「おーい、そっち行ったぞぉ!」
「お、おぅ……」
 その秋。もう夏も終わったというのに黄金色の太陽がジリジリと照りつける下、僕はウシガエルに虫捕り網を構えていた。
 僕はそのカエルの円らな目に見つめられた。ドテッと大きなそいつは案外その後ろ足が強靭で、ピョコピョコと跳ね回るのだ。
「それっ……あっ!」
 そのカエルはピョーンと跳ね、僕が振り下ろした虫捕り網をすり抜けて草むらの中へ消えて行った。
「くっそう……」
 大学構内の池のほとりには、所狭しと生い茂った草が黄緑色に輝いていた。僕達は九月半ばの残暑の中、泥まみれになってウシガエルと不毛な追いかけっこをしていたのだ。

「ちょっと、渚(なぎさ)。お前も日傘なんてさしてないで、手伝えよ。カエル捕り」
 研究室メイトの原田 三介(さんすけ)が同じく研究室メイトの杉谷 渚にぶつくさ文句を言った。
「嫌よ。どうして大学四回生にもなって、そんなしょうもないことをしないといけないのよ」
 渚は頬をぷっと膨らませた。
「しょーがないだろ。今月金欠なんだから」
 三介も膨れる。
「いや、どうして僕が君達カップルの金銭問題に巻き込まれる……」という、僕のもっともな意見は却下された。

 大学の獣医学科四回生の秋。三人して、獣医生理学の研究室に配属された。
 二回生の生理学実習ではカエルの心臓が用いられる。カエルを捕まえると、ウシガエル一匹五百円、トノサマガエル一匹二百円で教授が買ってくれる。
 だから、三介は今月の財政難を乗り切ろうとカエル捕りを提案してきたのだ。
 食堂ではお決まりの一番安いキツネうどんに天かすとネギを山盛りかけた。僕達が食べに行ったら必ずおばちゃんに睨まれた所以だ。
「それにしてもよぉ。俺らも入学したての時はまさか、炎天下の中泥まみれでカエル捕りなんかやる羽目になるとは思わなかったよな」
「まぁ……そうだな」
 三介は僕のうどんを自分の取り皿に取った。いや、キツネうどんくらい自分で買えるだろう……なんてことは無駄なツッコミだ。
「ホント。私達、こんなことをするために必死で勉強してきた訳じゃないわよね」
 三介の彼女……渚は一人、ちゃっかりと一番の人気メニューのビッグカツ丼を頬張っていた。三介はこの彼女に頭が上がらない。だから彼女の言いなりに、なけなしの昼飯代を渚につぎ込んで、自分は僕のこの慎ましやかな昼飯の一部を無理やりに奪って腹の足しにしているのだ。
「そうそう。これが現実……夢や希望と何か違うよな」
 三介ははぁっと溜息を吐いた。
「夢や希望、かぁ」
 確かに僕も、入学したての頃は夢や希望に溢れていた。幼い頃から動物が好きだった僕には、獣医こそが天職……そう思っていた。
 しかし、実際に大学に入ってみるとレポートや実習に追われる日々。ただ、単位を取るためだけに出席して、教授が呪文のように唱える催眠術のような授業では皆、眠っているだけで……恐らくはこんな風に、何となく国家試験に臨み卒業することになるのだろう。

 他の学科に通う生徒達の方が有り余る時間を使ってバイトでバリバリ稼いでいて、余程お洒落で良い格好をして、しょっ中海外旅行に行ったりして学生生活を楽しんでいる。
 僕達は他学科の学生を羨望の眼差しで見るばかりだった。

「あっ、もう始まるぞ。早く行かなきゃ……」
 昼休みも終わりに近付き、午後からの講義……獣医外科学実習の説明がもうすぐ始まる時間になった。
「って言っても今日はどうせ説明だけだし。すぐに終わるさ」
 四回生後期の始めの講義はただの説明ばかりで、みんなダラダラと、やる気なく受けていた。

 僕は実習室の定位置に座った。
 実習室の教壇から最も離れた、教授から見て左後ろの窓際の席。それが、一回生の後期……獣医学生としての基礎的な実習が始まって、初めてグループ分けのなされた時から変わらない僕の定位置だった。グループは五十音順の名簿に従って編成されるため、僕『山根 伸一(しんいち)』は必然的に最後のグループに振り分けられたのだ。

 グループが編成されてから三年間、僕はその五人の組で実習を行ってきた。特に仲良いということもなければ、仲が悪いということもない五人。時には協力しなくてはならない場面もあったが、基本的には各々が結果をまとめてレポートを提出し、単位を得ていた……そんな、個人プレイのグループだった。人と関わることがあまり得意でない僕は、ただ淡々と実習をするそのグループを特に居心地が悪いとは感じなかった。

 僕はそういうタチなので、獣医外科学の教授が「この実習ではグループを再編成します」と発表した時に、そのあまりの億劫さに思わず溜息をついてしまった。
 獣医外科学実習のような……聞くからに体力的にも精神的にも疲弊しそうなその実習は、できる限りは無難な慣れたグループで行いたかったのだ。

 獣医外科学実習のために編成されたグループは、僕にとっては溜息しか出ないようなグループだった。
 学年のリーダー格……というか、やかましい学生が三人もいたのだ。一人は学年委員の岸 健斗(けんと)。こいつは言わば、出しゃばりのお調子者……まぁ、良く言えば学年のムードメーカーといったところだった。
 あと二人は小島 沙知(さち)と佐原 奈留(なる)。基本的に獣医学科の女子は強いのだが……この二人は特に、最強クラス。
 取り敢えず、僕が苦手としていて、この三年間ほとんど話したことのないような三人……彼らと一緒のグループになってしまったのだ。

「この実習では、グループにつき一頭、実習犬のビーグルを使ってもらい、外科的な手技を学んでもらいます」
 僕がワイワイガヤガヤと騒がしい自分のグループに圧倒されているのには無頓着に、教授が説明を始めた。
 グループごとにビーグルがあてがわれるのは来週の木曜で、外科手術の手技が説明される。そしてその次の週の木曜には、獣医外科学の研究室がもつ手術室で、外科学実習の手術を行う。
 その次の週にはまた別の外科手術の手技が説明され、さらに次の週にはその外科手術を行う……というものだった。
 手術の内容は胃や膀胱、腸管等の切開・縫合術で、外科実習の期間中はずっと実習犬は生かされるのだが、最後の実習……肺の切開術の際に、麻酔薬を用いて安楽死させる、というものだ。
 実習犬についてはその期間……耐え難いほどの苦痛を強いられる地獄の期間であるだろうし、それがどれほどの苦痛であるかは、僕達には想像もつかないことだった。

「何だかなぁ。遣り切れないよな」
 講義後の研究室。実習も始まっていないうちから、三介が漏らした。
「そうよね。今までで一番ヘビーな実習よね」
 渚も溜息を吐いた。

 確かにそうだ。今までに動物を使った実習はいくつもあった。
 実験動物学実習に始まり、獣医解剖学実習、獣医病理学実習……だけれども、それらは大体は動物を安楽殺して解剖する『だけ』だった。今回の実習のように、動物を切り刻んではその場しのぎに『蘇生』させることを繰り返す……そんな残酷な実習は初めてだったのだ。

「この実習で……獣医を諦める人も出たらしいよ」
 渚はぼんやりと呟いた。
 それはそうなのかも知れない。傷ついたり、病気になった動物を救うために志すのに、こんな残酷なことをするのが耐えられない人もいるだろう。

 だけれども……
「僕は……多分、大丈夫だよ」
 自然に口から出たその言葉に、三介と渚は振り向いた。
「だって、そんなに何にも感じないし」
 そんな僕を見て、三介は苦笑いした。
「そうかもな。だって、伸一、基本的に無感情だし」
 三介が目を合わすと、渚も肩をすくめた。

 そう。僕はどこか……一般の人の感情が欠落している。
 初めての実験動物を使った実習の時にも、周囲の皆はマウスやラットを殺すのに抵抗を感じていたようだが、僕は何の躊躇もなく殺した。
 他の人と感覚が違う理由は分からない。ただ、それらの運命は生まれた時から実験動物として研究に用いられて殺されることが決定している……心のどこかでそう割り切っているので、無感情に動物を殺すことができたのだ。