頂点の上を見つめて

 私は大空を見上げた。

 ずっとずっと、一生かかっても届かない上を。

 頂点の上を見つめて。 

 「ではこれから委員会を始めます」


 委員長の挨拶から放課後の図書委員会が始まる。昨日までの疲れが溜まっているせいであくびを出したくなったけれど、なんとかそれは堪えながら。


 今日は主に図書委員としての仕事の役割分担を決めていくみたい。図書委員の役割は放送でおすすめの本を紹介したり、本についてのチラシを書いたりなど仕事は多岐にわたる。


 委員長が話しているところの脇にホワイトボードが置かれており、そこにはそれらの役割名が表記されていた。


 「みなさん、やりたいものを一つ選んでこの役割の下のところに自分の名前を書いてください。最初は一年一組から順番に書きにきてください」


 委員長の一声で一人立ち上がる。私は一年二組だから順番的に次だけれど、迷ってはいない。既に決まっていたから。数ある役割の中で一番オーソドックスで多分楽なカウンターの仕事にしようと。


 次二組の生徒、と呼ばれ席を立ち、ホワイトボードの近くまで行くと、一時的に思考が止まってしまう。カウンターは毎日行うもの。だからそこにはカウンター以外にも曜日の記載がなされていた。でもすぐに私はペンを動かせた。


 カウンターの仕事はお昼休みと放課後にある。だけど私の場合、ほとんどの曜日の放課後に用事があって。だからこのホワイトボードに書ける曜日としたら。


 カウンターの月曜日の下に自分の名前を記す。席に戻って表には出さないけれど祈る。
 どうか自分の選んだところに希望者が多くなりませんように、と。


 カウンター係は一日二人で仕事をするみたい。だからもう一人でも入ってしまったら別の仕事をしなければならない。そうならないように今は静かに祈るしかない。


 「次一年五組の生徒」
 その生徒は立ち上がって、迷うことなくある役割の下に自分の名前を書いていく。それは私が選んだ役割と曜日まで同じだった。



 「ではこれで委員会を終わります。お疲れさまでした」


 委員長の挨拶とともに、静かだった空気が崩れていく。委員たちの話し声や立つために椅子を引きずる音が辺りに散らばって。


 「よろしくね」
 多分同じ仕事になった人同士の会話、だと思っていたけれど。


 「小向さん?」


 それは私に向けられた一言だったみたい。声のほうを振り向くと、その人はまさしく。


 「あ、えっと。同じ曜日のカウンター担当の……上館さん」


 「うん。これからよろしくね」


 にこっと人懐っこそうな笑みを浮かべる。同じクラスじゃないけど絶対人気者だって確信できた。そして人気者はここで話を終わらせてはくれなくて。


 「ねぇ、小向さんって本好きなの?」


 「う~ん。好き、なのかな」


 「どんな本を読むの?」


 中心人物らしくぽんぽん質問してくる。正直あんまり話したくないし、帰りたかったけれど無視するのはよくないと、普段自分が読んでいるジャンルを頭に浮かべてみた。


 「私は青春ものとか、恋愛ものの小説を読んでて」


 「そうなんだ。僕はミステリー系かな。どんどん真実にたどり着いていく感じがいいんだよね」


 楽しそうに話す上館さん。それだけで本が大好きなんだなってわかる。私とは違う。


 「じゃあ、私そろそろ行かないと」


 急いで荷物を詰めて逃げるように歩き出そうとするけれど、「待って」と上館さんは私を止める。


 「お願いがあって」


 「お願い?」


 柔らかな笑みを消して真面目そうな表情になるから、私は身構えてしまう。そして。


 「文芸部に入ってみない?」


 「えっ?」


 身構えていたとはいえ、予想すらしていなかった発言に体がビクッと震える。だけどその驚きに反して、答えはもう決まっていた。


 「月曜日以外の放課後にあって。だから僕、月曜日選んだんだけど。部員たちはみんな、小向さんみたいに本が好きな人ばっかりで。でも三年生が引退した今、すごい部員不足でさ……」


 「ごめんなさい」


 「え、そんなすぐ断らなくても……」


 「放課後は忙しいんです。ごめんなさい」


 図書館独特の香りを鼻に感じながら歩いていく。今度こそ呼び止める声はなかった。



 『神楽真澄』


 四角い電子機器から放たれる光の中で浮かぶその文字。私が参加している短編小説コンテストのある一つの応募作を書いた人の名前。そして毎回受賞する人の名前でもある。


 はぁ、とため息が漏れる。だってこの人がいるから……。ううん、それ以上考えちゃいけない。
 もっと前向きに。そう今度こそ、と祈っていると。


 「ただいま」


 光を灯すような温かな声に、重くなった身体が反射的に椅子から立ち上がった。


 「おかえり」


 玄関まで迎えると、誰が見ても心配してしまいそうな様相をしたお母さんが、自分の履いていた白いスニーカーを揃えていた。短い袖から伸びる細い腕と、お化粧で隠しきれていない目の下のクマが特に。


 「もうごはんはできてるの。今あっためるから、お母さんはゆっくりしてて」


 「全然先に食べてくれてていいのに。今何時かわかってるの?」


 テレビの横にぽつんと置かれたアナログの置時計に目をやると、針はもうすぐ明日を指そうとしていた。


 「こんな時間に食べるのってよくないことなんだよ」


 「お母さんも……」


 「お母さんは大丈夫。お医者さんにお世話になったのなんて数えるほどだし」


 そうは言うものの、今のお母さんの姿を見ていたら、とても信用できそうになかった。


 「明日から……もうすぐ今日だけど。とにかくもっと早くにごはん食べなさい」


 「嫌だ」


 子どもみたいな反抗をすると、お母さんは眉を八の字にさせた。このままだと本当に幼稚園児になってしまうから、私は言葉を続ける。


 「一人のごはんは美味しくないの。そんな料理食べてるほうが体に悪いよ」


 学校でも一人なのに、家の中でも一人なんて。
 一度同じクラスの女子に誘われたけれど、アルバイトだからって断ったらその次はなかった。


 仕事で夜遅くに帰ってくるお母さんとの食事を逃したら、私は本当の意味で孤独になってしまう。


 そんな私の心中を悟ったのか、「わかった」と優しく私を抱いてくれた。とっても温かい。



 私はお母さんと二人で暮らしている。いわゆる母子家庭。お父さんとの記憶はない。気になって聴いてみたことがあるけれど、すぐに話を逸らされたきり深入りするのはやめた。


 今日までずっとお母さんと一緒に暮らしてきた。生活は甘くなくて、日々極度な節約を強いられている。母子家庭の貧困化が深刻だと、どこかのテレビ局のアナウンサーが言っていた気がする。


 我が家の食卓に並べられた料理がそれを物語っている。
 お茶碗には半分しか盛られていないお米。おかずは野菜炒めのみ。しかもキャベツが高かったから、代わりに安いレタスを炒めている始末。味噌汁に具はない。


 だけど私にとっては何よりのご馳走で。


 「いただきます」


 二人できちんと手を合わせて、正しい持ち方で箸を握る。
 最初に味噌汁を口に含み、それからレタス多めの一口分を舌で転がすお母さんは、頬を紅潮させて「美味しい!」と言った。


 「秋乃は日々、料理の腕を上げてるね。今からお嫁に行っても問題ないね」


 「結婚なんて、まだ早いよ」


 結婚なんて今まで考えたこともなかった。でも確かに、もし裕福な男性とお付き合いしたら今より余裕のある暮らしが待っているかもしれない。


 「まぁ、結婚は流石に早すぎると思うけどさ、せめて好きな人とかいないの? ほら高校って出会い多そうじゃない。秋乃の場合、アルバイトもしてることだしさ」


 「え~、いないよ」


 今日初めて会った上館さんのことを思い出したけれど、すぐにバツ印がついた。陽気でクラスの人気者って感じで、多分私が苦手なタイプだと思うから。


 「ふ~ん」


 つまんなそうな顔。そのままお母さんはテーブルの脇にあったリモコンを手にし、リビングの中心に立つ画面を光らせた。


 「あぁ、また火事だって。怖いね」


 画面の向こうには鉄筋が丸見えの黒い建物。三階にあった本屋から出火して、そのまま建物全体が炎に呑まれてしまったらしい。けが人が出ているという情報もある。


 「しかも放火だって。こわっ」


 お母さんはころころとチャンネルを変えて、だけどどれも面白くなかったのか、結局消してしまう。テレビの代わりにまた二人の間で会話が始まる。お堅い勉強の話。
 良くも悪くもない成績だから話しても特に怒られることはない。


 「まぁ、頑張ってよ。まぁ、アルバイトはほどほどにね。学生の本業は勉強なんだから」


 「わかってるよ」


 出た、いつもの決まり文句。まぁ、確かにお母さんの言う通り勉強は大事だと思う。大学への進学を希望している私にとって、それはなおさらのこと。


 大学に行って少しでもお給料のいい職場に就職できるように。今まで一生懸命に私を育ててくれたお母さんを、今度は私が支えるために。


 だけど、大学進学には多額の費用が必要だという。受験とか、授業料とか、本当にたくさん。
 だから今の間にアルバイトでお金を貯めようと思った。


 自分で稼いだ賃金の入った封筒を受け取った時、自分のものだろうかと疑ってしまうほどに現実感がなかったのを今でも覚えている。


 そのお金は進学のための貯金が主だけど、家計の足しにもしている。それでも不安は拭えない。あんなに疲弊したお母さんを見ていたらとても。


 本当はもっとゆっくりしてほしいのに。ソファに全体重を預けて、ポテトチップス片手にテレビを見ながら大笑いするくらいに。


 だけどそれができるのもまだまだ先のことだと思う。少なくとも私が学生の身分を終えるまでは。永遠にじゃない。私がそうさせない。


 私は考えた。哲学者が絶対に出ない問いの答えについて、ずっと考えるように。学生という身分でもお金を稼ぐ方法について。それが……。


 「秋乃ったら、何ボーっとしてるの。早く食べないと。ただでさえ遅い時間なんだから」


 「あっ。ごめん」


 気づけばお母さんに並べられた食器の中は空っぽだった。お茶碗を斜めに傾けて、勢いよくお米を口の中に入れる。


 味をまともに感じられないほど早く。



 『再来週から読書週間』と書かれたポスターが貼られている戸をがらがらと音を立てながら引くと、この間も嗅いだ本の香りが私を包んだ。


 カウンターに近づくと、上館さんの姿はなくてまだ来ていないことにほっとする。この間強引に断ったから、顔を合わせづらくて。でもよかった。


 席に座って、館内を見回す。本棚で目を泳がせている人は指折りで数えられるほど。あとは勉強のために来ている生徒たちだけ。


 私が思っていたよりこの仕事は楽なのかもしれない。高校で初めての委員会の仕事ということもあり、緊張していた私は肩の力を抜いた。それからよし、と自分鼓舞して、リュックからお気に入りのノートと筆箱を取り出す。物語を紡ぐために。


 筆箱からシャーペンを手に取り、雲のように浮かんできたアイデアをノートに書き連ねていく。物語を作り上げていく上で、私はこの作業が一番好き。


 逆に執筆、特に初稿は苦手。自分の想像していた世界観を文字で表現した時、当初の思い描いていたものとは全く異なるものになっていることが多いから。それで何度、頭を抱えてきたことか。


 それなら自分の想像だけにとどめておけばいいじゃないと、人は思うかもしれない。


 だけど、そうできない理由が私にはある。自分の想像した世界で誰かの心を動かしたい。前向きな気持ちにさせたい。そんな綺麗な理由だったら、胸を張って宣言できるのに。


 「ねぇ、物語書いてるの?」


 私の思考回路を塞ぐ声が隣から降り注いできた。見れば、すぐそこに顔があったから、私は驚いて椅子ごと体が後ろへ倒れそうになる。


 「わっ」


 私は目を瞑る。背中に痛みを感じることを覚悟して。


 だけど何秒経ってもその感覚は訪れなかった。その代わりに温かいものが背中から伝わる。制服ごしだからすごい微弱なものではあるけれど。


 「ごめん。驚かせちゃったね」


 さっきの声にゆっくりと目を開ける。しばらく目を閉じていたからか、まるで太陽を直接見ているかのような錯覚に陥る。


 徐々にその眩しさにも慣れ、声の主の顔も浮き上がってきた。と同時に体が熱くなる。まるで体の中に太陽が宿ったように。


 「人の書き物を勝手に見ないでください」


 第一声はそれだった。自分でも驚くくらい怒りに満ちていた。


 助けてくれたけれど、そもそもこんな目の前まで近くに来なければ、椅子から落ちることなんてなかったのだから。


 「ごめん」


 もう一人のカウンター係の男子生徒はあからさまにしゅんとする。だけど上館さんはすぐに明るい表情を見せた。


 「でも、どうしても気になっちゃって。参考書を開いてなかったから勉強してるわけじゃないんだろうなって」


 「それで見たの?」


 上館さんはコクリと頷く。


 「本当にごめん……」


 それきり、二人の間には長い沈黙が通り過ぎていく。あまりの静寂にほんの少しの動作さえも躊躇いが生まれる。


 だけどそれは、上館さんが口を割ることで終わった。


 「小向さんって読むだけじゃなくて書いたりもするんだね」


 「え、うん」


 「どうして物語を書こうと思ったの?」


 興味津々といった目のきらめきで、だけどとても真剣そうに。だから私も誤魔化すわけにはいかず、でもありのままには言わず。


 「本が好きだから、書いてみようかなって」


 半分本当で、半分嘘。いいよね。面識のない人にぐらい綺麗な理由を告げても。


 「好きなんだね本」


 眩しいものを見るかのように目を細めて上館さんはそうゆっくりとこぼす。それから。


 「やっぱり、文芸部に入ってくれない?」 


 「え?」


 また? あんな頑なに断ったのに。むしろちょっと言いすぎたかなって思ってたくらいで。


 「どうして? 部員不足なら、他の人誘えばいいのに」


 「誰でも歓迎ってわけじゃないから。せっかく部活するなら本が好きな人と一緒にやりたい!」


 真剣な眼差し。きっと本が本当に大好きで。でもだからこそ。


 「ごめんなさい」


 上館さんみたいに本が大好きな人が集まっているのなら、なおさら入るわけにはいかない。放課後のバイト以前の問題。


 「一日だけでも、だめなの?」


 「だめ、だね」


 すると次の授業の時間を告げるチャイムの音が室内を満たした。すごくちょうどいいタイミング。


 あんまり書き進められなかったノートを閉じ、少ない消しかすを集めて椅子から立ち上がると。


 「また誘ってもいい?」


 振り返ると、眉を下げて不安げな顔をした上館さんと目が合う。そんなの。


 「何度誘ってくれても返事は変わらないと思うよ」


 「それでも」と再び上館さんは懇願する。手を合わせそうな勢いで。


 「絶対に変わらないよ」


 そう言い残して私は図書館の戸を目指した。


 無理だよ、何度お願いされても。そう思いながら。




 「よ~し。書くぞ、いっぱい!」


 雨が降っているせいで夕陽が差してこない図書館。もちろん今日は月曜日。


 さーっと館内でも雨が地面に弾く音が響く。その音と上館さんが気合を入れて色紙に文字を連ねていく音が重なる。


 「この習慣が本を読むきっかけになってくれたらいいなぁ」


 そう呟きながらすらすらと同じ作業を続ける上館さん。


 「上館さんは、皆に小説を好きになってほしいの?」


 正直、趣味は人それぞれだから、私は無理に本をお勧めしようとは思わない。でも図書委員の仕事の一環だからやらざるを得ないのだけれど。


 暑さは残るけれど、今は秋。テレビでも芸術の秋とか食欲の秋なんかが囁かれている。


 それにちなんで、図書委員は来週に迫った読書週間の準備をしている。私たちが書いたポップで活字離れした今の高校生がわずかでもページをめくってくれるように。


 「そりゃあね。だって本が好きな人が増えたら、色んな人と本の感想を伝え合えるし、文芸部の部員不足解消にもなるし」


 「文芸部ってそんなに人少ないの?」


 なんか、申し訳ない。あれから数週間経つけど、当番のたびに話しかけられては、強引に文芸部へと勧誘してくる。


 もちろん丁重にお断りしているけれど。


 「小向さんが気を落とす必要なんてこれっぽちもないよ」


 「え、全然そんなこと思ってないよ」


 「でも、今ちょっと眉下げてた。ってことは少し申し訳なく思ってるのかなって」


 図星すぎてなにも言えない。だけどそう思ってるなら。


 「どうして私を部活に誘うのやめないの?」


 「だって、小向さんは本が大好きでしょ。わかるもん。だから諦めないよ」


 「上館さんは何もわかってない」


 「わかるよ。本が好きなんでしょ」


 「やっぱり何もわかってない。世の中好きなことだけやってたら生きていけないんだよ」


 「確かに大人だったらそうかもしれないけど、僕たちまだ高校生だよ? 一番好きなことに時間を使える年頃だと思うんだけどなぁ」


 「そうできない人もいるんだよ」


 私のように。少しでも生活費を稼いで毎日を過ごす。好きだとは言ったけれど、それは私の心の一部にすぎない。


 部活で毎日楽しく本を書いてる上館さんにわかるわけない。あの純粋な笑みと明るさがそれを物語っている。困り事なんて一つもない笑顔で。


 「そうだね……」


 小さく上館さんは呟く。さすがに言いすぎたかもしれない。でもいい。むしろもう、誘ってこなくなるのなら嬉しい。


 嬉しい、はずなのに。


 ふと夢中になって話していることに気づいて、私も彼と同じく本を紹介する文章を書いていく。


 色画用紙に文字を書いていく音が、雨のようにただずっと続いていった。 



 図書室に入ると、いつもとは違うカラフルな空間が私を迎えた。所々に先週書いたポップたちが本のそばで花のように咲いている。


 ふと疑問符が頭上に浮かぶ。こんなにポップを書いたっけ、と。


 私は図書室の窓際に並べられたお勧めの本のコーナーへと近づく。あれ? やっぱり違和感を感じる。


 読書週間とはいえ、お勧めとして置かれている本が多すぎる。委員長から聞いていた冊数よりもはるかに。


 そのコーナーの前に来た私はポップ一つ一つに目を通していく。すると見覚えのある文字が飾られているポップの大半を占めていることに気づくと。


 「あっ」


 その声に反射的に振り向けば、上館さんがいた。とても気まずい。先週のこと、そして今、彼の書いたポップを凝視していたこと。


 まともに目を合わせられなくて、棚に眠る本のほうへと視線をずらす。


 「ごめん。小向さんのこと、なにも知らないのに」


 「私も、昨日は言いすぎたよね」


 本当は私が一番悪いのに。最初に謝るべきなのは上館さんじゃなくて私。


 だけど彼は首を横に振って「僕はなにもわかっていなかった」と肩を落とす。


 「上館さんは悪くないよ。それに、本が好きなのは本当のことだから」


 本が好き。読むことも書くことも。理由が汚くても、その感情はちゃんとある。その思いが少しはあったから、きっと今まで書き続けられたんだと思う。


 だけど。


 「でもやっぱり、部活には入れない」


 はっきりと伝えると、彼は困ったように空を仰ぐ。


 「ポップ、いっぱい書いたんだね」


 気を落とした彼に少しでも明るさを取り戻してもらうために、そんな話題へと変える。だけどそれは逆に彼に明るさを与えすぎる結果を招いて。


 「うん、たくさん書いた! この小説は……」


 それから彼の演説が延々と続いていった。本当にずっと。お昼休みの終わりを告げるチャイムが響くまで。


 だけど不思議と長くは感じなくて。自分の知っている小説なら、私も感想を伝えて、何より楽しそうに話す彼を見つめることに飽きは来なかった。


 「教室戻らないとだね」


 本田さんともこんなに小説を語ったことはなかったかもしれない。でももう時間だから、教室へ戻ろうと……。


 「ちょっと待って、小向さん」


 私は足を止める。振り向くと、彼が俯いていた。何か大事なことを切り出すような。もしかして……。


 「部活には入らないからね」


 「まだ何も言ってないのに」


 「そんな予感がしたから」


 口を軽く尖らせた後、視線を泳がせながら「じゃあ、今みたいにさ」と呟く。それから一拍おいて。


 「本の話しない?」


 「本の話……」


 もしかしたら、これも遠回しで文芸部に勧誘する台詞かもしれない。でも。


 「いいよ」


 楽しかったから。本のこと、語れて。その瞬間、上館さんの口の両端が一気に上がった。誰が見ても満面の笑みを浮かべて。ってそれよりも。


 「早く行こう? もう授業始まっちゃう」


 「あっ、そうだね。呼び止めてごめんね」


 喜んでいたのも束の間、彼は慌てた様子を見せる。時間に遅れないように、私たちは早足で図書室を後にした。


 幽霊になったかのように、とても軽い足取りで。



 「この作品ね、連続放火の犯人は誰かっていう王道なミステリー小説なんだけどね」


 「うん」


 お昼休みの図書室。いつも通りのカウンター係の仕事をしているとき。


 「トリックも好きだけど、なんてったって登場人物それぞれの心理描写がこの作品は光ってるんだよ!」


 夢中で熱語りする上館さん。ううん大空くん。


 図書室の中だからもう少し小さい声で話したほうがいいんじゃないかな、と思いながらも私は聞き入ってしまう。


 でもやっぱりいけなかったみたいで、図書室に入ってきた司書さんに二人して怒られる。


 「それでね、犯人もただ悪いやつなわけじゃなくて……て笑ってる?」


 声を小さくして話し始める上館さんに、ついくすり笑いをしてしまった。


 「もう、じゃあ次は秋乃ちゃんの番ね」


 大空くんは無理やりに私に感想を言わせようとする。笑っちゃったし仕方ない。


 「私はこの本が好きで」


 青空を背景に女の子が笑ってる表紙の小説を見せながら、思いつく限りの魅力を大空くんに伝えた。


 「いいね。内気な女の子が明るい男の子に影響されて前向きになっていく話」


 聞きながらにっこり笑顔を作る大空くん。まるでこの本の男の子みたいだな、なんて。


 「これで終わり。またやろうね」


 「うん」


 恥ずかしくなって強制的に終わらせてしまったけど大空くんは素直に頷いてくれた。すると、ちょうどチャイム鳴って。


 「わ、ベストタイミングだね」


 「チャイムが私たちの会話を待ってたのかな」


 「はは、いい表現。さすが未来の作家さん」


 「もう、やめてよ」


 ふいに顔が熱くなる。胸の中にある器官が異常に血を送り込んでるんじゃないかって思うほど。


 最近こんなことがよく起こって。


 「途中まで一緒に行こう?」


 「あ、うん」


 おすすめした本を力強く抱えながら、歩いていく。


 廊下に出ると、少しひんやりとした空気が肌を滑った。もうそんな季節なのに体は熱いなんてやっぱりおかしい。


 「それにしても、もう二学期始まって二か月経つんだね。ぼく、この間入学したばっかりに感じてるんだけど」


 「それは言いすぎだよ」


 そうやって二人して笑っていると、私のクラス番号が目の前まで迫っていて。


 「じゃあ、また」


 「うん。ばいばい」


 小さくなっていく大空くんに、どこからきているかわからない寂しさを感じてしまう。少しずつ終わっていく秋を見ているような、そんな気持ち。


 二か月。大空くんと感想を言い合うようになって一か月も経つ。そうだよね、もう下の名前で呼び合う仲になっていたのだから。だけどそれまでの関係。


 もうとっくに気づいている。彼への気持ちに。


 物語の中のヒロインみたいな勇気があれば、一歩進めるのかな、なんて思ったりして。



 眩しい光に意識が、現実へと連れて行かれる。頬にあたるなにかは、冷たくて、硬くて。いつもの肌触りのいい枕の感触じゃない。


 すっと上半身を起こすと、それが学習机だと気づく。目の前にはパソコンが黒くなってぐっすりと眠っている。


 そうだった。もう次の短編小説の締め切りまで時間がないのに私は……。


 カーテンからはまだ光の気配がしなくて、四角い電子機器で時間を見る。すぐ電源を切ろうとしたけど、指は無意識に画面をタッチしていた。


 まだ書きかけの原稿を閉じて、ニュースアプリに速報が入ってることに気づく。また連続放火だ。今回も本屋さんでの火災のようだ。この犯人はどうしてこんなことをするのだろう。なんて考えていたら、一通のメッセージが届いた。


 アルバイト先だと思っていたから『受賞者は神楽真澄』という記載を見たときは目が丸くなった。と、同時に世界が暗くなる。


 今回は応募数が多くて、発表時期が遅れると言っていた。だから落選した作品は夏休み中に書いたもの。つまり、創作に明け暮れた夏休みがすべて水の泡になったということ。


 また受賞できなかった。今まで何度も挑戦してきたのに。


 電源を消して机に突っ伏す。真っ暗な世界に小説と向き合っている自分が映る。中学三年生、受験の片手間に小説を書き始めた頃の私が。


 私が参加している短編コンテストは有名な出版社が主催していて、賞金はなんと十万円。そんな記載を見たときは、危うく座っていた椅子ごと、体が後ろへ倒れそうになったことを今でも覚えている。


 これで受賞できたらこんな大金がもらえる。そんな汚い理由で、私は書き始めた。もともと読んでいたから書くのもいけると思っていたけれど、それは甘くて。


 読むのと書くのじゃ全然違う。でも、それでも書き続けた。今では最終選考の常連にまでなった。


 だけどコンテストに応募するたび、あの名前が私の前に立ちはだかって。


 この人がいなければ、自分が受賞できたかもしれないのに。


 わかっている。それは書き手が一番思ってはいかないことだと。


 だけどそう思わないと、心が持たなくて。



 悪いことは立て続けに起こるとよく聞くけれど本当だった。


 誰もいないアパートの一室の扉に鍵を通したとき、妙な違和感を感じる。


 なんと鍵が開いていたのだ。バイトの終わりとはいえ、お母さんが帰るにはまだ早い時間帯のはず。


 その瞬間、心臓が凍り付くのを感じた。私は扉に耳をそばだてる。


 だけどどうしてか、中からは何も音は聞こえてこなかった。絶対誰かいるはずなのに。


 今度は少し扉を開けてみることにした。ほんのわずかな隙間から掴める手がかりを求めて。


 ふぅー。


 肩を使って深呼吸をする。どうか、怖い不審者じゃありませんように。


 恐る恐る、きしむ音を極力出さないように扉を引く。そして隙間から見えたのは……。


 「なんだ、お母さんのかぁ」


 玄関には乱雑に置かれた白いスニーカーがあった。


 私は胸を撫で下ろす。だけど突如疑問符が頭上に浮かぶ。


 いつもは夜遅くまで働いているお母さん。そんなお母さんが今ここにいる理由……。


 さっきとは打って変わって扉を勢いよく引く。まるでブラックホールのように私は家の中へと吸い寄せられる。


 そして洗面所の近くで、私の足はピタッと止まった。ここが目的地だというように。


 思わず口元を押さえる。


 そこにはお母さんがいた。だけど、その状態がいつものお母さんとはかけ離れていて……。


 「お母さん!」


 お母さんの傍で膝をつき、肩を軽く揺らす。だけど、何度繰り返しても反応はない。
 だんだん視界がぼやけていく。目に溜まった涙によって。


 耳をそっとお母さんの胸に当ててみる。それから少しの間だけそうしていた。


 生きている。心臓が一定の間隔で脈打つ、生きている人間の最大の特徴。


 それから私は四角い電子機器を取り出す。


 お母さんを助けてくれる人たちへと繋ぐために。



 揺れる白いカーテンが、病室へと流れ込む夕焼けを半透明にしていた。


 薄いオレンジ色の空間、私はお母さんの手を握りしめながら、半透明の景色を眺める。こうしてからどれだけの時間が経っただろうか。


 「うぅ……」


 「お母さん!」


 私はすぐさまお母さんに視線を向ける。目を一度強く瞑ってからゆっくりと瞳を開く。


 今開けたばかりだというのに、お母さんは私をまっすぐに見つめる。


 「秋乃?」


 一気に肩の力が抜ける。凝り固まっていた肩をマッサージで解してくれたかのような快感。


 「お母さん! よかった~」


 負担にならないように私は優しくベッドに横たわるその人を抱きしめる。


 「心配かけてごめんね……」


 「もう、ほんとだよ。お母さんがいなくなっちゃったら、私一人になるもん」


 だから無理しないで。無理しないで休んで。だけどそうは言えなかった。


 だって、無理をしないと私たちは生きてゆけないから。休んでもそれは解決しないことだから。


 本当だったら私に任せてとか、そんな綺麗なことを言ってみたかった。


 だけどそんなのは現実的に無理で。高校生に稼げる額は限られているから。
 無理をしないでなんて、苦労を知らない人にしか吐けないと思う。


 少なくとも私はそんな綺麗事を言えない。


 「そうだね。本当にごめんね……でも大丈夫だから」


 大丈夫だから。そうやって、退院したらまた働くんでしょ。


 お母さんは柔らかな手を私の頭に乗せて撫でてゆく。私はお母さんの胸の中に顔をうずめたながら固く決意した。


 くよくよしてる場合じゃない。また書き始めるんだと。




 早速、病院近くにあった大型書店へと足を運んだ。今どき珍しく木造建てで、外観は古民家のように見える。


 中へ入ると、やっぱり木目の目立つ内装で、天井に備え付けられた古い火災報知器が、より空間を過去へとさかのぼらせているようだった。


 棚の大きさと陳列された本の冊数に毎回圧倒される。 たくさん並べられている本の中にあの名前を見つける。


 『神楽真澄』


 手を伸ばして取ろうとするも、我に返って引っ込める。いつからだろう。この名前を憎いと思い始めたのは。


 前はそんなことなかったのに。この本棚でその名前を見つけたら素直に手に取って読んでいた。


 涙だって流していたかもしれない。もしかしたら私が本を好きになったのも……なんて、まさか。


 過去の自分が映る雲を払うように、違う棚へと移動した。


 『小説の書き方』


 あった。これが私の目的。


 ぱらぱらとその本のページをめくってゆく。そこには小説の書き方の基本がずらりと詳細に書かれていた。


 迷うことなくそれをレジへ持って行く。


 なんとしても次は受賞したい。そう思って。


 会計を終えて建物の出口へ向かおうとした、そのときだった。


 「大空くん」


 出口近くの本棚で姿を見つけてそう呼ぼうとしたけれど、「お」しか口にできなかった。意図的に身体が声を出すことをやめたから。大空くんの隣にいる存在によって。


 藍色の膝よりわずかに下まで伸びるワンピースに白い薄手の羽織りを身に纏った女の子。書店全体を照らす蛍光灯が、彼女の長い髪に天使の輪を作っている。


 そのとき、大空くんがこちらを振り向こうとしたから、私は慌てて近くにあった本棚の陰に身を潜めた。

 
 その本棚は不運にも神楽真澄の本が並べられていた。美しい恋を思わせるタイトル。それは水に染みて滲んで見えた。
 思えばそうだよね。彼は部活だってしている。彼が恋愛をしている可能性なんていくらでも考えられるのに。


 大空くんに彼女がいないと、勝手に決めつけて。


 どうしてこんなときに。もう遅すぎる。少しの気持ちすらも伝えられずに終わってしまった。


 彼らは違うほうへ移動し、その隙に建物を出た。


 葉が色づき、落ちてゆく月の始め。アスファルトに広がる葉はほとんど暖色系だけれど、時々黄緑色の葉も混じっていた。


 色を変える前に散ってしまった葉っぱの気持ちが、ちょっぴりわかった気がする。



 自室がカチカチという音で満たされる。それは窓の外で降り注ぐ秋雨の音と同化していた。


 光る画面には次々と文字が生まれてゆく。


 今まで何作も書いてきたけれど、こんな感覚は初めてだった。勢いだけで書いているような。


 行き詰まる要素がまるでない。題材を失恋にしようと、あの瞬間思ったときから。


 これなら、あの神楽真澄さんにだって勝てるかもしれない。そう自惚れてしまうくらい、順調に執筆は進んでいた。


 あれから、彼のことは避けるようになった。といってももともと毎日会う間柄ではなかったけれど。


 それでも毎週月曜日は来るもので。


 「ねぇ、なんか今日ちょっと冷たくない?」


 やっぱり突っ込まれた。でもあえて誤魔化す。


 「確かに今日は冷えるよね」


 「そうじゃなくて」


 うん、そうじゃない。大空くんの言うとおり。でもそうじゃなければ……までは言えない。


 「今おすすめしてる本、つまんなそうだった?」


 「ううん」


 「じゃあどう……」


 「すみません、この本借りたいんですけど」


 珍しくカウンターに生徒がやって来ていた。これでやっと仕事した数が両手全部の指を上げられるくらいになったと思う。グッドタイミング。


 「バーコードがついているところを上にしてください」


 ぴっと音がしたら、その本は借りられたことになり、ありがとうございましたと挨拶をする。その生徒は入り口付近にいる女子生徒と合流して図書館を出てゆく。文化祭私たちどんな出し物する? なんて囁きながら。


 そっか、もうすぐ。


 「秋乃ちゃん、文化祭一緒に回らない?」


 「え?」


 意味がわからないまま「午前中は忙しいんだけど、午後からは開いてて」なんて続けてくる。なに、どういうつもりなの?


 「ごめん、行けない」


 「どうして? やっぱり怒ってるの?」


 「怒ってないよ」


 ううん、怒ってる。どうしてじゃないよ。先週一緒に歩いてた女の子を誘えばいいじゃない。私じゃなくて……。


 予鈴のチャイムが鳴り響く。どうやらタイミングは、私に味方してくれるよう。


 「待ってよ」


 待たない。背中を叩く声を無視して、私は図書館の戸に手をかけた。



 『文化祭一緒に回らない?』


 教室に書かれたクレープという文字みたいに甘ったるい誘いが、まだ頭の中でぐるぐると巡っている。


 私のクラスではクレープ屋さんを出店するみたい。もちろん私の意見じゃなくて、影響力のある生徒の意見から。


 クレープの種類とか、値段とか。値段は500円から600円に、種類は秋の旬の食材を使ったものにするみたいで、私だったら上からメープルシロップのかかったクレープが食べたいなぁって思いながら黒板を眺めていた。


 なのにその思考はさっきからあの言葉によって中断されてばかり。全部大空くんのせい。


 「次は役割分担に移ります」


 面白くない話になり、私はこっそりと小さな画面を開いた。指で物語を紡いでゆく。


 お母さんのために、そして傷ついた自分の心を少しでも癒すため。
 
 甘い、甘すぎる空気の教室に、私はただお店へと足を運んでくれた人たちにクレープを手渡していた。


 手が空いて教室の端に目を向けると、二本の時計針がもう少しで頂点を指すところ。もうすぐ仕事が終わる。まだ何分か残っているのにもう気が抜けてしまっていたとき。


 「これください!」


 振り向くもそこに顔が映らない。一瞬幽霊の声と間違えそうになって、でも下を見て私はふぅ、と安心した。


 「どのメニューにしますか?」


 しゃがんでメニュー表を広げてみせる。表というほどメニューが充実しているわけではないけれど。でも目の前にいる小さな女の子は目をきらきらとさせて。


 「じゃあ、このメープルクレープにします!」


 指さしたメニューは偶然に私も気になっていたクレープ。


 クレープを作る生徒に注文を伝え、また客対応をしようとするけれど、もうお客さんは並んでいなくて、代わりにさっきの女の子を眺めていた。


 松葉杖をついて、片足にギプスをつけている女の子。当然その理由を聞けるはずもなくだだじっと見ていたら。


 「お姉さん?」


 目がぱちっと合う。バレてしまった。トントンと松葉杖で女の子は近づいてくる。そんな無理してくることないのって思っていると。


 「わたし、なにか変だったかな?」


 「え、ううん。なにも」


 と言いつつ、視線は白く巻かれたギプスにいってしまう。痛ましさが直に伝わってきた。そしてその子の勘は鋭くて。


 「あぁ、これね。飛び降りたときにできたもので」


 「飛び降りた?」


 「うん。ほら、ニュースでやってたでしょ? 連続放火の。四階まである建物で、本屋が三階にあったんだけど、火事で逃げ遅れちゃって。窓から飛び降りたんだ」


 「え、あの?」


 もう一度確かめたくて聴き返すと、女の子は大きく頷いた。曖昧さのない小学生らしい肯定。


 この頃放火事件が絶えない。女の子もきっとそれらの被害者たちのうちの一人。


 「はい、できました!」とクラスメイトがいかにも甘そうなクレープを女の子に差し出してきた。


 差し出すの、私の仕事なのにと思っていると「ほら、見て」とクレープを差し出したクラスメイトが私の頭上を指さした。


 つられて私も指のほうに身体を動かすと、二本の針が頂点を向いていて。そっか。私、もう仕事終わりなんだ。


 ありがとう、と感謝を伝えてから女の子が立ち去る。甘い甘いクレープを持ちながら。
 もうこれ以上不幸が襲いませんように。


 女の子の背中に、綺麗じゃない私は綺麗な祈りごとをした。



 見慣れたはずの学校の廊下が、今日は全然違う場所のように見える。変わった衣装でお客を接待する生徒や恋人同士で溢れているからだと思う。


 「お化け屋敷やってますよ~」


 その声につられて、明らかに怖そうな雰囲気を醸し出している教室内へと入っていくカップルたち。


 「次どこに行く~?」


 廊下で楽しそうに会話を広げる女子生徒の集団。それらのどの集団にも私は属していない。クラスの出し物は終わったし、一緒にお店を回る人もいない。恋人どころか友だちも。


 どこを行くでもなく歩き続ける。だけどお店に入るわけでもないのに接待の生徒に声をかけられる。


 流石に煩わしく思い始め、そんな考えを汲み取ったのか、自分の足は勝手に人の少ない場所へと歩を進めていた。


 階段を四階まで上り、廊下へ出れば私の望み通り、空き教室だらけのフロア。生徒は数えられるほどしかいない。


 だけど、どの生徒を見ても皆、色違いの同じものを抱えていて……。


 「秋乃ちゃん?」


 ガラガラと戸を引く音とともに聞こえてきた声に後ろを振り返る。自分の名前を呼ぶ人なんて早々いないし、なにより何度も聞いている気になる人の声だったから。


 振り返った私は、その声の主と目が合った。


 大空くんがさっきの生徒たちも持っていたものを抱えながら、ちょうど図書室から出てきたのだ。


 「もしかして来てくれたの?」


 「いや、偶々かな……」


 文芸部がお店を出していたこと自体今の今まで知らなかったのだから。


 「よかったら寄って行く? あっ、誰かとお店回る予定だった?」


 私は首を横に振る。自分に友だちがいないことを改めて自覚させるみたいで嫌だったけど。


 「そっかぁ、よかった!」


 そんな屈託のない笑顔を見ると、自分が一人ぼっちなんだという気持ちはどこか遠くへと飛んでいく。


 だけど同時にチクチクと胸が痛む。その笑顔が自分だけのものではないことに。


 「ほら、早く」


 再び戸を引いて図書室に入った大空くんはこちらを振り向いて四本の指を上下に振る。まるで素敵な世界へと招くように。


 大空くんには彼女がいる。見かけない女性だったから、きっとこの学校の生徒じゃないと思う。


 だとしたら、今日その人と鉢合わせする可能性は大いにある。なのにどうしてか図書室は近づいていく。足が自然と動くのだ。


 ううん、足じゃない。私の心が彼へと近づこうとしているんだ。 



 「色々種類があるから、ゆっくり見ていってね」


 そう言うと文芸部の部長は本棚の方へと姿を消した。きっと本を探しに行ったんだろう。


 他の部員も物語の世界に浸っている。確かに、お客として来ている生徒は私を含めて数名しかいないのだから、仕事は少なそう。


 「どう、なにか読みたいのあった?」


 長いテーブルに並べられた本を眺めていると、後ろから突然声をかけられる。振り向かなくても、そこで大空くんがいたずらな顔を浮かべているのが目に見える。


 「もう、驚かせないでよ」


 「ごめんごめん」


 全然反省してない様子で「一年生のとかどう?」と一冊の本を指さす。


 「どうして一年生のなの?」


 並べられている本は各学年ごとの短編集で、他にも二年生や三年生のがあったり、部長のオリジナル長編作品があったりするんだけど……。


 「だって自分と同い年の人が書いた作品、読んでみたくならない?」


 「う~ん」


 そう言われてハッと気がつく。


 「もしかしてこれも勧誘?」


 「嫌だなぁ。僕はただ純粋に本を勧めてるだけなのに」


 「いつも部活に誘ってくる人の言葉じゃなかったら信じられるんだけどなぁ」


 きっとこの本を読んで興味を持ってくれたら、とか考えているんだと思う。


 「まぁ、それもあるんだけど……」


 あまりにも素直にそう言ったから、私は振り向く。


 そこには、人差し指同士をくっつけていじけた表情をした大空くんがいた。


 それにしてもどうして私なのだろう。他にも図書委員はいるのに。


 それに大空くんには……。


 その時、図書室の戸の開く音が聞こえた。


 反射的に視線を移すと、見覚えのある女性が図書室の入り口からこちらを覗いている。


 その瞬間、不安を含んだ雲が心に渦巻く。彼氏が他の女性といたら、彼女にとっては一大事なのだから。


 間違いない、あの人は。


 「お兄ちゃん!」


 えっ? 今なんて?


 「あっ、来たんだ。いらっしゃい」


 軽い足取りで大空くんのそばまで近づいてきた彼女に、そっと優しく言葉を投げかける。


 その二人の姿はまるで。


 「あの……その人は?」


 驚きすぎて、まともに声が出せない。


 だけどそんな私とは対照的に、大空くんは淡々と今の状況を伝えてくれる。隣にいる女性の頭を優しく撫でながら。


 「僕の妹だよ。秋乃ちゃんと同じ本の虫なんだ」


 妹。大人っぽい雰囲気だったから、全然そんなふうに思わなかった。


 とんでもない勘違いをしていることに気づいて、視線を泳がしていると、紹介された女性も私の方を向いてぺこりとお辞儀をする。


 「初めまして。いつもお兄ちゃんがお世話になっています」


 律儀な挨拶に私もつられてお辞儀をした。


 「もう、お母さんみたいな挨拶しないでよ。すごい迷惑かけてるみたいに聞こえるよ?」


 「でもお兄ちゃん。小向さんにしつこく勧誘してるんでしょ?」


 痛いところをつかれたと言わんばかりに大空くんは並べられた冊子に手を伸ばす。それにしても……。


 そんな私の感情を察してか、大空くんの妹さんが口を開く。


 「小向さんのことは、よくお兄ちゃんから聞いています。同じ図書委員でよく話す間柄とか、小向さんが物語を書いてることとか、小向さんを部活に勧誘してるんだけど中々入ってくれないとか。あっ!」


 目の前の彼女は瞳を輝かせて「あとね、お兄ちゃんはこ……」と言葉を続ける。だけど最後までは聞けなかった。


 「それ以上話したら、さすがに怒るよ?」


 大空くんが大きな手で彼女の口を押えていたのだ。彼女は両手を上げて降参ポーズを作る。


 優しい大空くんはすぐに妹の口元から手を剥がす。


 「もう、本気で言うわけないじゃん」


 「お兄ちゃんをからかうとろくなことないからね」


 そんなやり取りを聞いて私はホッとする。そこにいるのが彼女じゃなくて妹なのだと。


 私はなんとなく目の前にあった冊子を手に取る。『一学年 短編集』と題された冊子。


 パラパラとめくれていくページの先に、彼の名前があった。


 どんな物語なのだろうと文字を追おうとしたけれど、すぐにページを閉じた。作者本人の前で読むのは気恥ずかしかったから。その代わりに。


 「この冊子買おうかな」


 「えっ、本当に?」


 ぽつり呟いただけなのに、上館さんは目を輝かせていた。


 「あっ、買うだけだよ? 部活に入るとかそういうのじゃなくて」


 「それでも嬉しいよ」


 大空くんは満面の笑みで頷く。本当に満足げに。


 そこでふと思う。さっき一学年の短編集を勧めてきたのも、単純に自分の作品を私に読んでもらいたかったのだと。なんて、自惚れすぎる。


 だけど、そうだといいなとも思う。


 「私も買うね」


 大空くんの妹さんは私が選んだのと同じ冊子を胸に抱える。


 「あそこのカウンターでお会計できるから」


 大空くんの説明通り、私たちはカウンターの列に並ぶ。といってもたった数名の列だけれど。


 いつも本を借りたり返したりする時にしか並ばないから不思議な感じ。まるで本屋さんを訪れたみたいに。


 たった数名といえど、お会計だから多少時間がかかる。しばらくの沈黙に身を置こうと思ったその時、前に並んでいた大空くんの妹さんが振り向いてきた。


 「私、お兄ちゃんの本が大好きなんだ。私の中で一番の作家、だよ!」


 「お兄ちゃんのこと、大好きなんだね」


 すると目の前の彼女は、うんと大きく頷く。抱えている冊子をより強く抱きしめて。


 「お兄ちゃんの本を読んでてね、希望をもらったんだ」


 「希望?」


 漠然とした眩しすぎる単語に首を傾げる。


 こちらを向いている妹さんは薄く目を瞑って、「色々あって本から遠ざかってた時期があったんだけど、お兄ちゃんの書いた物語を読んで、もう一度好きになれたんだ。本のことを」と懐かしむように語った。


 目を開けた彼女は、それから微笑んだ。その瞳はまるで記憶が隕石になって落ちてくるみたいに、キラキラと輝いていた。


 次の方どうぞ、という声とともに妹さんはカウンターへと体を向ける。


 また訪れた沈黙だったけれど、私の胸がそれを止める。心臓が時計の針のように音を立てる。



 兄妹が手を振り合う微笑ましいシーンがドラマのように私の視界に映る。


 「またね、お兄ちゃん!」


 「うん。来てくれてありがと」


 図書室の戸を閉めて完全に見えなくまで、大空くんは手を振っていた。


 やがて手を下ろすと、大空くんは私の方を向く。まさかまた、部活に勧誘してくるのかと身構えていたが……。


 「秋乃ちゃんは、この後予定ある?」


 「えっ、いや。ないけど……」


 少しの沈黙を挟んで「よかったら、一緒に回らない?」と顔をほんのり赤くして言ってきた。


 きっと私も今、同じ顔の色になっていると思う。せっかく落ち着いてきた心臓もまた早鐘を打ち始めた。


 恥ずかしくなって、私は言葉の代わりに首で返事をする。


 「ほんと?」


 彼は少し目を見開いた後、口に緩やかなカーブを作って微笑む。私もつられて笑う。


 「じゃあ、行こうか」


 その言葉を合図に、お互い歩き始める。青春がいっぱいに散りばめられた校舎の中を。


 しばらく歩いていると、と甘い香りが鼻孔を通り過ぎた。午前中ずっと香っていたもの。


 「もしかして、ここ秋乃ちゃんのクラスのお店?」


 「うん。クレープを販売してるんだ。文化祭に出すお店としてはベタだよね」


 「へぇ~、クレープ屋さんなんだ。あっ!」


 何かいいことを思いついたか、大空くんは笑みを浮かべて足を止める。


 「食べようよ、クレープ。ちょうどお腹空いてたし」


 「ちょっと待って。二人で入るのは……」


 男女でお店に入ったら完全に恋人に見える。しかもここは私のクラス。


 すると大空くんは顔を赤くさせた。


 「じゃあ、僕が買いに行くよ。秋乃ちゃんはここのクラスだからメニューわかるよね?」


 「うん。とはいっても本格的なお店みたいにメニューが豊富なわけじゃないけどね」


 私はメニューを思い浮かべて、美味しそうだなと思ったものを口にする。


 「わかった。行ってくるね!」


 「あっ、待って!」


 お財布をポケットから取り出して歩き出す大空くんを止める。


 「どうしたの?」


 「お金、渡しておくから」


 スカートのポケットからお財布を取り出そうとすると、温かいものが手首から伝わってきた。見上げると、それが誰のものかわかってしまってドキッとする。


 「僕が奢るから出さなくていいよ」


 「そんなわけにはいかないよ」


 確かに余裕はないけれど、人様にお金を出してもらうのはあまりにも申し訳なさすぎる。それが上館くんならなおさらのこと。


 「ううん。僕が奢るから」


 そういって大空くんは自分のクラスの教室へと歩いて行ってしまった。


 私はスカートのポケットへと指を伸ばす。掴んで引っ張り出すと、昔から使ってきた可愛らしいお財布が顔を覗かせる。


 貧しいとはいえ、ちゃんと返さないと。金銭のやり取りはそれくらい大事なこと。


 私が大空くんに頼んだクレープの値段を思い出して、その分の小銭を握りしめて待った。


 「おまたせ。やっぱりお昼時だから人が多いね」


 「ありがとう」


 大空くんから自分の頼んだクレープを受け取る。だけどクレープを持っていた大空くんの指に触れてしまい、身体が熱くなった。


 その熱を冷ますように、私は受け取ったクレープを口に入れる。


 中に入っていたアイスクリームがじっくりと熱の帯びた体を冷やしていく。


 「いい食べっぷりだね!」


 「違うよ!」


 しまった。受け取った瞬間にパクパク食べ始めたら、食い意地の張った人みたいに思われるよね。くすくすと笑われるから余計恥ずかしさが込み上げてくる。


 「幸せそうな顔。いつもそんな顔していればいいのに」


 「それ、いつも幸せそうな顔をしてないみたいに聞こえるんだけど」


 「そういうわけじゃないんだけどさ。いつも何かに追われて疲れてそうに見えるからさ」


 「だって、疲れてるんだもん」


 そう言って口をつぐむ。今の言い方はよくなかった。


 大空くんの顔をまともに見れないまま、私は言葉を探す。ちゃんと謝る意思を形成して。


 だけどそれを喉から出す前に、大空くんの声が耳の中を揺らした。


 「じゃあ、今日はその疲れを取らないと、だね」


 一気に空気が軽くなる。いつもそう。大空くんの言葉にはマイナスをプラスに変える力がある。


 大空くんが私の家庭事情を知ったら、人生はお金が全てじゃないよと言ってくれる気がする。今の環境はマイナスなことばかりではないよと。


 だけどそれを言われたら、私はきっと彼に怒りをぶつけてしまうと思う。大空くんに、なにがわかるのって。


 働きすぎて倒れてしまったお母さんを見て綺麗事なんて信じられるはずがない。それでも……。


 「秋乃ちゃん、もっとお店回ろうよ」


 クレープを片手に大空くんが聞いてきた。


 「うん」


 私は頷いて隣を歩く。世の中綺麗なことばかりじゃない。だけど、今はほんの少し信じてもいい気がした。


 大空くんの言う綺麗ごとを。明るい未来のことを。口の中に残る甘さと、大空くんの存在が私をそう思わせてくれる。


 ふと握りしめている小銭の感触に意識がいく。隣を歩く彼のポケットにそれをそっと入れた。


 神社にお賽銭を投げ入れるように願いを込めて。


 「お化け屋敷やってますよ~」


 クレープを食べ終える頃にそんな声が耳に届く。さっきと同じようにカップルたちが暗い教室内へと入っていった。


 「ねぇ、あそこ入りたい」


 私はその教室の戸を指さす。


 「えっ、小向さんってお化け屋敷大丈夫なの?」


 「うん」


 力いっぱい頷く。こんな物語の世界みたいな青春をまさか自分が味わえるとは思わなかった。ずっと私には縁のないことだと思っていたから。


 好きな人と、いつもとは違う校舎の廊下を歩く瞬間を。



 自室の扉を開けると、ひんやりとした空気が出迎えてくれた。足のつま先から頭の頂点まで。


 お風呂上がりで火照った体にはちょうどよかった。


 その空気を吹き込ませている窓の隙間の向こう側を覗いてみる。ドラマの世界みたいに星空が広がっていて、少し驚いた。この地域は曇りが多いから。


 窓をもう少し開けて、今日買った冊子に書いてある文字を追う。月明りを電気にして。


 何度もページをめくっていくと、まるで障害物に引っかかったように滑らせていた目が止まる。


 『上館大空』と記された文字で。


 大空くんはどんな物語を書いているのだろう。一旦冊子から目を離して、星空を眺める。


 小さな光の粒に、昼間の大空くんの妹さんを思い浮かべてみた。目を瞑りながら大空くんの小説を語る彼女。


 妹さんはあの時、もう一度小説を好きになったと言っていた。


 きっと小説を嫌いになるネガティブな出来事があったんだと思う。


 だけどそんな出来事をも乗り越えさせた物語を大空くんは書いた。私を励ましてくれたときのような言葉を繋いで。


 再びページに視線を送り私は大空くんの物語と向き合う。ふと違和感を感じた。指を結末へと向かわせるたびに。


 誤字脱字があるとかそういうのじゃない。だけど確かに違和感はある。


 それは最後の一文を読み終えた時にも残っていた。何度も読み返して、その違和感は確信に変わる。


 四角い電子機器をタップして、私はある人の作品と大空くんの作品を照らし合わせた。そして気づいてしまう。


 今画面上に映る登場人物が、彼の物語にも登場していたこと。つまり同じ世界線で描かれている。文体も書き方の癖もそっくりそのまま。


 この事実が表すことはたった一つ。


 神楽真澄が上館大空だということ。



 なかなか図書室に入れない。扉の前を行ったり来たり。だけどこれ以上遅くなったら不審がられてしまうかもしれない。


 意を決して木製の扉を開けた瞬間、本独特の香りが鼻の奥を通りすぎていった。だけどなぜか、今日はとてつもなくそれが不愉快なものに感じる。


 ううん。なぜかなんてわかりきっている。


 数歩進めばカウンターが見えて、いつもの月曜日通りそこには大空くん、ううん。


 神楽真澄さんがいた。


 まだ確定したわけじゃない。だからこれから聞くんだ。ちゃんと大空くんの口から。


 「秋乃ちゃん」


 静かな図書室だからこそ、足音一つでカウンターにいる大空くんに気配を悟られた。


 私は大空くんと向き合うように足を止める。カウンター越しだから、まるで本を貸し出す人と返す人みたいな立ち位置。


 いつまでも立ち止まっているからか、「その本返す?」と私の持っているそれのほうに指をさす。


 「違う。これは」


 大空くんの書いてくれた小説。そう言って改めて抱えていたそれを真っ直ぐに大空くんに見せると、ふんわりと笑顔を咲かせた表情がそこにはあった。まるで上館さんにとって待ち望んでいた出来事が起きたかのように。

    
 「読んでくれたの?」


 表情だけでなく声にもその感情が映し出されていた。


 私はコクリと頷く。一度視線を逸らした後、再び大空くんの目を見つめる。確証を得るために。


 「大空くんって、ネットで自分の書いたお話投稿したりしてる?」


 その一瞬、見つめる瞳に驚きの色が波紋のように広がった気がした。


 だけどすぐに「してるけど、それがどうかしたの?」と返事をする。


 少しずつ私の憶測が真実に変わってきているのが怖い。だけどここでやめるわけにはいかなくて。


 「どこの賞に応募しているの? どんな作品?」


 問い詰めるように次から次へと質問を重ねる。


 「え~急に質問されると恥ずかしいなぁ」


 なんて呟きながらも、大空くんは話してくれた。


 そしてやっぱり神楽真澄だった。不自然だと思われないように、私も自分のことを話さなくちゃいけなくて。


 「そうなんだ。あの作品書いてたの、秋乃ちゃんだったんだ!」


 新しい発見をした大空くんはにこやかな表情を浮かべる。私が冷めた表情を浮かべる裏で。


 「ていうか、やっぱり文芸部に入ってよ。お願い!」


 「そうやって部活でもお気楽に物語書いてるから、受賞もできるんだろうね」


 最低すぎる言葉が濁流のように吐き出される。一度壊れたダムは、次々に自由な空間へと大量の水を流していく。


 「お母さんの収入だけじゃ生活が厳しくて、ほとんど毎日放課後にアルバイトしてる私が部活? そんなのできるわけないよ」


 怒り、憎しみ、嫉妬、汚い感情の集まりは、真っ直ぐに大空くんを襲う。


 「大空くんは才能があっていいよね。大空くんさえいなければ、私が受賞できたかもしれないのに」


 一度出た負の言葉は止められなかった。ここで休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。やっぱりタイミングは私に味方をしてくれて。


 気まずいまま、私は図書室を出た。



 その週末はコンテストの締め切り日だった。日曜日の正午にそれは訪れる。画面上には、応募作のタイトルとその作者の文字が刻まれている。


 今はちょうどその時間。その中にはもちろん私の名前も記されていた。下へスクロールし、応募状況を確認していく。


 だけどスクロールができなくなると、私は首を傾げる。


 今度は上へスクロールしてみるも、ますます疑問符が浮かび上がるだけだった。


 どうして? どうしてないの?


 コンテストの応募作品の作者の中に『神楽真澄』という文字の羅列は存在していなかった。


 私はきっと喜んでいたと思う。大空くんと出会う前の私だったら。


 見逃してしまった場面へと早戻しするように、あの時の記憶が私の視界に映る。


 『大空くんは才能があっていいよね』


 『大空くんさえいなければ……』


 それ以上は聞けなかった。いや、聞きたくなかった。無理やりに本を閉ざすように、その現実から目を逸らして。


 もう洗い落とせないくらいに汚れた言葉で、私は大空くんを傷つけてしまった。


 大空くんはなにも悪くないのに。


 明日謝ろう。許されることではないけれど。だけど、それでも謝りたい。どんなに言葉がまとまっていなくても。


 気分転換にニュースアプリを開くと、大きな書店で大火災という記事が飛び込んできた。もちろん、あの連続放火事件。


 見たことあるような建物……あっ。


 この間行った書店。お母さんが入院していた病院の近くの木造建ての大型書店。


 犯人は捕まった。顔を見ても知らない人。でも私が描いていた犯人像とは違っていた。もっと悪党の顔をしていると思ったのに、画面に映るその人は、今日すれ違ったんじゃないかって思うくらいどこにでもいそうな顔をしていた。


 「本は綺麗事ばかり書かれていて、嫌だった。全部燃やしたかった」


 犯人はそう供述したらしい。ずっとわからなかった。犯人が放火をする理由を。しかも狙いがいつも本屋さんなのを。


 でもその理由を知って、すごく共感できた。そんな自分がすごく怖い。


 そしてその建物から次の画面に切り替わったそのとき、私は自分が生きていることさえも忘れた。被害者の名前を見て。


 『上館大空』


 画面の光は無感情にその文字を浮かべていた。



 『大空くんさえいなければ……』


 そう言われて、五日ほど経った休日。泣きそうな彼女の表情がまだ目に浮かぶ。


 確かにいた。いつも僕が受賞するたびに最終選考まで残っている作者さん。まさかその人が秋乃ちゃんだったなんて。


 「どうしよう……。これじゃ、本が買いに行けない」


 とぼとぼ書店へ向かう途中、まだ小学校低学年くらいの小さな女の子が道端で顔を下に向けている。しかも松葉杖をつきながら。


 「どうしたの?」
 そんなに急いでもいないから、聞いてみようと思った。それに、小さな女の子を見ていると昔の妹を思い出してどうしてもほっとけなくなってしまう。


 「あのね、ここの穴にお金落としちゃって……」


 女の子の人差し指の先を見ると、排水溝が見えた。どこの道にもあるもの。


 「買いたい本があってね、ずっと貯めてたんだけど……」


 徐々に弱々しくなっていった声はやがて涙声に変わる。


 助けたい思った。そこまで頑張って貯めてきて、買えないなんてあまりにも悲しすぎる。


 とはいっても、僕も確か今お金を持っていなかったような……。


 この間の文化祭でかなり散財してしまった気がする。新刊が買えるぎりぎりの所持金で、なおかつその作家のサイン会だったからここまでやって来たんだ。


 この女の子をどう助けようかと、迷っていると、ズボンのポケットに違和感を感じた。そこだけ重さが伝わるようで。


 ポケットに手を突っ込むと、指先に固いものが触れる。取り出して手のひらに広げると、いくらかの小銭が現れた。


 見覚えのある金額。すると、反射的に記憶が蘇った。彼女との甘い記憶。あの日食べたクレープのように。


 この金額は彼女のクレープ代。結局返してくれたんだ。


 目の前の小さな女の子を遮って、目という大きなスクリーンが彼女を大きく映す。それを一旦中断して、再び僕は目の前の女の子をまっすぐに見た。


 「これで足りるかな?」


 僕はその手の平を彼女に近づける。


 「いいの?」


 申し訳なさそうに彼女は僕を見上げる。


 「うん。一生懸命貯めてきたんでしょ? 頑張ってきた人の努力は報われなきゃだめだよ」


 努力してきた人が馬鹿を見るなんて、そんなのおかしい。絶対に。


 病室で本が嫌いだと嘆いていた妹を見て。図書室で苦い言葉たちを吐き出す彼女を見て。


 「手広げて?」


 恐る恐るゆっくりと広げた彼女の手のひらに、小銭を乗せる。彼女が、秋乃ちゃんが繋げてくれたものを。


 それを握らせると「じゃあね」と一声かけて、僕は歩き出した。


 
 嗅覚を壊すほどの匂いが木造建ての大型書店を包んでいく。少し吸っただけで、これが体に有害なのだというのがわかる。しかもこの建物は木造だから火が回るのも早くて。


 「急いで逃げてください」


 警備員が避難通路へと書店に訪れたお客さんを誘導する。


 今日は作家のサイン会があり、不幸なことにたくさんの人が足を運んでいた。僕もその中の一人だけれど。いつか秋乃ちゃんに語った連続放火の小説の作者に会おうと。


 とにかく早くこの場所から離れなければと、一歩踏み出したその時「誰か助けてください」という声が耳に届く。


 僕は後ろを振り返って、視線をあちこちに飛ばす。その声の主を見つけようと。


 だけど、どれだけ見渡しても人影は見つからなくて。


 早くこの空間を出たいのは山々だったけど、このまま見過ごせば声の主はきっと助からない。警備員は誘導で忙しいから。


 きっと消防も着くのはもっと後になってからだと思うし。


 遠くの本棚が炎に呑み込まれていく。そこに込められた作者のメッセージも、その物語を楽しむ読者の笑顔も。


 綺麗事が詰まったそれらは、人の命を奪う煙となって消えていく。もちろん、僕の紡いだ物語も。


 僕は歩く。綺麗事でいっぱいの空気の中を。


 声の主は児童書の並んだ本棚の通路に倒れ込んでいた。そして気づく。


 「さっきの女の子?」


 「お兄さん?」


 手には、お小遣いを貯めてまで欲しかったと思われる児童文庫が握られていた。


 半分閉じかけた瞳でその女の子は僕を見る。


 「助けて……」


 明らかにさっきよりも弱い声が鼓膜を震わす。そんな姿がやっぱり妹と重なる。


 「ここ、乗れる?」


 彼女の腕を引っ張って上体を起こし、背を向け、しゃがんでそう促す。


 それに答えるように、僕の肩と背中に重力がかかる。


 「しっかり捕まっててね」


 そう呼びかけるのと同時に僕は立ち上がって、避難通路へと小走りする。流石に人をおんぶしながらだから、全速力で走ることはできない。


 「コホン、コホン」


 「はい、これどうぞ」


 後ろで咳込むその子にハンカチを渡す。


 僕は自分の袖で鼻を押さえながら、ただひたすらに進む。


 だけど避難通路に来た瞬間、限界は訪れてしまう。


 階段の前で足が言うことを聞かなくなり、その場に倒れた。まるで足が自分のものではなくなってしまったかのように。


 上にいる彼女にも振動が伝わっただろう。


 嗅覚はもうほとんど役割を果たしていなかった。だから、これが有害な匂いなのかもわからない。


 今度は視覚が失われていく。物の輪郭がはっきりと掴めない。


 それから聴覚も。彼女の声が遠くで聞こえているような気もするけど、ぼんやりとしか耳には届かなかった。


 もう生きられない。僕の胸の中で懸命に動くこの命はもうわずかしかないのだと。


 霞む視界に漂う灰色の煙が記憶された数多くのシーンを映す。僕のこれまでの人生を映すように。



 上館と、自分と同じ苗字が記された病室ネームプレートの戸の前で足を止める。


 小学生にとって少し重めの戸を力強く引く。窓に備え付けられた白いカーテンが、ひらりと僕にとって大切な人の表情を隠す。


 「お兄ちゃん、今日も来てくれたんだ!」


 「うん。はい、これおやつね」


 「わぁ~ありがと!」


 「でもあんまり食べ過ぎると体調崩すかもしれないから、ちょっとずつ食べるんだよ」


 「はぁ~い」


 入院服に身を包んだ妹が手を挙げてそう返事をする。その拍子に動いた点滴の管が僕の胸の中をチクリと攻撃した。


 「ねぇ、私いつ退院できるのかな?」


 「う~ん」


 正直僕にもわからない。お母さんたちが言うに、妹には手術が必要らしく、手術に耐えられる体作りをしているらしい。


 「早く、学校行きたいのになぁ~」


 口を尖らせた妹は起こしていた上半身をベッドに預ける。


 柄もなにもない天井を見つめる瞳に、子ども特有の純粋な輝きはなかった。


 「お兄ちゃん、すごい暇だよ」


 「お兄ちゃんと話すのそんなに退屈?」


 面白い話をしているつもりは全くないけど、僕といるのが暇だという妹に少しムッとした。


 「あっ、そうじゃないよ!」


 勢いよくベッドから起き上がるから、僕は心配になる。


 「そんな急に起き上がったら具合悪く……」


 「暇なのは、お兄ちゃんがいなくなった後の話、だよ」


 僕の言葉を遮った妹は薄く微笑む。病気でこけ気味の頬がその笑顔を弱々しくさせる。


 僕と会話する時間が決して退屈でないとその表情が言ってくれているようで、嬉しい。自分勝手な妄想かもしれないけど。
 病室の周囲を見回すと、本当になにもないわけではなさそうだった。


 「前に持ってきたゲーム機は? あれなら時間潰しになると思うけど」


 「あれなら、もうクリアしたよ?」


 「えっ、そうなの?」


 僕は半年くらいかけて攻略したというのに、二週間くらいでクリアしたのか。


 だけど、それほどに病院での生活は退屈に満ちているのかもしれない。申し訳ない質問をしてしまった。


 僕はベッドのそばに置かれている電子機器に目を落とす。


 「じゃあ、テレビは?」


 「テレビは全然面白くないもん。報道番組とか漢字ばっかりでさっぱりだし、アニメはほとんど深夜にやってるんだもん」


 確かにまだ小学校低学年の妹に漢字は難しい。病院とかには消灯時間があるから、深夜まで起きていることもできない。


 僕は白いベッドをじっと見つめながら、他に退屈しのぎになりそうなことを考えてみた。すると脳内に豆電球が灯る。


 「本は?」


 これはいい考えだと思った。


 僕が本の虫ということもあって、妹も読書を好んでしていた気がする。だけど返ってきた答えは……。


 「本は嫌だ。絶対に!」


 今まで提案してきたもので一番拒否の意が込められた声。


 「でも昔は本読んでたじゃん」


 「それは昔の話だよ!」


 どうしてそんなに怒っているのだろうか? 聞き慣れない荒々しい声が鼓膜を突き刺す。


 「本嫌いになったの?」


 「うん」


 妹はゆっくりと頷く。彼女の目を見るも、反射的に逸らされてしまう。


 理由が聞きたくて肺に空気を入れたのと同時に、重い戸を引く音が辺りを支配する。


 「上館さん、検査の時間ですよ」


 看護師さんの軽快なそんな一声が、僕らのやりとりをいとも簡単に止める。妹はまるで大きな挫折をしたかのように暗い表情を作る。


 僕は手を伸ばして、妹がベッドから降りるのを手伝う。


 手にかかる力はほとんどなかった。多分、妹があまりにも軽いから。


 「一人で歩ける?」


 「うん」


 戸の向こうで待つ看護師まで、自力で歩いていく。


 「お兄ちゃん、またね」


 後ろを振り向いて手を振る妹に、僕も振り返す。


 点滴スタンドを引く妹が閉まる戸で見えなくなるのと同時に、僕は先ほどまで妹が眠っていたベッドで横になる。


 上には真っ白な天井が広がっているばかり。


 こんな場所にずっと閉じ込められて、その上娯楽がないなんて。


 それにしてもどうしてあんなに本を嫌いになってしまったのだろうか。


 昔は一緒に本を読んで感想を伝え合っていたほど、本が好きだったのに。


 心地よいベッドから体を離し、僕は重たい戸を引いて病室を後にした。


 「その本面白そう。私にも読ませて!」


 「う~ん。これ、病院の図書室で借りたのだから、次返しに行った時ね」


 「うん。わかった!」


 妹と同じ年頃の女の子たちが可愛らしい声を響かせながら廊下を走っていく。二人とも手には絵本が抱えられている。


 本当は注意したほうがいいのかもしれないけど、それより彼女たちが妹に見えて仕方がなかった。


 本を常に持っていた彼女の姿に。


 本、持ってきたら、また読んでくれるのかな?


 ふとそんな考えがよぎる。


 もしもう一度、本を好きになって読んでくれたら、病院での退屈な時間を埋めることができる、そう思った。


 僕は彼女たちが言っていた病院の中にある図書室へと足を運んだ。



 再び病室を訪れると、ベッドには検査終わりの妹が横たわっていた。


 「お兄ちゃん、まだいたんだ!」


 「起き上がらなくていいよ」


 またさっきみたいに勢いよく起きても困る。具合が悪くなったら、小学生の僕は責任をとれないから。


 「それなに?」


 手に持っているなにかに気がついたのか、彼女は頭上にはてなマークを浮かべる。


 彼女の目の前までそれを近づけると、わずかながらに表情が固まるのを感じた。


 「さっき図書室で見つけて借りてきた本なんだ。読んでみな……」


 「いらない!」


 あまりの衝撃に僕は本を落としてしまう。だってこんなにも妹が怒りに満ちた声を聞いたのは初めてだったから。
 彼女のすぐ隣で借りてきた本はぐったりと横たわっている。まるで彼女のみたいに体調を崩してしまったかのようだった。


 「さっきも言ったけど、私は本が嫌いなの」


 「だからどうしてなの?」


 ナイフのように鋭い口調だから僕もつい、強い口調になってしまった。


 少し間を置いて、だってと妹は続く。


 「綺麗事ばっかり書いてて嫌なの、本」


 「綺麗事なんて難しい言葉、よく知ってるね」 


 やっぱりそれだけ今まで好んで本をたくさん読んできたんだなと、改めて思った。


 だからこそ、ちゃんとその理由に耳を傾けなければならない。


 軽く吸い込んだ息を言葉とともに彼女は吐き出した。わずかながら表情を柔らかくして。


 「こんなふうに病気になる前は好きだったよ。並べられた文字を追うことも、ページをめくることも、お兄ちゃんと感想を言い合うことも」


 頬を緩ませてそう語る彼女。まるで遠い過去の楽しい思い出を話しているかのように。


 「でもね……」


 部屋を照らしていた夕陽が沈むように、彼女の表情にも闇が落ちる。


 「病気で入院するようになって、疑問に思うようになったんだよね。その本の中で作者が伝えたいメッセージに」


 「作者のメッセージに?」


 「うん。作家って物語を通じて何かを伝えるでしょ。いいことを積み重ねた主人公には幸せな結末が待っている物語だったら、いいことすれば幸せになれるってことだよね。悪いことをした主人公には不幸が待っている物語だったら、悪いことすれば不幸せになるってことだよね」


 そこまで言われてはっと気づかされる。彼女の今までの行いとこの状況。


 この病室に陽光はほとんど残っていなくて、代わりに包んでいく暗闇が彼女の瞳から光を奪う。


 「私、なにか悪いことしちゃったのかな。警察に捕まって檻の中に閉じ込められちゃうくらい」


 「違うよ……」


 そんなはずない。ずっとそばで見てきた僕だからこそ言える。


 もしそうだとしたら……。


 「じゃあ、なんで私は病気になってるの? 悪いことしてる人はもっと他にいるはずなのに……」


 「そうだね」


 相槌を打ちながら、静かに頷くことしか僕にはできなかった。


 「作家の伝えたいメッセージは全部嘘。綺麗事を並べているだけなの」


 だから今は本が嫌い。そう言い残すと妹はベッドに横になり、そのまま目を瞑る。きっと話し疲れてしまったのだろう。


 時計を見れば、針が面会時間の終わりを教えようとしていた。


 「じゃあ、今日は帰るね」


 本当は明るい話でもして、暗いムードを払いたいところだが、時間が来てしまったものは仕方ない。


 「うん」


 弱々しい返事と手振りが余計に暗い気持ちにさせる。


 重い戸を閉め終えるまで、僕は彼女に手を振り続けていた。



 自室の扉を開けると、ひんやりとした空気が出迎えてくれた。足のつま先から頭の頂点まで。


 お風呂上がりで火照った体にはちょうどよかった。


 その空気を吹き込ませている窓の隙間の向こう側を覗いてみる。ドラマの世界みたいに星空が広がっていたらよかったのに、あいにく空は綿埃のような灰色の雲に覆われていた。


 きっと妹の心の空もこんな模様なのだと思う。病気の完治という希望の光が見えなくて、不安でいっぱいに違いない。


 「作家のメッセージは綺麗事……」


 ポツリと小さく呟いてみる。よくよく考えてみたら、確かにそうかもしれない。


 いいことをしていたって悪いことは起こるし、悪いことをしても幸福な人生を送っている人もいる。


 真面目で、手のかからない妹は前者。いいことをしたら幸せになれるなんて綺麗な状況に妹は置かれていない。


 灰色の雲に、妹と本を読んだ記憶を映してみる。忙しなく黒目を動かして、ページをめくる彼女を。


 あるページでは笑みを零し、あるページでは目に溜まった雫を零す彼女を。


 そんな彼女が読書を手放すのはもったいない気がした。文字を楽しそうに追っていた、あの時間を。


 雲のスクリーンは僕に一つの目標を探し当ててくれた。


 もう一度、あの時間を取り戻すために。星空が見えるように。僕は……。


 小説を書きたい。




 今日は風が手加減をしてくれているからか、白いカーテンが大人しかった。


 「お兄ちゃん、その大きな紙なに?」


 病室に来て間もなく、妹は指をさしてそれに気づいた。僕の二週間の集大成に。


 上半身を起こして、興味津々といった目で覗いてくる。


 「これ、僕が書いた物語なんだ」


 僕は意を決してそう口にする。


 「えっ、これお兄ちゃん書いたのなの?」


 叫んだような大声に僕は肩を震わす。妹のことを直視できないままコクリと頷く。


 もしかしたら拒絶の色が含まれた瞳をしているかもしれない。あんなに本を嫌っていたのだから。そう思うと、目を合わすのが怖かった。


 「無理にとは言わないよ。気が向いたらでいいからね。ここの引き出しに入れておくよ」


 否定も肯定もしない微妙な反応。そんな反応を見るのが怖くなって、僕はなにも考えず手に抱いているものを引き出しへ入れに行く。


 ベッドの隣に備え付けられたコンパクトなタンス。その上にはテレビも置かれている。


 そこの引き出しの中に原稿用紙を入れていく。落として散らばらないように。


 片付け終えて、また彼女の顔を見ると小さな口を動かしているのが見えた。


 「お兄ちゃんが書いたの読みたい」


 引き出しの方を指さす彼女。その瞬間、喜びで心が溢れ返る心地がした。


 「ほんと!」


 僕の望んでいたことが叶ったから。また物語と向き合ってくれる。


 自分ではわからないけど、きっと嬉しい表情をしていると思う。


 引き出しを開けて、それを取り出そうとすると「待って」という声が僕の手を止めた。


 「どうしたの?」


 もしかしたら思いとどまったのかもしれない。この間まであんなに本を嫌っていたのだから。


 だけど顔を上げれば、妹は微笑んでそれは退屈な時間に読むよ、と声にした。


 僕は胸を撫で下ろす。


 それから病室が暗くまで、僕たちはたくさんおしゃべりをした。


 この空間から静けさが消滅するくらいに。




 木造建ての古民家を思わせる書店の入り口に立つ。胸を押さえるといつもより早くそれが動いている心地がした。


 興奮と緊張。その二つが複雑に絡み合っているのだと思う。深く息を吸ってから、中へと足を運ぶ。


 入ればどこを見ても本が目に映るくらいに、たくさんの書籍たちが僕を迎えてくれた。また鼓動が早くなる。ここに僕の夢の集大成があるのだと思うと。


 逸る気持ちを抑え、少し前の過去を思いながら、ゆっくりと本棚の隙間を通りすぎて行く。


 気づけば小説を書いてから、五年が経っていた。書けば書くほど、楽しくなってきて。


 妹はあれから手術をして、今も通院しているけれど、元気な姿で読書を楽しんでいる。


 小学六年生の誕生日に、便利な電子機器をプレゼントしてもらって、それが執筆活動を後押しした。


 有名な短編コンテストに応募して、いろんな人に物語が届きますようにって結果が来るまで祈っていたことが昨日のことのように覚えている。


 そして驚くべきことに、祈りは空に届いて僕は受賞することができた。


 物語の世界に浸る妹と、その結果がきっと僕の大きなモチベーションになったんだと思う。


 最初は、妹に喜んでほしくて書いてたのに、いつの間にかそれが自分の生き甲斐となっていた。


 それから何度も受賞を重ねて、中学二年生で出版の話にもなった。


 すごく嬉しくて、嬉しすぎて。これから色んな人たちに僕が紡いだ物語を読んでもらえると思ったら。




 遂に辿り着いた。新刊コーナーに。自分の書いた物語が置かれている場所に。


 この日は別の新刊の発売もあるのか、そこには多くの人だかりができている。


 路上ライブを見るかのように、遠くから僕の作品を眺める人もいれば、動物園で小さな動物に触れ合うように、その小説を手に取る人もいた。


 誰かの手に自分の作品が届く今、この瞬間が愛おしく思える。そして僕の視線はある一人の女の子で止まった。


 僕の作品を手に取って、さらにページをめくる彼女に。天井にある蛍光灯が、肩より少し長く伸びた彼女の細い髪に天使の輪を作る。


 周囲の目を気にせず、ひたすらにページをめくり続ける彼女。そのたびに頬が緩んだり、目に水が溜まったり。自分の書いた作品で、こんなにも忙しなく感情を動かしてくれていることがすごく嬉しかった。


 放せない。視線が楽しそうに読む彼女から。もう十分は経っているはずなのに、僕はずっと彼女のことを見つめていた。


 それ以来、物語の中のヒロインを描くたびに、彼女のことを想起するようになった。だから。


 『よろしくね』


 身支度を整えているその子に、僕は声をかけたんだ。一生分の勇気をかき集めて。なのに全然気づいてもらえなくて。


 『小向さん?』


 もう一度、今度は苗字をつけたら振り向いてくれた。その顔が目に映った途端、胸の奥が熱くなって。


 『あ、えっと。同じ曜日のカウンター担当の……上館さん』


 驚いた表情を見せながら、でもちゃんと言葉を返してくれたことが嬉しくて。


 『うん。これからよろしくね』


 それから無理やりにも小向さん、ううん。秋乃ちゃんと会う口実を作っていった。もちろん文芸部へのお誘いもその一つ。もっと話したくて、もっと知りたかったから。秋乃ちゃんこと。


 でも僕はまた間違えてしまった。秋乃ちゃんのこと、まだなにも知らないのに。お金に困っていることも、僕のせいで受賞できないことも。

 記憶すらも、わからなくなっていく。文字で何度も表現してきたけど、そのどれとも違う気がした。命の終わりって。


 当たり前にやってくる朝日で目覚めて、星の見えない真っ暗な夜の中眠る毎日。


 だけどそんな日常こそが他愛ないものだった。もう僕はそこに戻れない。もう二度と。


 もっと物語を描きたかった。書きたいことがまだまだたくさんあったのに。


 僕はお医者さんのように病気の身体を治してあげることも、看護師さんのように身の回りのお世話をすることもできない。


 偉い人じゃないからお金で困っている大切な人を救うこともできない。


 物語しか描けない僕は、そんな無力な人間。妹に言われたこと、初めて好きになった人に告げられたことを思い出すたびにそう思う。


 だけど、僕は知っている。そんな自分にでも物語なら、誰かを喜ばせることができるって。


 病室で原稿用紙をパラパラとめくる妹の横顔。書店で書籍化された僕の物語を読んで、泣いてくれた秋乃ちゃんの横顔。それが何よりの証拠で。


 物語の世界は綺麗事ばかりかもしれない。だけど、その綺麗事に影響されて前を向く人だっている。実際に妹がそうだったから。


 だから、それを彼女にも伝えたかった。辛い毎日を彼女が送っていたとしても。


 前を向いて笑ってほしかった。


 次のコンテストは、秋乃ちゃんが受賞するのかな。大金をもらって喜ぶのかな。僕がいなくなって喜ぶ……。


 薄れる意識の中でも、悲しみは止まらなくて。だけど。


 大好きな彼女がそれでも、笑ってくれるなら。そう思いたい自分が確かにいる。


 綺麗事かもしれない。


 それでも最後だからいいよね。



 図書室特有の香りが入った瞬間に鼻孔をくすぐる。そのまままっすぐにカウンターへと歩いていく。


 今日はカウンター当番だから。


 私はいつもの場所に座って小説を書く。だけど隣には誰もいない。あの事件から二週間、その席が埋まることはなかった。


 お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、物語を書こうと思ったけれど、それは便利な電子機器の震えによって阻まれる。


 電源を入れて連絡アプリを開くと、一件新規のメッセージを見つけた。


 そこに表示された文章に、私は呆然とした。まるで時間を止められたかのように。


 『この度は受賞、おめでとうございます』


 文面にはそう書かれていた。何度瞬きしても、それは変わらなかった。


 学校の中なのに、私の視界は簡単に滲んでしまう。でも人がほとんどいない図書館だからいいのかもしれない。


 中学生の頃の私がこの文面を見ても、きっと同じ反応をしていた。目に涙を浮かべて。


 だけど、理由が違う。あの頃の私の涙はきっと嬉しさに溢れていたに違いない。受賞することが目標で頑張ってきて、そしてそれを達成して喜んでいる、嬉し泣き。


 だけど今は違う。全然、嬉しくない……。


 私は今さら気がついてしまった。本当に今さら。


 もう、遅すぎるのに。彼がこの世を去って初めて気づいてしまったのだから。大切なことに。


 受賞よりも、賞金よりも。


 何よりも私が願っていたことは、彼が、大空くんが隣にいてくれることだった。


 好きだったのに。大好きだったのに。本のことを話して、笑って、そんな日々が。


 だけどもう、戻れない。決して。


 私は立ち上がって、窓際の前まで足を運ぶ。閉ざされた窓をゆっくりと開けて、空を仰ぐ。


 空は灰色だった。


 私は左手を伸ばす。その上に丸くて白いものが落ちてきた。だけどそれはすぐに形を変え、消えてしまう。


 雪だった。そっか、もう。本当に秋は終わってしまったんだね。彼とのひと秋の恋も。




 私は大空を見上げた。




 ずっとずっと、一生かかっても届かない上を。




 頂点の上を見つめて。




 〈終わり〉