「よし、じゃあ五分間休憩な。水分補給ちゃんとしろよ」

体育教師の言葉を合図に、俺たちは校庭の隅に置かれたペットボトルや水筒目がけて一斉に走り出す。

今年の春は、なんとなく短く感じられた。突然やってきた春の嵐によって、満開だった桜が例年よりも早く散ってしまったからだ。

しかも高校二年になってもうすぐ一ヶ月、まだ四月下旬だというのに、最高気温が二十六度を超えるらしい。

体育の授業で今から汗だくになっていたら、この先はどうなってしまうんだ。考えるだけでだるいけど、今年の夏もまた酷暑かもしれないな。

「みんな、お疲れさま」

体調不良でひとり見学をしていた吉川花が、休憩しているクラスメイトに労いの言葉をかけた。

「四月とは思えないほど暑いよね。みんな無理しないでよ。夏じゃなくたって熱中症になるんだから」

みんなに声をかけている吉川を見て、『見学してる人は呑気だよね』とか『走っていない人に言われたくない』なんて嫌味を言う奴は誰もいない。

それどころか、吉川から笑顔を向けられ優しい言葉をかけられると、みんなどういうわけか表情が明るくなる。

(わたる)くんも、平気?」

「あぁ、大丈夫。ありがとう」

かく言う俺、()(くら)渉も、吉川に声をかけられて自然と笑みを浮かべてしまった。そんな俺を見て、吉川は安心したように口角を上げる。

「花こそ、体調大丈夫なの?」

座りながら水を飲んでいた女子のひとりが、吉川を見上げながら声をかけた。

「うん、平気だよ。ただの貧血だし」

「けどさ、花の爆走見たかったから残念」

今度は別の女子ががっかりしたようにそう言うと、吉川は「爆走って」と言って笑った。

「でも次の体育はちゃんと出られると思うから」

「花は走るの速いもんね」

「そんなことないよ」

次々と投げかけられる女子たちの言葉に、吉川は「あはは」と笑いながら答えている。彼女が笑うと、なぜだかみんなもつられて笑顔になってしまう。不思議だけれど、そうさせるのは紛れもなく吉川の人柄だろう。

吉川とは一年から同じクラスだが、誰にでも優しく気遣いができ、頭もよくて運動もできる。

責任感が強くてクラスの〝代表〟とつくものによく立候補しているし、色白で愛嬌のある整った顔立ちも加わり、吉川はあっという間にクラスの人気者になった。それは、二年生になった今も変わっていない。

「休憩終わりー。こっち集まれ」

体育教師の大きな声が響き、重い腰を上げた。

「みんな頑張ってね! このあとは昼休みだから、あと少しだよ!」

両手の拳を握り、「ファイト」と言ってクラスメイトを送り出す吉川。女子たちは「行ってくるね」とハイタッチをし、男子は顔をニヤつかせながら歩き出した。

さっきまでの疲れが嘘のように、俺の足取りも軽くなっている。

吉川は、心を和ませる魔法が使えるのかもしれない。というのは冗談だが、吉川の存在がクラスの雰囲気を明るくしてくれているのは間違いない。

「なぁ、さっきのタイム何秒だった?」

気を取り直して靴ひもを結んでいると、隣にいる()(とう)(ゆう)()が屈伸をしながら聞いてきた。センター分けの髪は、今日もいい感じにセットされている。走ったのに崩れていないのがすごい。

「七秒〇二だったかな、多分」

「今日わりと風強めなのに、さすが渉。速いじゃん」

「予定ではもっと速いはずだったんだけどな」

「そのタイムなら、じゅうぶん速いだろ」

「いやいや、別に普通だよ」

スッと立ち上がった俺は、前を向いたまま答えた。

――何が、『さすが渉』だ。

「次は七秒切るんじゃね?」

――自分は六秒台だったくせに、よく言うよ。

「俺の時だけ追い風になれば、いけるかもな」

気持ちとは裏腹な言葉を並べた俺は、薄く笑みを浮かべた。そして、心の中にまたひとつ、黒い染みができる。

ふとうしろに視線をやると、吉川が長い髪をなびかせながら何か叫んでいた。よく聞こえないけど、多分『頑張れ』とか、そういう言葉だろう。
 
吉川花という人間を知れば知るほど、自分の歪んだ性格に嫌悪感を抱いてしまう。

だからこそ、どこまでも純粋で優しい彼女に、俺は強く惹かれてしまうのかもしれない……。