ドアを開くとママが「いらっしゃ」と言いかけて、急に険しい顔になってぼくを、迎えた。
「なにしにきたの?」
「いや、飲みにですよ」
 ぼくはカウンターのスツールに腰掛けた。
「翔真くんは?」
「今日はいませんけど」
「今日は? 今日は!」
 鬼の首を取ったかのような笑いをママがした。でも絶対内心笑ってない。
「なんでそんな突っかかるんですか」
 ママはいまだに、ぼくと翔真が付き合っていると思っているのだ。それはぼくらの縁起がリアリティあるということ。
 ぼくらは週に一度、ひぐまりおんにきていた。そしている間、仲のいいカップルの振りをしていたのだ。
 翔真はよく言う。演技はリアルでなくちゃいけないっていうけど、それよりかリアリティがなくちゃいけないんだよ、と。ぼくはあまり意味がわかっていないが、とにかくいまの状態は、「そう見えている」のだ。
「そらそうでしょ、あんたなんて翔真くんがいなかったら価値ないわよ。無よ、無」
「ひどすぎ」
「いいのよ、あんたいま幸せなんでしょ、あんなイケメンでアレもおっきな子と付き合ってるんだから」
 ママが目を瞑った。なにか頭のなかで想像しているみたいで、ああ……と声を漏らした。キモい。
「なんでおっきいってわかるんですか」
 ぼくは当たり前だが見たことも触れたことだってない。まさかこの人、翔真が酔っているときに……、と眉をしかめた。
「そんなの見りゃわかるわよ、オーラくらいに簡単に」
 ママがしれっと言った。
「いや普通の人間オーラも投資もできないし」
「ただわかるの。全体的な感じで、あ、このこ、パンツの中身、すごいわって」
 そう言って目を細め、「あんたは普通ね、中の下」と言った。
「勝手に透視しないでもらえます?」
 思わずぼくは下を向いて自分のパンツを見た。
「いいから、一人で来た理由を言いなさい。あんた悩んでいるときしか一人でこないんだから」
「実は」
 僕が切り出そうとすると、
「やっぱか」
 ママは呆れたふうにため息をついた。
「言う前に飽きるのやめてくれます」
「いいから言ってちょうだい」
 ママが手をひらひらさせて促した。

 結婚式のお披露目も終わり、あとは翔真の幼馴染であるところの手塚詩織さんが問題なのだった。
 学校で距離感そこそこバグり気味でぼくらが歩いていても、別に誰も気にはしない。まあ仲のいい男同士だな、くらいの感覚だろう。そもそも男でつるんでいるのはだいたいバカみたいに見える。スカしていようとも。
 ただ一人、詩織さんのみが、出くわすたびにぼくにメンチを切ってくる。
「ねえ翔真、なんでこんなつまんなさそうな人といっつも歩いてるの?」
 恐ろしく失礼なことをぼくに聞こえるようにして翔真に話しかける。
「いや、楽しいよ、こいつ、映画の趣味も合うし」
 なあ、とぼくの肩を抱き、身体をくっつけてくる翔真に、ぼくのほうは正気になれ、正気でいろと頭で念じ、詩織さんのほうは、
「わたしだって映画くらい。そもそも翔真が人と一緒だと気が散るとか言って誘ってくれないからじゃん!」
 と怒り出す。
「和寿とは一緒に映画観てないけど、感覚が似てるっていうか、なあ」
 翔真がぼくに顔をくっっつけながら言った。
 ぼくは言葉を発することができず、口をぱくぱくさせながら首を動かした。
「あんた」
 詩織さんがぼくを睨みつけた。
「は、はい」
 ぼくが間抜けな返事をすると、
「自分が身分違いだってことわかってるよね」
「と、申しますと」
「あんたいままで、翔真みたいなのと付き合ったことある?」
「ないです」
 ノンケである。ノンケと付き合えるほど度胸も豪気もあるものか。そもそも付き合ったのは直哉だけだ。直哉も相当スペック高いけれど、翔真みたいな天然モノではない。人工的に、鍛えて人当たりよく誰からも好かれようと努力した養殖うなぎである。
「でしょうね。格が違うの」
 と言われたら、そうですねーとしか答えられない。
 詩織さんは畳み掛けてくる。
「身の程わきまえなさいよ。それに、あんたべつに翔真のことほんとうに好きじゃないでしょ」
「なに言ってるんですか」
 ぼくは反射的に、きつい物言いをしたけれど、詩織さんは怖気付くこともない。そもそもチー牛くらいにぼくを思っており、舐めくさっている。
「おいやめろよ」
 翔真が止めても詩織さんからすれば、洗脳を解くという大義名分でもあるかのように、「あんた見た目だけ好きで適当なこと言ってそそのかしたんでしょ。わかるわ。男の手練手管で。翔真、そういうの、男の子にはあるの。わたし卒論、川端康成と折口信夫にしたから。研究して、絶対にこの沼から救うから」
「なにを言ってるんだ?」
 翔真がぽかんとした顔で言った。
「だから、少年愛よ、男色。昔は森鴎外だってそういう経験あったの。上級生と男同士で。翔真はいま、そういうことなの!」
「いや、全然わからんが」
「イニシエーション的なやつ! いっときの感情で、ほんとうはこいつなんてなんとも思ってないの」
 翔真はわからないらしく首を傾げていたが、ぼくは理解した。
 自分がゲイと気づいたとき、なにかヒントがほしい、とネットや題材にされた本を読む。おかげでぼくの読書体験は、さっき詩織さんが言っていた作家や、三島由紀夫にオスカー・ワイルドに稲垣足穂に橋本治、と偏りまくっている。
 詩織さんは明治から戦前にかけての、男子学生が女子のいないなかで恋愛めいた状態になることを指しているのである。でも、だいたい美少年が餌食になるわけで、ぼくはここでも身の程わきまえてしまう。
 ぼくらのやりとりを聞いてもたぶんみんな意味がわからないのだろう。顔見知りが通り過ぎざまに、
「あいかわらずお前ら仲良しだなあ」
 なんて囃したりした。
「仲良くなんてないわよ!」
 詩織さんが言った。
「まあでも、仲良くやろうぜ。俺と和寿のこと、そろそろ理解してくれてもいいだろ」
 翔真が言った。
 そう、翔真はあくまで詩織さんの恋心を諦めさせたいのであり、詩織さん自体のことを嫌いなわけではない。
 ただ、どうして恋、にならないのだ。
 その様子を見て、ぼくは詩織さんに感情移入してしまうことがある。報われない恋、をぼくはずっとしてきたから。小学生のときに、あ、自分、人と違うかも、と気づいて、それから高校を卒業するまでずっと、実るわけもない相手のことを好きだなって遠くで眺めていただけだから。
 ぼくは大学に入って直哉と付き合い、別れてしばらく暗かったけれど、でもコミュニティの存在を知ったし、なんでも話せる相手(と言ってもぴぐまりおんのママは現在ぼくを「おこ」なんだが)もいる。
 彼女にはいないのだ。

 ……と話したところで、ママが言った。
「あんたさあ、他人に感情移入しまくってると、ずっと暗いよ」
 と言った。