胃壁切開・縫合手術の実習当日になった。
僕は前日、ほとんど寝れなかった。それは、手術にかかるプレッシャー……自分の握るメスにかかる、命の重み。それを無意識的にも感じていたのかも知れなかった。
留置針から鎮静剤を投与するために今回の助手の沙知に保定されたサンタは、今までで一番大人しかった。ただ、小刻みにガクガク震えており、その目は涙で滲んでいるように見えた。
それは、自らの運命を受け入れたのか、それとも……怖がって逃げるという行為そのものが無駄なことだと悟ったのか。僕達には、分からなかった。
ただきっと、自らに堪え切れないほどの痛み、苦しみ……苦痛の全てを与えているのは、僕達だということを知っている。僕には、そのように見えた。
そんなことを考えれば考えるほどツラくなって……僕はなるべく、頭を空っぽにして、サンタが吸入麻酔されて手術台に寝かされるまでを見守っていた。
「胃壁切開・縫合術。術式、始めます」
僕はメスを持った。
良かった……右手は震えていなかった。
だが、腹にメスを入れた途端。僕の中に只ならぬ緊張が走った。それを払拭するため、僕はただ、無言で手を動かした。
「ちょっと! 胃はそこにはないわよ」
「あ……ごめん」
手術開始後、程なくして、助手の沙知からのダメ出しが入り始めた。
沙知はクラスのリーダー格。獣医学科の女子は大概は気が強いのだが、その中でも最強の部類に入ると思われた。
僕が術者、沙知が助手の手術……これは実は、三介や渚にも心配されていた。僕と沙知はまるで水と油。今までほとんど話したこともなかった。
「ちょっと、これ……ヤバくない?」
僕達の様子を見ていた奈留は、グループ員とヒソヒソと話していた。手術は進行してゆくも、意思疎通が上手くいかず……その場の雰囲気にも暗雲が立ち込め始めた。
そんな空気の中、どうにか、僕は胃を探り当てた。
「切開します」
だが、メスで切開しようとするも、胃壁は厚くて中々切れない。切るには、グイグイ押しこまなくてはならなかった。
「ちょっと、そんなに押しこまないでよ。怖いじゃん」
助手の沙知が横から口を挟んだ。
「怖いって、押しこまないと切れない……あっ!」
押し込みすぎたのか、手元が狂ったのか、メスを食い込ませた胃壁からは血が溢れ出した。
「ガーゼ! 止血!」
僕でなく助手の沙知が器械係に指示を出して、胃壁の傷口を止血した。
「全く、獣医の男ってこれだから……」
ガーゼで押さえる彼女に嫌味を言われた。
彼女は確かに優秀だ。成績優秀で器用で、だからこそプライドも高い……だけれども、人との協調性があるかと問われると微妙で。僕が不甲斐ないことを差し引いても、手術の現場ではかなりやりにくい助手だった。
「よし……」
厚い胃壁にどうにか切り込みを入れて縫合を始めた。
胃壁の縫合はまず、全層の単純縫合をしてレンベルト縫合。全層で縫うには、厚い胃壁に針を貫通させなければいけない。僕は力を込めて針を貫通させようとした。
その時だった。
「そんなに針を刺さないで」
助手の沙知が声を上げた。
「また、血が吹き出したらどうするの?」
僕は耳を疑った。思わず、口から出た。
「いや……胃壁の一針目は全層縫合だったはずだけど?」
全層縫合とは、胃壁の厚み全体に針を通す縫い方。膀胱の縫い方とは正反対だった。
胃壁の縫合は一層目が単純縫合、二層目がレンベルト縫合という縫い方。それに対して膀胱は、一層目がレンベルト縫合、二層目が単純縫合という縫い方だった。そして、助手の沙知は胃壁の縫合も膀胱と同じ……一層目がレンベルト縫合だと思い込んでいたのだった。
しかし、時は、開腹して手術をしている最中。そんなことで言い争いをしている場合でもなく……僕は全層の、単純連続縫合を開始した。
「ちょ、ちょっと、何やってんの? 一層目はレンベルトだって」
助手の沙知はレンベルトを指示し……その場のグループ員はざわついた。
縫合法なんて、グループ員の誰もが自分が術者か助手を務める手術以外はうろ覚えだった。正解はあやふや、しかし、術者である僕と助手である沙知が対立していた。
「沙知の言うように、一層目がレンベルトなんじゃねぇの? だって……沙知と山根だし」
健斗の放ったその一言で、空気は一変した。何故なら……クラスのリーダー格の一人である沙知と、無口でほとんど発言しない僕。皆がどちらを信用するかは明らかだった。
「……そうよ。沙知の言う通り、一針目はレンベルトよ、きっと」
奈留も沙知の側についた。つまり……その手術の場の誰もが沙知の意見が正しいと思ったのだ。
咄嗟に、僕は頭の中で、『この場で自分の縫合法を押し通すこと』と、『前回講義のプリントを持って来て貰って、皆に納得のいく説明をすること』を天秤にかけた。
しかし僕は、その日までの自分に……自分の練習してきた縫合法に、絶対的な自信を持っていた。だから、僕は周囲の反対に耳を傾けずに単純縫合を押し通した。
「いや、それ、単純縫合でしょ。あなた、レンベルトを知らないの?」
沙知は声を荒げた。
しかし……
「胃壁の縫合は、単純縫合の後、レンベルトだ!」
僕は彼女の声を掻き消すほどの声で叫んで……その場の皆は目を丸くした。
僕が皆の前でこれほどまでの主張をするのは初めてだったし、皆も初めて見る僕の姿だったのだろう。
単純縫合の後、レンベルト縫合を始めて……その手は、ブルブル震えた。
「あいつ……何、やってるん?」
「まぁ、どんな縫い方でも縫えればいいんだし」
周囲からの色々な声が聞こえた。それでも、僕は自分の練習した縫合法を進めた。自分が戦うのは、自ら……この、震える手。何度も深呼吸して、可能な限り無心になって縫合を進めた。
僕の内には、自分が今、縫合しているそいつ……サンタの元気な姿があった。はち切れんばかりに尻尾を振る、無邪気な……そして、こんなにも酷い仕打ちをしている僕達を許してくれているサンタ。だからこそ、僕はこいつを救いたい。たとえその後……こいつが救われぬ運命だったとしても。
「レンベルト縫合……終わりました」
その場に異様な沈黙が流れた。
「胃を戻します」
「ちょっと、待って!」
奈留が僕の手を止めた。
「先生に……これでいいか、聞いてからね」
奈留は僕を信用していない……だけれども、僕の縫合は正しいはずだ。
僕は一秒でも速く胃を戻して閉腹してやって、苦痛をできるだけ少なくしてやりたい……そんな想いを抑えて、先生を待った。
「綺麗に縫えてるね。戻してやって」
先生が僕の縫合を見て言った、その一言で……僕の全身の緊張が解けた。それと同時に、僕の手の震えもおさまった。
沙知は間違っていた。胃壁の縫合方法は膀胱と反対……その事実の確認ミスだったのだろう。けれども……意見は間違えてはいたけれど、無事に胃壁の縫合が終わって、一時的にもサンタを救えることにホッとした様子で。沙知の顔も綻んだ。
その瞬間……僕は、それまで苦手だった沙知と、一つの喜びを共有したのだった。
胃を腹腔に戻して、腹膜の縫合に入った。それまでの殺伐とした雰囲気が嘘のようで……僕と沙知との間には和やかな空気が流れた。僕は彼女のアドバイスを受けながら、腹膜の単純縫合を進めた。
しかし……
「あぁもう、見ているこっちが疲れたわ」
健斗がまるで当てつけのように放った一言に、僕の手が止まった。
こいつ……この馬鹿、何を言った?
まるで、体の血が沸騰するような感覚を覚えた……その時だった。
「黙りなさい!」
沙知の声が響いて、健斗の顔は強張った。
「今、一番、疲れているのは術者の山根くん……あんたは、関係ないでしょ。要らないヤジを飛ばすなら、この場から、立ち去りなさい!」
手術室の皆がこちらを見るほどの、沙知の恫喝……それを浴びた健斗は、それ以降は何も言わなかった。
そして、その恫喝は僕の頭を冷静にして。流れるように、腹膜の縫合を進めた。
腹膜の次は皮下組織の水平マットレス縫合……それは得意という沙知に任せた。沙知の縫い方は流石……クラスのリーダー格の才女だけあって美しくて。僕は「いずれ……もし、僕が臨床に入ることになったら。こんな風に縫えるようになりたい」と思った。
最後は皮膚の縫合。始めようとする直前のことだった。
「あっ……」
沙知は誤って、手術外部の布を触ってしまった。
「ごめん……私、術式から外れるわ。伸一くん、あとは任せた」
そう言う彼女はマスクの下で、バツが悪そうに微笑んだ。
普段の彼女からは想像もつかないミス……彼女も相当なプレッシャーに疲れ果てていたのだろう。
「うん、任せといて」
僕はにっこりと頷いた。
僕は落ち着いて皮膚の単純縫合を完了して……胃壁切開・縫合術の術式が終了した。
僕が術者を担当したこの手術は、外科実習の中で一番荒れて、戦場となった手術となって……でもだからこそ、皆がなろうとしている『獣医』について、改めて考え直すきっかけになったのだった。
僕は前日、ほとんど寝れなかった。それは、手術にかかるプレッシャー……自分の握るメスにかかる、命の重み。それを無意識的にも感じていたのかも知れなかった。
留置針から鎮静剤を投与するために今回の助手の沙知に保定されたサンタは、今までで一番大人しかった。ただ、小刻みにガクガク震えており、その目は涙で滲んでいるように見えた。
それは、自らの運命を受け入れたのか、それとも……怖がって逃げるという行為そのものが無駄なことだと悟ったのか。僕達には、分からなかった。
ただきっと、自らに堪え切れないほどの痛み、苦しみ……苦痛の全てを与えているのは、僕達だということを知っている。僕には、そのように見えた。
そんなことを考えれば考えるほどツラくなって……僕はなるべく、頭を空っぽにして、サンタが吸入麻酔されて手術台に寝かされるまでを見守っていた。
「胃壁切開・縫合術。術式、始めます」
僕はメスを持った。
良かった……右手は震えていなかった。
だが、腹にメスを入れた途端。僕の中に只ならぬ緊張が走った。それを払拭するため、僕はただ、無言で手を動かした。
「ちょっと! 胃はそこにはないわよ」
「あ……ごめん」
手術開始後、程なくして、助手の沙知からのダメ出しが入り始めた。
沙知はクラスのリーダー格。獣医学科の女子は大概は気が強いのだが、その中でも最強の部類に入ると思われた。
僕が術者、沙知が助手の手術……これは実は、三介や渚にも心配されていた。僕と沙知はまるで水と油。今までほとんど話したこともなかった。
「ちょっと、これ……ヤバくない?」
僕達の様子を見ていた奈留は、グループ員とヒソヒソと話していた。手術は進行してゆくも、意思疎通が上手くいかず……その場の雰囲気にも暗雲が立ち込め始めた。
そんな空気の中、どうにか、僕は胃を探り当てた。
「切開します」
だが、メスで切開しようとするも、胃壁は厚くて中々切れない。切るには、グイグイ押しこまなくてはならなかった。
「ちょっと、そんなに押しこまないでよ。怖いじゃん」
助手の沙知が横から口を挟んだ。
「怖いって、押しこまないと切れない……あっ!」
押し込みすぎたのか、手元が狂ったのか、メスを食い込ませた胃壁からは血が溢れ出した。
「ガーゼ! 止血!」
僕でなく助手の沙知が器械係に指示を出して、胃壁の傷口を止血した。
「全く、獣医の男ってこれだから……」
ガーゼで押さえる彼女に嫌味を言われた。
彼女は確かに優秀だ。成績優秀で器用で、だからこそプライドも高い……だけれども、人との協調性があるかと問われると微妙で。僕が不甲斐ないことを差し引いても、手術の現場ではかなりやりにくい助手だった。
「よし……」
厚い胃壁にどうにか切り込みを入れて縫合を始めた。
胃壁の縫合はまず、全層の単純縫合をしてレンベルト縫合。全層で縫うには、厚い胃壁に針を貫通させなければいけない。僕は力を込めて針を貫通させようとした。
その時だった。
「そんなに針を刺さないで」
助手の沙知が声を上げた。
「また、血が吹き出したらどうするの?」
僕は耳を疑った。思わず、口から出た。
「いや……胃壁の一針目は全層縫合だったはずだけど?」
全層縫合とは、胃壁の厚み全体に針を通す縫い方。膀胱の縫い方とは正反対だった。
胃壁の縫合は一層目が単純縫合、二層目がレンベルト縫合という縫い方。それに対して膀胱は、一層目がレンベルト縫合、二層目が単純縫合という縫い方だった。そして、助手の沙知は胃壁の縫合も膀胱と同じ……一層目がレンベルト縫合だと思い込んでいたのだった。
しかし、時は、開腹して手術をしている最中。そんなことで言い争いをしている場合でもなく……僕は全層の、単純連続縫合を開始した。
「ちょ、ちょっと、何やってんの? 一層目はレンベルトだって」
助手の沙知はレンベルトを指示し……その場のグループ員はざわついた。
縫合法なんて、グループ員の誰もが自分が術者か助手を務める手術以外はうろ覚えだった。正解はあやふや、しかし、術者である僕と助手である沙知が対立していた。
「沙知の言うように、一層目がレンベルトなんじゃねぇの? だって……沙知と山根だし」
健斗の放ったその一言で、空気は一変した。何故なら……クラスのリーダー格の一人である沙知と、無口でほとんど発言しない僕。皆がどちらを信用するかは明らかだった。
「……そうよ。沙知の言う通り、一針目はレンベルトよ、きっと」
奈留も沙知の側についた。つまり……その手術の場の誰もが沙知の意見が正しいと思ったのだ。
咄嗟に、僕は頭の中で、『この場で自分の縫合法を押し通すこと』と、『前回講義のプリントを持って来て貰って、皆に納得のいく説明をすること』を天秤にかけた。
しかし僕は、その日までの自分に……自分の練習してきた縫合法に、絶対的な自信を持っていた。だから、僕は周囲の反対に耳を傾けずに単純縫合を押し通した。
「いや、それ、単純縫合でしょ。あなた、レンベルトを知らないの?」
沙知は声を荒げた。
しかし……
「胃壁の縫合は、単純縫合の後、レンベルトだ!」
僕は彼女の声を掻き消すほどの声で叫んで……その場の皆は目を丸くした。
僕が皆の前でこれほどまでの主張をするのは初めてだったし、皆も初めて見る僕の姿だったのだろう。
単純縫合の後、レンベルト縫合を始めて……その手は、ブルブル震えた。
「あいつ……何、やってるん?」
「まぁ、どんな縫い方でも縫えればいいんだし」
周囲からの色々な声が聞こえた。それでも、僕は自分の練習した縫合法を進めた。自分が戦うのは、自ら……この、震える手。何度も深呼吸して、可能な限り無心になって縫合を進めた。
僕の内には、自分が今、縫合しているそいつ……サンタの元気な姿があった。はち切れんばかりに尻尾を振る、無邪気な……そして、こんなにも酷い仕打ちをしている僕達を許してくれているサンタ。だからこそ、僕はこいつを救いたい。たとえその後……こいつが救われぬ運命だったとしても。
「レンベルト縫合……終わりました」
その場に異様な沈黙が流れた。
「胃を戻します」
「ちょっと、待って!」
奈留が僕の手を止めた。
「先生に……これでいいか、聞いてからね」
奈留は僕を信用していない……だけれども、僕の縫合は正しいはずだ。
僕は一秒でも速く胃を戻して閉腹してやって、苦痛をできるだけ少なくしてやりたい……そんな想いを抑えて、先生を待った。
「綺麗に縫えてるね。戻してやって」
先生が僕の縫合を見て言った、その一言で……僕の全身の緊張が解けた。それと同時に、僕の手の震えもおさまった。
沙知は間違っていた。胃壁の縫合方法は膀胱と反対……その事実の確認ミスだったのだろう。けれども……意見は間違えてはいたけれど、無事に胃壁の縫合が終わって、一時的にもサンタを救えることにホッとした様子で。沙知の顔も綻んだ。
その瞬間……僕は、それまで苦手だった沙知と、一つの喜びを共有したのだった。
胃を腹腔に戻して、腹膜の縫合に入った。それまでの殺伐とした雰囲気が嘘のようで……僕と沙知との間には和やかな空気が流れた。僕は彼女のアドバイスを受けながら、腹膜の単純縫合を進めた。
しかし……
「あぁもう、見ているこっちが疲れたわ」
健斗がまるで当てつけのように放った一言に、僕の手が止まった。
こいつ……この馬鹿、何を言った?
まるで、体の血が沸騰するような感覚を覚えた……その時だった。
「黙りなさい!」
沙知の声が響いて、健斗の顔は強張った。
「今、一番、疲れているのは術者の山根くん……あんたは、関係ないでしょ。要らないヤジを飛ばすなら、この場から、立ち去りなさい!」
手術室の皆がこちらを見るほどの、沙知の恫喝……それを浴びた健斗は、それ以降は何も言わなかった。
そして、その恫喝は僕の頭を冷静にして。流れるように、腹膜の縫合を進めた。
腹膜の次は皮下組織の水平マットレス縫合……それは得意という沙知に任せた。沙知の縫い方は流石……クラスのリーダー格の才女だけあって美しくて。僕は「いずれ……もし、僕が臨床に入ることになったら。こんな風に縫えるようになりたい」と思った。
最後は皮膚の縫合。始めようとする直前のことだった。
「あっ……」
沙知は誤って、手術外部の布を触ってしまった。
「ごめん……私、術式から外れるわ。伸一くん、あとは任せた」
そう言う彼女はマスクの下で、バツが悪そうに微笑んだ。
普段の彼女からは想像もつかないミス……彼女も相当なプレッシャーに疲れ果てていたのだろう。
「うん、任せといて」
僕はにっこりと頷いた。
僕は落ち着いて皮膚の単純縫合を完了して……胃壁切開・縫合術の術式が終了した。
僕が術者を担当したこの手術は、外科実習の中で一番荒れて、戦場となった手術となって……でもだからこそ、皆がなろうとしている『獣医』について、改めて考え直すきっかけになったのだった。


