大学の最寄駅で、ぼくは人を待っていた。地下からあがってくる女性が、ぼくに手を振っている。
「お待たせ〜」
 バイト先の先輩でもある森川さんだ。中年女性のよそゆき風のジャケットパンツ姿で、店にやってくるときの普段着とはずいぶん違う。
「すごいですね」 
 ぼくはびっくりして、まじまじと森川さんを見てしまった。
「だって、お芝居にお呼ばれしていただいたんだもの。たまにはちゃんとした格好もしたいしね」
「いや、でもそんな有名人が出るような芝居じゃないですよ。会場だってきっと狭いし」
 さきほど下見がてら会場を見に行ってみたが、雑居ビルの二階だった。
「いいのよ。わたしそういうお芝居観たことないし、楽しみ」
 森川さんは言った。今日は翔真の出演する舞台の初日なのだ。
 偽装契約をしていたときはチケットノルマ分買ってくれ、と翔真は言っていたが、本番近くになると「別に無理して買わないでいいよ。招待だそうか」という。
「なに、面白くないの?」
 ぼくが笑って訊ねると、
「いや、なんか悪いなって思えてきた」
 と言った。
 詩織さんが大学へ行くたびに絡んでくるのを申し訳ないと思っているらしかった。
 いやそんなわけにはいかない、とせめて協力しようと、全六公演すべてと、あとだれか誘って観にいくことにしたのだ。とはいっても陰キャのぼくには人を呼べるほどのコネクションもない。初日に森川さんと、そして楽日にひぐまりおんのママを誘った。
 ママはなんなら座席買い占めるくらいの勢いだったくせに「だったら最後に仕上がった状態のものを観させていただくわ」なんて通ぶったことをぬかした。まあ店が忙しいのだろう。
「あの主演の男の子、生で観ることができるのねえ」
 森川さんが言った。ぼくのスマホの待受の写真を見て以来、翔真に興味津々なのだ。
「あ、舞台終わったら紹介しますよ」
「ほんと? 握手してもらおうかな、売れたときに自慢できるし」
「売れる、ねえ」
 たしかに翔真はテレビに出たら大人気になるに違いない。逆にこのSNS全盛の世の中で、まだ見つかっていないのがおかしいくらいだ。
 そういえば、翔真はSNSをなにもしていない。以前そんな話になったとき、「めんどくさいから」と言っていた。
「でもせっかくなんだから、チラシに写真載っければいいのにね、そうしたらちょっと気になって観にくるお客さんもいるんじゃない?」
「まあ大学の演劇サークルだしなあ」
 そんなことを話しているうちに会場に到着した。ぼくたちはなかに入っていった。パイプ椅子が並べられているだけの狭い空間だった。
「こんなに舞台に近いの?」「一番前にしましょうよ」「ねえ、こういうのってギャラとか出るものなの?」と初めての小劇場(しかもけっこう底のほう)に、森川さんははしゃいであれこれと話しかけてくる。お客はそんなにいないので、声が黒幕の向こうでスタンバイしているであろう役者に届いているのではないか、とひやひやする。
「上演時間どのくらいなの? あ、お手洗いに行っておかなくちゃ」
 と森川さんが立ち上がった。
 やっと落ち着くことができた、と思ったら今度は、
「なに調子こいて前に座ってんのよ」
「うわ、でた」
 思わず顔をしかめてしまった。詩織さんがやってきた。
「そりゃ、ぼくは……」
 翔真の彼氏なんですから、と言い返してやろうと思ったけれど、誰が聞いているかわからないので口ごもった。
「迷惑かけんじゃないわよ」
 と吐き捨て、詩織さんは最後尾の席についた。
 あんたこそ、翔真の彼女ヅラしてんじゃん。なんなら奥で俯瞰して、「ふふっ、彼氏のことをみんな注目してる」とかほくそ笑んでるんじゃねえの。ガチ恋ドルヲタみたいに、と言葉が溢れてきそうになる。言わないけどね。
 そのとき、はっとした。
 もしかして、自分が心の底で思っている、生まれた言葉を吐き出さないことが、人を苦しませて、動きを鈍らせるのではないか、と。だからといって不用意にぺらぺらと本音を口にすることは決していいことではない。
 翔真としばらく一緒に過ごしてきて、なんとなく思っていた。翔真は思ったことを口にする。しかし生来の性格、どこか育ちのよさのようなものを感じる振る舞いや態度からして、ネガティブなことや、重箱のすみをつつくような考えを持っていないのだ。だからあんなにいつだってフットワークが軽くて、きらきらしている。
「おまたせえ」
 森川さんがやってきて、ぼくの横に座った。
「どうかした?」
 森川さんがハンカチをたたみながら言った。その手つきはお母さんを思い出させる。
「いえ、なんにも。なんか変ですか」
「ううん。なんかさっき、『わかった!』みたいな顔してた。ヘレン・ケラーが『ウオーター!』って言ってたみたいに。見たことないけど」
「そんな」
「面白いですねえ」
 背後で声がした。
 振り返ると、光圀さんが笑っていた。
「え? どうして!?」
「お知り合い?」
 森川さんがとりあえず光圀さんに会釈した。
「いや、翔真くんの芝居を観てみたくって、ね」
 光圀さんは完璧な笑顔を浮かべ、「どうも」と森川さんに自己紹介した。
「翔真くん、すでにファンがいるのねえ」
 森川さんは感心していた。「それに桃井くん。あんたの周り、かっこいい人ばかりじゃない?」
「いやあ、それほどでも。ぼくなんかただの在野のイケメンですよ」
 光圀さんが言った。ジョークなのか? 
「面白い人ねえ」
 森川さんが笑った。
 なぜ光圀さんがここに。ぼくは真意がわからず、混乱した。
 答えが出るわけもなく、携帯電話や時計のアラームの電源をお切りくださいと舞台上でスタッフが話しだし、音楽のボリュームが上がる。
 次第に劇場が暗くなり、完全な闇となったと思った途端に、舞台に照明がともり、翔真が立っていた。