「急に甘えてくるじゃん」
 翔真が言った。
「うん」
 ぼくはTシャツに鼻を押し付けた。「いい匂い」
「汗臭くない?」
 ぼくを嫌がることなく、翔真は言った。
「そういうの好きなんで、変態なんで」
 嘘だ。好きな人の匂いが好きなのだ。ぼくは、自分に暗示をかけた。ぼくは結城翔真のことがすきだ。ただエッチしたいとかだけでなく、結城翔真と付き合っているんだ。どこまでが本心でどこからが暗示なのかわからないくらいに、演技に没頭しようと思った。亀の役をしたときの翔真みたいに。
「ふーん」
 ぼくは顔をあげて、翔真を見た。
「こういうとき、カップルはどうすんのかな」
「どうしてほしい? 言ってみ?」
 翔真は言った。場慣れしているのか、演技と割り切っているのかわからなかった。
「……わかんない」
 と口にして、なに甘えてんだ、とぼくは自分が気持ち悪いと思った。
「そっか」
 肩にもたれたぼくの上に、翔真は頭を載せた。「だったら、見つかるまで待ってる」
「今日、泊まってく? 電車ないよね」
「どうしよっかな。一緒のベッドに寝る?」
 そう言われ、ぼくは恥ずかしくなった。やはり、あっちのほうが一枚上手なのだ。
「それは」
「俺、床で寝るのやなんだけど。ハウスダストで鼻とか喉やられそうだし」
 ぼくはどう答えたらいいのかわからずに、余裕のある翔真をただ困ったように眺めることしかできなかった。
「今日会えて嬉しかった」
 と言って翔真が立ち上がった。
「え」
 ぼくは戸惑った。演技とほんとうが一瞬わからなくなった。
「しばらくずっと立ちっぱなしで待ってたし」
「そーすか」
 ぼくは首を回した。「帰る?」
「うん、タクシーで」
「高くない?」
「舐めんなよ、そんくらいの金あるし」
 部屋を出て行こうとするとき、
「今日はありがとう」
 ぼくは言った。
「押しかけたのこっちだし。ごめんな。でも、会えてよかった。なんか胸騒ぎがしたんだ。夕方からずっと和寿のことが頭浮かんでさ、なんかピンチなんじゃないかなって、そういう勘っていうの? 俺あるんだよ」
 自慢げに翔真が言った。
「べつに、今日なんにもなかったし」
 ぼくは、なんとなく、負けたくなくて、手塚詩織のことはやっぱり言ってたまるか、と思った。
「そっか、じゃあただ俺が会いたかっただけだな」
 さらりと翔真が言った。「コンドームはまあネタだよ、びびらせてごめんな」
 じゃあ、と翔真は部屋を出て行った。
 一人になってから、ぼくは窓をあけた。
 夜道を翔真が歩いている。
 振り向け、とぼくは念じた。
 いま振り向いたら、お前の勘ってやつをほんとだって認めるよ。
 ぼくに、顔を見せてよ。
 あ。
 ぼくが、翔真に気づいてほしいだけか。
 翔真が見えなくなっても、ぼくは夜道を眺めていた。
 そしてふと気づいた。
 やっぱり結城翔真はすごいな。
 自分が一番いってほしい言葉を、さらりと口にした。
「俺が会いたかっただけだな」
 さっき言われた言葉を、ぼくは味わうようにゆっくり言った。
 そんなふうに言ってくれる人を、ぼくは求めていたのだ。ぼくのことを、思い出してくれて、会いにきてくれる人を。
 演技に没頭しているから口にしただけでも。
 床に置いたコンドームの箱が見えた。
「勢いで使っちゃえばよかったかもしれない〜!!」
 ぼくはベッドにダイブして、足をじたばたさせた。なんかこう、エロビデオみたいにさ、試してみる? とかなんとかさ、いやさすがに無理なのはわかっているけど!
 もう前にあったのが遥か昔すぎて、正直やりかた忘れかけてるけど!
 こうなんていうのか、そういう雰囲気づくりとかできちゃうような人間だったらなあ。いや、そんなやつなら、こんなニセ彼氏が必要な状況になってないか。
 自分が憎い。
 けれど、いまの自分に翔真は「会いたい」と言ってくれたんだ。
 明日のことはわからない。もっと翔真のことを気になってしまったら、演技は成立するんだろうか?
 だって、リアルとリアリティって、違うじゃないか。寂しいだけだ。終わったとき、ぼくは一人で荒野に立っているのかもしれない。