頂点の上を見つめて



 上館と、自分と同じ苗字が記された病室ネームプレートの戸の前で足を止める。


 小学生にとって少し重めの戸を力強く引く。窓に備え付けられた白いカーテンが、ひらりと僕にとって大切な人の表情を隠す。


 「お兄ちゃん、今日も来てくれたんだ!」


 「うん。はい、これおやつね」


 「わぁ~ありがと!」


 「でもあんまり食べ過ぎると体調崩すかもしれないから、ちょっとずつ食べるんだよ」


 「はぁ~い」


 入院服に身を包んだ妹が手を挙げてそう返事をする。その拍子に動いた点滴の管が僕の胸の中をチクリと攻撃した。


 「ねぇ、私いつ退院できるのかな?」


 「う~ん」


 正直僕にもわからない。お母さんたちが言うに、妹には手術が必要らしく、手術に耐えられる体作りをしているらしい。


 「早く、学校行きたいのになぁ~」


 口を尖らせた妹は起こしていた上半身をベッドに預ける。


 柄もなにもない天井を見つめる瞳に、子ども特有の純粋な輝きはなかった。


 「お兄ちゃん、すごい暇だよ」


 「お兄ちゃんと話すのそんなに退屈?」


 面白い話をしているつもりは全くないけど、僕といるのが暇だという妹に少しムッとした。


 「あっ、そうじゃないよ!」


 勢いよくベッドから起き上がるから、僕は心配になる。


 「そんな急に起き上がったら具合悪く……」


 「暇なのは、お兄ちゃんがいなくなった後の話、だよ」


 僕の言葉を遮った妹は薄く微笑む。病気でこけ気味の頬がその笑顔を弱々しくさせる。


 僕と会話する時間が決して退屈でないとその表情が言ってくれているようで、嬉しい。自分勝手な妄想かもしれないけど。
 病室の周囲を見回すと、本当になにもないわけではなさそうだった。


 「前に持ってきたゲーム機は? あれなら時間潰しになると思うけど」


 「あれなら、もうクリアしたよ?」


 「えっ、そうなの?」


 僕は半年くらいかけて攻略したというのに、二週間くらいでクリアしたのか。


 だけど、それほどに病院での生活は退屈に満ちているのかもしれない。申し訳ない質問をしてしまった。


 僕はベッドのそばに置かれている電子機器に目を落とす。


 「じゃあ、テレビは?」


 「テレビは全然面白くないもん。報道番組とか漢字ばっかりでさっぱりだし、アニメはほとんど深夜にやってるんだもん」


 確かにまだ小学校低学年の妹に漢字は難しい。病院とかには消灯時間があるから、深夜まで起きていることもできない。


 僕は白いベッドをじっと見つめながら、他に退屈しのぎになりそうなことを考えてみた。すると脳内に豆電球が灯る。


 「本は?」


 これはいい考えだと思った。


 僕が本の虫ということもあって、妹も読書を好んでしていた気がする。だけど返ってきた答えは……。


 「本は嫌だ。絶対に!」


 今まで提案してきたもので一番拒否の意が込められた声。


 「でも昔は本読んでたじゃん」


 「それは昔の話だよ!」


 どうしてそんなに怒っているのだろうか? 聞き慣れない荒々しい声が鼓膜を突き刺す。


 「本嫌いになったの?」


 「うん」


 妹はゆっくりと頷く。彼女の目を見るも、反射的に逸らされてしまう。


 理由が聞きたくて肺に空気を入れたのと同時に、重い戸を引く音が辺りを支配する。


 「上館さん、検査の時間ですよ」


 看護師さんの軽快なそんな一声が、僕らのやりとりをいとも簡単に止める。妹はまるで大きな挫折をしたかのように暗い表情を作る。


 僕は手を伸ばして、妹がベッドから降りるのを手伝う。


 手にかかる力はほとんどなかった。多分、妹があまりにも軽いから。


 「一人で歩ける?」


 「うん」


 戸の向こうで待つ看護師まで、自力で歩いていく。


 「お兄ちゃん、またね」


 後ろを振り向いて手を振る妹に、僕も振り返す。


 点滴スタンドを引く妹が閉まる戸で見えなくなるのと同時に、僕は先ほどまで妹が眠っていたベッドで横になる。


 上には真っ白な天井が広がっているばかり。


 こんな場所にずっと閉じ込められて、その上娯楽がないなんて。


 それにしてもどうしてあんなに本を嫌いになってしまったのだろうか。


 昔は一緒に本を読んで感想を伝え合っていたほど、本が好きだったのに。


 心地よいベッドから体を離し、僕は重たい戸を引いて病室を後にした。


 「その本面白そう。私にも読ませて!」


 「う~ん。これ、病院の図書室で借りたのだから、次返しに行った時ね」


 「うん。わかった!」


 妹と同じ年頃の女の子たちが可愛らしい声を響かせながら廊下を走っていく。二人とも手には絵本が抱えられている。


 本当は注意したほうがいいのかもしれないけど、それより彼女たちが妹に見えて仕方がなかった。


 本を常に持っていた彼女の姿に。


 本、持ってきたら、また読んでくれるのかな?


 ふとそんな考えがよぎる。


 もしもう一度、本を好きになって読んでくれたら、病院での退屈な時間を埋めることができる、そう思った。


 僕は彼女たちが言っていた病院の中にある図書室へと足を運んだ。