もらった招待状を握りしめたまま、ぼくはふらふらと新宿を歩いていた。
さっき聞いた、元彼の直哉が同性婚をする、というおめでたい報告を受け、頭が働かなくなってしまい、やたらと人と肩がぶつかった。背後から舌打ちされたり怒鳴られても、なんとも思わなかった。
しかも。
彼氏がいる、って見栄張ってしまったし!
そもそも直哉と別れて、しばらくずっと暗かった。最近やっと気持ちが前向きになってきたばかりだったというに、がくん、と落ちた。別れたときに落ちたのが血の底だったら、いまはもう地の底深く、地球の反対側までたどりついてしまうかもしれない。
なるほど、どん底にまで落ちたら這い上がれるっていうのは、地球の裏側に立つってことなのかも。
そんな間抜けなことを考えながら、結局行く場所もないぼくは、馴染みの店へと足が動いていた。
「なるほどねえ」
とカウンターの向こうで腕を組んで頷くタンクトップの筋肉男。
この店のママである。
直哉と付き合っているあいだ、直哉の馴染みの店に連れて行かれ、さまざまな人々に紹介された。直哉は人気者だった。あ、直哉に気があるんだな、と思われる(なんなら関係があったのかも)男の意地の悪い視線に晒されても、付き合っているあいだは気にもしなかった。しかし、別れてしまうと界隈の顔であった直哉のテリトリーに一人で行くことができなかった。
そんななかで唯一、ぼくが直哉と出会う前に通っていたバーがここ、「ひぐまりおん」である。ヒグマとピグマリオンを足したのよ、とママは偉そうに語るが、意味はさっぱりわからない。でも一人でふらりと入り、そして他愛もない話をすることができる。大学を機に東京へやってきたぼくにとって、唯一の安らげる場所、である。
「しかしそいつ、すごいわねー。きっと披露宴、そのイケメン彼氏の」
「元です」
「はいはい、元彼氏さんね、のお手つきしかいないんじゃない?」
いかにもゲイバーらしい毒を吐きつつ、令和なので表現が柔らかめ、である。できた人だ。
「考えただけで地獄だけど、あの人、そういう雰囲気? なんか自分をめぐってピリついてる感じに酔っちゃうタイプだから」
「自信満々の高給取りのイケメンのテンプレみたいな男ねえ」
にしても和寿ちゃん、とママは眉間に皺を寄せた。「あんた男ができたら途端に店にこなくなって、別れたって報告しに来たら今度は鬱って音信不通。で、ひさしぶりにやってきたら愚痴って、幸福逃げるよ」
「すんません」
こーふく。
なんだっけ、それっておいしいの? である。
たしかに付き合ったときは幸福の極みだった。
東京の暮らしに慣れてきた頃、調子に乗って、アプリで待ち合わせして、やってきた直哉にぼーっとして、そのまま勢いで……ごにょごにょ……終わった後には付き合おうか、と言われ。
軽い、軽すぎる。
高校までの悶々とした暮らしの反動だったのだ。
当時直哉は二十三歳、スーツの似合う、かっこいいお兄さん、に見えたのだ。
明るく騒がしい夜の街、隣には頼りになる恋人、無敵か? というくらいにはしゃいで、調子に乗っていた。
「でもどうすんのよ、行くの?」
ママが言った。
「行かないわけにはいかないでしょ」
「ダメージくるんじゃない?」
「かといって行かなかったら負けじゃん」
と強気な発言を弱々しくぼくは言った。
「まあ、いいけどね、でも結婚式までに彼氏、できんの?」
「それは……。ひさしぶりにアレを使うしか」
とぼくはスマホを取り出した。
「アプリ? ちょっと無理なんじゃない」
「なんでよ」
「前みたいに即日で付き合うこともあるかもしんないけど、アプリで恋人募集すんのにやりとりだって必要でしょう。悪いけど、いまどきアプリにいるイケメンなんて、だいたい男持ちか既婚者が浮気するためにやってるもんよ。それに、その心底好きだったハイスペ野郎に対抗できるやつ見つけるなんて至難の技でしょうよ」
「それは」
そこまで突きつけてくれるなよ、ママ。こちとら出会い方がわからないんだから。
新しい彼氏が、そこらへんにいる男だったら、直哉どころか参列者たちに「ランク下がってる」と思われるに違いない。いや、そんなの気にしないでいいけど。いや、気にする。そもそも今回の場合は、披露宴に連れていってもまわりに見劣りしない男を見つけたいのである。
つまり、彼氏でなく、このミッションに一緒に立ち向かってくれるイケメンを探しているのだ。
うなだれたぼくに、ママが声をかけた。
「そもそも和寿ちゃん、恋もイケメンもプライドも大事だけど、最近どうなの」
「どうって、絶不調です」
「シナリオは?」
「いや、それは」
「たしか和寿ちゃん、シナリオライター志望だって言ってたわよね。学生のうちに賞をとりたいとか、目をキラキラさせてさあ。店にきたおじさんたちに『かわいいねえ』なんて言われてお酒奢ってもらったりしてたじゃない」
「たしかに、毎月雑誌は買ってるんだけどね」
「彼氏できて遊びまくって、振られたらぐずぐずしてた、と」
「めちゃシンプルな要約あざす」
「そんなことしているうちにすーぐ大学なんて卒業しちゃうわよ。人生経験積んだんだから、それをネタに書いたらいいじゃない」
「俺の話なんて、誰が読みたがるのさ」
「他人の不幸こそ、人生のガラムマサラよ」
名言を言った、とドヤ顔のマスターを無視したとき、店のドアが開いた。
さっき聞いた、元彼の直哉が同性婚をする、というおめでたい報告を受け、頭が働かなくなってしまい、やたらと人と肩がぶつかった。背後から舌打ちされたり怒鳴られても、なんとも思わなかった。
しかも。
彼氏がいる、って見栄張ってしまったし!
そもそも直哉と別れて、しばらくずっと暗かった。最近やっと気持ちが前向きになってきたばかりだったというに、がくん、と落ちた。別れたときに落ちたのが血の底だったら、いまはもう地の底深く、地球の反対側までたどりついてしまうかもしれない。
なるほど、どん底にまで落ちたら這い上がれるっていうのは、地球の裏側に立つってことなのかも。
そんな間抜けなことを考えながら、結局行く場所もないぼくは、馴染みの店へと足が動いていた。
「なるほどねえ」
とカウンターの向こうで腕を組んで頷くタンクトップの筋肉男。
この店のママである。
直哉と付き合っているあいだ、直哉の馴染みの店に連れて行かれ、さまざまな人々に紹介された。直哉は人気者だった。あ、直哉に気があるんだな、と思われる(なんなら関係があったのかも)男の意地の悪い視線に晒されても、付き合っているあいだは気にもしなかった。しかし、別れてしまうと界隈の顔であった直哉のテリトリーに一人で行くことができなかった。
そんななかで唯一、ぼくが直哉と出会う前に通っていたバーがここ、「ひぐまりおん」である。ヒグマとピグマリオンを足したのよ、とママは偉そうに語るが、意味はさっぱりわからない。でも一人でふらりと入り、そして他愛もない話をすることができる。大学を機に東京へやってきたぼくにとって、唯一の安らげる場所、である。
「しかしそいつ、すごいわねー。きっと披露宴、そのイケメン彼氏の」
「元です」
「はいはい、元彼氏さんね、のお手つきしかいないんじゃない?」
いかにもゲイバーらしい毒を吐きつつ、令和なので表現が柔らかめ、である。できた人だ。
「考えただけで地獄だけど、あの人、そういう雰囲気? なんか自分をめぐってピリついてる感じに酔っちゃうタイプだから」
「自信満々の高給取りのイケメンのテンプレみたいな男ねえ」
にしても和寿ちゃん、とママは眉間に皺を寄せた。「あんた男ができたら途端に店にこなくなって、別れたって報告しに来たら今度は鬱って音信不通。で、ひさしぶりにやってきたら愚痴って、幸福逃げるよ」
「すんません」
こーふく。
なんだっけ、それっておいしいの? である。
たしかに付き合ったときは幸福の極みだった。
東京の暮らしに慣れてきた頃、調子に乗って、アプリで待ち合わせして、やってきた直哉にぼーっとして、そのまま勢いで……ごにょごにょ……終わった後には付き合おうか、と言われ。
軽い、軽すぎる。
高校までの悶々とした暮らしの反動だったのだ。
当時直哉は二十三歳、スーツの似合う、かっこいいお兄さん、に見えたのだ。
明るく騒がしい夜の街、隣には頼りになる恋人、無敵か? というくらいにはしゃいで、調子に乗っていた。
「でもどうすんのよ、行くの?」
ママが言った。
「行かないわけにはいかないでしょ」
「ダメージくるんじゃない?」
「かといって行かなかったら負けじゃん」
と強気な発言を弱々しくぼくは言った。
「まあ、いいけどね、でも結婚式までに彼氏、できんの?」
「それは……。ひさしぶりにアレを使うしか」
とぼくはスマホを取り出した。
「アプリ? ちょっと無理なんじゃない」
「なんでよ」
「前みたいに即日で付き合うこともあるかもしんないけど、アプリで恋人募集すんのにやりとりだって必要でしょう。悪いけど、いまどきアプリにいるイケメンなんて、だいたい男持ちか既婚者が浮気するためにやってるもんよ。それに、その心底好きだったハイスペ野郎に対抗できるやつ見つけるなんて至難の技でしょうよ」
「それは」
そこまで突きつけてくれるなよ、ママ。こちとら出会い方がわからないんだから。
新しい彼氏が、そこらへんにいる男だったら、直哉どころか参列者たちに「ランク下がってる」と思われるに違いない。いや、そんなの気にしないでいいけど。いや、気にする。そもそも今回の場合は、披露宴に連れていってもまわりに見劣りしない男を見つけたいのである。
つまり、彼氏でなく、このミッションに一緒に立ち向かってくれるイケメンを探しているのだ。
うなだれたぼくに、ママが声をかけた。
「そもそも和寿ちゃん、恋もイケメンもプライドも大事だけど、最近どうなの」
「どうって、絶不調です」
「シナリオは?」
「いや、それは」
「たしか和寿ちゃん、シナリオライター志望だって言ってたわよね。学生のうちに賞をとりたいとか、目をキラキラさせてさあ。店にきたおじさんたちに『かわいいねえ』なんて言われてお酒奢ってもらったりしてたじゃない」
「たしかに、毎月雑誌は買ってるんだけどね」
「彼氏できて遊びまくって、振られたらぐずぐずしてた、と」
「めちゃシンプルな要約あざす」
「そんなことしているうちにすーぐ大学なんて卒業しちゃうわよ。人生経験積んだんだから、それをネタに書いたらいいじゃない」
「俺の話なんて、誰が読みたがるのさ」
「他人の不幸こそ、人生のガラムマサラよ」
名言を言った、とドヤ顔のマスターを無視したとき、店のドアが開いた。


