読み終えたあと、俺は咲が言葉を発するまで待った。なぜなら、咲が放心状態になってしまったからだ。凍りついたように立ち尽くしている。

またもや、咲の知らなかった事実が書かれていたのだろう。俺は黙ってただ隣に立ち、咲を見つめ続ける。

「……わけが……分かんないよ」

しばらく沈黙が続いたあと、咲が放ったそのひと言には大きな戸惑いを感じた。

「ひまわりの家? フリースクール? 子供の頃に通ってたってこと? 救われたって何!? 」

握りしめている咲の拳が、わずかに震えている。俺に言っても意味がないと分かっていても、ぶつけずにはいられないのだろう。

「フリースクールってことは、学校に行けないほど悩んでたってこと? 花がなんの悩みを抱えてたの? 余裕がないって、だって花は……私よりずっと……。ていうか、私なんにも聞いてないんだけど!」

出会ったばかりの頃なら『俺にキレ るなよ』と言い合いになっていたかもしれないが、俺は咲の乱れた心を黙って受け止めた。勝手な思い込みかもしれないけど、そうしてほしいと、この日記を書いた吉川に言われているような気がしたから。

日記を見つめながら唇を噛みしめた咲は、最後に大きなため息を吐き出してから日記を俺に返した。

「行こう……」

表情から戸惑いの色が消えないまま、咲がそう言った。そうくるだろうなと思っていた俺は、スマホで 【ひまわりの家】を検索した。

「急に行くのは相手に迷惑かけるから、連絡しよう」

調べた番号に電話をかけた俺は、吉川花のクラスメイトだということと、吉川の双子の妹の咲も一緒だと伝え、今から話を聞きに行ってもいいか尋ねた。

すると、対応してくれた穏やかな声の女性は『花ちゃんの……もちろん大丈夫です。お待ちしています』と、快く了承してくれた。

吉川が亡くなったことは当然知っているだろうから、その女性の声が少しだけ震えているように聞こえたのは気のせいではないはずだ。

「じゃあ、行こうか」

俺が言うと、咲は無言で頷いた。

咲に住所を教えたところ、ひまわりの家は吉川の自宅近くにあることが分かった。

ここからだと電車で一時間ちょっとかかるが、乗り換えなどすべて把握している咲のあとに、俺はついていった。

楽しく会話を弾ませるような雰囲気ではないため、移動中は終始無言だった。その間、咲は吉川のことを考えていたに違いないが、俺も同じだった。

電車の窓から移り行く景色を見つめていても、頭の中は吉川のことでいっぱいだ。

この旅を続けるうちに、俺は吉川のことを何も分かっていないどころか、吉川花という人物像を勝手に決めつけていたということに気づいた。

頭もよくて運動もできて、しっかり者で明るくて優しくて、みんなに好かれている人気者。悩みなんてきっとないのだろうし、俺とは比べものにならないくらい充実した日々を送っているのだろうなと思っていた。

悩みがない人なんているわけがないのに、吉川だけは違うと勝手に思い込んでいた。

余命を知った時だって、もっともっとかけてやれる言葉があったんじゃないか。咲にさえ言わなかった余命のことを俺は知っていたのに、それなのに……。

「次、降りるよ」

咲に声をかけられた俺は指先で軽く目尻をこすり、何事もなかったかのように顔を上げる。

電車を降りて駅を出てからは、スマホで地図を確認しながら歩いた。吉川の住む家にはかつて咲も住んでいたが、引っ越してからは一度も来ていないのだと咲は言った。

「私が母親と一緒に家を出る時、週末はこっちに泊まってほしいってお父さんに言われたの。だけどね、結局行けなかった」

「えっ、なんで?」

純粋な疑問だった。小学生がひとりで行くのは難しいのかもしれないけど、父親が迎えに行くとか母親が送るとかすればいいだけの話だ。多分、父親もそうするつもりだから言ったのだろう。何か事情があったのだろうか。

「ま、色々あってね……」

「色々って、な――」

「ほら、着いたよ。あそこでしょ」

なぜそんなにも悲しそうな顔をするのか、理由を知りたいと思ったけど、咲が前方を指差した。

近づくと、門には【ひまわりの家】という小さな看板がかけられていた。

小さな庭があって、その先に二階建ての建物がある。普通の一軒家というより、幼稚園のような雰囲気だ。

門の外からインターホンを押すと、ひとりの女性が建物から出てきた。ラフなパンツスタイルにオレンジ色のエプロンをかけていて、年齢は三十代くらいだろうか。優しそうな顔をしている。

その人が俺たちの近くまでくると、咲を見た瞬間「あっ」と声を漏らし、目を潤ませ、片手で自分の口元を押さえた。驚きと悲しみと少しの喜びが一気にやってきたような、そんな複雑な顔だ。

「あなたが、咲ちゃん?」

「はい。花の妹の高山咲と申します」

「お電話させていただいた、佐倉渉です。吉川のクラスメイトです」

「私は、ひまわりの家で働いている五十嵐(いがらし) と申します」

五十嵐さんの言葉に、俺たちは揃って頭を下げた。

「来てくれてありがとう。中へどうぞ」

まだ潤んでいる瞳は咲に向いている。この五十嵐さんの表情を見るだけで、吉川がひまわりの家でどんな存在だったのかが分かる気がした。

玄関から伸びている廊下の先には部屋がふたつあって、そこで中学生以下の子供たちが過ごしているらしい。

五十嵐さんに続いて手前の部屋に入ると、そこにはダイニングテーブルが三つと、それぞれに椅子が四脚から六脚置いてあり、奥にはキッチンも見える。

「飲食をする時はこの部屋を使うんだけど、来客の対応もここでしているの」

五十嵐さんに促され、俺たちは並んで椅子に腰を下ろした。

「冷たいお茶で大丈夫?」

「あ、お構いなく」

俺が言うと、キッチンに立った五十嵐さんはにっこりと微笑んだ。

この部屋には誰もいないけど、微かに子供の声が聞こえる。

「こんなものしかないけど、よかったらどうぞ」

冷たい麦茶とおせんべいを出してくれた。

「ありがとうございます。いただきます」

ふたりでお礼を伝え麦茶を飲むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。咲も同じなのか、麦茶をひと口飲んでから「ふー」と小さく息を吐いた。

「普段はお客さんが来ても、子供たちにこの部屋から出てもらうっていうことはしていないの。だけど今日は、みんな奥の部屋に行ってもらったのよ。咲ちゃんを見て驚く子もいるかもしれないから」

つまり、花が亡くなったことを、ここの子供たちも知っているということなのだろう。

「私たちも葬儀に参列したんだけどね、ひまわりの家に通ってくれている子にはどう説明しようかスタッフやボランティアの学生さん含めて悩んだの。だけどね、花ちゃんが急になんの挨拶もなく来なくなったら心配する子もいるだろうってなって。花ちゃんを慕っている子も多かったから」

何も知らずに心配したり不安にさせるよりも、本当のことを話したほうがいいと判断したらしい。

「花ちゃんから聞いていた通りね。本当にそっくり」

咲を見ながら改めて呟いた五十嵐さんは、テーブルに置いてあるティッシュに手を伸ばし、目元を拭った。

「ごめんなさいね、花ちゃんのことを聞きにきたのよね」

「いえ、こちらこそ突然押しかけてしまってすみません」

「いいのよ、咲ちゃんのことは花ちゃんからたくさん話を聞いていたから、会えて嬉しい。花ちゃんがひまわりの家のことを咲ちゃんに話さなかったのは、多分心配かけないためなんじゃないかな……――」

そう言って、五十嵐さんは吉川とひまわりの家について教えてくれた。

両親が離婚をして咲が母親と家を出たあと、吉川は一時精神的に不安定になってしまったらしい。理由はもちろん、双子の妹である咲と離れ ばなれになってしまったからだ。双子特有の繋がり、というやつだろうか。

それでも吉川は父親や一緒に暮らす祖母に心配をかけないよう元気に振る舞っていたらしいが、ある日学校へ行こうとするとお腹が痛くなったり(じん)()(しん)が出たり、体に異変が出てしまったのだと言う。

病院を受診しても原因は不明。恐らく なんらかの精神的ストレスだろうということになり、体調が戻るまで学校は休むことになった。

「でもね、花ちゃんは家にじっとしていても体調が優れなくて、お父さんの提案でここに通うことになったの。最初は緊張とか不安とか色々重なっていたのか、全然笑わなくてね――」
 
けれど、ひまわりの家に通う子はみんなそれぞれ悩みや色んな不安を抱えている。そのことを知った吉川は徐々に打ち解けていき、通いはじめて一ヶ月ほど経つとすっかりひまわりの家にも慣れ、笑顔が見られるようになったのだと教えてくれた。

「ひまわりの家を好きになってくれて、花ちゃんの居場所になれて、私たちスタッフも本当に嬉しかったの。それから花ちゃんはどんどん元気になって、でもね、半年で花ちゃんの心が安定して学校に戻れたのは、やっぱり咲ちゃんの力だと思うわ」

「私? いえ、私は何も……」

「そんなことないよ。だって、お父さんがお母さんと話し合って、半年に一度咲ちゃんに会える誓約を交わしたからこそ、花ちゃんは元気になったんだから」

話によると、ふたりの父親が咲との面会を何度も申し入れたが、母親がそれを頑なに拒み続けていた。しかし、父親が色々と手を尽くして半年に一度会えることになったらしい。

「会えるって知った時の花ちゃんの顔、咲ちゃんにも見せたかったな。本当に嬉しそうに、泣きながら笑ったんだから」

「そう……だったんですね……」

吉川は、咲に会えなくなったことで不安定になり、会えると知って元気になった。それを知って嬉しくないはずはないが、素直に喜べない咲のことを想うと、胸が苦しくなった。

できるなら、ここに吉川もいて、『 私に会えないからって泣くなよ』とか言って咲がからかうと、吉川が嬉しそうに笑う。そんなふたりを、見たかった。

「花がそんなことになっていたなんて、知りませんでした。私がいなくなっても、優しいお父さんとおばあちゃんと幸せに笑っているんだろうなって……」

「花ちゃんにとって咲ちゃんは、誰よりも大切な存在だったんじゃないかな」

吉川にとって、咲と離れたことは体に異変が表れるほどショックで、それほどまでに咲のことが大好きだったのだと、俺もそう思う。

だからこそ、親の勝手で子供を傷つけていいはずない。なぜふたりを離したりしたんだと、両親に怒鳴ってやりたい気持ちになった。

吉川がなぜ病気になってしまったのかは分からないが、ふたりがずっと一緒だったら、あるいは今も吉川は生きていて、咲は笑っていたんじゃないか。そんなふうに考えてしまう。

「高校生になってからは、咲ちゃんみたいになりたいってよく言ってたのよ」

その瞬間、咲の表情が少しだけ強張った。

「ほら、花ちゃんちょっとおっちょこちょいなところあるでしょ? 今日初めて会ったけど咲ちゃん落ち着いてるから、そういうところが羨ましかったんじゃないかな。あとは、運動神経抜群で走るのなんてめちゃくちゃ速いんだって、咲ちゃんのことを嬉しそうに自慢してたわよ」

山本さんの時みたいに、そんなわけないってキレるんじゃないかと冷や冷やしたけど、咲は冷静だった。

「そうですか。あの、花は学校に行くようになってからはどうだったんですか」

「花ちゃんはひまわりの家にしょっちゅう遊びに来てくれて、高校生になってからは、ボランティアで勉強を教えたりし てくれていたのよ」

「そうだったんですね、全然知りませんでした」

「さっきも言ったけど、心配かけたくなかったんじゃないかな。花ちゃんはそういう子だと思うから」

俺も、五十嵐さんと同じ意見だ。咲と会えないことで自分が体調を崩したなんて、言えなかったのだと思う。

「またいつでも遊びに来て。もう少し経ったら、子供たちにも花ちゃんの双子の妹だって咲ちゃんを紹介できると思うし」

「はい、今日は本当にありがとうございました」

五十嵐さんは最後に、ひまわりの家で撮った吉川の写真を封筒に入れ、咲に渡した。

「それ、見なくていいの?」

咲は渡された封筒をすぐにバッグの中に入れていたので、少し気になった。

「うん。今はまだいい」

「そっか」

ひまわりの家を出た俺たちは、駅に向かった。

「あのさ、さすがにお腹空いたんだけど、飯行かない?」

時刻は午後三時、昼ご飯の時間はとっくに過ぎている。

「いいけど……日記に関係ないことして、花に怒られないかな。渉とふたりだし」

「なんで? そんなことで吉川が怒るとは思えないけど」

咲は「だよね」と言って、なぜか笑っていた。

微妙な時間だからか、駅近くにあるファミレスはかなり空いていたので、俺たちはまわりに人がいない隅のボックス席に座った。

「花はさ、ドリアとかグラタン系好きなんだよね。真夏の暑い日でも、熱い熱いとか言いながら食べてたなぁ」

そう言って、咲はタブレットでドリアを選んだ。

「そうだったんだ。他に好きな食べものってあった?」

たくさん話をしてきたはずなのに、吉川の好きな食べものさえ知らなかったことがすごく悔しいし、情けない。

「あとはそうだな~、甘いものが好きだったよ。どんなにお腹いっぱいでも、デザートがあれば食べてたし」

「なるほど。そう言われてみれば……」

いつだったか、ポケットから突然小さなチョコを出して俺にくれたことがあったな。いつも入ってるのかって聞いたら、『当然だよ。ポケットにいつでもチョコが入ってたら幸せだからね』と言われて、笑ったのを思い出した。

俺はエビグラタンとバニラアイスを選んで注文すると、空いているからか、十分もかからずに料理が運ばれてきた。

咲はスプーンにのせたドリアにフーフーと息をかけ、冷ましている。俺は熱々のグラタンを口に入れたが、想像の五倍熱かったので、慌ててアイスを口に含んだ。

夏には向かないメニューだしめちゃくちゃ熱いけど、なぜかとても美味しく感じる。

「ていうか、やっぱり吉川って……運動が苦手なんだな」

俺がボソッと呟くと、咲はドリアに吹きかけていた息をピタッと止めた。

「でもさ、やっぱり変っていうか、俺は体育の授業で何度も吉川を見てきたけど、そんなふうに思ったことは一度もないんだ」

続けて言うと、咲は止まっていた手を再び動かしてドリアを口に入れた。

実はおっちょこちょいとか本当はしっかり者じゃないとか、意外な一面があるというのはそこまでおかしなことじゃない。俺自身も学校で見せている姿がすべてかと言われたら、全然違うからだ。

だけど、運動能力は嘘や誤魔化しでどうにかなるものじゃない。
 
例えば本当は運動神経がいいのに、わざと悪い振りをすることは可能だろう。だけど、逆は絶対に無理だ。

俺の感じていた小さな違和感が、吉川の日記を辿ることで徐々に膨らんでいっていることに気づいた。

その違和感は、クラスメイトとして吉川と一緒に過ごす中で抱いたものだ。

「本当に時々なんだけどさ、吉川が別人に見える瞬間があって。もちろんそんなわけないから気のせいだと思ってたけど、でも今は……」

そこまで言うと、咲がスプーンを置いて顔を上げた。

「どんな違和感?」

「えっと、そうだな……例えば体育の授業の時にめっちゃ調子悪い時が稀にあったり、吉川の得意な科目がその時によってバラバラに感じたりもしたんだ」

吉川は入学当初から漢字が得意で、国語のテストではいつもトップクラス。だけど反対に数学は苦手なようで、能力別に三つに分け られる少人数クラスでは、真ん中のクラスだ。それなのに、一緒に授業を受ける中で得意不得意が逆転しているように感じる瞬間があった。

本当にわずかな違和感だし勘違いという可能性もあるけど、吉川のことを知れば知るほど、その違和感の正体が鮮明になっていった。

「みんなが抱いているイメージから少し外れる瞬間が吉川にはあって、走るのが急に遅くなったり、みんなに向ける笑顔がどことなく違っていたり、今考えたらやっぱり変だなって」

俺は以前、吉川に『今日の吉川は、英語の発音がなんか自信なさげで、いつもと違う気がする』とか失礼なことを言ったらしく、そのことを吉川が覚えてくれていた。俺は必死に言い訳をして謝ったけど、吉川は言ったんだ。

『違うってば、謝らなくていいんだよ。みんなは発音を褒めてくれたけど、渉くんだけがいつもと違っていたことに気づいてくれて、嬉しかったんだから』

あの時の言葉の意味が、今なら分かる気がする。

「俺はさ、時々見せるそうじゃない吉川っていうか、失敗もするし苦手なこともあって、リレーで転んだりもしてさ、だけど笑顔がめちゃくちゃ似合う優しい吉川に……惹かれたんだ」

そこまで言って、俺は視線を真っ直ぐ咲に向けた。

「何、急に告白?」

告白か。そうかもしれないけど、今さらだ。もっと早く、吉川の顔を見て言いたかった。言えばよかった。

後悔を抱えながら、俺は口を開く。

「君は、高山咲は……吉川花と、時々入れ替わっていたんじゃないか?」

それが、吉川の日記を読んで咲と行動を共にし、山本さんや五十嵐さんから話を聞いていくうちに見えてきた、違和感の答えだ。

咲を見つめながら答えを待っていると、軽くため息をついた咲が、わずかに口角を上げた。

「やっぱ、気づかれちゃったか」