「えっと、五〇五って言ってたよな……」

ビニール袋を片手に、プレートを確認しながら長い廊下をゆっくりと歩く。

土曜の今日は、大学病院に来ている。五日前、おじいちゃんが転んで左腕を骨折してしまい、入院しているからだ。

咄嗟 に手をついてしまったのが原因らしいけど、頭を打っていたら大変なので、むしろ腕でよかったなと思う。

そんなおじいちゃんが昨夜「どら焼きが食べたい」と要求してきたらしく、パートがある母に代わって俺が届けることになった。

大学病院までは電車で一時間かかるので、学校のある平日は行けない。だからお見舞いに行くのは今日が初めてなのだが……。

病院って、なんか独特な空気感があるよな。

風邪などで病院を受診したことはもちろんあるけど、家族の誰かが入院するという経験はこれまでなかった。だからなのか、初めてのお見舞いに少し緊張している。

朝から患者で溢れている外来と違って、病棟はわりと静かだ。昼食だろうか、わずかに食事の匂いが残っている。

すれ違う看護師さんに軽く会釈をし、病室を覗いた。四人部屋の右奥がおじいちゃんのベッドだが、カーテンが全開だった。おじいちゃんは俺が来たことにすぐに気づき、こちらに向かって手招きをした。

「渉、学校はどうした」

「今日は土曜だから休みだよ。じいちゃん大丈夫なの?」

俺はどら焼きが入った袋を渡し、ベッドの横に置いてある椅子に座った。

「なんも問題ない、大丈夫だよ」

呑気なおじいちゃんは、早速袋を開けてどら焼きを 美味しそうに食べはじめた。左手は使えないけど、骨折したのは利き腕ではなかったので問題なさそうだ。

「お茶はある?」

「一本あるけど、温かいのが飲みたいな」

「じゃあ買ってくるよ。ちょっと待ってて」

入院患者や、お見舞いに来た家族などが使用できる共有の休憩スペースには、テーブルやソファがいくつか置いてあり、自販機もある。病室を出た俺は、そこで温かいお茶を購入した。

お見舞いに来ているのか、ソファに座って話をしている人たちが何人かいる。

そのうちの一組、車椅子のお年寄りとその家族が、休憩スペースの隅にあるドアを開けて外に出た。ドアの横には【庭園出入口】と書かれている。

庭園なんてあったんだ。

壁に貼ってある病院の案内図を見てみると、確かにここ病棟五階から庭園に出られるようだ。

さすが大学病院。売店やカフェ、ファストフード店だけでなく庭園まであるとは。

どんな感じの庭なのか、なんとなく気になったので外に出てみることにした。

温かいお茶をズボンのポケットに押し込み、ドアを開けると短い通路があって、その先にもう一枚ドアがあった。

それをそっと開けた瞬間、優しい風が吹きつけてきた。電灯ではない自然な明かりに、俺は目を細める。

つるが巻きついているアーチをくぐった先には、開放的な庭園が広がっていた。

黄緑色の芝生が鮮やかな広い庭園のあちこちにはベンチが置かれていて、周囲には車椅子でも移動しやすいよう、コンクリートの歩道がある。

事故防止のための金網に囲まれてはいるが、見上げれば青い空が広がっていて、実に開放的だ。入院患者の息抜きや、ちょっとした運動のための散歩には最適の場所かもしれない。
 
芝生の上では小さな子供がふたり、転がりながらはしゃいでいて、 そばで母親らしき人が動画を撮っている。少し離れたところには、車椅子に乗ったお年寄りが嬉しそうにその様子を見ている。

先ほど休憩スペースにいた家族だが、実に微笑ましい。あとでおじいちゃんも連れてこようかな。

そう思いながらふと視線を移すと、外側を向いて置かれている三つのベンチのうちのひとつに、女の子が座っているのが見えた。

子供の笑い声を聞きながら、俺はゆっくりと歩いてそのベンチに近づいた。

うしろ姿だけど、風になびくその長い髪には見覚えがある。

違っていたら恥ずかしいので、近くを通る時にさりげなく顔を確認した。すると。

「やっぱり」

足を止めて俺がそう呟くと、ベンチに座っている女の子が顔を上げた。

「えっ、嘘でしょ?」

俺に気づいて目を見開いたその子は、紛れもなく吉川花だった。

俺と同じように、誰かのお見舞いで来ているのだろう。正面から見るまではそう思っていたけど、多分違う。

Tシャツにスウェット、白いカーディガンを羽織り、足元はサンダル。どう見ても外から来たのではなく、入院患者の身形だ。

制服じゃないからか、それともここが病院だからか分からないけど、昨日一緒に帰った時の吉川とは別人のように思えた。

「あの、えっと、ど……」

どこか悪いのだろうか。そう思った途端、なんて声をかけたらいいのか分からなくなり、黙り込んでしまった。

入院するということはそれなりの理由があるのだろうけど、おじいちゃんのように怪我をしているような様子はない。

「なんでいるのって思った?」

黙っている俺に代わって、吉川が口を開いた。

「あ、うん。こんなところでクラスメイトに会うなんて思わないから、ビックリして」

「私も、まさか渉くんに会うとは思ってなかった」

いつもと変わらない吉川の笑顔に、ちょっとだけホッとした。服装が違っても、やっぱりいつもの吉川だ。

「見れば分かると思うけど、入院してるんだ」

「そ、そうなんだ。俺は、じいちゃんが怪我して、それでお見舞いに来たんだ」

「なるほど、そうだったんだね」

吉川はどうして入院しているのか。正直めちゃくちゃ気になるし心配だけど、理由を聞くのは図々しい気がする。言いにくいことだったら悪いし。

だから俺は、それ以上何も聞かずにベンチに腰を下ろした。

チラッと隣を見ると、吉川は背もたれに寄りかかって空を見上げている。俺も、なんとなく同じように空を見上げた。

「青天の(へき)(れき)

「……え?」

聞き返すように隣を見ると、吉川は空を仰いだまま言った。

「青天の霹靂の使いどころ、今だな~って思って」

「えっと、それは……どういう意味?」

「だってほら、思いがけない事態が起こったとしても、『まさに青天の霹靂だよ~』とか普通の会話の中では絶対言わないじゃん?」

「あぁ、うん。まぁ確かに」

「でもさ、あまりにも現実離れっていうか、驚きを遥かに超えた出来事 に直面すると、青天の霹靂って言いたくなるなって思って」

「それが今ってこと?」

ちょっとよく分からないけど、吉川は「そう」と頷いた。つまり、入院が吉川にとって予想外ということなのだろうか。

あれこれ悩んでいると、吉川はそっと立ち上がり、庭を囲っている金網を右手で握った。

その背中を見つめていると、ふたりの間を暖かい風が通り抜け、吉川がゆっくりと振り返った。



「私、あと三ヶ月で死ぬんだって」