第七章 君の幸せを俺は否定するよ
母さんに借りた本には、手順が色々と載っていた。
知識を蓄えるたび、自信が出てくる。
父さんも母さんもいざという時は、大人として戦ってくれると言っていた。
相手がきららで、俺の恋人ということは伝えていないけど。
子どもがそんな目に遭うのを、見逃せないとまで言ってくれた。
それなのに、きららからの連絡が途絶えた。
嫌な予感しか、しない。
一日返信がないだけで、こんなに落ち着かない気持ちになるとは思わなかった。
きららが指した方角を、散歩と称して歩くくらいには。
スマホを何度確認しても、既読がつかない。
子どもたちが遊んでる声が聞こえる住宅街を、早足に歩く。
きららを見つけられたら、いいのに。
そう思えば思うほど、足が早まる。
気づけば、駆け出していた。
おばちゃんに聞いてみれば、教えてくれるだろうか。
胡散臭く見られて、終わりだろうな。
ふと、きららの話を思い出した。
「隣の公園、桜が咲くから。春は落ちてきてきれいなんだー」
桜が咲く、公園。
木を見ただけで、わかるだろうか。
今が春だったら、良かったのに。
ダラダラと流れてくる汗を、手の甲で拭う。
高校が目に入って、父さんのことを考えた。
桜が咲く公園、知ってるかもしれない。
ズボンのポケットからスマホを取り出せば、つるりと滑ってしまう。
それでも、父さんに通話をかけた。
夏休み期間中だから、仕事をしていても出てくれるだろう。
「もしもし?」
父さんの声に、身体が崩れ落ちそうになった。
まだ、だ。
何も解決してないし、きららの家もわかってない。
「桜が春に咲く、公園知らない?」
「なんだ急に」
「父さんの高校の近くで!」
つい、大きな声になってしまった。
花に水をやっていた女の人に、じろりと見られる。
声を顰めながら、スマホを耳に押し付けた。
父さんは悩んだように、うーんと、声を出している。
そして、遠くの誰かを呼んで、聞いてくれていた。
「へー、しばらくここにいるのに知らなかった」
「父さん?」
「あ、悪い。あるらしいぞ」
「どこ!」
父さんが言うには、高校の横の坂道を下ったところにあるスーパーの裏、らしい。
あのスーパーには何度か行ったことがあるのに、俺も知らなかった。
「ありがと!」
「無謀なことはすんなよ」
釘を刺すような言葉だけど、確かな優しさが込められていた。
「おう、じゃあ、ありがと」
ツーっと通話が切れた音。
深呼吸をすれば、熱い空気が胸の中から焼いて行くようだ。
焦る気持ちを押さえるように、一歩一歩進む。
公園を見つけたからといって、きららに会えるかは賭けでしかない。
スーパーの横を曲がって、裏道に進む。
確かに大きな木が、数本生えている公園があった。
トイレが端の方にあって、子どもの頃無謀にも登ろうとしていたなと思い出す。
隣に木が生えてるし、今なら登れるかもしれない。
曇り空が目に入って、陰鬱な気分になってきた。
公園から見える範囲の家を、ぐるりと見渡す。
そんな奇跡的なこと、起こるわけないか。
それでも諦めきれずに、きららに通話を掛けてみる。
何回目かのコールの後、小さい声できららが出た。
「もしもし?」
「きらら、あ、あのさ、今、出てこれないか?」
繋がったことに感謝しながらも、誘う。
きららはためらった後、小さく「ごめん」と答えた。
後ろの方で、誰かの声が聞こえる。
物が割れる音も。
「どう……」
言いかけたところで、通話が切れる。
きららが危ない。
わかってるのに、俺は家すら特定できない。
ヒソヒソと話す、近所の人と目が合う。
怪しまれてるか、と思えばふいっと目を逸らされた。
見つめてる先は、一つの家。
「また、あの家」
微かに聞こえた言葉に、不思議な感覚を覚えた。
扉が開いたのが、見える。
玄関から出てきたのは、きららだった。
後ろから大人の男が、追いかけてきてる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ひたすら地面に頭をつけて謝ってる姿に、もう、立ち止まってることはできなかった。
きららは、気づかない。
まっすぐ、父親らしき男を見てる。
「きらら!」
「誰だ、お前!」
怒鳴り声に、芯から冷える。
きららは、こんな声にずっと耐えていたのだろうか。
一瞬、俺の方を見たきららは、絶望したような表情を浮かべた。
男は俺ときららの前に立ちはだかるように、割り込む。
違和感を覚えながらも、避けてきららの手を掴んだ。
男は俺を見ながら、手を振りあげる。
酒の匂いがあまりにも濃くて、むせそうになった。
きららを引っ張って、走り出す。
一瞬、抵抗された。
それでも、もう一度引っ張れば、きららは走り出す。
だいぶ酔っ払っていたのか、男はフラフラと走ろうとしてる姿だけが見えた。
公園の中に入り、トイレの影に隠れて様子を窺えば、キョロキョロしてる。
それでも視線も定まっていないのか、地面ばかり見ていた。
トイレの上なら……!
「きらら、登れる?」
「何しにきたの」
「いいから」
木を伝って、トイレの上に登る。
あっさりとできた。
背も伸びたのだから、当たり前か。
下のきららに、手を伸ばす。
「お願いだから、少しだけ話させて。そしたら、帰るから」
きららは、黒い目で俺の顔を見る。
いつもの元気も、明るさもない。
それでも、きららだ。
頬に青いアザを見つけて、身体中の血液が沸騰しそうになった。
俺が代わりに、あいつをぶん殴ってやりたい。
震える手を握り締めそうになった時、きららが手を掴んでくれた。
ぐいっと、引っ張り上げる。
見つからないことを祈りながら、きららを隠すように抱きしめた。
反対側に回られなければ、木の枝が死角になるだろう。
後ろ側に回られたら、すぐに気づかれる。
それでも、今は祈るしかできなかった。
もっと遠くに逃げるとか、色々あったのに。
思いつかなかった自分の不甲斐なさに、ため息が出る。
男の前に、先ほど噂話をしていた人たちが立ちはだかってる。
今が逃げるチャンスだったのかもしれない。
それでも、カタカタと震えるきららを抱きしめるだけで精一杯だった。
何を言われたのかはわからないけど、男は近くのものを蹴飛ばしそうとして、足を止める。
そして、家に戻って行く。
「きらら」
きららを離して声をかければ、強い目で睨まれた。
何に怒ってるのか、わからない。
来ないでほしいという言葉を無視したから、だろうか。
「あっくんには、見られたくなかった」
その言葉を漏らしたかと思えば、涙をボロボロとこぼす。
今すぐに、児童相談所に連絡して逃げよう。
ずっと、きららに言おうと考えていた言葉が、喉の奥に絡まった。
きららは、俺から離れようとする。
それでも、トイレの上は狭く、端に行けば落ちてしまうだろう。
きららは、降りようと足を掛けてから、こちらを振り替えった。
「降りれない……」
「あとで下ろしてあげるから、聞けよ」
「イヤ!」
きららに拒否されたのは、二回目だ。
二人の間に風が、流れて行く。
近くにいるのに、遠い。
こんなに思ってるのに、突き放される。
そんなこと、覚悟の上だった。
きっと、きららは望まないと答える。
わかっていたから、俺は散々考えたんだ。
「逃げよう、きらら」
「無理だよ」
「児童相談所がイヤなら、二人で逃避行でもいい」
「バッカじゃないの……」
力にどんどん、声がなくなって行く。
俺が、バカみたいに夢物語を語ると思ってるんだろう。
本気だった。
全て捨てて二人で、違う地方に逃げてもいい。
中卒で働くのは並大抵の苦労では済まないだろう。
そんなこと、わかってても、きららと一緒にいられるなら。
きららが、痛い思いをもうしなくて済むなら、俺のこの後の人生がどうなろうと良かった。
「お父さんにだって、理由がある。お父さんは、私の家族だから」
「言うと思ったよ。きらら、ばっかじゃねーの」
「え?」
「きららの幸せはなんだろうな、俺思うんだよ。絶対間違ってるよ、人を幸せにできなきゃ生きてちゃいけないとか」
面と向かって、告げる。
きららは、苦しそうに眉毛を顰めた。
本当はもっと、ちゃんと手順を踏んで、きららを逃がそうと思っていたのに。
じっくり説得して、児童相談所に保護してもらおう。
そう考えていたのに、身体の方が勝手に動いていた。
「あっくんに、何がわかるの。何にも知らないくせに」
「わからないから、口を出すし、否定するよ」
「あっくんこそ、幸せの定義もわからなかったでしょ」
きららが吐き捨てるように、言い切る。
だからなんだ。
知らなくていい、そんなもん。
幸せになんかなれなくたっていい。
目の前の大切な人を守れるなら、俺は一生不幸でいい。
「一生不幸でもいい」
「何言ってるの」
「きららが、痛い思いをしなくてすむなら、俺なんか一生不幸でいい」
幸せになりたかった。
でも、幸せが分からなかった。
周りの誰かみたいに、なれたらいいと思ってたんだ。
夢を追いかけられる。
好きなものを胸張って言える。
頑張れる目標を持てる。
そんな誰かに。
でも、俺は誰かにならなくていい。
今、目の前のきららを助けられる俺で居たい。
「それにさ、幸せなんだよ。きららが居てくれるだけで。だから、逃げてくれよ」
「でも」
「本当に、逃げないことが、お父さんときららのためになると思ってんの?」
立ち直るきっかけになるかは、お父さん次第だろう。
きららがいなくなってますます、手のつけようがなくなる可能性だってある。
理由は、俺にはわからないから。
それでも、きららを納得させたかった。
逃げるときららの口から言わせたい。
無理矢理に引きずってでも、連れて行くことはできる。
周りの通報でも、動くはずだから。
それでも、きららに望んで欲しかった。
殴られない。
生きてちゃいけないと言われない、世界を。
「何を言われても捨てられないよ、家族だから」
「逃げることは捨てることだと思う?」
そこが、不思議だった。
まるで、自分が悪いみたいな言い方ばかりする。
どんな理由があろうと暴力を受けてていい理由には、ならないけど。
「お父さんも、二人の生活に慣れてないだけ。私が残るって決めたから、残らなきゃいけない」
「本当に?」
「なんでそんなこというの……」
きららは、消え入りそうな声を出す。
自分でも、本当はちょっと疑問に思ってたんじゃないのか。
殴られ続けるのが、正しいのかどうか。
「本当にそう思ってんのか? どんな理由があったとしても、暴力を受け続ける理由にはならねーよ」
お願いだから、逃げてくれよ。
これ以上、そんな場所に身を置かないでほしい。
どん底にいるなら俺が、手を差し伸べるから。
その為に、知識を蓄えてきたんだ。
「私が、悪いのに、お父さん一人にできない」
「きららが悪いと俺も思う」
俺の言葉に、きららは一瞬目を見開く。
そして、小さく何度も頷いた。
「やっぱり、そうだよね。私は間違ってないよね」
「逃げ出さないきららが悪い。変わんねーだろ。ずっとそこに居たら」
「どうして」
「なんでさ、一瞬、俺の前に立ちはだかったんだろうな?」
あの瞬間、怪しい俺に敵意を見せた気がした。
本当の気持ちはわからないし、そんな人が自分の娘に手を挙げるかも疑問だけど。
距離が必要なことは、確実にある。
それだけは、今はわかっていた。
きららには頼れる先だって、ある。
どこも他に場所がないわけじゃない。
「少しの期間でもいいから、距離を置け。きららだけじゃなくて、お父さんのためにも」
きららは一瞬考え込んでから、顔を両手で覆う。
深く呼吸をする。
そして、「よし」と声を出してから、俺の服の裾を掴んだ。
「できることは少なくても、いつでもきららのためなら駆けつけるから。もし後悔したら、一緒に苦しむから」
きららの考え方を真っ向から否定したところで、こんな一瞬で変わるとは思っていない。
だって、きっと長く持っていただろうから。
それでも、もうそんな考えを持てないくらい、俺で脳内を埋め尽くすよ。
「本当に、いいのかな」
「良くなかったって、将来思うんだったら、俺を恨んでくれ。それで、俺が一生償う」
どっちに転んでも、俺はきららと共に生きていく覚悟には変わらない。
できれば、痛い思いも、辛い思いもしない方を、選んでほしいけど。
「一緒に、行ってくれる?」
きららが告げたのは、おばちゃんの農園の名前だった。
俺も考えていたよ。
おばちゃんに、保護してもらう。
それが、いい案なんじゃないかって。
陰っていた雲の隙間から、光が射してきた。
焼かれる前に、トイレの上から降りる。
そして、そのままおばちゃんの農園への道を進む。
* * *
少しだけ、涼しくなった風に吹かれる。
公園の滑り台の上で、優しくなった陽射しを浴びていた。
夏休みは終わったけど俺の小さい恋の物語は、まだ、続いている。
「あっくん」
腕をブンブンと振り回しながら、駆け寄ってくるきららに腕を広げる。
階段を登ってきたかと思えば、バフっと倒れ込む。
「ただいま」
「おう、おかえり」
きららは満面の笑顔で、俺の肩にぐりぐりと顔を押し付ける。
頭をそっと撫でれば、ふふっと声に出して笑った。
「お父さんみたい」
「それは、ごめんだわ」
「最近は、ちょっと落ち着いてきたよ。おばちゃんも同席してくれてるけど」
きららは、おばちゃんの家に引き取られて、さくらんぼのお手伝いをしながら、学校に通っているらしい。
そして、お父さんとも時々会って、お互いの思ってることを話している。
こうなってしまったことへの謝罪も受けたと、言っていた。
きららが俺の腕の中で、さすさすと両手をさする。
真っ白い肌には、青あざの名残はあるけど、かなりキレイに治ってきていた。
後ろから暖めるように、抱きしめる。
「あっくんは、幸せ?」
きららの問いかけに、答える前に頬へキスをした。
くすぐったそうに身を捩るきららを、両手でホールド。
そしてもう一度、次は唇にキスをする。
「もう一生、共には暮らさないかもしれないけど。今の方が、家族らしく話せてる気がするんだよね。あっくんのおかげ」
「幸せってことだな」
「星を折ってあげたいくらいには!」
あの星たちは、箱の中でもう眠らせた。
だって本物の星が、俺の腕の中にいるから。
間違ったかもしれない。
そんな恐怖は、今でも付き纏っている。
でも、きららと会えば、そんなことよりも暖かい気持ちに満たされた。
「何考えてんのー」
「次は何のバイトして、どこ行こうかなって」
「お、旅行にハマっちゃった?」
「きららが好きだから、だろう」
そう答えれば、きららは驚いたような顔をする。
旅行の提案を最初にしてきたのはきららだから、勝手に好きなんだと思っていた。
どうやら、違うらしい。
「あの時は逃げたかった、だけ。でも、あっくんと旅行はしたいなー! 北海道とか?」
「海鮮、好きだな」
「海鮮食べてる時が一番幸せ。あ、うそ!」
言い切ろうとして、俺の方を振り返る。
そして、ちゅっと軽くキスをして、星が瞬くように笑った。
「あっくんと一緒にいるのが一番だった! 海鮮は二番目!」
「じゃあ、俺と海鮮を食べるのは世界一の幸せだな」
ふざけて返せば、きららは大真面目な顔で頷く。
「やっぱり、次は北海道にしよう! 世界一幸せにしてくださーい!」
「はいはい、予定立てて、今度こそ二人でな」
「あっくんも、もちろん世界一幸せにするからね」
俺の世界一は、きららが今目の前で笑ってくれることだから、すでに叶っている。
それは伝えずに、一際強く抱きしめた。
幸せの形が、腕の中に確かにある。
<了>
母さんに借りた本には、手順が色々と載っていた。
知識を蓄えるたび、自信が出てくる。
父さんも母さんもいざという時は、大人として戦ってくれると言っていた。
相手がきららで、俺の恋人ということは伝えていないけど。
子どもがそんな目に遭うのを、見逃せないとまで言ってくれた。
それなのに、きららからの連絡が途絶えた。
嫌な予感しか、しない。
一日返信がないだけで、こんなに落ち着かない気持ちになるとは思わなかった。
きららが指した方角を、散歩と称して歩くくらいには。
スマホを何度確認しても、既読がつかない。
子どもたちが遊んでる声が聞こえる住宅街を、早足に歩く。
きららを見つけられたら、いいのに。
そう思えば思うほど、足が早まる。
気づけば、駆け出していた。
おばちゃんに聞いてみれば、教えてくれるだろうか。
胡散臭く見られて、終わりだろうな。
ふと、きららの話を思い出した。
「隣の公園、桜が咲くから。春は落ちてきてきれいなんだー」
桜が咲く、公園。
木を見ただけで、わかるだろうか。
今が春だったら、良かったのに。
ダラダラと流れてくる汗を、手の甲で拭う。
高校が目に入って、父さんのことを考えた。
桜が咲く公園、知ってるかもしれない。
ズボンのポケットからスマホを取り出せば、つるりと滑ってしまう。
それでも、父さんに通話をかけた。
夏休み期間中だから、仕事をしていても出てくれるだろう。
「もしもし?」
父さんの声に、身体が崩れ落ちそうになった。
まだ、だ。
何も解決してないし、きららの家もわかってない。
「桜が春に咲く、公園知らない?」
「なんだ急に」
「父さんの高校の近くで!」
つい、大きな声になってしまった。
花に水をやっていた女の人に、じろりと見られる。
声を顰めながら、スマホを耳に押し付けた。
父さんは悩んだように、うーんと、声を出している。
そして、遠くの誰かを呼んで、聞いてくれていた。
「へー、しばらくここにいるのに知らなかった」
「父さん?」
「あ、悪い。あるらしいぞ」
「どこ!」
父さんが言うには、高校の横の坂道を下ったところにあるスーパーの裏、らしい。
あのスーパーには何度か行ったことがあるのに、俺も知らなかった。
「ありがと!」
「無謀なことはすんなよ」
釘を刺すような言葉だけど、確かな優しさが込められていた。
「おう、じゃあ、ありがと」
ツーっと通話が切れた音。
深呼吸をすれば、熱い空気が胸の中から焼いて行くようだ。
焦る気持ちを押さえるように、一歩一歩進む。
公園を見つけたからといって、きららに会えるかは賭けでしかない。
スーパーの横を曲がって、裏道に進む。
確かに大きな木が、数本生えている公園があった。
トイレが端の方にあって、子どもの頃無謀にも登ろうとしていたなと思い出す。
隣に木が生えてるし、今なら登れるかもしれない。
曇り空が目に入って、陰鬱な気分になってきた。
公園から見える範囲の家を、ぐるりと見渡す。
そんな奇跡的なこと、起こるわけないか。
それでも諦めきれずに、きららに通話を掛けてみる。
何回目かのコールの後、小さい声できららが出た。
「もしもし?」
「きらら、あ、あのさ、今、出てこれないか?」
繋がったことに感謝しながらも、誘う。
きららはためらった後、小さく「ごめん」と答えた。
後ろの方で、誰かの声が聞こえる。
物が割れる音も。
「どう……」
言いかけたところで、通話が切れる。
きららが危ない。
わかってるのに、俺は家すら特定できない。
ヒソヒソと話す、近所の人と目が合う。
怪しまれてるか、と思えばふいっと目を逸らされた。
見つめてる先は、一つの家。
「また、あの家」
微かに聞こえた言葉に、不思議な感覚を覚えた。
扉が開いたのが、見える。
玄関から出てきたのは、きららだった。
後ろから大人の男が、追いかけてきてる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ひたすら地面に頭をつけて謝ってる姿に、もう、立ち止まってることはできなかった。
きららは、気づかない。
まっすぐ、父親らしき男を見てる。
「きらら!」
「誰だ、お前!」
怒鳴り声に、芯から冷える。
きららは、こんな声にずっと耐えていたのだろうか。
一瞬、俺の方を見たきららは、絶望したような表情を浮かべた。
男は俺ときららの前に立ちはだかるように、割り込む。
違和感を覚えながらも、避けてきららの手を掴んだ。
男は俺を見ながら、手を振りあげる。
酒の匂いがあまりにも濃くて、むせそうになった。
きららを引っ張って、走り出す。
一瞬、抵抗された。
それでも、もう一度引っ張れば、きららは走り出す。
だいぶ酔っ払っていたのか、男はフラフラと走ろうとしてる姿だけが見えた。
公園の中に入り、トイレの影に隠れて様子を窺えば、キョロキョロしてる。
それでも視線も定まっていないのか、地面ばかり見ていた。
トイレの上なら……!
「きらら、登れる?」
「何しにきたの」
「いいから」
木を伝って、トイレの上に登る。
あっさりとできた。
背も伸びたのだから、当たり前か。
下のきららに、手を伸ばす。
「お願いだから、少しだけ話させて。そしたら、帰るから」
きららは、黒い目で俺の顔を見る。
いつもの元気も、明るさもない。
それでも、きららだ。
頬に青いアザを見つけて、身体中の血液が沸騰しそうになった。
俺が代わりに、あいつをぶん殴ってやりたい。
震える手を握り締めそうになった時、きららが手を掴んでくれた。
ぐいっと、引っ張り上げる。
見つからないことを祈りながら、きららを隠すように抱きしめた。
反対側に回られなければ、木の枝が死角になるだろう。
後ろ側に回られたら、すぐに気づかれる。
それでも、今は祈るしかできなかった。
もっと遠くに逃げるとか、色々あったのに。
思いつかなかった自分の不甲斐なさに、ため息が出る。
男の前に、先ほど噂話をしていた人たちが立ちはだかってる。
今が逃げるチャンスだったのかもしれない。
それでも、カタカタと震えるきららを抱きしめるだけで精一杯だった。
何を言われたのかはわからないけど、男は近くのものを蹴飛ばしそうとして、足を止める。
そして、家に戻って行く。
「きらら」
きららを離して声をかければ、強い目で睨まれた。
何に怒ってるのか、わからない。
来ないでほしいという言葉を無視したから、だろうか。
「あっくんには、見られたくなかった」
その言葉を漏らしたかと思えば、涙をボロボロとこぼす。
今すぐに、児童相談所に連絡して逃げよう。
ずっと、きららに言おうと考えていた言葉が、喉の奥に絡まった。
きららは、俺から離れようとする。
それでも、トイレの上は狭く、端に行けば落ちてしまうだろう。
きららは、降りようと足を掛けてから、こちらを振り替えった。
「降りれない……」
「あとで下ろしてあげるから、聞けよ」
「イヤ!」
きららに拒否されたのは、二回目だ。
二人の間に風が、流れて行く。
近くにいるのに、遠い。
こんなに思ってるのに、突き放される。
そんなこと、覚悟の上だった。
きっと、きららは望まないと答える。
わかっていたから、俺は散々考えたんだ。
「逃げよう、きらら」
「無理だよ」
「児童相談所がイヤなら、二人で逃避行でもいい」
「バッカじゃないの……」
力にどんどん、声がなくなって行く。
俺が、バカみたいに夢物語を語ると思ってるんだろう。
本気だった。
全て捨てて二人で、違う地方に逃げてもいい。
中卒で働くのは並大抵の苦労では済まないだろう。
そんなこと、わかってても、きららと一緒にいられるなら。
きららが、痛い思いをもうしなくて済むなら、俺のこの後の人生がどうなろうと良かった。
「お父さんにだって、理由がある。お父さんは、私の家族だから」
「言うと思ったよ。きらら、ばっかじゃねーの」
「え?」
「きららの幸せはなんだろうな、俺思うんだよ。絶対間違ってるよ、人を幸せにできなきゃ生きてちゃいけないとか」
面と向かって、告げる。
きららは、苦しそうに眉毛を顰めた。
本当はもっと、ちゃんと手順を踏んで、きららを逃がそうと思っていたのに。
じっくり説得して、児童相談所に保護してもらおう。
そう考えていたのに、身体の方が勝手に動いていた。
「あっくんに、何がわかるの。何にも知らないくせに」
「わからないから、口を出すし、否定するよ」
「あっくんこそ、幸せの定義もわからなかったでしょ」
きららが吐き捨てるように、言い切る。
だからなんだ。
知らなくていい、そんなもん。
幸せになんかなれなくたっていい。
目の前の大切な人を守れるなら、俺は一生不幸でいい。
「一生不幸でもいい」
「何言ってるの」
「きららが、痛い思いをしなくてすむなら、俺なんか一生不幸でいい」
幸せになりたかった。
でも、幸せが分からなかった。
周りの誰かみたいに、なれたらいいと思ってたんだ。
夢を追いかけられる。
好きなものを胸張って言える。
頑張れる目標を持てる。
そんな誰かに。
でも、俺は誰かにならなくていい。
今、目の前のきららを助けられる俺で居たい。
「それにさ、幸せなんだよ。きららが居てくれるだけで。だから、逃げてくれよ」
「でも」
「本当に、逃げないことが、お父さんときららのためになると思ってんの?」
立ち直るきっかけになるかは、お父さん次第だろう。
きららがいなくなってますます、手のつけようがなくなる可能性だってある。
理由は、俺にはわからないから。
それでも、きららを納得させたかった。
逃げるときららの口から言わせたい。
無理矢理に引きずってでも、連れて行くことはできる。
周りの通報でも、動くはずだから。
それでも、きららに望んで欲しかった。
殴られない。
生きてちゃいけないと言われない、世界を。
「何を言われても捨てられないよ、家族だから」
「逃げることは捨てることだと思う?」
そこが、不思議だった。
まるで、自分が悪いみたいな言い方ばかりする。
どんな理由があろうと暴力を受けてていい理由には、ならないけど。
「お父さんも、二人の生活に慣れてないだけ。私が残るって決めたから、残らなきゃいけない」
「本当に?」
「なんでそんなこというの……」
きららは、消え入りそうな声を出す。
自分でも、本当はちょっと疑問に思ってたんじゃないのか。
殴られ続けるのが、正しいのかどうか。
「本当にそう思ってんのか? どんな理由があったとしても、暴力を受け続ける理由にはならねーよ」
お願いだから、逃げてくれよ。
これ以上、そんな場所に身を置かないでほしい。
どん底にいるなら俺が、手を差し伸べるから。
その為に、知識を蓄えてきたんだ。
「私が、悪いのに、お父さん一人にできない」
「きららが悪いと俺も思う」
俺の言葉に、きららは一瞬目を見開く。
そして、小さく何度も頷いた。
「やっぱり、そうだよね。私は間違ってないよね」
「逃げ出さないきららが悪い。変わんねーだろ。ずっとそこに居たら」
「どうして」
「なんでさ、一瞬、俺の前に立ちはだかったんだろうな?」
あの瞬間、怪しい俺に敵意を見せた気がした。
本当の気持ちはわからないし、そんな人が自分の娘に手を挙げるかも疑問だけど。
距離が必要なことは、確実にある。
それだけは、今はわかっていた。
きららには頼れる先だって、ある。
どこも他に場所がないわけじゃない。
「少しの期間でもいいから、距離を置け。きららだけじゃなくて、お父さんのためにも」
きららは一瞬考え込んでから、顔を両手で覆う。
深く呼吸をする。
そして、「よし」と声を出してから、俺の服の裾を掴んだ。
「できることは少なくても、いつでもきららのためなら駆けつけるから。もし後悔したら、一緒に苦しむから」
きららの考え方を真っ向から否定したところで、こんな一瞬で変わるとは思っていない。
だって、きっと長く持っていただろうから。
それでも、もうそんな考えを持てないくらい、俺で脳内を埋め尽くすよ。
「本当に、いいのかな」
「良くなかったって、将来思うんだったら、俺を恨んでくれ。それで、俺が一生償う」
どっちに転んでも、俺はきららと共に生きていく覚悟には変わらない。
できれば、痛い思いも、辛い思いもしない方を、選んでほしいけど。
「一緒に、行ってくれる?」
きららが告げたのは、おばちゃんの農園の名前だった。
俺も考えていたよ。
おばちゃんに、保護してもらう。
それが、いい案なんじゃないかって。
陰っていた雲の隙間から、光が射してきた。
焼かれる前に、トイレの上から降りる。
そして、そのままおばちゃんの農園への道を進む。
* * *
少しだけ、涼しくなった風に吹かれる。
公園の滑り台の上で、優しくなった陽射しを浴びていた。
夏休みは終わったけど俺の小さい恋の物語は、まだ、続いている。
「あっくん」
腕をブンブンと振り回しながら、駆け寄ってくるきららに腕を広げる。
階段を登ってきたかと思えば、バフっと倒れ込む。
「ただいま」
「おう、おかえり」
きららは満面の笑顔で、俺の肩にぐりぐりと顔を押し付ける。
頭をそっと撫でれば、ふふっと声に出して笑った。
「お父さんみたい」
「それは、ごめんだわ」
「最近は、ちょっと落ち着いてきたよ。おばちゃんも同席してくれてるけど」
きららは、おばちゃんの家に引き取られて、さくらんぼのお手伝いをしながら、学校に通っているらしい。
そして、お父さんとも時々会って、お互いの思ってることを話している。
こうなってしまったことへの謝罪も受けたと、言っていた。
きららが俺の腕の中で、さすさすと両手をさする。
真っ白い肌には、青あざの名残はあるけど、かなりキレイに治ってきていた。
後ろから暖めるように、抱きしめる。
「あっくんは、幸せ?」
きららの問いかけに、答える前に頬へキスをした。
くすぐったそうに身を捩るきららを、両手でホールド。
そしてもう一度、次は唇にキスをする。
「もう一生、共には暮らさないかもしれないけど。今の方が、家族らしく話せてる気がするんだよね。あっくんのおかげ」
「幸せってことだな」
「星を折ってあげたいくらいには!」
あの星たちは、箱の中でもう眠らせた。
だって本物の星が、俺の腕の中にいるから。
間違ったかもしれない。
そんな恐怖は、今でも付き纏っている。
でも、きららと会えば、そんなことよりも暖かい気持ちに満たされた。
「何考えてんのー」
「次は何のバイトして、どこ行こうかなって」
「お、旅行にハマっちゃった?」
「きららが好きだから、だろう」
そう答えれば、きららは驚いたような顔をする。
旅行の提案を最初にしてきたのはきららだから、勝手に好きなんだと思っていた。
どうやら、違うらしい。
「あの時は逃げたかった、だけ。でも、あっくんと旅行はしたいなー! 北海道とか?」
「海鮮、好きだな」
「海鮮食べてる時が一番幸せ。あ、うそ!」
言い切ろうとして、俺の方を振り返る。
そして、ちゅっと軽くキスをして、星が瞬くように笑った。
「あっくんと一緒にいるのが一番だった! 海鮮は二番目!」
「じゃあ、俺と海鮮を食べるのは世界一の幸せだな」
ふざけて返せば、きららは大真面目な顔で頷く。
「やっぱり、次は北海道にしよう! 世界一幸せにしてくださーい!」
「はいはい、予定立てて、今度こそ二人でな」
「あっくんも、もちろん世界一幸せにするからね」
俺の世界一は、きららが今目の前で笑ってくれることだから、すでに叶っている。
それは伝えずに、一際強く抱きしめた。
幸せの形が、腕の中に確かにある。
<了>



