「あんた、なに自分から負けてんのよ」
 帰り道、ママがお見通し、といった顔で言った。
「はなからぼくらじゃ太刀打ちできませんよ」
「あ、わたしもいちおうライバル認定してくれてたんだ」
「まあ、そうなないと怒られそうだし」
 ぼくは前を見たまま言った。
 昼公演だったので、まだ明るい。夕方になる前の、騒がしい学生街だ。ラーメン屋で並んでいる人々、楽しそうにくっついて歩いているカップル、まだ夜がこないというのに、酔っ払っている学生グループ。なにもかもが終わったというのに、そんな気配はなにもなかった。
 もし、翔真を結婚式に連れていかなかったら?
 さっき感謝されたというのに、ぼくはそんな「たられば」を思いついて首を振った。
 光圀さんに会わせなくても、翔真はちゃんと夢を叶えることができる人だ。
 でも。
 それを少しだけ遅らせることができたんじゃないか?
 そんなひどいことを考える自分を嫌悪した。
 最低すぎる。
 そんなことになったからって、ぼくと翔真の距離が近づくことなんてないのに。
 数歩歩いて、隣にママがいないことに気づいて振り返ると、ママが腕を組んで険しい顔をしていた。
「なんですか」
「ニチョ行こ」
 そう言って手をあげ、タクシーを止めた。
「え、なんでですか」
「今日店、遅くからオープンにしてたから、あんた貸切にしてあげるよ」
 ママが車に乗りこみ、そしてぼくの腕を引っ張った。
『ひぐまりおん』に入ると、ママが、
「なに飲む?」
 と言った。
「ビール」
「サーバーセットするの面倒だから、違うのにして」
 と勝手にカウンターで酒を作り始めた。
 シェーカーを手際よく振るママに、ぼくはびっくりした。
「え、そんな特技あったんですか」
「は? 当たり前でしょ。昔バーテンダーもやったことあるんだから」
 ちょっと怒り気味に、でも美しく、カクテルをグラスに注ぐ。
 青い。
「なんですか、これ」
 ぼくはグラスに顔を近づけて、訊ねた。
「知らん」
「え?」
「適当に作った。名付けて和寿スペシャルにしてあげてもいいよ」
 適当って、と口につけると、
「おいしい。なんかかき氷のシロップみたいな色なのに」
「そのコメント、舐めてる?」
 ぼくはびっくりした。舌が軽くぴりついた、なにか香草の味もする。でも、甘い。このこんなカクテル、初めて飲んだ。
 ぼくは一気に飲み干した。
「あんたねえ、もう少しありがたがりなさいよ」
 ママが笑った。
「おかわり、いいですか」
 ぼくが言うと、
「無理ね」
 とママが言った。
「えーっ」
「だってほんとうに適当に作ったんだもん」
 マジかよ。ぼくは揶揄われているのかと思って、目を細めた。
「適当でこんなにおいしいんだ」
「ま、たまに失敗することもあるけどね。でも、こうすればおいしいって配合はわかっているから」
「だったら作れるんじゃないですか」
「相手のために作れば、毒であろうとおいしく感じさせられるもんなの」
 マスターはにやりと笑った。「ま、脅迫みたいなもんかも。本気で思えば、伝わるの」
「本気」
 じゃあ自分の翔真への気持ちは、本気でなかったのだろうか。いや、違う。翔真はそもそもぼくと違うのだ。少年ジャンプとマーガレットみたいなものだ。同じ漫画、同じ出版社だけれど、歴然と区別されている。
「あんたにはいま、なんて言ったって、ネガティブにしか受け取れないだろうから。それでいいから、せめて、おいしいって思っていたら、なんとかなるから。自分の感覚だけが頼りなのよ、人生ってさ」
 ほら、おいしいよ、とポテトチップの袋をあけて、ざらざらと皿にうつした。
「お通し」
 ぼくはポテトチップを手にした。
「わたしがあけた、皿にうつした。一手間かけてる」
 ママが偉そうに言った。
 ぼくは一枚口に入れた。なんてことないうすしお味だった。でも、
「おいしい」
 とぼくは言った。
「よし。なんかピザでもとる?」
 ママが笑った。
「作ってくれるんじゃないんだ」
「なんかめんどくさいんだもん」
 さっきのカクテル、全力でやったからさ〜、とママがスマホを手にとる。
 そういうところが、この店にきてしまう理由なのだ。
 いいこと言うくせして、恥ずかしがって、べつにかわいくない(いかつい)けど、かわいい。憎めないママがいるから。
 じゃあ、シーフードがいい、あとミートなやつ、と注文をつけたとき、店のドアがひらいた?
「あいてます?」
 直哉だった。