雨粒がビニール傘に弾かれ、ポツポツと音を立てる。
空の上で泣いているのかもしれない。
なんてバカげたことを考えてしまうのは、指定されたこの日が、たまたま悪天候だったからだ。晴れていれば、そんなふうには思わなかっただろう。
それとも俺はまだ、現実を受け止められていないのだろうか。
小さくため息をつき、視線を下げた。だけど、何を言えばいいのか分からない。
君にかける言葉が、何ひとつ浮かばない。
だから俺は、立ったまま【吉川家】と刻まれている灰色の墓石をじっと見つめ続けた。
雨音が響く中、必死に言葉を探したけれど、口から漏れるのはため息だけ。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、何も思い出せない。
あの日から、ずっと。
だから俺は、泣くことさえできずにいる。
ふーっと息を吐き、墓石に花を手向けた。名前はなんだったか忘れてしまったが、君のように明るい黄色の花だ。
無言で立ち尽くしていると、雨音が消えていることに気づいた。ようやくやんでくれたようだが、空はどんよりと雲っている。
「帰るか……」
墓参りに来たものの、結局〝あれ〟はなんだったのだろう。てっきり何かあるのかと思ったのだが。
傘を下げ、小さくお辞儀をしてから墓石に背を向けた、次の瞬間――。
「おわっ!」
真うしろに、いつの間にか人が立っていた。
驚いた俺はビクッと肩を震わせ、変な声を出してしまった。
いつからいたのか分からないが、気配が感じられなかったのは雨のせいかもしれない。
「す、すみませ――」
若干の恥ずかしさを感じながら視線を上げた俺の思考は、そこで完全に止まった。
――えっ……。
手の力が抜け、持っていた傘が音を立てて地面に倒れる。
放心状態になった俺の横を、長い髪の彼女は何も言わずに通りすぎた。
なんだ、これはいったいなんなんだ。俺は夢を見ているのか。
だけど、肌に貼りつくような湿った風も雨の匂いも、激しい心臓の鼓動も確かに感じられる。
夢なんかじゃない。だけど、だったら……。
ゆっくりと墓石のほうを振り返ると、彼女は花を手向けるでも手を合わせるでもなく、墓石の前にしゃがんでいた。
俺は、そんな彼女の背中を、ただじっと見つめることしかできない。
しばらくして立ち上がった彼女の視線が俺を捉え、治まりかけた鼓動が再び大きく波を打った。
なぜ、どうしてと考えても、答えなんて見つかるはずがない。
だけど、目の前にいる彼女は紛れもなく……。
死んだはずの、吉川花だった――。
「よし、じゃあ五分間休憩な。水分補給ちゃんとしろよ」
体育教師の言葉を合図に、俺たちは校庭の隅に置かれたペットボトルや水筒目がけて一斉に走り出す。
今年の春は、なんとなく短く感じられた。突然やってきた春の嵐によって、満開だった桜が例年よりも早く散ってしまったからだ。
しかも高校二年になってもうすぐ一ヶ月、まだ四月下旬だというのに、最高気温が二十六度を超えるらしい。
体育の授業で今から汗だくになっていたら、この先はどうなってしまうんだ。考えるだけでだるいけど、今年の夏もまた酷暑かもしれないな。
「みんな、お疲れさま」
体調不良でひとり見学をしていた吉川花が、休憩しているクラスメイトに労いの言葉をかけた。
「四月とは思えないほど暑いよね。みんな無理しないでよ。夏じゃなくたって熱中症になるんだから」
みんなに声をかけている吉川を見て、『見学してる人は呑気だよね』とか『走っていない人に言われたくない』なんて嫌味を言う奴は誰もいない。
それどころか、吉川から笑顔を向けられ優しい言葉をかけられると、みんなどういうわけか表情が明るくなる。
「渉くんも、平気?」
「あぁ、大丈夫。ありがとう」
かく言う俺、佐倉渉も、吉川に声をかけられて自然と笑みを浮かべてしまった。そんな俺を見て、吉川は安心したように口角を上げる。
「花こそ、体調大丈夫なの?」
座りながら水を飲んでいた女子のひとりが、吉川を見上げながら声をかけた。
「うん、平気だよ。ただの貧血だし」
「けどさ、花の爆走見たかったから残念」
今度は別の女子ががっかりしたようにそう言うと、吉川は「爆走って」と言って笑った。
「でも次の体育はちゃんと出られると思うから」
「花は走るの速いもんね」
「そんなことないよ」
次々と投げかけられる女子たちの言葉に、吉川は「あはは」と笑いながら答えている。彼女が笑うと、なぜだかみんなもつられて笑顔になってしまう。不思議だけれど、そうさせるのは紛れもなく吉川の人柄だろう。
吉川とは一年から同じクラスだが、誰にでも優しく気遣いができ、頭もよくて運動もできる。
責任感が強くてクラスの〝代表〟とつくものによく立候補しているし、色白で愛嬌のある整った顔立ちも加わり、吉川はあっという間にクラスの人気者になった。それは、二年生になった今も変わっていない。
「休憩終わりー。こっち集まれ」
体育教師の大きな声が響き、重い腰を上げた。
「みんな頑張ってね! このあとは昼休みだから、あと少しだよ!」
両手の拳を握り、「ファイト」と言ってクラスメイトを送り出す吉川。女子たちは「行ってくるね」とハイタッチをし、男子は顔をニヤつかせながら歩き出した。
さっきまでの疲れが嘘のように、俺の足取りも軽くなっている。
吉川は、心を和ませる魔法が使えるのかもしれない。というのは冗談だが、吉川の存在がクラスの雰囲気を明るくしてくれているのは間違いない。
「なぁ、さっきのタイム何秒だった?」
気を取り直して靴ひもを結んでいると、隣にいる伊東悠真が屈伸をしながら聞いてきた。センター分けの髪は、今日もいい感じにセットされている。走ったのに崩れていないのがすごい。
「七秒〇二だったかな、多分」
「今日わりと風強めなのに、さすが渉。速いじゃん」
「予定ではもっと速いはずだったんだけどな」
「そのタイムなら、じゅうぶん速いだろ」
「いやいや、別に普通だよ」
スッと立ち上がった俺は、前を向いたまま答えた。
――何が、『さすが渉』だ。
「次は七秒切るんじゃね?」
――自分は六秒台だったくせに、よく言うよ。
「俺の時だけ追い風になれば、いけるかもな」
気持ちとは裏腹な言葉を並べた俺は、薄く笑みを浮かべた。そして、心の中にまたひとつ、黒い染みができる。
ふとうしろに視線をやると、吉川が長い髪をなびかせながら何か叫んでいた。よく聞こえないけど、多分『頑張れ』とか、そういう言葉だろう。
吉川花という人間を知れば知るほど、自分の歪んだ性格に嫌悪感を抱いてしまう。
だからこそ、どこまでも純粋で優しい彼女に、俺は強く惹かれてしまうのかもしれない……。
六時限目のホームルームで、体育祭についてのあれこれを実行委員が中心となって決めた。結果、五月下旬に行われる体育祭のクラス対抗選抜リレーに、伊東は選ばれたが、俺は選ばれなかった。
最初から分かっていた結果なのに、黒板に書かれた代表選手の名前を見ると、無性に腹が立った。
俺より速い奴が六人もいたんだから当然の結果だし、リレーに選ばれなかったからといって、どうということはない。
でも、こうして黒板に堂々と代表選手の名前を書かれると、書かれなかった自分との差をこれでもかと見せつけられているように思える。
思えば小学生の頃から、俺と伊東には大きな差があった。
伊東は小中高と常にリレーの選手だったけど、俺は選ばれたことが一度もない。書き初め大会でも伊東は金賞を取り続けているのに、俺は金賞はおろか、銀賞も銅賞も取ったことがない。
中学の時に美術の授業で描いた伊東の絵画は、他の選ばれた生徒と一緒に区の美術館に飾られた。俺は不器用だしセンスもないからそんなものに選ばれたことはない。
成績は言わずもがな。
俺は顔がいいわけでもないから当然モテないけど、伊東は鼻が高く目元も切れ長で、つまりイケメンな上に、背まで高い。あたり前のように小学校の頃から人気があって、クラスの中心にいた。
それらはもちろん伊東の天性と、努力の結果だ。それは分かっているのだけれど……。
「惜しかったな。渉と一緒にリレーやりたかったのに」
前の席の伊東が俺のほうを向き、心底残念そうに口をへの字に曲げた。それでも変顔にはならないのだから不思議だ。
「伊東がいれば大丈夫だろ。応援するから、一位取れよ」
「任せろ、お前のぶんも頑張って走るわ」
別に、俺のぶんも背負えなんて言ってない。
というか、俺のぶんってなんだ。それじゃあまるで、俺が代表になりたがっていたけどなれなかった可哀想な奴みたいじゃないか。
まぁ……実際そうなのだけど、伊東に言われると、なぜかとてつもなく惨めになる。
「おう、期待してるからな」
けれど、俺はまた相手を理解するような優しい笑顔で、この醜悪な心を隠した。
伊東は悪い奴じゃないし、嫌いなわけでもない。むしろいい奴の部類に入るだろう。他のクラスメイトも、多少性格の合う合わないはあるにせよ、嫌な奴はいない。
でも……心底嫌いだと思う奴が、このクラスにひとりだけいる。
それは――俺自身だ。
吉川や伊東がいる場所に立てない平凡な俺は、人当たりのいい穏やかな人間を装いながら、クラスのトップに君臨する奴らを羨み、僻む ことしかできない最低な人間だから。
「――あともうひとつ、私たち実行委員と一緒に体育祭恒例のクラスTシャツのデザインなど、色々手伝ってくれる人を募集したいんですが」
前に立っている実行委員の女子の言葉に、教室が一瞬シーンと静まり返ったあと、「 はい」と勢いよく手があがった。吉川だ。
「私部活入ってないし、手伝います」
体育祭だけじゃない。一年の時は文化祭や合唱コンなど、クラスのためになるならと、吉川は面倒なことでも積極的にその役割を担った。
そして「花がやるなら私も」と、 吉川のあとに続いて手伝うと言い出すクラスメイトも多い。だからなのか、行事などの決めごとでクラスが揉 めた記憶はほとんどない。
面倒な仕事は引き受けたくないというのが普通 だろう。部活があるならなおさらだ。でも、こうして何事 も自ら参加しようとする吉川の姿を見ていると、自然と自分も何かしなければという気持ちになる。
俺が同じことをしても、ついてくる奴なんてきっと誰もいない。真面目でしっかり者で優しい吉川だから、みんなのモチベーションも上がるのだ。
「では、体育祭に向けて頑張っていきましょう」
今回も吉川のおかげでスムーズにことが運び、実行委員の締めの言葉で六時限目は終了した。
「渉くんと伊東くんて、同じ中学だったんだよね?」
帰りの準備をしていると、窓際に座っている隣の席の吉川が声をかけてきた。俺は、手に持っていた教科書を慌ててカバンにしまい、椅子に座る。
「中学どころか、小学校から同じで、中学では部活も三年間一緒だったんだ」
俺が口を開く前に伊東が答え、「なっ」と俺を見た。
「あぁ。なんだかんだつき合いは長いかもな」
長いからこそ、伊東との差を常に実感させられてきた。
確かに中学で三年間、共にサッカー部として頑張ってきたけど、伊東は一年の頃からレギュラーでエース。一方俺は、二年になってようやく先発出場できるようになったけど、特別上達することもなく引退。
高校でも伊東はサッカー部に入部したが、俺はバイトがしたいという理由で帰宅部を選んだ。今もまだバイトはしていないので、ただの言い訳だ。
「じゃあ、お互いのことはなんでも知ってる感じだ。私は幼なじみっていないから、なんか憧れる。いいよね、幼なじみっていう響きが」
なんでも知ってる……か。
いつもなら『まあな』とか適当な言葉で話を合わせていただろうけど、屈託のない吉川の笑顔を前に、俺は嘘をつくことができず黙り込んでしまった 。
「そうだなー、渉のことは女関係の話以外ならだいたい知ってるかな」
躊躇う俺とは反対に、伊東がごく自然に答える。
「……てか、逆に俺は そこらへんも色々知ってるけどな。確か伊東は中二の時……」
俺は心のモヤモヤを吹き飛ばすため、わざとふざけたようにそう言った。
「おい、それはもう終わった話だろ」
伊東は笑いながら慌てて俺の口を塞 ぎ、吉川は「幼なじみ楽しそう」と言って、笑っている。
だけど、俺の心は笑っていなかった。
中二の時、俺が密かに気になっていた女子が伊東に告白をして、ふたりはつき合うことになった。
俺が何も話していなかったのだから、伊東に非がないことは分かっていた。それでも伊東に嫉妬して、どうせ俺なんかと、勝手に自分を卑下したことを覚えている。
「今は新しい彼女いるもんな」
「そうそう、大事なのは今だから。つーか渉こそ、浮いた話はないのかよ」
「あるわけないだろ」
そういう苦い思い出と自分の嫌な心を吉川に知られたくなくて、俺は笑った。
笑うことで、自分の醜悪な心を誤魔化すしかないから。
俺と伊東は、趣味とか得意な教科や苦手な教科、家族構成とかそういうことは互いに知っているけど、伊東はきっと知らないだろう。
ことあるごとに、俺がお前に嫉妬しているということを。
――なんでこいつばっかり。
それはいつしか、決して言葉には出さない、俺の口癖になっていた。
俺が勝手に駄目な自分と比べてしまうだけで、伊東は何も悪くない。
悪くないと分かっていても、俺は他人と自分を秤 にかけ、勝手に落ち込んでは勝手に僻む面倒くさい人間なんだ。
俺のそういう卑屈な部分を知ったら、きっと嫌われるだろうな。人当たりのいいふりをして心の中ではそんなふうに思っていたのかよって、ドン引きされるかもしれない。
だから、俺とは正反対な吉川にだけは、知られたくない。
「なんとなくだけどさ、渉と吉川ってちょっと似てるよな」
「はぁ!? 」
今の俺の心情とあまりにもかけ離れたことを伊東が言い出したので、思わず声が出た。
似てる? 俺と吉川が? そんなわけないだろ、どこ見てんだ! と言いたいところを堪え、俺は「いやいやいや」と右手を振った。
「それはさすがに吉川に悪いから」
「だってさ、ふたりとも基本穏やかだし優しいし、まわりに結構気を使うタイプじゃん?」
吉川はそうだろう。だけど俺は穏やかというより、ボロが――心の声が――出てしまわないように大人しくしているだけだ。
「私はさておき、渉くんは優しいと思う」
複雑な気持ちになるから、そんな真っ直ぐな目でお世辞は言わないでくれ。吉川や伊東に褒められると、余計惨めになる。
「なんだよふたりとも、褒めたってなんにも出ないからな」
うまい言葉が浮かばず、超絶つまらない返しをしたところで、タイミングよくチャイムが鳴ってくれた。
うちの学校は部活動が盛んで、大会で好成績を残している部も 多い。そのため、部活と勉強を両立させている生徒がほとんどだ。
文武両道というやつだが、勉強もスポーツもそこそこの俺は、ホームルームが終わると毎日足早に学校をあとにする。
生徒の約八割が部活動に励んでいる中帰るのは、少しだけ肩身が狭い。
「渉くん」
門を出て少し歩いたところで名前を呼ばれた。うしろを確認すると、吉川が小走りで近づいてきた。ちょっと息が切れている。
「吉川。なんか急いでんの?」
「あ、うん。そうなんだけど……」
「どうした?」
「えっと、外出たら渉くんが見えたから」
そういえば、吉川も帰宅部だった。俺とは違って色んな部から誘いはあったらしいが、結局どこにも入部はしていない。頭もいいし、習いごとで忙しいのかもしれないな。
「駅まで一緒に行ってもいい?」
「えっ?」
思わぬ申し出に一瞬焦ったけど、相手は俺なんだから、そこに深い理由なんてないだろう。
「別にいいけど」
動揺を隠しながら答えると、吉川は「へへっ、よかった」と頬を緩めて嬉しそうに笑った。
おいおい、そんなリアクションをされたら、大多数の男子は勘違いするぞ。俺は自分のことをよく分かっているつもりだから、もちろん早とちりなんてしないけど。
とはいえ嬉しいことに変わりはないので、俺はにやけてしまいそうになる顔を誤魔化すように、咳払いをして歩き出した。
一年の途中から気になりはじめて今日まで、吉川とこうしてふたりで帰ることなんて当然なかった。緊張するけど、この状況は普通に嬉しい。
駅までは学校の前の道を真っ直ぐ大通りに向かい、徒歩五分。俺は自然と歩くペースを落とした。
「そういえば、吉川もやっぱり女子のリレー代表になりそうだな」
今日は見学だったから次回計測するようだけど、吉川は走るのが速いので多分選ばれることは間違いない。
「……どうかな。でも、走るのはちょっと不安かも」
「なんで? だって一年の時もリレーの選手だったし、速いから問題な……あ、もしかして転んだこととなんか関係ある?」
俺が言うと、吉川は大きな目をまん丸くして立ち止まった。
「渉くん、まさか覚えてるの?」
「いや、だって珍しかったからさ。気にしてたならごめん」
一年の三学期、最後の体育の授業で急遽全員リレーをやることになった。いわゆるお遊びみたいなものだったけど、吉川はいつもより調子が悪くて、しかも途中で転んでしまったのだ。
体育祭のリレーではふたり抜きをしてみせたし、陸上だけでなく球技全般も上手だった。
だからこそ、そんな吉川の珍しい姿に、クラスメイトが驚いて心配していたことをよく覚えている。
「ううん、転んだことはもう全然気にしてないんだけど、なんていうか……」
いつもハキハキしていてしっかり者の吉川が、視線を地面に向けて口ごもった。
一度そういうことがあると、また次もと不安になってしまうのかもしれない。責任感の強い吉川だから、プレッシャーも感じるだろうし。
「あのさ、別にいいんじゃないかな」
「……え?」
「前に転んだ時、俺思ったんだよね。吉川も転ぶんだなって」
吉川は、キョトンとした目を俺に向けた。
「吉川ってなんでもできるイメージだったから。リレーで転んだ時、ちょっと親近感というか……ごめん、意味不明だよな」
「ううん、伝わるよ。ありがとう」
首を横にブンブンと振りながら、吉川は言った。本当に今の説明で通じたのかどうかは分からないけど、吉川の目はなぜかちょっと潤んでいて、そして笑っていた。
「渉くん、前にも同じようなこと言ってくれたし」
「え? そうだっけ?」
「言ったよ。みんなは転ぶなんて珍しいとか、体調悪いのかとか心配してくれてたけど、渉くんだけは違ってた」
自分があの時何を言ったのか覚えていないけど、過去の自分を信用できない俺は、途端に不安になった。
「『吉川でもそういうことあるんだな。でも、そういう吉川って、なんかいいと思う』……って言ったんだよ」
「うっ、マジか。過去の俺、そんな失礼なこと言ったの? いいっていうのは、転んだことをバカにしてるとかでは断じてないと思うんだ、だから」
「分かってるよ。だって私、嬉しかったんだから」
慌てる俺をよそに、吉川は本当に嬉しそうに目尻を下げ、微笑んだ。
「それに渉くんは覚えてないと思うけど、三学期にやった英語の授業でも言ったんだよ」
過去の俺、まだ何か余計なことを言ったのか? よりにもよって吉川に。勘弁してくれ。
『今日の吉川は、英語の発音がなんか自信なさげで、いつもと違う気がする』
あー、最悪だ。英語は万年平均点ギリギリのくせに、どの口が言ってんだ。
「ごめん、ほんとごめん! どういう意味で言ったのか覚えてないけど、なんつーか、絶対に悪い意味ではないと思うんだ。多分、いい意味なんじゃないかな」
焦る俺を見て、吉川はなぜかやっぱり笑っている。
「違うってば、謝らなくていいんだよ。みんなは発音を褒めてくれたけど、渉くんだけがいつもと違っていたことに気づいてくれて、嬉しかったんだから」
自信なさげだと言われて嬉しいとは、どういうことだ。分からないけど、どうやら本当に怒っているわけではないみたいだ。
でも、過去の俺の発言に悪気がないことだけは間違いないはずだ。なぜなら、それが吉川に惹かれた最大の理由だから。
完璧だと思っていた吉川の、時々見せるそういう完璧じゃない部分に気づくたび、俺はどんどん吉川に惹かれていったんだ。
吉川が鼻歌まじりに歩き出したので、俺もそれに続いた。
もしも吉川が、なんでもそつなくこなす非の打ちどころのないような人だったら、好きにはなっていなかったかもしれない。
とはいえギャップに惹かれたのかというと、それも少し違うような……。
考えながら歩いていると、大通りを挟んだ目の前にはもう駅が見えた。
今この瞬間だけは、学校から駅までの距離がもっと長ければよかったのにと、自分勝手なことを考えた。
「吉川って、どっち方面?」
ふたりでホームの真ん中に立ち、左右を指差しながら聞いた。
吉川と同じクラスになって二年目なのに、俺はそんなことも知らなかったのだと改めて思う。
「私はこっち」
二番線を指差した。「じゃあ俺とは反対だな」と涼しい顔で言いつつも、内心がっかりしている。
吉川は明るいしコミュ力も高いので普通に話すけど、クラスの中で特別親しいかといったらそういうわけじゃない。いわゆるただのクラスメイトだ。
吉川のことをもっと知りたいとは思うけど、勇気がなくてなかなか踏み込めずに今に至る。というか、俺なんかが好きになったって吉川を困らせるだけだから、もちろん告白する気なんてない。
だけど、せめて卒業までにもう少し吉川のことを知って、友だちとして仲良くしていけたらいいなと思う。
あと約二年あるのだから、それまでにはなんとか。と思っている男子は、俺の他にもたくさんいるんだろうな。
チラッと隣を見ると、吉川も同じタイミングでこちらに目を向けた。俺は慌てて前を向く。
「渉くんて、変わってるよね。あ、もちろん褒め言葉だよ」
「え?」
もう一度隣を見ると、吉川はフフッと笑ってから前を向いた。綺麗な長い髪が、風に吹かれてさらさらと揺れる。
「あ、ありがとう」
よく分からないけど、まぁいいか。褒めてくれたのなら素直に受け取ろう。
ホームにアナウンスが響くと、二番線に電車が入ってきた。吉川が先でよかったと思う。見送られるより、見送るほうがいいから。
「じゃーね、渉くん。また来週」
「うん。じゃーな」
吉川が電車に乗り込み、ドアが閉まると、中からこちらに向かって小さく手を振ってくれた。俺も、小さく手を振り返す。
なんか今、ちょっと幸せかも。そう思えば思うほど、吉川にだけは絶対に知られたくないと思った。
劣等感の塊のような、本当の俺のことは……。
「えっと、五〇五って言ってたよな……」
ビニール袋を片手に、プレートを確認しながら長い廊下をゆっくりと歩く。
土曜の今日は、大学病院に来ている。五日前、おじいちゃんが転んで左腕を骨折してしまい、入院しているからだ。
咄嗟 に手をついてしまったのが原因らしいけど、頭を打っていたら大変なので、むしろ腕でよかったなと思う。
そんなおじいちゃんが昨夜「どら焼きが食べたい」と要求してきたらしく、パートがある母に代わって俺が届けることになった。
大学病院までは電車で一時間かかるので、学校のある平日は行けない。だからお見舞いに行くのは今日が初めてなのだが……。
病院って、なんか独特な空気感があるよな。
風邪などで病院を受診したことはもちろんあるけど、家族の誰かが入院するという経験はこれまでなかった。だからなのか、初めてのお見舞いに少し緊張している。
朝から患者で溢れている外来と違って、病棟はわりと静かだ。昼食だろうか、わずかに食事の匂いが残っている。
すれ違う看護師さんに軽く会釈をし、病室を覗いた。四人部屋の右奥がおじいちゃんのベッドだが、カーテンが全開だった。おじいちゃんは俺が来たことにすぐに気づき、こちらに向かって手招きをした。
「渉、学校はどうした」
「今日は土曜だから休みだよ。じいちゃん大丈夫なの?」
俺はどら焼きが入った袋を渡し、ベッドの横に置いてある椅子に座った。
「なんも問題ない、大丈夫だよ」
呑気なおじいちゃんは、早速袋を開けてどら焼きを 美味しそうに食べはじめた。左手は使えないけど、骨折したのは利き腕ではなかったので問題なさそうだ。
「お茶はある?」
「一本あるけど、温かいのが飲みたいな」
「じゃあ買ってくるよ。ちょっと待ってて」
入院患者や、お見舞いに来た家族などが使用できる共有の休憩スペースには、テーブルやソファがいくつか置いてあり、自販機もある。病室を出た俺は、そこで温かいお茶を購入した。
お見舞いに来ているのか、ソファに座って話をしている人たちが何人かいる。
そのうちの一組、車椅子のお年寄りとその家族が、休憩スペースの隅にあるドアを開けて外に出た。ドアの横には【庭園出入口】と書かれている。
庭園なんてあったんだ。
壁に貼ってある病院の案内図を見てみると、確かにここ病棟五階から庭園に出られるようだ。
さすが大学病院。売店やカフェ、ファストフード店だけでなく庭園まであるとは。
どんな感じの庭なのか、なんとなく気になったので外に出てみることにした。
温かいお茶をズボンのポケットに押し込み、ドアを開けると短い通路があって、その先にもう一枚ドアがあった。
それをそっと開けた瞬間、優しい風が吹きつけてきた。電灯ではない自然な明かりに、俺は目を細める。
つるが巻きついているアーチをくぐった先には、開放的な庭園が広がっていた。
黄緑色の芝生が鮮やかな広い庭園のあちこちにはベンチが置かれていて、周囲には車椅子でも移動しやすいよう、コンクリートの歩道がある。
事故防止のための金網に囲まれてはいるが、見上げれば青い空が広がっていて、実に開放的だ。入院患者の息抜きや、ちょっとした運動のための散歩には最適の場所かもしれない。
芝生の上では小さな子供がふたり、転がりながらはしゃいでいて、 そばで母親らしき人が動画を撮っている。少し離れたところには、車椅子に乗ったお年寄りが嬉しそうにその様子を見ている。
先ほど休憩スペースにいた家族だが、実に微笑ましい。あとでおじいちゃんも連れてこようかな。
そう思いながらふと視線を移すと、外側を向いて置かれている三つのベンチのうちのひとつに、女の子が座っているのが見えた。
子供の笑い声を聞きながら、俺はゆっくりと歩いてそのベンチに近づいた。
うしろ姿だけど、風になびくその長い髪には見覚えがある。
違っていたら恥ずかしいので、近くを通る時にさりげなく顔を確認した。すると。
「やっぱり」
足を止めて俺がそう呟くと、ベンチに座っている女の子が顔を上げた。
「えっ、嘘でしょ?」
俺に気づいて目を見開いたその子は、紛れもなく吉川花だった。
俺と同じように、誰かのお見舞いで来ているのだろう。正面から見るまではそう思っていたけど、多分違う。
Tシャツにスウェット、白いカーディガンを羽織り、足元はサンダル。どう見ても外から来たのではなく、入院患者の身形だ。
制服じゃないからか、それともここが病院だからか分からないけど、昨日一緒に帰った時の吉川とは別人のように思えた。
「あの、えっと、ど……」
どこか悪いのだろうか。そう思った途端、なんて声をかけたらいいのか分からなくなり、黙り込んでしまった。
入院するということはそれなりの理由があるのだろうけど、おじいちゃんのように怪我をしているような様子はない。
「なんでいるのって思った?」
黙っている俺に代わって、吉川が口を開いた。
「あ、うん。こんなところでクラスメイトに会うなんて思わないから、ビックリして」
「私も、まさか渉くんに会うとは思ってなかった」
いつもと変わらない吉川の笑顔に、ちょっとだけホッとした。服装が違っても、やっぱりいつもの吉川だ。
「見れば分かると思うけど、入院してるんだ」
「そ、そうなんだ。俺は、じいちゃんが怪我して、それでお見舞いに来たんだ」
「なるほど、そうだったんだね」
吉川はどうして入院しているのか。正直めちゃくちゃ気になるし心配だけど、理由を聞くのは図々しい気がする。言いにくいことだったら悪いし。
だから俺は、それ以上何も聞かずにベンチに腰を下ろした。
チラッと隣を見ると、吉川は背もたれに寄りかかって空を見上げている。俺も、なんとなく同じように空を見上げた。
「青天の霹靂 」
「……え?」
聞き返すように隣を見ると、吉川は空を仰いだまま言った。
「青天の霹靂の使いどころ、今だな~って思って」
「えっと、それは……どういう意味?」
「だってほら、思いがけない事態が起こったとしても、『まさに青天の霹靂だよ~』とか普通の会話の中では絶対言わないじゃん?」
「あぁ、うん。まぁ確かに」
「でもさ、あまりにも現実離れっていうか、驚きを遥かに超えた出来事 に直面すると、青天の霹靂って言いたくなるなって思って」
「それが今ってこと?」
ちょっとよく分からないけど、吉川は「そう」と頷いた。つまり、入院が吉川にとって予想外ということなのだろうか。
あれこれ悩んでいると、吉川はそっと立ち上がり、庭を囲っている金網を右手で握った。
その背中を見つめていると、ふたりの間を暖かい風が通り抜け、吉川がゆっくりと振り返った。
「私、あと三ヶ月で死ぬんだって」
病棟の中に戻った時には、ポケットに入れていたお茶がすっかり冷たくなっていた。俺はもうひとつ新しいお茶を買って、そっちをおじいちゃんに渡した。
ずいぶん長く庭にいたような気がしていたけど、遅かったなと言われることもなく、おじいちゃんはテレビを見ていた。空になったどら焼きの袋がふたつ、小さなゴミ箱の中に入っている。
「じいちゃん、あんまり無茶しないで、早く治してよ」
「分かってるよ。じいちゃん骨は強いから大丈夫だ」
いや、転んで骨折してるじゃん。
「あのさ、ちょっと庭に行ってみる?」
「ん? いや、テレビ見たいからいい」
やっぱり吉川のことが気になるから、様子を見に行く口実がほしかったのだけど、 あっさり断られた……。
結局おじいちゃんは、ずっとテレビにくぎづけだった。本当にマイペースだ。
だから俺は、しばらく一緒にテレビを見てから「また来るね」とおじいちゃんに伝え、病室を出た。
途端に、自分の顔からスッと笑みを消す。
おじいちゃんに余計な心配をかけないよう自然に振る舞っていたけど、さっきからずっと、激しい心臓の鼓動が治まらない。
『私、あと三ヶ月で死ぬんだって』
吉川の声が、頭から離れない。
まだ庭にいるかもしれないと思ったけど、ドアの前まで来て立ち止まってしまった。
いたとして、どういう言葉をかければいいのか分からない。
結局 、庭園へは行かずに病院をあとにした―― 。
『――……は? 何言ってんだよ』
『だから、あと三ヶ月で死ぬの。私』
『え、ちょっと待ってよ。いや、いやいや、どういうこと?』
死ぬって、そんなはずないだろ。だって万が一本当だとしても、そんな笑顔で言えるようなことじゃないし、あり得ない。嘘に決まってる。
だけど、吉川が相手を困らせるような嘘をつくだろうか。しかも病院という場所で、そんな嘘を……。
『なんて、急に言われても困るよね。でも本当のことだから』
そう言って、また笑った。
『昨日の夜自宅で倒れちゃって、気づいた時には色々検査されて て、それで――』
何も理解できていないし頭も混乱しているのに、吉川は自分の身に起きたことを淡々と俺に語った。
去年の冬くらいから体調の悪くなる日が増えたけど、家族に心配かけたくなくて誰にも言わなかった。その結果、気づかないうちに病気が進行してしまっていたらしい。
心配をかけたくなくて無理をしてしまうのは、吉川らしいと思った。
だけど、もし本当にあと三ヶ月で死んでしまうのだとしたら、そんな理由で済まされる問題じゃない。
『あ、あのさ……その、本当に、本当のことなの?』
『本当だよ。まさか自分が余命宣告されるなんて、想像してなかったよ』
あたり前だ。まだ高校二年生で、昨日まで普通に学校に通っていて、元気にしていたのに。
『でも、だとしたら、なんで……』
――なんでそんなふうに笑っていられるんだよ。
出かかった言葉を、吞み込んだ。
本当はまだ受け入れられていなくて、だからこそいつも通り笑顔でいようと頑張っているのかもしれない。というか、そうに決まってる。
『あのさ、渉くん。お願いがあるんだけど』
『何? なんでも言って』
反射的にそう言って、前のめりになった。かける言葉は見つからないけど、俺にできることがあるならなんでもやりたい。
『私さ、体育祭の手伝いするって手をあげちゃったけど、こんなことになっちゃったから。だから、私の代わりに渉くん、実行委員の手伝いしてあげてほしいんだ』
『そんなこと……もちろん手伝うよ。手伝うけど、でも……』
『あとね、このことは誰にも言わないでほしいんだ。みんなに心配かけちゃうし』
そりゃ心配するし、みんな大泣きするに決まっている。
『言わないよ。でもなんで、どうして俺には話してくれたんだよ』
少しだけ考えたあと、吉川はまた空を見上げて言った。
『それは、渉くんだからだよ』
俺だからというのは、俺がどうでもいい存在だから別に言っても支障はないと思ったのか。それとも、口が堅そうだと思われているのか。
どういう意味なのか分からないけど、これ以上聞くことはできなかった。つらいであろう吉川に、余計なことを言って困らせたくないから。
『おじいちゃんのところに戻らなくていいの?』
『あ、あぁ、そうか。そうだな』
吉川に言われ、俺は立ち上がった。情けないことに、少しホッとしている自分がいる。
『あの、じゃあ、またな』
『うん。じゃあね』
このまま吉川の隣にいても、何を言えばいいのか分からない。なんて励ましてやればいいのか何も浮かばない。
だから、それ 以上何も言わず、病棟に戻った。