寝てもいいよ。ベット広いし」
「いや、そんなの、眠れないですよ」
「人んちのベッドでやっといて繊細ぶってんじゃねーよ」
光圀さんは笑顔のまま言った。
ぼくは。
「あの」
「酔って全裸になって寝ちゃった? 直哉は杜撰だから。ゴミ箱のローションついたばっちいティッシュはなに。きみのゲロって、ぺぺなの?」
ぼくはなにも言えなかった。なにか言わなくちゃ、と思ったけれど、いまの事態をなんとかするための上手いアイデアなんて浮かばない。
光圀さんが続けた。
「きみが直哉と寝たんなら、ぼくが翔真くんをどうにかしても文句はないよね」
「ちょ」
「スワッピング? まあよくあることでしょ。でも、そういうのってお互いに飽きてから始めるもんだけどね」
「なにを言っているんですか」
ぼくは頭が真っ白になった。
「なにそんな顔してんの。因果応報、原因と結果、引き寄せ、でしょ? 『ザ・シークレット』読んだ方がいいよ。無駄にポジティブな気持ちになるかから」
光圀さんは平然と続けた。「その顔なに? 被害者ヅラ? ま、しないけど。翔真くんはいまじゃ大事な商品だから」
「商品」
「率直に聞くけど、きみたち、本当に付き合ってるの?」
息を呑んだ。「どこまでの関係?」
「そんなこと、なんで言わなきゃ」
「翔真くんのためだよ」
「意味わかんないです」
「彼、来年ハネるよ」
「……どういうことですか」
「次の特撮番組の主役になる。というか、ねじこむ」
ちょうど次の番組にあった俳優を探していたんだよね。新鮮で、手垢のついていない子のほうが、動かしやすい。番組が終わったときには一定のファンもつくだろうし、悪い話じゃないでしょ。いまの若者ってSNSで黒歴史作っているやつがいてね、過去のことを隠せないでしょう。翔真くんのこと調べたけど、自分発信のデジタルタトゥーが奇跡的にない。最高だね。でも、一つだけ問題がある。
光圀さんはぼくに手の平を見せた。
「スマホ見せて」
「なんでですか」
「二人で写真撮ってたり、ラインのやりとり? 消して。きみはトチ狂うタイプじゃないのはわかるけど、念には念を入れておかないとね。ハメ撮りとかあったら最悪だから」
彼の将来にかかわるんだよ。
きみ、好きなんでしょう。
わかるよね?
男と付き合ってるとか、いくら生ぬるい善意にあふれた世の中でも、まだ差別って普通にあるよね?
偏見ないとかぬかしてるやつの目の奥、見たことある?
「……消します」
ぼくは待受を削除した。笑顔の翔真が画面に映ったとき、ゴミ箱をタップするのを躊躇した。
「早く」
光圀さんがけしかける。
ぼくは写真フォルダを消去した。
「……しました」
「復元しないでよ」
「しません。あと、お願いです」
「なに」
「翔真に変なこと、しないでください」
「しねーよ。いま令和だぞ? いまどきうるせえから、商品なんて腫れ物扱いだよ」
じゃあ平成のときはしてたんですか、と言いそうになったけれど、しなかった。ぼくはただ、従った。
「消しました」
「あと、わかってるよね。もう会わないでね」
「大学同じです」
「無視すれば? やっぱ合わないとかてきとうに言いなよ」
ムラムラしたら、たまに直哉貸してあげるよ。これからしばらく、ぼくも忙しくなるから。きみだったら病気の心配もなさそうだし、変なやつと浮気されるより、ちょうどいいや。
「付き合ってません」
「は?」
「ぼくたち、付き合ってなんかいません」
ぼくは震えていた。でも泣かなかった。泣く意味がなかった。涙を外に流しても仕方がないのだ。水分は、内側で渦巻く。
「ほんとなの?」
「結婚式に彼氏いないと恥ずかしいから、頼んだだけです」
光圀さんは黙った。
ぼくは下を向いてこらえていたから、どんな顔をしているのかわからない。
「くっだらねえ。浅はかなガキの考えそうなことだな」
光圀さんが吐き捨てた。
そのとき、ラインの通知が入った。
「翔真」
光圀さんが読み上げた。「仲良いね」
「芝居の感想言ってなかったから」
「きみみたいなつまんないコの感想を欲しがるなんて、彼、不遇だったんだねえ」
光圀さんが憐れむように言った。「きみ、もう少し現実に目を向けて資格とかとったほうがいいよ。才能あるとか思い込んで人生棒に振っちゃだめだよ。このままだと、年をとったら誰からも相手にされなくなるよ」
光圀さんがぼくのスマホを手にして眺めながら言った。途中から電話になった。スマホが震えるのを気にせず、光圀さんは話す。
ぼくはなにも言えず、その言葉をうけて、震えることしかできなかった。
「ああ、シナリオ書いてたんだっけ。どうせあれでしょ、うちにもよく送られてくるよ、頭の悪い大学生が書いたつまんないシナリオ。女と自分を美化してさ、綺麗事で塗り固めて、最後は適当にどっちかが死んで、生き残ったほうが海眺めて、たそがれるんだよね。なんの努力も解決もなく、ただ自己憐憫ばかり。どうせきみもそっちの口だろ? ああそうか、男同士の話? で結果別れて海でも眺めるの? 山でジビエ鍋でも作って泣きながら食う? ゲイものでオリジナルって最近は停滞気味だから。ああ、だったら小説サイトにでも投稿してバズってくれたら、考えなくもないけど? 原作ものじゃないとさ、最近は動員見通せないから、評価辛いよ」
スマホが震え続けている。
光圀さんが舌打ちした。
「でなよ。で、もう会わない、って、本人に伝えて」
「……なんで」
「翔真がきみのことをどう思っているかなんて興味ないよ。恋人でも友達でもどうでもいい。ただ、多分、きみのことをきみ以上に信頼しているのは見ていてわかる」
「そんなこと」
ない。
「なにもわかっちゃいないんだね。つまんないやつはつまんないシナリオしか書けないよ?」
ほら、人生経験、とぼくの胸にスマホを押し付けた。
振動を感じながら、ぼくとどっちが震えているんだろうと、思った。
ぼくは、布団から這いでた。
入ったときはたいして眺めもしなかった、この部屋。夫夫の寝室を見回した。ダブルベッドとサイドテーブルがある。脇にヨガマットがたてかけてあり、床にダンベルがあった。トレーニングもこの部屋でしているのかもしれない。
シンプルななかに、生活感をあえて添えている、そういういやらしさが透ける。でも、そういうふうに思うのは、自分の立場のせいだと思う。
落ち着いた間接照明のあかりをぼんやり眺めた。
なんでこんなことになったのか。
勢いとか急に欲情したとか、とりあえずやってみたらあとはすっきりするだろうとか、理由はばかばかしいほどに動物的で、しょうもなかった。
部屋を出るべきか迷った。
直哉はなにをしているんだろう。
とりあえず、ぼくは床に捨ててあるボクサーブリーフを履いた。
服を身につけるべきか迷った。
ぼくはただの、間男に成り下がってしまった。
なんとなく痛快な気もするし、ひどく落ちぶれてしまったように思った。
あのとき、どちらかともなく誘ったとき、そばにあるホテルに入ろうとすると満室で、
「どいつもこいつも」
直哉は苦笑いした。「どっか部屋とるか」
と、スマホをひらいた。
「べつにヤリ部屋とかでいいよ」
とぼくは投げやりに言った。
「ばか。そんな平成のエロ小説みたいなこと」
いま直哉はそのネタがブームなのか。
「だったら令和のエロ小説はどうすんの」
べつにそこらへんの隙間でいいよ、と思い始めて、さすがにそれはアグレッシブすぎるな、と思ったとき、
「部屋、見にくる?」
と直哉は言った。
なんで頷いたのか、素直にタクシーに乗ったのか。今日は、タクシー二回目だ。しかもどっちもおごりだ。こんなことあるんだな、と思った。
たしかに、令和のエロ小説みたいなもんかもしれない。NTR?
自分が加害者になるのか。これまでずっと受け身でびくびくしていたから、その反動だ。こんなふうに、人間は簡単に悪いやつになる。
でも光圀さんに悪いことをしている、なんて思わなかった。
なぜか、ざまあみろ、と思った。
翔真のことを嫉妬しているのか、直哉をとられたから嫉妬しているのか、どちらにしても、その状況に、酒よりも酔った。
自分に酔っ払うのが、一番タチが悪い。
やっぱり、後味最悪じゃん。
帰ろう、と思って服を着た。パンツのポケットからスマホが落ちた。芝居を観る前に電源を落としたままだった。
電源をつけると、ラインの通知が数件表示された。ぜんぶ翔真からだった。
ぼくはひらくことができず、ドアをあけた。
リビングらしきほうに灯りがついている。コーヒーの匂いがした。
直哉がいるのかもしれない、挨拶もせず逃げるのも悪いかな、それこそこそどろみたいじゃないか、と思って向かうと。
「起きたの?」
ダイニングテーブルで、光圀さんがマグカップを手にしていた。
ぼくは、心臓が止まりそうになった。
「コーヒー飲む?」
光圀さんがぼくに訊ねたけれど、うまく返事できない。なんて言い訳をしたらいいのか、わからない。
光圀さんはぼくの返事を待たず、キッチンからマグカップを持ってきて、コーヒーを注いだ。
「さっき淹れたばかりだから」
とテーブルに置いて、「どうぞ」
とぼくを席に促した。
「……いただきます」
なんとかぼくは言って、わずかに手を振るわせながら、一口飲んだ。「おいしいです」
「そう? 直哉が買ってきたつまんないコーヒーチェーンの豆だけど」
光圀さんが鼻で笑った。「直哉って、そういうとこあるよね。ほんとうにおいしいものをわかってないっていうか。犬見たって、犬種とかわからないで、犬、で済ましちゃうっていうか」
そうじゃない? と光圀さんが問いかけた。
つまんない豆。
犬種を知らない大雑把さ。
自分のことを言われているような気がした。
ぼくは黙って飲んでいると、光圀さんが言った。
「酔っ払っちゃって寝ちゃったんだって?」
「え」
「しょうがないから連れてきたって、直哉言ってたよ」
「直哉……さんは」
「ああ、近所の深夜までやってるスーパーまで、酒買いに行ってる。おかしいよねえ、酔っ払って寝てる人に、起きたらいるかもとかなんとか言って。きみ、アル中なの?」
「いや、違います」
本当に、ご迷惑おかけしました、とぼくはコーヒーを飲み干し頭を下げた。
とにかく、帰ろう。一刻も早く。
「ちょっと待って。じつは一度じっくり話したいことがあったんだけど、ちょうどよかった。いまいい?」
光圀さんが笑顔を向けた。
逃げるんじゃねえよ、と顔に書いてある。
「でも、遅いんで」
「直哉は泊めるつもりだったみたいだけど?」
「すみません、お二人のベッドに寝ちゃって」
「全然、若い子の匂いのついたベッドで寝たら、気持ちも満たされるかもしんないし。いっそ三人で寝てもいいよ。ベット広いし」
「いや、そんなの、眠れないですよ」
「人んちのベッドでやっといて繊細ぶってんじゃねーよ」
光圀さんは笑顔のまま言った。
ぼくは。
「あの」
「酔って全裸になって寝ちゃった? 直哉は杜撰だから。ゴミ箱のローションついたばっちいティッシュはなに。きみのゲロって、ぺぺなの?」
ぼくはなにも言えなかった。なにか言わなくちゃ、と思ったけれど、いまの事態をなんとかするための上手いアイデアなんて浮かばない。
光圀さんが続けた。
「きみが直哉と寝たんなら、ぼくが翔真くんをどうにかしても文句はないよね」
「ちょ」
「スワッピング? まあよくあることでしょ。でも、そういうのってお互いに飽きてから始めるもんだけどね」
「なにを言っているんですか」
ぼくは頭が真っ白になった。
「なにそんな顔してんの。因果応報、原因と結果、引き寄せ、でしょ? 『ザ・シークレット』読んだ方がいいよ。無駄にポジティブな気持ちになるかから」
光圀さんは平然と続けた。「その顔なに? 被害者ヅラ? ま、しないけど。翔真くんはいまじゃ大事な商品だから」
「商品」
「率直に聞くけど、きみたち、本当に付き合ってるの?」
息を呑んだ。「どこまでの関係?」
「そんなこと、なんで言わなきゃ」
「翔真くんのためだよ」
「意味わかんないです」
「彼、来年ハネるよ」
「……どういうことですか」
「次の特撮番組の主役になる。というか、ねじこむ」
ちょうど次の番組にあった俳優を探していたんだよね。新鮮で、手垢のついていない子のほうが、動かしやすい。番組が終わったときには一定のファンもつくだろうし、悪い話じゃないでしょ。いまの若者ってSNSで黒歴史作っているやつがいてね、過去のことを隠せないでしょう。翔真くんのこと調べたけど、自分発信のデジタルタトゥーが奇跡的にない。最高だね。でも、一つだけ問題がある。
光圀さんはぼくに手の平を見せた。
「スマホ見せて」
「なんでですか」
「二人で写真撮ってたり、ラインのやりとり? 消して。きみはトチ狂うタイプじゃないのはわかるけど、念には念を入れておかないとね。ハメ撮りとかあったら最悪だから」
彼の将来にかかわるんだよ。
きみ、好きなんでしょう。
わかるよね?
男と付き合ってるとか、いくら生ぬるい善意にあふれた世の中でも、まだ差別って普通にあるよね?
偏見ないとかぬかしてるやつの目の奥、見たことある?
「……消します」
ぼくは待受を削除した。笑顔の翔真が画面に映ったとき、ゴミ箱をタップするのを躊躇した。
「早く」
光圀さんがけしかける。
ぼくは写真フォルダを消去した。
「……しました」
「復元しないでよ」
「しません。あと、お願いです」
「なに」
「翔真に変なこと、しないでください」
「しねーよ。いま令和だぞ? いまどきうるせえから、商品なんて腫れ物扱いだよ」
じゃあ平成のときはしてたんですか、と言いそうになったけれど、しなかった。ぼくはただ、従った。
「消しました」
「あと、わかってるよね。もう会わないでね」
「大学同じです」
「無視すれば? やっぱ合わないとかてきとうに言いなよ」
ムラムラしたら、たまに直哉貸してあげるよ。これからしばらく、ぼくも忙しくなるから。きみだったら病気の心配もなさそうだし、変なやつと浮気されるより、ちょうどいいや。
「付き合ってません」
「は?」
「ぼくたち、付き合ってなんかいません」
ぼくは震えていた。でも泣かなかった。泣く意味がなかった。涙を外に流しても仕方がないのだ。水分は、内側で渦巻く。
「ほんとなの?」
「結婚式に彼氏いないと恥ずかしいから、頼んだだけです」
光圀さんは黙った。
ぼくは下を向いてこらえていたから、どんな顔をしているのかわからない。
「くっだらねえ。浅はかなガキの考えそうなことだな」
光圀さんが吐き捨てた。
そのとき、ラインの通知が入った。
「翔真」
光圀さんが読み上げた。「仲良いね」
「芝居の感想言ってなかったから」
「きみみたいなつまんないコの感想を欲しがるなんて、彼、不遇だったんだねえ」
光圀さんが憐れむように言った。「きみ、もう少し現実に目を向けて資格とかとったほうがいいよ。才能あるとか思い込んで人生棒に振っちゃだめだよ。このままだと、年をとったら誰からも相手にされなくなるよ」
光圀さんがぼくのスマホを手にして眺めながら言った。途中から電話になった。スマホが震えるのを気にせず、光圀さんは話す。
ぼくはなにも言えず、その言葉をうけて、震えることしかできなかった。
「ああ、シナリオ書いてたんだっけ。どうせあれでしょ、うちにもよく送られてくるよ、頭の悪い大学生が書いたつまんないシナリオ。女と自分を美化してさ、綺麗事で塗り固めて、最後は適当にどっちかが死んで、生き残ったほうが海眺めて、たそがれるんだよね。なんの努力も解決もなく、ただ自己憐憫ばかり。どうせきみもそっちの口だろ? ああそうか、男同士の話? で結果別れて海でも眺めるの? 山でジビエ鍋でも作って泣きながら食う? ゲイものでオリジナルって最近は停滞気味だから。ああ、だったら小説サイトにでも投稿してバズってくれたら、考えなくもないけど? 原作ものじゃないとさ、最近は動員見通せないから、評価辛いよ」
スマホが震え続けている。
光圀さんが舌打ちした。
「でなよ。で、もう会わない、って、本人に伝えて」
「……なんで」
「翔真がきみのことをどう思っているかなんて興味ないよ。恋人でも友達でもどうでもいい。ただ、多分、きみのことをきみ以上に信頼しているのは見ていてわかる」
「そんなこと」
ない。
「なにもわかっちゃいないんだね。つまんないやつはつまんないシナリオしか書けないよ?」
ほら、人生経験、とぼくの胸にスマホを押し付けた。
振動を感じながら、ぼくとどっちが震えているんだろうと、思った。


