うちの学校は部活動が盛んで、大会で好成績を残している部も 多い。そのため、部活と勉強を両立させている生徒がほとんどだ。

文武両道というやつだが、勉強もスポーツもそこそこの俺は、ホームルームが終わると毎日足早に学校をあとにする。

生徒の約八割が部活動に励んでいる中帰るのは、少しだけ肩身が狭い。

「渉くん」

門を出て少し歩いたところで名前を呼ばれた。うしろを確認すると、吉川が小走りで近づいてきた。ちょっと息が切れている。

「吉川。なんか急いでんの?」

「あ、うん。そうなんだけど……」

「どうした?」

「えっと、外出たら渉くんが見えたから」

そういえば、吉川も帰宅部だった。俺とは違って色んな部から誘いはあったらしいが、結局どこにも入部はしていない。頭もいいし、習いごとで忙しいのかもしれないな。

「駅まで一緒に行ってもいい?」

「えっ?」

思わぬ申し出に一瞬焦ったけど、相手は俺なんだから、そこに深い理由なんてないだろう。

「別にいいけど」

動揺を隠しながら答えると、吉川は「へへっ、よかった」と頬を緩めて嬉しそうに笑った。

おいおい、そんなリアクションをされたら、大多数の男子は勘違いするぞ。俺は自分のことをよく分かっているつもりだから、もちろん早とちりなんてしないけど。

とはいえ嬉しいことに変わりはないので、俺はにやけてしまいそうになる顔を誤魔化すように、咳払いをして歩き出した。

一年の途中から気になりはじめて今日まで、吉川とこうしてふたりで帰ることなんて当然なかった。緊張するけど、この状況は普通に嬉しい。

駅までは学校の前の道を真っ直ぐ大通りに向かい、徒歩五分。俺は自然と歩くペースを落とした。

「そういえば、吉川もやっぱり女子のリレー代表になりそうだな」

今日は見学だったから次回計測するようだけど、吉川は走るのが速いので多分選ばれることは間違いない。

「……どうかな。でも、走るのはちょっと不安かも」

「なんで? だって一年の時もリレーの選手だったし、速いから問題な……あ、もしかして転んだこととなんか関係ある?」

俺が言うと、吉川は大きな目をまん丸くして立ち止まった。

「渉くん、まさか覚えてるの?」

「いや、だって珍しかったからさ。気にしてたならごめん」

一年の三学期、最後の体育の授業で急遽全員リレーをやることになった。いわゆるお遊びみたいなものだったけど、吉川はいつもより調子が悪くて、しかも途中で転んでしまったのだ。

体育祭のリレーではふたり抜きをしてみせたし、陸上だけでなく球技全般も上手だった。

だからこそ、そんな吉川の珍しい姿に、クラスメイトが驚いて心配していたことをよく覚えている。

「ううん、転んだことはもう全然気にしてないんだけど、なんていうか……」

いつもハキハキしていてしっかり者の吉川が、視線を地面に向けて口ごもった。

一度そういうことがあると、また次もと不安になってしまうのかもしれない。責任感の強い吉川だから、プレッシャーも感じるだろうし。

「あのさ、別にいいんじゃないかな」

「……え?」

「前に転んだ時、俺思ったんだよね。吉川も転ぶんだなって」

吉川は、キョトンとした目を俺に向けた。

「吉川ってなんでもできるイメージだったから。リレーで転んだ時、ちょっと親近感というか……ごめん、意味不明だよな」

「ううん、伝わるよ。ありがとう」

首を横にブンブンと振りながら、吉川は言った。本当に今の説明で通じたのかどうかは分からないけど、吉川の目はなぜかちょっと潤んでいて、そして笑っていた。

「渉くん、前にも同じようなこと言ってくれたし」

「え? そうだっけ?」

「言ったよ。みんなは転ぶなんて珍しいとか、体調悪いのかとか心配してくれてたけど、渉くんだけは違ってた」

自分があの時何を言ったのか覚えていないけど、過去の自分を信用できない俺は、途端に不安になった。

「『吉川でもそういうことあるんだな。でも、そういう吉川って、なんかいいと思う』……って言ったんだよ」

「うっ、マジか。過去の俺、そんな失礼なこと言ったの? いいっていうのは、転んだことをバカにしてるとかでは断じてないと思うんだ、だから」

「分かってるよ。だって私、嬉しかったんだから」

慌てる俺をよそに、吉川は本当に嬉しそうに目尻を下げ、微笑んだ。

「それに渉くんは覚えてないと思うけど、三学期にやった英語の授業でも言ったんだよ」

過去の俺、まだ何か余計なことを言ったのか? よりにもよって吉川に。勘弁してくれ。

『今日の吉川は、英語の発音がなんか自信なさげで、いつもと違う気がする』

あー、最悪だ。英語は万年平均点ギリギリのくせに、どの口が言ってんだ。

「ごめん、ほんとごめん! どういう意味で言ったのか覚えてないけど、なんつーか、絶対に悪い意味ではないと思うんだ。多分、いい意味なんじゃないかな」

焦る俺を見て、吉川はなぜかやっぱり笑っている。

「違うってば、謝らなくていいんだよ。みんなは発音を褒めてくれたけど、渉くんだけがいつもと違っていたことに気づいてくれて、嬉しかったんだから」

自信なさげだと言われて嬉しいとは、どういうことだ。分からないけど、どうやら本当に怒っているわけではないみたいだ。

でも、過去の俺の発言に悪気がないことだけは間違いないはずだ。なぜなら、それが吉川に惹かれた最大の理由だから。

完璧だと思っていた吉川の、時々見せるそういう完璧じゃない部分に気づくたび、俺はどんどん吉川に惹かれていったんだ。

吉川が鼻歌まじりに歩き出したので、俺もそれに続いた。

もしも吉川が、なんでもそつなくこなす非の打ちどころのないような人だったら、好きにはなっていなかったかもしれない。

とはいえギャップに惹かれたのかというと、それも少し違うような……。

考えながら歩いていると、大通りを挟んだ目の前にはもう駅が見えた。

今この瞬間だけは、学校から駅までの距離がもっと長ければよかったのにと、自分勝手なことを考えた。

「吉川って、どっち方面?」

ふたりでホームの真ん中に立ち、左右を指差しながら聞いた。

吉川と同じクラスになって二年目なのに、俺はそんなことも知らなかったのだと改めて思う。

「私はこっち」

二番線を指差した。「じゃあ俺とは反対だな」と涼しい顔で言いつつも、内心がっかりしている。

吉川は明るいしコミュ力も高いので普通に話すけど、クラスの中で特別親しいかといったらそういうわけじゃない。いわゆるただのクラスメイトだ。

吉川のことをもっと知りたいとは思うけど、勇気がなくてなかなか踏み込めずに今に至る。というか、俺なんかが好きになったって吉川を困らせるだけだから、もちろん告白する気なんてない。

だけど、せめて卒業までにもう少し吉川のことを知って、友だちとして仲良くしていけたらいいなと思う。

あと約二年あるのだから、それまでにはなんとか。と思っている男子は、俺の他にもたくさんいるんだろうな。

チラッと隣を見ると、吉川も同じタイミングでこちらに目を向けた。俺は慌てて前を向く。

「渉くんて、変わってるよね。あ、もちろん褒め言葉だよ」

「え?」

もう一度隣を見ると、吉川はフフッと笑ってから前を向いた。綺麗な長い髪が、風に吹かれてさらさらと揺れる。

「あ、ありがとう」

よく分からないけど、まぁいいか。褒めてくれたのなら素直に受け取ろう。

ホームにアナウンスが響くと、二番線に電車が入ってきた。吉川が先でよかったと思う。見送られるより、見送るほうがいいから。

「じゃーね、渉くん。また来週」

「うん。じゃーな」

吉川が電車に乗り込み、ドアが閉まると、中からこちらに向かって小さく手を振ってくれた。俺も、小さく手を振り返す。

なんか今、ちょっと幸せかも。そう思えば思うほど、吉川にだけは絶対に知られたくないと思った。

劣等感の塊のような、本当の俺のことは……。