泣いても、恨んでも。それでも私は、立っていた。


 ポツリ、ポツリ。
 小さな雨粒が、目の前のアスファルトを濡らす。
 今日は私のリコーダーが、ゴミ箱の中に捨てられていた。
 ゴミと一緒に混ざった何かの死骸。それが吹き口と接触していたから、リコーダーは〝なかった〟ことにした。
 私のリコーダーなんて、最初からどこにもなかった。

 昇降口を出た私は鞄を肩にかけ、傘を開こうと構える。
 ——そのとき、ふと視線の先が気になった。
 隣の校舎へとつながる渡り廊下で、男子がひとり立ち尽くしていたのだ。
 男子は私を見ると、軽く頭を下げてこちらを向く。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「……また、会ったね」
 穏やかな声が、雨音の中で不自然に際立つ。
 背の高い男子は、私を見ながらすこしだけ口角を上げた。あの日、同じように昇降口で声をかけてきた、3年C組の人だった。
 彼は鞄を左肩にかけて、右手で傘を持っている。けれど、開こうとはせず、ただ屋根の下で静かに雨を眺めていた。
「……あなたは?」
「何、そんなに俺のことが気になる?」
「え?」
「……君にとって、名前って本当に重要?」
「……」
 優しく微笑んだ彼に対して、反論ができなかった。
 意味深な言葉に隠された言葉の意味とは——それを考える間もなく、彼は誰に語るでもなく、ゆっくりと言葉をこぼしはじめる。
「……俺、一度、死のうとしたことがある」
「……」
 彼の一言に、心臓が大きく跳ねた。
 誰かわからない人の話。背中を一筋の汗が流れる感覚がする。
「俺、勢いで住んでいるアパートの屋上から飛んだ。けど、植木があってさ。生き残った」
「……」
 雨音が、大きい。
 呼吸が止まる。体も動かない。けれど私は、彼から目を離すことはできなかった。
「死にたかったくせにさ、生き残って入院しているあいだ、俺……なぜかずっと待っていたんだ。クラスメイトでも、先生でも、誰かが来てくれることを。でも、誰も来なかった」
 彼は力なく口角を上げ、ふっと笑う。
 でも目だけは、どこか死んだようだった。
「……なんかさ、バカバカしく思えたよね。結局俺のことなんて、誰も必要としていないんだって。死んだところで、俺のことをいじめたやつらは何も思わない、何も感じない」
「……」
「ならさ、死に損ないじゃん。そんな世界で死ぬなんて、バカらしいだろう。だから俺は、自分のために生きることにした。今は誰からも必要とされなくても、いつかはこの苦しみが〝笑い話〟になる日が来る。そう、信じて。自分だけは、自分自身を手放さないようにって」
 彼は手に持っていた傘を掲げ、ぱちんと、小さな音を立てて開いた。
 その下で彼は、今も優しそうな表情を浮かべている。
「自分を見失わないでって言ったの、こういうこと。俺は君を見ていた。君は見かけるたび、全身びしょ濡れか、いたずらされたものを持っていた」
「……」
「別に、仲間だとは思わないし、同情はしないし、君を助けたいとも思わない。けれど、君がいる場所は俺も通ってきた道なんだ。だから——」
 彼はそこで言葉を切って、ゆっくりと上を向く。
 数秒唇を噛み締めた後、こちらをいっさい見ないまま、言葉を継いだ。
「——どうか君も、自分を見失わないように。それだけは、伝えておきたかった」
 その一言だけを残して、彼は静かに歩み出した。
 傘に弾かれる小さな雨音だけが、耳に残る。
「……」
 私は何も言えなかった。
 何か答えることもできなかった。
 立ち尽くすことしかできなかった。
 ただ胸の奥には、小さな何かが引っかかったまま——というか、まるで棘が刺さったかのような、そのような感覚がした。
 ——自分を、見失わないように。
 彼のその言葉が、心に残る。
 気づけば、目の前の景色が歪んでいた。
 それは雨のせいなのか、自分のせいなのか、そんなことは、もうどうでもよかった。
 校舎内から聞こえてくるざわめきも、生徒たちの声も、まるで遠い世界の出来事のように感じる。
 ——自分を、見失わないように。
 知らない誰かの言葉が、繰り返し脳内に響き渡る。
 鋭くもなく、温かくもなく、冷たいわけでもなく。小さな棘は、存在感を放つ。
 それでも、私はまだ何も変われない気がした。
 自分自身すらも憎くて、大嫌いで、恨めしいことに変わりはない。
 きっと明日も、同じように惨めな自分を引きずるだけ。
 何も変わらない。何も変えられない。
 それでも、生きるしかない。
 それでも——。
「……」
 私は小さく、手のひらを握る。
 震えが止まらない。私の中で湧きあがる感情は、何を表しているのか。
 私は明日もまた同じように、二本の足で大地に立つしかないのだ。周りは変わらない。私では、変えられない。
 だけど、ただひとつ。
 今までと、決定的に違うことがある。
 ——胸の奥に、棘が刺さったこと。
 誰にも知られず、誰にも見えず、それでも、たしかに私の中に存在している。

 知らない誰かに刺された、小さな棘。
 それは小さく、鈍く、胸の奥で静かに疼いていた。



 結局、彼は誰なのか。
 わからないまま、私は学校を後にした。
 骨が数本折れた水色の傘をさし、歩みを進める。
 午前中までは青空が広がっていたのに、その面影はひとつもない。先ほどまで小降りだった雨はさらに強まり、アスファルト上で飛沫を上げていた。
 雨は、嫌いだ。
 元々どんよりとしている気持ちが、さらに沈んでいく感覚がする。
 雨は止む気配がない。
 すこしでも傘をずらせば、大粒の雫が一瞬で体を濡らす。土砂降りだった。



「えっ、うわ、花咲りりあじゃね?」
 何も考えずに、ただ呆然と。
 なんとなく歩き続けていると、前方からそのような声が聞こえてきた。
 私のすこし前を、同じ制服を着た人が歩いているとは思っていた。
 頭上は傘に隠れ、誰かは分からなかったが、反対側から歩いてきた、他校の生徒の声で、その人物が誰かを知ることになる。
 花咲りりあは、足を止める。他校の生徒も足を止める。
 そして私も——ゆっくりと、足を止めた。
「久しぶり、花咲~。逃げるように隣の市の中学校に入学したって聞いてたけど、本当だったんだ」
「てか、てっきり自殺でもしていると思ってたけどね」
 キャハハハと甲高い笑い声を上げる他校の生徒3人組は、花咲りりあを取り囲みながら、切れ間なく言葉を発する。
 3人は、このあたりでは見かけないデザインのセーラー服を着ていた。
「はぁ〜、相変わらずきもすぎる。何、その髪型。まだ自分のこと、『りりちゃん』とか言ってんの?」 
 ひとりの言葉に、ふたりが同調する。
 雨音に負けないくらい、人をバカにするかのような高笑いが響き渡っていた。
 ——これが、集団のいじめか?
 ふいに、頼りないスクールカウンセラーの言葉がよぎるが、それだけ。
 私は目の前で起きている出来事から、視線を逸らさなかった。けれど、なんの感情も湧かなかった。何も思わない。何も感じない。
 ただただ、花咲りりあが黙って言われっぱなしなのが、なんだか新鮮に思えた。
「あ、そうだ。花咲の傘もらってったら? うちら、傘が1本足りないんだし」
「たしかに、それいい!」
「名案じゃん!」
 3人組は傘を2本しか持っていなかった。手の空いているひとりが、花咲りりあの持っていた傘を奪い取り、そのまま笑い声を上げて去って行く。
「花咲、きもすぎ~。こんなところで会うとは思わなかったね!」
「あの頃と違ってすこし小綺麗なのむかつくね。あいつには泥水くらいがお似合いなのに!」
 高笑いが遠ざかっていく。
 空は土砂降りだ。
 傘を失えば、体は一瞬で濡れる。
「……んで、あいつらが、こんなところにいるんだよ……」
 花咲りりあは、つぶやきを小さく漏らす。その場から、一歩も動かなかった。
 彼女の制服は体に張り付き、髪は濡れて雫を垂らす。俯き、アスファルトを眺める。でも、泣いているようには見えない。
 ただ無言で突っ立って、打ち付けられた雫が跳ねるのを見ているようだった。
「……」
 私は彼女のことを、〝見なかった〟ことにした。
 止めていた足をゆっくりと動かし、進行方向——花咲りりあのほうに向かう。
 そして、まるでその存在に気がつかなかったように、無視して横を通り過ぎたとき——。
「……ねぇ。アンタって、ずるいよね」
「……え?」
 ふいに飛んできた言葉に、私はつい足を止めてしまった。けれど、振り返らない。いっさい花咲りりあのほうを見ないまま、私は言葉を投げかける。
「ずるいって、何が?」
「いつも何も言わなくて、黙り込んで、何があっても平気そうな顔をして。何をしても泣かないし、壊れない。みんなの前で屈辱的な姿になっても、何食わぬ顔をして教室にいる」
「……私に、泣いて欲しかったの?」
「泣いて、壊れて、消えて欲しかった。可愛くて男子からもモテるあたしのほうが強いんだって、クラスの中で示したかった」
「……」
 あまりにも稚拙な言葉に、心底呆れた。
 私は今も花咲りりあのほうを見ない。彼女がどんな表情をしているのかもわからない。
 だいたい、『ずるい』の意味もわからなかった。
 ——何をしても泣かないし、壊れない。
 投げられた言葉が、脳内で繰り返し再生される。
 花咲りりあは知らないだろう。そんな段階——私の中ではとうのむかしに、通り過ぎたということ。
「……何度も死にたいって思った。死ねば苦しみから逃れられるって、本気で思っていた。そんな中でも、涙を流して、手を伸ばして、誰かに助けを乞うたこともある。けれど、どれだけ叫んでも届かなかった。誰も私のことなんて、見てくれなかった」
 気持ちが、溢れる。
 今まで溜めてきた、誰にも吐けなかった想いが、濁流のように押し寄せてくる。
「花咲りりあ、あなたには私が〝平気そう〟に見えたんだね。泣かないし、壊れないって思っていたんだね」
「……」
「——心なんて、とうのむかしに壊れている。涙なんて、とうのむかしに枯れ果てている。もうね、あなたも、クラスメイトも、教師も、親も、自分自身でさえも、何もかもが憎くて、恨めしくて、大嫌いなの」
 雨音が、脳内でやけに響く。
 心拍数も上がる。口から心臓が出そうだった。
「……みんな、みんなが敵で、憎い人間。みんな、死んでしまえばいい。だけどそう思っても、死んでほしい人のほうが多すぎて現実味がないから、近いうち私が死んでやろうかなって。それまで、耐えているだけだよ」
 花咲りりあは、何も言わなかった。
 そっと視線を彼女に向ける。びしょ濡れのまま突っ立って、彼女の長い髪の毛からも水が滴っていた。
 そんな日ごろ見ない珍しい様子に、溜め息が漏れる。けれど、やはり感情は湧かなかった。
 花咲りりあは、いじめられていたのか。
 それが原因で、今の学校に入学したのか。
 疑問は湧き出てくるが、それらすべての答えには興味がなかった。どうでもいい。花咲りりあのことなんて、知らなくていいし、知りたくもない。
 私は黙って、また歩み出す。
 彼女の姿など、もう目には入れなかった。



「……はぁ」
 ——あんなこと彼女に言っても、どうしようもないのに。
 帰り道、ふいに後悔が胸を締めつけた。
 私が何を叫んでも、誰も振り向かない。
 感情を他人にぶつけたところで、何も変わらない。そんなこと、痛いほどわかっているのに。
 わかっているくせに、止められなかった。
 止めるだけの強さなど、私は持ち合わせていなかった。
 愚かだった。
 みっともなかった。
 惨めだった。
 誰よりも、弱かった。
 そんな自分が、いちばん憎かった。
 それでも胸の片隅では、小さな棘だけが、無遠慮に疼いていた。
 世界は、最初から私なんていなかったかのように、今日も平然と時を進めつづける。
 けれど、その小さな棘の存在が、ちっぽけな私を、それでも生きていていいと、ほんのすこしだけ認めてくれている気がした。
 ——自分を、見失わないように。
「……」
 打ち付ける雨は、さらに激しくなる。
 それでも、私は歩いた。
 ——雨は、いつまでも、やまなかった。
 

 誰もいない放課後の屋上に、ひとり。
 金網の柵は胸の高さまでしかなくて、その向こうには、何もない空が広がっていた。
 吹き抜ける風が、私の髪とスカートを、無遠慮にかき乱していく。
 何も言わないくせに、何かを訴えているような、そのような風だった。
 ふと、柵の向こうへ視線を向ける。
 ここから飛び降りれば、痛みなんて数秒か。その後のことなんて、もうどうでもいい。
 ——なんて。昨日までは、そう思っていた。

 5時間目の授業をサボった私は、理由もなく、ここへきた。
 昨日から降り続いていた雨はやみ、雲の隙間から青空がのぞいている。
 その青空が、ただ見たかった。
 今日、花咲りりあは私に何もしてこなかった。それがなんだか新鮮に思えて、空を見上げてみたくなったのだ。

「……ここにいた」
「え?」
 誰もいないはずの屋上で、背後から声がした。
 振り返ると、そこには花咲りりあの姿があった。
 力強い眼差しで、私の顔を見つめる。彼女は、すこしずつこちらに近づいてきた。
「……何しにきたの?」
「……弁解じゃないけど、アンタに言い訳をしにきた」
「別に、聞きたくない」
「聞いてほしい」
「興味ない」
「それでも聞いてほしい」
 やりとりは平行線だったけれど、私はやがて黙り込んだ。
 花咲りりあのほうは見ず、再び空を仰ぐ。すると、背後から小さな声が聞こえてきた。
「……小学校のとき、いじめられていた。たくさんのものを、壊されてきた。死ねって言われたし、きもいって言われたし、ばい菌扱いもされた」
「……」
「辛くて、悲しくて、6年生の秋頃から、不登校になった。悔しかった。いじめる側が勝って、いじめられる側が負けたみたいで……」
 花咲りりあは柵へと歩み寄り、力強く握りしめる。
 がしゃがしゃと何度も揺らし、音を立て、風にかき消されそうなほどに小さな声で、次々と言葉を並べた。
「だから、あたしのことを知っている人がいない中学校に進学して、そこで天下をとってやろうと思った。初めから強気でいれば、誰もあたしのことをいじめてこない——本気で、そう思っていた。それで、アンタを目につけた。弱そうだった」
「……」
「……誰よりも、いじめられる側の気持ちを知っているはずなのに。あたし、それを人に再現していた。正直、忘れていたよ。でも、小学校で一緒だったあの人たちの姿を見たとき——あたしは、ひどく恐怖心を覚えた。あたしやっぱり、あの人たちのことが怖かった。いじめは最低だって……思えた」
 小さく溜息が漏れる。
 花咲りりあの言葉には、心底呆れた。
 いじめられていたから、中学校ではいじめるなんて。理由になっていないし、意味不明にもほどがある。
 彼女の言葉に同情はできないし、だからといって許すこともできない。
「……」
 私は何も言わなかった。
 適切な言葉なんて、何も思い浮かばない。
 許せるわけがないのだ。花咲りりあのことなんて興味ないし、知りもしない。そんなの、私はただ勝手に巻き込まれただけではないか。
 そんなしょうもない理由で、自分を守るためだけに、私を踏み台にしてきたこと。
 何があっても許せるわけがない。
 けれど、その事実を知れた。それだけでも十分だと、そう思えた私も甘ったれなのか——。
「……あたしさ」
 花咲りりあは、震える手で金網を握りしめたまま、言葉を継いだ。
 手だけではない。声も、震えているような気がする。
「アンタのことが憎かったわけじゃない。勝ちたかったわけでもない。ただ、ただあたしが、負けたくなかっただけだったのかも……」
 最後のほう、声がかすれていた。
 誰に聞かせるわけでもない、小さな懺悔のような声。
「……」
 私は何度も空を見上げる。
 雲がだんだんと消え去り、青の部分が広がる。空は、吸い込まれそうなくらい、青々としていた。
 再び、柵の向こう側に目線を向ける。
 ここから飛び降りれば、痛みなんて数秒だけかもしれない。ふいに、そんなこと考えた。
 ——でも、
「……私も、変わらなきゃいけないタイミングかもしれない」
 つぶやきと同時に、風が私の頬を撫でていく。
 私は知っている。
 人は簡単に心を変えることができないことを。
 苦しみも、憎しみも、すぐには消えてはくれないことを。
 私が花咲りりあの心を変えることはできない。
 けれど、私は自分自身の心を変えることはできる。
 さんざん私のことをいじめてきた、花咲りりあを許すことはできない。けれどそれ以外にも、何か、彼女を認める他の方法はあるような気がした。
「……もう、どうでもいい。あなたの話を聞いたからといって、許す気はないし」
「……」
 体にこもっていた力をふっと抜いて、小さくつぶやく。
 花咲りりあは、はじめて私の顔をまともに見た。
 私もそちらに顔を向ける。その顔には、泣きそうな、でもどこか安心したような——そのような複雑な表情が浮かんでいた。
「花咲りりあ、あなたのやってきたことは、本当に最低だよ」
「……うん」
「だけど、もういい。もう、私の世界に入ってこないで。そうしてくれたら、もう、ただそれだけでいいから」
「……」
 たったそれだけ。
 いや、たったそれだけでいい——。
 私は金網に手を伸ばし、力強く叩きつける。そして、ゆっくりと踵を返した。
 背中越しに、花咲りりあの嗚咽が聞こえた気がする。
 それでも私は振り返らない。
 私は私らしく、前をみて歩き出した。

 ひとつ、呼吸を整える。
 そして静かに、自分自身を見つめなおした。

 ——アンタ、あなた、君、彼女。すべて、私をさす二人称。
 いろんな声で、それらの言葉が脳内でリピートされる。
 私はそれでいいと思っていた。
 それが私だと、思っていた。
 でも違う、違うんだ。
 私はここにいる。
 泣いても、恨んでも、自分の二本の足で、力強く大地を踏みしめ、折れないように、負けないように、今日も必死に立っている。
 きちんと〝名前〟を持った私がいる。

 〝死ぬ〟のは簡単なのに。
 〝生きる〟ってことは、こんなにも難しくて、苦しくて、下手で、不器用で、こんなにも——しぶとい。
 ——自分を、見失わないように。
 あの日刺された棘は、今も私の中で存在感を放つ。
 あの棘のおかげで、私は、今までよりも力強く、この大地に立てるようになった。
 花咲りりあに、きちんと自身の思いを伝えることができた。
 そう思うと、蘇ってくる、失いかけていた自分の名前。それらをもう一度、私は口にしてみたくなった。
 周りも自分自身も、みんなが忘れていた、〝私の〟名前。私がこの世で生きている、唯一の、存在証明。
「……私は、アンタでも、あなたでも、君でもないんだ」
「私は……私の名前は——」
眞鍋(まなべ)佐那(さな)だああああっ!!」
 大きく息を吐き出し、そして吸い込む。
 雲の隙間からさす太陽に向かって、体の奥からしぼり出すように叫んだ。
 風が、私の頬を撫でていく。
 私のまわりの空気が震える。
 その震えはほかの誰でもない、私の心の奥に、しっかりと届いた。
 ——私の名前が、私自身に届いた。
 恨めしい自分自身を、まずは許すこと。
 自分のことだけを信じて、自分を見失わないようにすること。
 それらは、これからも〝私が〟生きていくための、大切な〝きっかけ〟だった。

 風が、遠くへ吹き抜けていく。
 何度も何度も、私の頬を撫でていく。

 眞鍋佐那。15歳。
 恨めしい自分自身は、もういない。
 吹き抜ける風の中で、私はまっすぐ背筋を伸ばし、今日も力強く、二本の足で大地に立っていた。
 ——たったひとりで、それでも、確実に。


「——中学校なんて、人生のうちのたった一瞬で、卒業したらまた違う世界に行くことになる。学校は卒業すれば終わりだし、家からは頑張って独り立ちすればいい。味方がいなくても、自分が自分のことを信じていれば、人生って意外とどうにでもなると思う。俺は、そう思っている」
 ある日の昼休み、3年C組の彼に呼び出された私は、中庭にやってきた。
 私は菓子パンをかじり、彼はおにぎりをかじる。
 遠くで生徒たちの笑い声がかすかに響く。でも、ここには誰もいない。周りはとても静かだった。
「クラスメイトだってさ、あてになんないよ。教師もそう。先輩後輩、みーんな、そう。あいつら全員、〝偽善者〟だ」
「……」
「俺、3年A組の学級目標が、胸糞悪くて仕方がないんだよね」
「『One for All! All for One!』?」
「……うん。苦しんでいる人を見て見ぬふりするくせに、何が『みんなはひとりのために』だよ。ああいうのを平然と掲げて悦に入っている感じ、原谷センコーっぽいけど。俺、あの笑顔も無理」
 彼の言葉は毒を含んでいたけれど、不思議と嫌な気はしなかった。
 むしろ、どこまでも本気に思えて、しっかりと耳に残る。
 クラスメイトについても、担任の原谷についても、誰も私を見ないことに胸が痛むこともあった。けれど、それを〝偽善者〟であるというのならば、腑に落ちるものがあった。
「……俺、2年の修学旅行で、行きたくないって駄々をこねた。いろんな理由を考えて伝えたけれど、資金を積み立てしてあるから行きなさいって、無理やり連れて行かれた」
「……」
「いじめられていた俺が、班行動なんてできるはずがないのに。『先生がそばにいるから。何かあれば、先生のところに逃げてもいいから』って。当時の担任はそう言った」
「……うん」
「でも、実際に先生はそばにいてくれなかった。嫌がらせで、班メンバーのひとりから、側溝に落とされた。泥まみれになった俺を見て、担任は、笑っていた。屈辱的だった」
 彼は拳を握りしめ、震わせる。
「だから、教師も大嫌い」
 ポロポロとこぼした言葉には、たくさんの棘がまとわれていた。
 私は、彼に対して何も言えない。
 けれど彼の心情は、痛いくらいに察することができた。
「……私も、原谷が大嫌い」
「うん」
「あの人、自分が想像した世界の中で、私のことを見ている。私と花咲りりあの仲がいいって言ったんだ。3年間も私の担任をしていたくせに、そんなこと言うんだと思って。あの人のことが、本気で怖いと思った」
 それは、私が初めて他人にこぼした本音。
 彼は私の顔を覗き込みながら、うんうんと小さく頷いていた。

「……ところで、君は〝君〟を取り戻せた?」
「え?」
「自分を、見失わないように。その意味、わかった?」
 彼はポケットから生徒手帳を取り出し、私に見せてくれる。
 顔写真の横に、所属と名前が大きく書かれていた。
「俺、3年C組の笹戸(ささど)啓太(けいた)。もう一度聞くけど、君は〝君〟を取り戻せた?」
「……」
 何を問われているのか、しばらく悩んだ。
 でも、答えはすぐに見つかった。
 というか、深く考えなくても、本当はもう、きちんとわかっていた。
 私は口角を上げ、彼をまっすぐ見つめる。
 そして、小さく頷いた。
「……私は、眞鍋佐那。アンタでも、あなたでも、君でもない。私は、私だよ」
 言葉にした途端、胸の奥に、柔らかな光が灯ったような気がした。
 それがなんだか温かくて、思わず笑ってしまう。
 私の笑いに、笹戸くんもつられるように、すこし照れた顔で笑ってくれた。
「……よかった。また、どこかで話そう。君となら、きちんと向き合って話せそうな気がするから——」
 そのとき、風が吹いた。
 草木の匂いをふくんだ、優しい風。
 私の髪を揺らし、制服の裾をくすぐるようにして通り過ぎていく。
「……私に、同情しないんじゃなかったの?」
「ん?」
「同情も、助けもしないって言っていたのに、どうして、私とお話をしてくれているの?」
 率直な疑問を、簡単に口に出すことができた。
 彼は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、また軽く微笑み、腕を組む。
「——眞鍋さんは、強いから」
「え?」
「……別に俺は、今も同情はしていないし、君を助けようとも思っていないよ。でも、同じ世界で闘う者同士、話し相手にはなれるじゃん?」
「……」
「俺の〝たった一言〟で、あのとき、眞鍋さんの目が変わった。そして、君は君を取り戻した。理由は、それだけで……十分」
 私は黙ったまま、空を見上げる。
 笹戸くんの言うことは、すこし難しいと思った。
 同級生だと思えないくらい大人びているのは、これまでの経験がそうさせているのか、それとも彼自身なのか——それは、わからない。
 けれど、彼の言葉は、強く心に響いた。

 彼は、私を見て微笑んでいた。
 だから私も、それに応えるように、軽く微笑んでみる。

 これからも、きっとたくさん傷つくだろう。
 思いがけない痛みに出会って、また負けそうになるかもしれない。
 憎しみも、後悔も、きっとまだ私の中から消えてはくれない。
 それでも私はもう、あのときのように、自分を見失ったりはしないと心に決めた。

 私は、眞鍋佐那。
 しぶとくて、不器用で、傷だらけでも。
 それでも私は、自分の足で、生きていく。

「……笹戸くん、ありがとう。またお話しよう」
 私は彼の目をしっかりと見て、静かに、でも力強く言った。
 再び訪れた風が、私たちの間を優しく通り抜けていく。

 ——泣いても、恨んでも、それでも私は、立っていた。

 私はこの世界で、たしかに、生きていた。








泣いても、恨んでも。それでも私は、立っていた。  終



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