その週の外科学実習の講義では、僕のグループのビーグルが『サンタ』という愛称であることを確認することとなった。

「サンタ、もうすっかり元気になったよな」
「えぇ。今朝も、ごはんをモリモリ食べていたわ」
 グループ員の間ではそんな会話が交わされていて。そんな愛称をつけてしまっては、その後の手術の実習がよりツラくなる……みんな、そんな現実からは意識的に目を逸らしているかのようだった。

 その日の講義は、次の週の膀胱切開・縫合術の説明講義だった。
 前回の腸管の時と同じように開腹して膀胱の一部を切開し、レンベルト縫合の後に単純縫合を行なって閉腹する。
 縫合方法についてはプリントで配られて説明がなされた。自信のない場合には後で質問しに来るように、とのことで、やけにあっさりと説明が終了した。

 膀胱の手術では、健斗が術者、奈留が助手をつとめ、僕は麻酔係を担うこととなった。この役割については、手術の度に交替するものであった。
 全体の流れとしては前週に見た通りに行えばよいので手術をする僕達の作業はおおよそはイメージできるが……またもや体を切り刻まれ、予想もつかない苦痛を与えられるサンタにとっての精神的、肉体的負担は計り知れない……僕のグループの皆もそう思ったのだろう。説明講義の後、グループ員皆の足は自然に犬舎へ向かった。

 犬舎のサンタは僕達の姿を認めると、いつものようにはち切れんばかりに尻尾を振った。
「何だかな……こいつ、本当に分かってんのかな」
 つい、僕の口からそんな言葉が漏れた。
「分かってたら、こんな態度にはならないでしょ。馬鹿なのよ、こいつ」
 瞳を潤ませてそう言った奈留は、まるでサンタが馬鹿で自分のされたことを分かっていないで欲しい……そう、願っているかのようだった。
「サンタの服も汚れてきてるし。着替えさせてやらなきゃ」
 沙知と健斗が着替えさせてやると、サンタはさらに嬉しそうに手の平をペロペロと舐めていた。来週もまた、このサンタを切り刻むなんて……膀胱の切開をするなんて。想像したくもなかった。


「俺、次、術者だよ。キッツいなぁ。手、震えそう」
 研究室で三介が漏らした。
「手、震えたりしないように縫合だけでも練習しなよ。私が付き合うから」
 そんな三介に渚が言った。前回の手術……腸管の切開術の翌日に休んで暫くは元気がなかったが、どうにか復活したようだ。普段は三介を尻に敷いているが、流石、彼女だけあってこういう時には面倒見が良かった。
「練習してもさ。手術室のあの異様な雰囲気の中ではやっぱり手が震えそうだよ」
 三介はなおも弱音を吐いた。
「でもきっと、練習しないよりはずっとマシなはずよ」
 渚は使い古しのタオルと縫い針、ハサミを出した。手術の縫合もこういった材料で練習できるのだ。

 アパートではいつものように、遥がビール片手に三角座りで壁にもたれていた。
「ははっ、三介くんと渚ちゃんらしいわ」
 その日の話を聞いて、彼女もふふんと笑った。三介と渚はあれでかなりの名物カップルで、その関係は上級生の間でも有名なのだ。
「でも……精神的な面もだけど、技術的にも練習しとかないとまずいよな。僕も術者になったら、手が震えそう」
「あら、そんなの、誰でもそうよ。私でも、何回も練習したのにいざ術者になってみると手が震えたわ」
「え、遥でも……やっぱり、そうなんだ」
 遥はそういうプレッシャーにはかなり強い方だと思ってた。
「えぇ、そうね。状況が状況だけに……やっぱりね」
 彼女はそう言って苦笑いした。
 そう……自分の握るメス、針、糸。その先に、一つの命がかかっている。たとえ、その命が近いうちに自分達の手で奪うものだとしても……その実習の時間だけでも、命を救えるかどうかが自らの手にかかっている。初めての局面であれば、より一層、そのプレッシャーは尋常ではないだろう。

「でも……大丈夫よ。あんたには、私が教えてやるわ」
「え、遥が? 遥の研究室って、微生物じゃなかったっけ? 臨床とは全く無関係の」
「これ、私を誰だと思ってる? 二年前の実習くらい、全部記憶してるって」
 そう……この彼女は、記憶力は異常に良い。二年前の実習のことも講義のことなんかも、ほとんど覚えていて驚かされる。もしかしたら、案外、強力な助っ人なのかも……得意げな彼女を見て、そう思った。

 二回目の手術の実習が始まった。
 いつものように元気な様子で来たサンタだったが……麻酔の処置をしようとした途端に尻尾を丸めて逃げようとした。
「やっぱり……覚えているんだな」
 重苦しい想いを抱えながらも、麻酔係の僕は奈留の保定するサンタの留置針を通して鎮静剤を入れて。先々週と同じく、吸入麻酔を入れて手術台の上に寝かせた。

 術者は健斗。お調子者の学年委員で、良くも悪くもクラスのムードメーカーだった。彼はいつもはお調子者だけれど、この場面ではしっかりした一面を見せるはず……そう思っていた。

 だが……
「縫い方って、どうだっけ?」
 膀胱まで探り当て、切開して縫合する段階になって、そんなことを言った。
「は? あんた、何を言ってるの?」
 助手の奈留が眉間に歪な皺を刻んだ。
「一層目がレンベルト縫合、二層目が単純縫合よ。さ、早く!」
「レンベルトって……どうやるっけ?」
「は? あんた、練習してないの?」
「プリントで見て、できると思って来たんだもん」
 その場の空気が凍りついた……それは、麻酔係ではあるが傍観者を保っている僕にも分かった。

「もういい。私が縫う!」
 奈留が膀胱の縫合を始め……以降の手術は術者である健斗を完全に置き去りにして進行された。

「まぁ、何はともあれ、無事に終わったじゃん。良かった、良かった」
 サンタから吸入麻酔を外した途端、健斗はそんな呑気なことを言った。しかし、誰も何も答えなかった。
「俺、ちょっと、休憩行って来るわ」
 そんな場の空気を知ってか知らずか、健斗は煙草を吸いに外へ出た。

「何、あいつ……最低じゃん」
「ねぇ。いつも、偉そうにして」
 健斗が出た後、奈留と沙知が健斗の陰口を叩き始めた。
「獣医の学年委員だから、どんなに凄いんだって思えば、あれだもんね」
「あぁもう、ホント、失望する」
 陰口はどんどんヒートアップしていった。

 僕は、健斗へのそんな陰口は微塵も気に留めずに、ひたすらサンタをさすっていた。
 別に、健斗を責めるつもりはなかった。縫合の練習なんて、宿題として課せられてもいない任意のことだし、それをせずに手術の実習に臨んだからといって、特に最低だと罵られたり責められたりしなければならないとも思わない。

 でも、僕が術者としてこのサンタと向き合う時には……練習をしっかりと行って、万全の備えをして手術をしたいと思った。それが、実習犬として命を捧げてくれるこいつへの、せめてもの礼儀で、獣医になろうとする者の使命だ。そう思った。