直哉がぼくの隣に座った。
「どした?」
 ぼくの顔を覗き込んだ。
「どもしない」
 なんだか、自分が甘えているみたいに思えた。
「そ」
 直哉はいつものように納得して、「すんませんけどビール」
 と言った。
「はいよ」
 ママがビールサーバーをオンにした。
「え」
 ぼくが驚くと、
「なに?」
 としらばっくれた。「イケメンの言うことは聞くタイプなの」
 ママが舌を出した。なんてあまのじゃくな人なんだ。と思いつつ、ぼくもビールを頼んだ。
「いや、暑くなってきたね」
 直哉が言った。
「あーら、もう男の更年期?」
 ママが毒を吐く。
「かもなあ。やばいなあ」
「結婚して安心しちゃったんじゃなーい?」
「たしかに、腹が心配だなあ」
「へーっ、触らせて」
 そんなやりとりをぼくはぼんやり聞いていた。
 ピザが届き、ぼくらはぼそぼそとつまんだ。
 直哉がきて、光圀さんのことを思い出した。急に、好物のシーフードが、場をつなぐために食べているみたいになっていた。
「で、なんなの? ドアには『CLOSED』ってあるのに、あいてるし、しかも和寿とママで二人っきりで」
 直哉が訊ねた。
「一つずつ答えるわ。普通、開店準備中って出しているのに乗り込んでくるあんたがおかしい。あと、わたしたちが二人っきりでいるからって、すけべな妄想するのは想像力欠如よ。わたしも和寿ちゃんも、お互いタイプでないのわかってるでしょ。イケメンが好きなのよ」
 ねーっ、とマスターがにやにやしながら言った。
 はじめは正論ぶちかましているなと思って聞いていたんだが、結局お互いぶす、で落とす。さすがの二丁目ノリである。
「ごめんごめん、あと、すけべなことは考えていない」
 直哉が笑いながら手を振って謝った。
「どっちかってーと、うちら、直哉くんを裸にひん剥きたいな」
「怖い怖い」
「ふふ、いまここにはわたしたちしかいない。ねえ、どうするう?」
 ママがぼくに言った。
「そんな気分じゃないです」
「あらー、ずいぶん大人になったわねえ。でもそうよねえ、元カレの裸なんかじゃ興奮しないわよねえ」
「言うねえ」
 直哉が苦笑いをした。
「そもそもなんで既婚者が日曜日の夕方に二丁目歩いてんのよ。男漁り?」
 ママが相変わらずのノンデリぶりで言った。
「いや、暇なんだよなあ、最近わりと週末きっちり休めているんだけど、旦那のほうは忙しくってさ」
 旦那。たしかに忙しいだろう。光圀さんはさっき劇場で、若手俳優をチェックしていたし。そんな嫌味になるのかわからないようなことを口にしそうになったが、
「へーっ、大変ねえ、どんなお仕事されてるの?」
 とママがなにも知らない振りをして、ぼくに目配せした。
「ああ、映像系っていうか」
 と直哉が、大体の人が知っている映画会社の名前をあげた。
「へーっ、すごいわねえ」
 ママが大袈裟に驚いたが、いつも芝居っけのある人なので、嘘くさいリアクションはデフォルトだ。なので見分けがつかないのがすごい。
「ああ、でも映画の方じゃなくて、子供向けのやつ、特撮やってる」
「へーっ、子供に夢を与えているのね」
 ママが嫌味たらしく言った。「大事な仕事ね」
「まあ、楽しくやってるみたいだけどね、キャスティングの仕事で、やたら『化ける俳優』を発掘するって、目利き呼ばわりされているらしいよ」
「そうなんだ」
 ぼくは思わず言った。だったら、翔真は売れると見込まれたということだろうか。
「でも、大丈夫? そんなイケメンばかり周りにいたら、そこらへんの野良イケメンじゃ相手できないんじゃなーい?」
 ママが直哉を指差した。
「はは。まあ俺もわりといい線いってるらしいんだけどなあ」
 直哉が笑った。
「そうだよ、直哉はかっこいいよ」
 ぼくは言った。
「ありがと」
 直哉が笑った。
「ほんとに。だって別れてからずっと、暗かったもん」
 ぼくは言った。まるで、いまの気持ちをうまく解消できなくて、あてつけるみたいに。
「ごめんな」
「元カレとセフレ一堂に集めて、もうおしまいです、って笑顔で宣言したわけでしょ、あんたら、残酷すぎない?」
 ママが言った。
「そんなつもりは」
「ある、絶対ある。だって、わたしももし同性婚するなら、いままで付き合ってた男に見せつけてやるもん」
「それは、ママが、でしょ」
 ぼくが仲裁すると、
「なにそっちの味方してんのよ〜」
 とママが膨れた。
「そんなんじゃないけどさ」
「だいたい、旦那さん、若い野心ある俳優に、仕事ちらつかせて、いただいたりしてんじゃないの〜?」
「ママ!」
 さすがにひどい。ぼくはママを睨んだ。
「ま、そういうことも、あったんじゃないか」
 直哉は意に介さず、さらりと言った。
「え」
「知らんけど、べつに俺たち、出会った時点でまっさらで綺麗な童貞じゃなかったしな。いうなれば中古品同士だし。みんなそうだろ。お互いしか知らないでずーっと付き合っているカップルなんてなかなかいないだろ、ゲイなんて。そもそもみんな、とりあえず男と寝てみたいって焦って、しょうもない初体験してるもんだろ」
 当たり前のことを、当たり前のように言った。
「ぼくは、違う」
 下を向いて、つぶやいた。
「和寿?」
「ぼくは、直哉のこと好きだったし、最初のひと……」
 なぜか、泣けた。
 なんで、ぼくは詩織さんみたいに、あのとき、翔真の成功を前にして泣かなかったのに、この、冷めた真実の言葉を前に泣いているんだろう。自分のことでしか泣けないなんて、ぼくには自分しか見えていない。
 恥ずかしい。
 慰められるために泣いているようなものだ。子供とかわりない。でも、なにを同情してもらいたいんだろう。
「和寿ちゃん」
 ママの声が優しかったけれど、ぼくは下を向いたままであった。
 直哉が無言で、ぼくの背中をさすってくれる。
 でも、その手がほしいわけじゃない。
 ぼくが欲しかった手は。
 そんな資格ないのに。
 
 店を閉めていても、お客はやってくる。人が集まり始めた。
「なんで閉めてるのあんたらくんのよ!」
 ママが言うと、
「だってあかりついてるしさ〜」
 と一人が明るく答えた。
「ママの顔、毎週見ないと寂しいんだよな〜」
 誰かが言った。
「あーあ、全員アル中」
 ママがため息をつくと、
「そうさせたのママでしょ〜」
 たしかに、ママはよく言っていた。
 儲けるためには常連客をアル中にするのが一番いいのよ、と。
「じゃ、俺たちは出るか」
 直哉が促した。
「和寿ちゃん」
 ママがぼくを呼んだ。
「なに?」
「流されるんじゃなくて、自分のしたいことをしなさい」
 そのときのぼくには、ママがなにを言っているのかわからなかった。
「大丈夫か?」
 店を出て、直哉がぼくに言った。ぼくは直哉に肩を抱かれていた。恋人には見えないだろう。酔っ払いと付き添いだ。
「全然平気」
「じゃないだろ」
「なんでわかる」
 ぼくが鼻をすすると、
「昔の男だから」
 直哉が平然と答えた。
「ありがとーございますっ、元カレ認定。弟分だと思ってた」
「弟と抱き合うとか、昭和のエロ小説じゃねえか」
「そういうの好きなんだと思ってた。兄貴ー、弟ー、みたいな。ぼくの前に付き合ってたのも年下だって言ってたし」
 だから、年上の光圀さんと最後結婚するなんて、とわけがわからなかった。
 たぶん、酔いが回ってきたのだ。
「なにか抱えてるなら、言えよ」
 直哉が言った。
「なにもない」
 からっぽすぎる。からっぽの器に、むりやり感情を詰め込んであたふたしてるだけ。
「元カレの胸ってのは、なつかしいもんだろ」
 直哉がぼくを抱きしめた。
 ぼくは顔を埋めた。
「苦しい」
「そのくらい我慢しろ、セラピーになる」
 他人の体温と匂い。
「頭がぼーっとしてきた」
「いちいち説明するんだよなあ、和寿は」
 直哉はぼくを離そうとしない。
 いまどこだっけ、あと数歩で仲通りを出るあたりだ。そこから先は、こんなことはできない。
 翔真とは、この街の外でキスした。
「めんどーくさくて、ごめん」
 そりゃこんなガキ、警戒するよね。女とじき結婚するからって言ってたのも、そういうことだったんだよね。つまり、めんどくさいと思ったら、すぐ別れられるように、だよね。
 全部わかってた。
 わからないふりしてた。
 だから苦しかった。
「そんなことないよ」
 反射的な言葉でしょ、それ。
「だったら」
 僕は直哉の胸に顔を押し付けた。
「しようか」
 と直哉が言った。「なんか、久しぶりに和寿とこんなことしてたら、思い出しちゃったよ」
 ぼくが先に、誘ったのかもかしれない。態度で、テレパシーで。
「浮気者」
「男のたしなみでしょ」
「最悪」
「ほっとけねーだろ」
「ほっといてそこらへんに捨ててよ」
「くたびれているときは流れに身を任せるのも悪くないよな?」
 なんで直哉は問いかけるのか。
 流れ。
 さっき聞いた気がした。