外科学実習の翌日。
「何だかなぁ。世話をするのも、ツラいよなぁ」
 研究室で三介がボヤいた。
「まぁ、この研究室でネズミから脳を取り出している僕達が言うのもあれだけど」
 ボヤきにそんな呟きを返して……そんな発言の異様さに、自分で苦笑いした。
 僕達の研究は、そうだった。ネズミから脳を取り出して、細断してプレパラートにのせて染色したり、すり潰して電気泳動したり。そんな、特殊なものだった。
「ネズミから脳を取り出す、か。普通に生きている限りは、そんなことをすることはないよな。でも、俺らはもう、そんなことをするくらいでは何も感じなくなったよな」
 そう……大学に入学して以降、何度もマウスやラットといったネズミを使って実習をしていた。そしてその度に、僕達が獣医師としての知識技術を習得するために命を奪ってきた。いくつもの動物の死を乗り越えての今だったのだ。
「それで、渚はどうしたん?」
 三介の彼女がその日は朝から講義にも出席していなかったことに気がついた。
「あぁ……体調が悪いから休むってさ。全く、大丈夫かね」
 三介はまるで他人事のように呟いた。
 この二人は、入学当初からこんな感じだ。三介は本当は渚にゾッコンなのだが、他人から聞かれるとこのような受け答えをする。けれどもきっと、ダメージを受けている彼女のことが自分のこと以上に心配なはずなのだ。
 その時、細断した脳をプレパラートにのせる作業をしていた研究室で、僕の携帯電話のメール受信音が鳴った。
 奈留から、外科学実習のグループ員に向けてのメールだった。
「ピーグル犬の服、五着ほど用意しました! 犬舎の部屋のロッカーに入れたので、交替で着せてあげて下さい!」
 そのメールを見て、思わず溜息が出た。
「どうしたんだ?」
「いや、実習犬の服を用意したんだってさ。そんなことをして、情が移ってしまったら……実習もやりにくくなるのに」
「ありゃあ、確かにそれは、キツいよな。お前、当番いつだっけ?」
「明日だよ」
 僕はまた、深々と溜息をついた。
 実習グループは交替でエサと水の交換をして、抗生剤を飲ませて、時には構内の散歩へも連れてゆく。それに、服の着せ替えも加わるとなると、まるで、ペットのような感覚になる。
 そうなってくると、手術の実習で寝かせてメスを入れて……苦痛を与えることがよりツラくなる。無感情のはずの僕にでも、そのくらいのことは目に浮かぶほどに明らかなのだ。

 翌日。犬舎のドアの前に立つと、小さなサンタさんの服……犬用の赤いそれを着せられたそいつが、尻尾をはち切れんばかりに振って出迎えてくれて。僕は思わず、苦笑いした。
「いや……まだ、サンタの季節じゃないだろ」
 誰にツッコむでもないツッコミを入れる僕に、そいつ……季節外れの小さいサンタは、より激しく尻尾を振り出した。

「お前は人を疑うということを知らないのか?」
 力なく犬舎の檻に触れると、そいつは僕の手を勢いよくペロペロと舐め始めて。散歩をせがんでいるのかな……と、そんな気がした。
「分かった、分かった。連れて行ってやるよ」
 サンタの服を着たそいつに首輪とリードをつけると、キラキラと期待に満ちた眼差しで見られて気後れした。
「お前、分かってるのか? 僕は……」
 そこまで言うも、エリザベスカラーをつけた小さいサンタは尻尾を振りながらリードを引っ張って……安静を要する手術後とは思えないほどに元気だった。

 もっとも、実習犬はどの犬もこんなに元気というわけではなかった。というか、ほとんどの犬は犬舎の隅っこでうずくまっていたり、小刻みに震えていたり……心に重い傷を負っているように見えた。
 それが普通なのだが……このサンタは腹に痛々しい傷跡を残しながらも、天真爛漫に構内を歩いて、たまに、笑いながら僕を見上げてくるのだ。

「お前、絶対に分かってないだろ。自分の運命……」
 農学部構内の大木の下のベンチに腰掛けて話しかけるも、そいつは僕の膝に手をのせて、ハッハと舌を出していて。僕はハァーっと溜息を吐いた。
「全く……苦手だよ、こんなの。きっと、名前もつけられてるだろうし」
 こんな服を着ているということは、十中八九、『サンタ』と命名されているだろう。僕の学年のリーダー格は、そういうノリの奴らなのだ。
「なぁ、サンタ」
 僕がその名を呼ぶと、サンタは目を細めてそよそよと尻尾を振った。
「全く……本当に天真爛漫だよな。僕達、あんなことをしたのに」
 僕が苦笑いをしながら頭を撫でると、サンタは気持ち良さそうにした。

 しかし、その時だった。
「クゥ~ン」
 突然、サンタはベンチに座っている僕の足の間に隠れたのだ。
「ん? どうした、サンタ?」
 不思議に思って顔を上げると……手術着を着た外科の研究室員が二人ほど、棟から出て来たのが見えた。
 きっと、サンタは彼らを見て、その手術着に反応して隠れたのだ。何も考えずに天真爛漫に振舞っていたと思っていたサンタの心にも……あの手術は、それほどの傷を残していたのだ。

「サンタ……」
 僕の足の隙間に隠れたサンタは、先程までの天真爛漫ぶりが嘘のよう。小刻みにガタガタ震えていた。
 僕はそんなサンタに何もしてやれなかった。勿論、「大丈夫だよ」なんて気休めを言うことも、ぎゅっと抱き締めて安心させてやることも。
 だって、分かっていたから。そんなことをして、安心させてやっても、結局は僕達はサンタに耐え難い苦痛を与えることになる。それは『裏切り』……そんな言葉でさえも、軽く思えてしまうほどの酷い行為のような気がした。

 だから僕は、外科の研究員が棟の中に戻り、何もせずにサンタの様子が落ち着くのを待って。ただ、機械的に犬舎の部屋に戻って、サンタのエサと水をやり、抗生物質を飲ませた。サンタはやはり尻尾を振っていたが、散歩の前より勢いが衰えていて……そんな様子も、僕の心に遣る瀬無さを残した。