この日は、咲の希望で現地集合になった。

水族館とかテーマパーク系に友だちと行く時は、どこかで待ち合わせをしてから一緒に向かうのが普通なのだろうけど、遊びが目的ではないので現地集合現地解散でも問題はない。

自宅から一時間半ほどかけて先に水族館に到着したのは、もちろん俺のほうだ。

どうせまた待たされるのだろうなと思いきや、約束の時間の五分前に咲が来た。

「おはよ……って、何よその顔」

「いやだって、早いからビックリした」

ギリギリならまだしも、五分も前に現れたことに驚いてしまった。今までの遅刻はなんだったんだ。

「そりゃ早いよ。だってここ、私の家から近いんだもん」

「え? ほんとに?」

水族館が近いってことは、今まで行った場所は自宅からかなり遠かったということになる。

「そんなに驚く?」

「だって今まで何も言われなかったし、なんとなく俺の家からそんなに遠くはないんだろうなって勝手に思ってたから。なんかごめん」

この辺りだとすると、俺と吉川の通う高校まで電車で二時間近くかかる。

「別になんとも思ってないし、私の家が遠いからって渉が謝る必要ないでしょ。それよりさっさと行くよ」

スタスタと歩き出した咲のあとに、俺も続いた。チケットは昨夜スマホで購入済みなので、二次元コードをかざして中に入る。

予想はしていたけど、営業開始直後にもかかわらず、かなり混雑している。まぁ、暑い夏に涼しい室内でのんびり過ごせるのだから、水族館は夏休みの子供たちや連れていく親にとっても最適の場所なのだろう。

そういう俺も、夏に行くなら屋外の遊園地やプールや海なんかよりも、断然水族館のほうが好きだ。あとは映画館も涼しくていい。

「で、詳しいことは何も書かれてなかったけど、どうする?」

「とりあえず順路に従って見てみようか」

吉川が実際にここでどんな魚を見たのか、詳細が書かれていないので分からないが、水族館に来たのだから魚を見て回ったことは間違いないだろう。

だから俺たちも順を追って見ていくしかないけど、それと同時に、今までしてこなかったことを俺はやろうと決心していた。

「あとさ、これ持ってきたんだけど」

俺はバッグから一枚の写真を取り出した。それは一年の三学期の最後にクラスのみんなと撮り合ったものだ。持ってきたのはその中の一枚で、俺と伊東と吉川の三人が写っている。

「水族館の従業員さんに、タイミングがあれば聞いてみようと思って」

「聞くって何を?」

「この子を見かけなかったかとか、もし従業員さんが吉川のことを覚えていたら、どんな様子だったか聞きたいなと思って」

咲は写真と俺を交互に見たあと、呆れたようにため息をついた。

「写真なんてわざわざ持ってこなくても、私がいるじゃん。同じ顔なんだから、私を見たことがあるかって聞けばいいんじゃないの?」

「……あっ」

それもそうだ。しかも吉川の写真を見せて『 この子に見覚えはあるか』と聞いている横に同じ顔の咲がいるのだから、変な奴だと怪しまれるかもしれない。

「渉って、冷静っぽく見えてたけど実は結構抜けてんの?」

「そうかも……。ていうか、自分のこと冷静だなんて思ったことは一度もないし、君の言う通り、俺はただのバカなんだよ」

「そこまで言ってないけど。まーいいよ、とりあえずやるだけやってみよ。多分覚えてる人なんていないと思うけどね」

期待はしているけど、その可能性は高い。接客業ならまだしも、水族館に来る大勢の客のことをいちいち覚えている従業員なんていないだろう。

でも万が一ということもあるので、俺たちはとにかく青いポロシャツを着た従業員を見つけたら、吉川について尋ねることにした。

が、川の魚や海の魚、深海ゾーンでそれぞれ出会った従業員に声をかけたけど、答えは『分かりません』だった。予想通りだが、とりあえず水族館を出るまでは続けよう。

多種多様な魚が泳ぐ水槽を横目に、さながら探偵状態で水族館を回った。

「すみません、ちょっとお聞きしたいんですが」

薄暗い室内で、たくさんのクラゲが美しく優雅に浮かんでいるクラゲゾーンに入ったところで、俺は女性の従業員に声をかけた。

「二月十六日に、この子を見かけませんでしたか?」

横にいる咲を示しながら言った。この台詞は三回目だが、改めて考えるとやっぱり怪しい質問だなと思う。俺が従業員なら上司に報告するレベルだ。それでも今のところ騒ぎになっていないのは、一緒にいる咲の存在が大きい。

従業員が俺を見てわずかに眉をひそめたところで、咲が口を開く。

「あの、見て分かる通り私のことなんですけど、実は少し前に事故で頭を打って以来、一部の記憶を失ってしまったんです。それで、この水族館で撮った写真が残っていたんですが、誰と来たのか思い出せなくて……」

唇を噛んで目を伏せた咲の表情は、見事だ。三回目だけど、その演技力にブレはない。しゃべり方が穏やかになっているからか、吉川にそっくりだ。

これまでと同じように、咲を見ている従業員の顔が、咲の演技につられて少し悲しげに曇った。今度こそ何か情報が得られるかと思ったが、答えはこれまでと同じ「 分かりません」だった。

だが、従業員は最後まで同情の目を咲に向けていたので、このやり方は有効だろう。

嘘をついているのはとても心苦しいが、こればかりはしかたない。怪しまれるだけならまだいいが、覚えているのに怪しまれて知らない振りをされてしまったら意味がないから。

「毎日大勢の客が来てるんだから、覚えてるわけないよね。よっぽどインパクトっていうか、印象に残るようなことをしてないと。それか、人の顔を覚える達人とかじゃないと無理だろうな~」

歩きながら、咲が小声でひとり言のように呟いた。

インパクトか。今時奇抜な髪型や服装をする人は珍しくない。となるとミュージカルのように歌いながら歩くとか、踊り出すとかそういうことでもしないと目立たないだろうな。

「ていうか、疲れたから座りたい」

「あぁ、そうだな。向こうに椅子があるから、そこでちょっと休もう」

クラゲゾーンを抜けた先は大きく ひらけた空間となっており、そこには大量の魚が泳いでいる大水槽がある。この大水槽が、水族館のメインのひとつらしい。他には海のトンネルやイルカのショーも有名だ。

大水槽を眺められるように長椅子がいくつか置かれているので、空いているところに並んで座った。その瞬間、お互いの口から漏れたため息が見事に重なった。

それが少しおかしくて、思わずプッと噴き出してしまった。すると咲もつられたのかずっと硬かった表情が少しだけ緩む。

「てか、さすがに覚えてる人なんていないよね。やっぱ無理か~」

期待していなかったわりに、咲は落胆したように視線を下げた。

俺は無言で正面にある大きな水槽を見つめた。

こうして水槽だけを見ていると、本当に海の中にいるような不思議な感覚になる。

エイや小さな鮫、亀までいて本当にたくさんの魚が泳いでいる中 、俺の視線はイワシの群れにくぎづけになった。

たくさんのイワシが群れとなり、銀色の光を放ちながら同じ方向に向かって泳ぐ姿は、言葉を失うくらい圧巻だ。

小さい魚が集まって一匹の大きな魚に見せる、という物語を確か小学校の国語で読んだ記憶があるけど、まさにその物語の世界が目の前に広がっている。

右に左に旋回したりしながら泳ぐイワシの群れは、ずっと見ていたくなるような不思議な魅力があった。

こいつらは、何を思って泳いでいるんだろう。同じ方向に揃って泳いで、別の魚が近くにくると逃げるみたいにサッと離れるのに、すぐにまた群れを成すのが不思議だ。

俺の目には全部同じに見えるけど、イワシの中でも『あいつのほうが大きい』とか『 あいつの光り方のほうが綺麗だ』とか思ったりするのだろうか。で、嫉妬なんかしたりして。だけど、そんなふうに思ってしまう自分が嫌で、嫉妬していることを知られないように、みんなと同じ方向を向いて泳いでいる……とか。

そんなわけないけど、想像したらちょっと親近感が湧いた。

「ずいぶん真剣じゃん」

食い入るように水槽を見つめている俺の顔を、咲が覗き込んできた。

「いや、なんかすごいな~って思って」

「魚が?」

「うん、まぁそうなんだけど、特にイワシの群れがさ」

俺が言うと、咲は大水槽に視線を移した。

「イワシねぇ。群れてんのは大きい魚に食べられないためかな。それか自分の嫌な部分を隠すために、みんなと同じようにしてるとかだったら面白いかも」

「俺もそう思った」

「あっ、ほら来たよ」

大水槽を眺めている俺の腕を、咲が叩いた。視線の先には青いポロシャツを着た従業員の姿がある。話を聞こうと、俺たちは椅子から立ち上がった。

「すみません」

「はい」

バケツを持った女性の従業員が俺の呼びかけに足を止めたので、これまでと同じ質問をぶつけた。写真の人物が咲で、少し前に事故に遭い……という流れも同様に付け加える。

まぁ、どんな答えが返ってくるのかはだいたい予想がつく。同情するような目で咲を見つつも、また『 分かりません』と言われるのだろう。

そう思っていたのだが、従業員は「あっ……」と小さく声を漏らし、大水槽に顔を向けた。これまでと違うリアクションに、俺と咲は思わず顔を見合わせる。

「何か思い出したんですか?」

俺の問いに、従業員は確かめるような視線でもう一度咲を見つめた。

「確信はないんですけど、お客様を見かけた気がします」

「それはいつ頃で、彼女はどうしていたか分かりますか?」

内心かなり慌てていたが、気持ちを落ち着かせてもう一度尋ねた。咲は黙っているけど、従業員を見つめる目が酷く真剣だ。

「今年の冬で……確かあの日は雪が少し降っていたと思います。お客様はあの辺りに座って、ずっと大水槽を眺めていました」

飼育員が視線を送った先には、さっきまで俺たちが座っていた長椅子がある。吉川の日記にも、雪がちらついていると書いてあった。ほぼ諦めていたけど、もしかすると本当に吉川のことを覚えてくれているのかもしれない。

「あの、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。分かることだけで構いませんので」

咲がそう訴えると、従業員さんは若干戸惑いの表情を浮かべつつ「はい」と答えてくれた。記憶が抜けている設定とはいえ、自分が見たと思われる女の子にそう言われたら、困惑するのも無理はない。

「私が見た時、お客様はここにおひとりで座って眺めていました。それだけでしたら他のお客様も同じなので、覚えていなかったかもしれません。ですがお客様は本当にずっと、長い間この大水槽だけを見ていたので印象に残っていたんです」

「ずっとって、どのくらいですか」

俺が聞くと、従業員さんは一度咲を見てから口を開いた。

「朝の餌やりのショーが十時なんですが、その時にはすでに座っていらっしゃいました。正午頃に一度清掃に来た時も座っていて、それから十五時の餌やりの時も座ってじっ と水槽を見ていたんです」

十時から十五時まで、ずっと?

俺と咲は、再び顔を見合わせる。

「ずっと同じ場所に留まっているお客様ももちろんいますが、そこまで長い時間いるというのはあまり見たことがなかったので覚えてました。もしかすると、私がこの場を離れている間に別のエリアを見ていらしたのかもしれませんが」

様々なエリアがある広い水族館の中で、一ヶ所にずっといる客なんて珍し いだろうから、印象に残っていてもおかしくはない。

「私が覚えているのはそのくらいです。でも、もしかしたら記憶違いということもあるかもしれませんので」

「いえ、とても助かりました。お仕事中にすみません、教えてくださりありがとうございました」

咲が丁寧にお礼を伝えると、俺も続いて従業員さんに頭を下げた。

従業員が去ったあと、俺たちは無言でもう一度大水槽に目を向ける。イワシの群れは先ほどと変わらず、光を放ちながら一糸乱れぬ泳ぎを見せている。

話し方や表情から考えても、恐らく従業員さんの記憶は正しいのだと思う。

つまり、ひとりで水族館に訪れた吉川は、この水槽を何時間も見ていたということだ。

なぜ? 疑問を抱いたとしても、吉川に確認することはできない。ただ……。

「さっき俺、この水槽を眺めながら色々考えてたんだ。もしかすると、吉川もそうだったんじゃないかな」

「花が考えごとをしていたってこと?」

「もちろん何も考えずにただボーっと見ていた可能性もあるけど、だとしたらそんなに何時間も見ていられるとは思えないんだよね。でも何か悩みがあって、そのことを考えながら幻想的なこの水槽を見ていたとしたら、何時間も同じ場所にいられる気がするんだ」

当然それが正解かどうか分からないし、まったく見当違いという可能性もある。だけど、吉川の日記にあった 〝あまり思い出せない〟というのは、ずっと同じ場所で考えごとをしていて、魚をよく見ていなかったからなのではないだろうか。

「ま、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。結局、どこで何をしていたのかが分かったとしても、私たちに花の気持ちを知ることまではできないんだよ」

「……そうだな。だけど同窓会の話もそうだけど、少しでも吉川を知ることができるなら、無駄じゃない」

「まぁね。聞きたいことが増えていくのに花には聞けないから、正直ちょっとイライラするけど」

そう言っているが、咲はなんとも言えない微妙な顔で、ちょっとだけ口元に笑みを浮かべている。

咲でさえ知らなかった吉川の言動が今になって分かるというのは、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちなのだろう。俺も同じだけど、咲の場合は俺なんかと比べものにならないはずだ。

「とりあえず行くか」

それから一応すべてのエリアを回って従業員に吉川のことを尋ねたが、新たな情報は得られなかった。

水族館を出てすぐのところにある自販機でジュースを買った咲は、その場でごくごくと勢いよく飲んだ。

「外に出た瞬間、喉渇いてたこと思い出したわ」

「中は涼しかったからな」

同じように、俺も購入したスポーツドリンクで喉を潤す。

「てか、水族館って初めてだったんだけど、結構面白いね」

「近いのに、今まで一回も来たことなかったのか?」

「うん。小さい頃は両親があんまり仲良くなかったから、そもそも家族で出かけたとかの記憶はあんまりないんだ。離婚してからはもっと、水族館みたいにほのぼのしたようなファミリー向けの場所なんて無縁って感じ」

「そ、そっか……」

母子家庭だと、何かと大変なこともあるのかもしれない。それについてはプライバシーとか色々あるし、あまり詮索しないほうがいいだろう。

「あのさ、山本さんと話してからずっと気になってたんだけど、吉川は高校入学前に頑張って運動能力を上げたのかな」

中学の頃は運動が苦手だったと山本さんは言っていたけど、高校では違った。となると、必死に頑張って苦手を克服したとしか思えない。

だけど運動神経って、努力でどうにでもなるものなのだろうか。多少変わることもあるだろうが、どちらかというと運動ができる人は小さい頃からずっとできるし、逆にできない人はずっとできないイメージだ。

「さぁ、知らない」

だけど咲もその辺りは分からないらしく、あっさりそう言われてしまった。
「ていうか、次はどうする?」

咲に聞かれた俺は、ペットボトルをバッグに入れる代わりに日記を取り出した。

「あぁ、えっと、次は……」

咲とふたりで日記の続きに目を通すと、これまでと同じように学校や家でのちょっとした出来事が書かれた日記がしばらく続いた。

そして、三月二十三日の日記を読んだ俺たちは、しばし言葉を失った。