病院に入って、まずはおじいちゃんのお見舞いに行くことにした。日記のことがなくてもお見舞いに行こうと思っていたから、ちょうどいい。
「私はどっかで待ってるから」
「なんで?」
「だって、関係ないのに気まずいじゃん」
「別に大丈夫だよ、友だちって言えばいいんだし。というか、君も気まずいとか思うんだね」
「あたり前じゃん。私のことなんだと思ってんの?」
「いや、なんとなくそう思っただけだよ」
エレベーターの中でそんな会話をしていると、五階に到着した。面会カードに記入して、病室に向かう。
「そっちがいいって言うなら、私は別にどうでもいいけど……」
そう言いながら、結局咲も黙ってついてきた。
四人部屋なのに、おじいちゃんは相変わらずカーテン全開だ。
「おじいちゃん調子はどう?」
「バッチリだよ」
おじいちゃんは、俺よりも俺の持っているどら焼きに目を向けながら答えた。
「もうすぐ退院らしいね」
「 そうそう。早く帰り――」と言いかけたおじいちゃんの視線が、俺のうしろにいる咲に移った。
「あ、そうそう。えっと、友だちの高山さん。このあとちょっと用事あるからつき合ってもらったんだ」
「彼女か! 彼女できたのか!」
「違う違う、そういうつき合うじゃなくて、じいちゃんのお見舞いに一緒に来てもらっただけだよ」
「なんだ、彼女かと思ったのに」
「友だちだよ」
俺が説明すると、「高山です」と言って咲が軽く頭を下げた。声のトーンが少し高くなっていて、口調も落ち着いている。こんな声も出せるのだということに少し驚いた。
「どうも、渉のおじいちゃんです。顔はイケメンってわけじゃないけど、渉はとにかくいい子だから」
なんとか彼女になってもらおうとしているのか、おじいちゃんが俺をアピールしはじめた。
「そういうのいいから、友だち反応に困ってるし」
「なんで、せっかくおじいちゃんが背中押してあげようと思ったのに」
「押してくれなくていいよ」
おじいちゃんと話をしながら、咲の機嫌が悪くなっていないかちょっと心配になった。チラッとうしろを見ると、咲は珍しく笑顔を見せていた。微笑みながらおじいちゃんを見ている。こうして黙って笑っていると吉川とそっくりで、少し動揺してしまう。
「ほら、もういいから食べな。温かいお茶も買ってきたから」
話を逸らすため、袋からどら焼きを出しておじいちゃんに渡した。お茶はベッドサイドにあるテレビ台の上に置く。
「せっかくふたりでいるんだから、病院なんかにいないで外で遊んできなさい。おじいちゃんどら焼き食べるから、もう行っていいよ」
「外で遊ぶって、小学生じゃないんだから」
俺が突っ込むと、うしろからクスっと笑い声が聞こえた。
俺といる時はほぼ無表情だけど、ちゃんと笑えるじゃん。
「じゃあ帰るけど、なんか困ったことがあったら言ってよ」
「はいよ。お友だちも、ありがとうね」
もぐもぐと口を動かしながらおじいちゃんが言うと、咲は「いえ」と控え目に返して軽く頭を下げた。
帰る時に看護師さんから退院に必要な書類をもらい、その足で向かったのはもちろん庭園だ。
ドアを開けると、解放感のある庭園が目の前に広がる。
俺はゆっくりと歩いてあのベンチ に近づいた。脳裏には、長い髪を風になびかせていた彼女のうしろ姿が鮮明に浮かぶのに、どんなに目を凝らしても、そこに吉川花はいない。
いっそ涙を流しながら大声で叫べたら、少しはスッキリするのではないか。そう思うけど、悲しいのにやっぱり涙は出ない。
「ここで、入院していた吉川と偶然会ったんだ」
俺が言うと、咲は「そう」と言ってベンチに座ったので、俺も隣に腰を下ろした。
日記に残っていた通り、吉川がこの庭園に初めて足を踏み入れた時は冬だったけど、今は真逆の夏。午後五時近くなっても太陽の熱は衰えず、座っているだけで汗が滲む。
この時間は多少マシになったけど、それでも暑いことに変わりはないからか、庭園には俺たちの他に誰もいないようだ。
「なぁ、吉川はやっぱり、自分の体がどこかおかしいってことに気づいてたんだよな。だから〝病は気から〟なんて言葉を書いたんだろうし」
「みたいだね」
それに本人が言っていた通り、吉川は自分が倒れるまで、体調のことを誰にも言わなかった。
咲は何も気づかなかったのだろうかという疑問が浮かんだけど、今さらそんなことを言ったって咲を傷つけるだけだ。きっと、気づけなかったことを後悔しているからこそ、咲は今ここにいるのだろう。
吉川は家族にも誰にも気づかれないように、大丈夫だと自分に言い聞かせながらひとりで不安を抱えていたんだ。
「で、花が気に入ってたっていう庭園に来たけど、次はどうするつもり?」
咲に聞かれ、俺は膝の上で強く握りしめていた拳を緩める。
「そうだな。次は……」
「ていうか、まだ続けるの?」
「……え?」
想定外のことを言われ、一瞬戸惑った。
「だって、まだ日記全部読んでないし、最後までやるつもりだけど」
「前にも聞いたけどさ、これって意味あるわけ? 今まで花の日記に書いてある場所に色々行ったけど、それで何か分かった?」
「……それは」
吉川がなぜこの日記を俺に託したのかなんて、ちっとも分からない。ちょっとした意外性ならあったけど、吉川のことをより深く知れたわけでもない。でも……。
「渉が花のことを知りたいっていう気持ちは分かるけど、こんなことしたって意味ないよ。花は渉が思ってる通りの子だし、これ以上続けても何も出てこないと思う」
「まだ分からないだろ?」
「分かるよ。これ以上続けたって、渉の知ってる優しくていい子でかわいい花しか出てこないって。花はそういう子だから」
そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。まだ分からないのに、なぜ咲はそんなことを言うのか、俺には理解できなかった。
「俺がなんで死のうとしたのか聞いた時、言ったよな? 『悔しかったんだ』って。何を思って君がそう言ったのか俺には分かんないけど、このままやめて悔しくないのかよ!」
「悔しいよ……悔しいに決まってるじゃん……」
うつむいた咲は、消えてしまいそうなほど小さな声でそう呟いた。
「花の病気のことを、私は最後まで、花が死ぬまで……知らなかったんだ」
「えっ? 知らなかったって、だって、君と吉川は家族で……」
日記の存在は知らなくても、倒れたことで病気が発覚して 余命宣告されたあと は、咲も当然そのことは知っていたのだろうと思っていた。
「私は、誰より花を知っているつもりだった。でも、余命のことを知ったのは、花が死んでからなんだ。そしたらなんか、色々虚しく思えてきてさ」
こんなにも苦しそうな 咲の表情を見るのは、初めてだった。
何も知らずに突然大切な人が死んでしまったら、悲しくつらいだけでなく、悔しさもこみ上げてくるのかもしれない。だけど……。
「でも、君には絶対に心配かけたくないって、日記にも書いてあっただろ? 双子の妹である君だからこそ、悲しませたくなかったんじゃないかな」
そう言いながらも、自分だったらそんな理由では到底納得などできないだろう。
「心配かけたくないから言わないとか、意味分かんない。だって余命宣告されたんだよ? だったら死ぬのは確定なわけで、死んだあとに何も知らなかった私がどう思うかなんて、考えなくたって分かるじゃん!」
行き場のない怒りをぶつけるかのような咲の強い口調に、俺はこれ以上吉川を庇うような言葉は言えなかった。もし俺が咲の立場なら、同じように怒っただろうから。
「花のことを大事に想っていたのは私だけで、花は、私のことが嫌いだったのかもしれない」
「そんな……それは絶対に違うだろ!」
咄嗟に立ち上がり、俺は声を荒らげた。咲は大きく目を見開いて俺を見上げている。
「ごめん。だけど、嫌いだったなんて、君がそんなこと言っちゃ駄目だろ。吉川が君を嫌いだったなんてあるはずないし、吉川がそんなふうに思うはずない。そんな悲しいこと言うなよ。今の君の言葉を聞いたら、吉川はきっと――」
「うるさいな! あんたに何が分かんのよ!」
苛立ちを含んだような咲の怒鳴り声に、一瞬息が止まった。俺は唖然としながら咲を見つめ、瞬きを繰り返す。
怒らせるつもりなんてなかった。俺はただ、咲の気持ちを落ち着かせようとしただけだ。でも、咲は膝にのせた拳を強く握り、俺を睨みつけながら静かに口を開く。
「あんたがそうやって、死んだ花のことを心配する気持ちは分かるよ。だって花はかわいくて、みんなから好かれていて、思いやりがあって優しくて。何より……たくさんの人に愛されて育った。そんな花のことが私は大好きで、憧れで、でも……」
その瞳に涙が滲むと、俺の視線から逃げるように、咲はうつむいた。
「でも私は、そんな花に……ずっと嫉妬してた。花が死んで悲しくて苦しくてどうしようもないのに、心のどこかで、もう比べなくていいんだって。大好きなのに、一瞬でもそんなふうに思っちゃった自分が何より憎くて、惨めで、大嫌いで。やっぱり私は花のようにはなれないんだって分かって。どうしたらいいのか分からなくて、比べる相手はもういないのに、私は……。だから、死のうと思った。死にたかったんだ」
これ以上は言葉にならないのか、黙り込んだ咲を前に、胸が締めつけられた。
「俺にも分かるよ。だけどさ、吉川はきっと、君に幸せになってほしいって思ってるはずだよ。だから」
「あんただって花と同じなんだから、私の気持ちなんて分かるはずないじゃん! いつもまわりをよく見ていて、優しくて穏やかで、そんな奴に言われたって余計に虚しくなるだけだし! 花が私に幸せになってほしいって? それって、私と違って花は優しいからそう思うだろうって言いたいんでしょ!? 」
咲は感情的になっているだけだ。分かっているけど、卑屈になっている咲を見ていたら、どうしようもない苛立ちがこみ上げてきた。
それは咲だけでなく、自分に対する苛立ちでもある。
「お前だけが……」
「何よ、言いたいことがあるならハッキリ言えば」
「お前だけがしんどいと思うなよ!」
「は? 何それ。好きな人が死んだからしんどいって話? だとしたら、時間が解決するでしょ。あんたはこの先も、変わらず毎日平和に過ごすわけだし」
「そうじゃねーよ!」
冷静に話そうと思っていたのに、我慢できずにまた声を張り上げてしまった。
吉川が死んでしんどいのは事実だ。だけど、咲は何も分かってない。
「もういいよ。なんで花はこんな奴のこと……」
ベンチから立ち上がった咲が、囁くようにそう言って俺に背を向けた。
「花の日記を辿ったって意味なんかないって分かったから、もう終わりにしよう。その日記は花があんたに送ったものだし、形見にでもしてよ」
なんの感情も伝わらない咲の声に、俺はこれ以上何も言い返さなかった。
庭園を出ていく咲のうしろ姿を黙って見つめたあと、再びベンチに腰を下ろす。
まだ暑さの残る夕方の太陽が、情けない俺を容赦なく照らし続けた。
「私はどっかで待ってるから」
「なんで?」
「だって、関係ないのに気まずいじゃん」
「別に大丈夫だよ、友だちって言えばいいんだし。というか、君も気まずいとか思うんだね」
「あたり前じゃん。私のことなんだと思ってんの?」
「いや、なんとなくそう思っただけだよ」
エレベーターの中でそんな会話をしていると、五階に到着した。面会カードに記入して、病室に向かう。
「そっちがいいって言うなら、私は別にどうでもいいけど……」
そう言いながら、結局咲も黙ってついてきた。
四人部屋なのに、おじいちゃんは相変わらずカーテン全開だ。
「おじいちゃん調子はどう?」
「バッチリだよ」
おじいちゃんは、俺よりも俺の持っているどら焼きに目を向けながら答えた。
「もうすぐ退院らしいね」
「 そうそう。早く帰り――」と言いかけたおじいちゃんの視線が、俺のうしろにいる咲に移った。
「あ、そうそう。えっと、友だちの高山さん。このあとちょっと用事あるからつき合ってもらったんだ」
「彼女か! 彼女できたのか!」
「違う違う、そういうつき合うじゃなくて、じいちゃんのお見舞いに一緒に来てもらっただけだよ」
「なんだ、彼女かと思ったのに」
「友だちだよ」
俺が説明すると、「高山です」と言って咲が軽く頭を下げた。声のトーンが少し高くなっていて、口調も落ち着いている。こんな声も出せるのだということに少し驚いた。
「どうも、渉のおじいちゃんです。顔はイケメンってわけじゃないけど、渉はとにかくいい子だから」
なんとか彼女になってもらおうとしているのか、おじいちゃんが俺をアピールしはじめた。
「そういうのいいから、友だち反応に困ってるし」
「なんで、せっかくおじいちゃんが背中押してあげようと思ったのに」
「押してくれなくていいよ」
おじいちゃんと話をしながら、咲の機嫌が悪くなっていないかちょっと心配になった。チラッとうしろを見ると、咲は珍しく笑顔を見せていた。微笑みながらおじいちゃんを見ている。こうして黙って笑っていると吉川とそっくりで、少し動揺してしまう。
「ほら、もういいから食べな。温かいお茶も買ってきたから」
話を逸らすため、袋からどら焼きを出しておじいちゃんに渡した。お茶はベッドサイドにあるテレビ台の上に置く。
「せっかくふたりでいるんだから、病院なんかにいないで外で遊んできなさい。おじいちゃんどら焼き食べるから、もう行っていいよ」
「外で遊ぶって、小学生じゃないんだから」
俺が突っ込むと、うしろからクスっと笑い声が聞こえた。
俺といる時はほぼ無表情だけど、ちゃんと笑えるじゃん。
「じゃあ帰るけど、なんか困ったことがあったら言ってよ」
「はいよ。お友だちも、ありがとうね」
もぐもぐと口を動かしながらおじいちゃんが言うと、咲は「いえ」と控え目に返して軽く頭を下げた。
帰る時に看護師さんから退院に必要な書類をもらい、その足で向かったのはもちろん庭園だ。
ドアを開けると、解放感のある庭園が目の前に広がる。
俺はゆっくりと歩いてあのベンチ に近づいた。脳裏には、長い髪を風になびかせていた彼女のうしろ姿が鮮明に浮かぶのに、どんなに目を凝らしても、そこに吉川花はいない。
いっそ涙を流しながら大声で叫べたら、少しはスッキリするのではないか。そう思うけど、悲しいのにやっぱり涙は出ない。
「ここで、入院していた吉川と偶然会ったんだ」
俺が言うと、咲は「そう」と言ってベンチに座ったので、俺も隣に腰を下ろした。
日記に残っていた通り、吉川がこの庭園に初めて足を踏み入れた時は冬だったけど、今は真逆の夏。午後五時近くなっても太陽の熱は衰えず、座っているだけで汗が滲む。
この時間は多少マシになったけど、それでも暑いことに変わりはないからか、庭園には俺たちの他に誰もいないようだ。
「なぁ、吉川はやっぱり、自分の体がどこかおかしいってことに気づいてたんだよな。だから〝病は気から〟なんて言葉を書いたんだろうし」
「みたいだね」
それに本人が言っていた通り、吉川は自分が倒れるまで、体調のことを誰にも言わなかった。
咲は何も気づかなかったのだろうかという疑問が浮かんだけど、今さらそんなことを言ったって咲を傷つけるだけだ。きっと、気づけなかったことを後悔しているからこそ、咲は今ここにいるのだろう。
吉川は家族にも誰にも気づかれないように、大丈夫だと自分に言い聞かせながらひとりで不安を抱えていたんだ。
「で、花が気に入ってたっていう庭園に来たけど、次はどうするつもり?」
咲に聞かれ、俺は膝の上で強く握りしめていた拳を緩める。
「そうだな。次は……」
「ていうか、まだ続けるの?」
「……え?」
想定外のことを言われ、一瞬戸惑った。
「だって、まだ日記全部読んでないし、最後までやるつもりだけど」
「前にも聞いたけどさ、これって意味あるわけ? 今まで花の日記に書いてある場所に色々行ったけど、それで何か分かった?」
「……それは」
吉川がなぜこの日記を俺に託したのかなんて、ちっとも分からない。ちょっとした意外性ならあったけど、吉川のことをより深く知れたわけでもない。でも……。
「渉が花のことを知りたいっていう気持ちは分かるけど、こんなことしたって意味ないよ。花は渉が思ってる通りの子だし、これ以上続けても何も出てこないと思う」
「まだ分からないだろ?」
「分かるよ。これ以上続けたって、渉の知ってる優しくていい子でかわいい花しか出てこないって。花はそういう子だから」
そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。まだ分からないのに、なぜ咲はそんなことを言うのか、俺には理解できなかった。
「俺がなんで死のうとしたのか聞いた時、言ったよな? 『悔しかったんだ』って。何を思って君がそう言ったのか俺には分かんないけど、このままやめて悔しくないのかよ!」
「悔しいよ……悔しいに決まってるじゃん……」
うつむいた咲は、消えてしまいそうなほど小さな声でそう呟いた。
「花の病気のことを、私は最後まで、花が死ぬまで……知らなかったんだ」
「えっ? 知らなかったって、だって、君と吉川は家族で……」
日記の存在は知らなくても、倒れたことで病気が発覚して 余命宣告されたあと は、咲も当然そのことは知っていたのだろうと思っていた。
「私は、誰より花を知っているつもりだった。でも、余命のことを知ったのは、花が死んでからなんだ。そしたらなんか、色々虚しく思えてきてさ」
こんなにも苦しそうな 咲の表情を見るのは、初めてだった。
何も知らずに突然大切な人が死んでしまったら、悲しくつらいだけでなく、悔しさもこみ上げてくるのかもしれない。だけど……。
「でも、君には絶対に心配かけたくないって、日記にも書いてあっただろ? 双子の妹である君だからこそ、悲しませたくなかったんじゃないかな」
そう言いながらも、自分だったらそんな理由では到底納得などできないだろう。
「心配かけたくないから言わないとか、意味分かんない。だって余命宣告されたんだよ? だったら死ぬのは確定なわけで、死んだあとに何も知らなかった私がどう思うかなんて、考えなくたって分かるじゃん!」
行き場のない怒りをぶつけるかのような咲の強い口調に、俺はこれ以上吉川を庇うような言葉は言えなかった。もし俺が咲の立場なら、同じように怒っただろうから。
「花のことを大事に想っていたのは私だけで、花は、私のことが嫌いだったのかもしれない」
「そんな……それは絶対に違うだろ!」
咄嗟に立ち上がり、俺は声を荒らげた。咲は大きく目を見開いて俺を見上げている。
「ごめん。だけど、嫌いだったなんて、君がそんなこと言っちゃ駄目だろ。吉川が君を嫌いだったなんてあるはずないし、吉川がそんなふうに思うはずない。そんな悲しいこと言うなよ。今の君の言葉を聞いたら、吉川はきっと――」
「うるさいな! あんたに何が分かんのよ!」
苛立ちを含んだような咲の怒鳴り声に、一瞬息が止まった。俺は唖然としながら咲を見つめ、瞬きを繰り返す。
怒らせるつもりなんてなかった。俺はただ、咲の気持ちを落ち着かせようとしただけだ。でも、咲は膝にのせた拳を強く握り、俺を睨みつけながら静かに口を開く。
「あんたがそうやって、死んだ花のことを心配する気持ちは分かるよ。だって花はかわいくて、みんなから好かれていて、思いやりがあって優しくて。何より……たくさんの人に愛されて育った。そんな花のことが私は大好きで、憧れで、でも……」
その瞳に涙が滲むと、俺の視線から逃げるように、咲はうつむいた。
「でも私は、そんな花に……ずっと嫉妬してた。花が死んで悲しくて苦しくてどうしようもないのに、心のどこかで、もう比べなくていいんだって。大好きなのに、一瞬でもそんなふうに思っちゃった自分が何より憎くて、惨めで、大嫌いで。やっぱり私は花のようにはなれないんだって分かって。どうしたらいいのか分からなくて、比べる相手はもういないのに、私は……。だから、死のうと思った。死にたかったんだ」
これ以上は言葉にならないのか、黙り込んだ咲を前に、胸が締めつけられた。
「俺にも分かるよ。だけどさ、吉川はきっと、君に幸せになってほしいって思ってるはずだよ。だから」
「あんただって花と同じなんだから、私の気持ちなんて分かるはずないじゃん! いつもまわりをよく見ていて、優しくて穏やかで、そんな奴に言われたって余計に虚しくなるだけだし! 花が私に幸せになってほしいって? それって、私と違って花は優しいからそう思うだろうって言いたいんでしょ!? 」
咲は感情的になっているだけだ。分かっているけど、卑屈になっている咲を見ていたら、どうしようもない苛立ちがこみ上げてきた。
それは咲だけでなく、自分に対する苛立ちでもある。
「お前だけが……」
「何よ、言いたいことがあるならハッキリ言えば」
「お前だけがしんどいと思うなよ!」
「は? 何それ。好きな人が死んだからしんどいって話? だとしたら、時間が解決するでしょ。あんたはこの先も、変わらず毎日平和に過ごすわけだし」
「そうじゃねーよ!」
冷静に話そうと思っていたのに、我慢できずにまた声を張り上げてしまった。
吉川が死んでしんどいのは事実だ。だけど、咲は何も分かってない。
「もういいよ。なんで花はこんな奴のこと……」
ベンチから立ち上がった咲が、囁くようにそう言って俺に背を向けた。
「花の日記を辿ったって意味なんかないって分かったから、もう終わりにしよう。その日記は花があんたに送ったものだし、形見にでもしてよ」
なんの感情も伝わらない咲の声に、俺はこれ以上何も言い返さなかった。
庭園を出ていく咲のうしろ姿を黙って見つめたあと、再びベンチに腰を下ろす。
まだ暑さの残る夕方の太陽が、情けない俺を容赦なく照らし続けた。



