朝五時。
 鳥の鳴き声すら聞こえない静かな時間だ。
 昨日は歩き回って疲れてるはずなのに、こんな時間に目が覚めしてしまった。
 布団でスースーっと寝息を立てるきららを起こさないように、静かに広縁の扉を開ける。

 カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいる。
 扉を閉めてから、カーテンを開けば海を太陽が照らしていた。
 数センチしか開けられない窓を開けば、海の匂いが鼻に突き刺さる。

 扉が動く音がして、振り返った。
 きららが半分開いていない目で、立っている。

「起こした?」
「うんん、覚めた」

 きららはパチパチと瞬きをしてから、イスに座る。
 少し崩れた浴衣が、目に悪い。
 俺もきららの前のイスに腰をかけて、海を眺める。

「終わっちゃうね」
「帰るまでが旅行だろ」
「たしかに」

 テーブルの上には、一日目に広げた星の紙が置かれている。
 何も言わずに二人とも一枚ずつ、手に取った。

「考えること、一緒すぎ」
「幸せだったからな」
「私も楽しかった」

 また、の約束をできるだろうか。
 きららは、もう心を決めている気もする。
 波の音だけが、部屋に広がっていく。
 ざざぁっと遠くで、鳴っている。

 海を見たまま、手元の紙を五角形に折る。
 何回も折ったからか、自分で簡単に作れるようになった。
 いいことなのか、悪いことなのか、判断したくない。

「はい、あげる」

 俺が折り終わる前に、きららは星を完成させていた。
 そして、俺の前にピンク色の星を差し出してる。
 受け取れば、光を反射したように見えた。

「キレイだな」
「大切にしてよね。幸せって繊細なんだから」

 もう知ってるよ。
 実際に二人の時間が永遠に続くとは思っていないし、帰ればきっときららはまた辛い思いをする。
 助け出せる力もない。
 それでも、またこの幸せの時間が来るように、なんとかする。
 まだ、断言はできないから胸の中で誓うだけ、だけど。

「大切にするよ、もちろん」

 やっと出した言葉は、恥ずかしいほどに震えていた。
 きららは、ふふっと満足そうに笑う。
 そして、また星を折り始めた。
 丁寧に、丁寧に、願いを込めるように。

 俺も星を一つ、二つ、と作っていく。
 二人とも折っているうちに、チェックアウトの時間は迫っていた。
 念の為にかけていたスマホのアラームが、響き渡る。

「タイムオーバーだね」
 
 それでも、机の上には数えきれないほどの星が乗っていた。
 きららはそれを両手で掬い上げて、振り撒く。

「幸せは繊細なんじゃなかったのかよ」
「これだけの幸せなら、浴びてもいいかなって」

 照れたように、イタズラっぽく笑う。
 俺も机の上の星を両手で掬った。
 そして、きららに振りかける。

「きららに絶え間ない幸せが降り続くよ」

 また、カッコつけてと言われるだろうか。
 恐る恐る、きららの様子を確認する。
 きららは、瞳いっぱいに涙を溜めていた。
 表面張力で、ふるふると揺れている。
 海みたいだな、と思った。
 静かで、キレイで。

「着替えるから、片付けといてよ!」

 きららは、俺に見られないようにするためか、すぐ顔を背けて広縁から出ていく。
 扉がピシャンと閉められた。
 星を机の上に、拾い上げる。
 俺が貰った幸せは、こんなものじゃない。

 家に帰ったら、父さんに相談してみようか。
 どうにかできる方法。
 父さんなら、答えを出してくれる気がする。

 全部拾い終えた頃、扉が開く。

「早くしないと、チェックアウトすぎるよ」
「きららを待ってたんだけど?」
「はいはい、着替える着替える」

 俺の後ろに回って、ぐいぐいと背中を押す。
 そして、今度は逆の位置で扉が閉められた。
 きららの荷物はもうすでにまとめられていて、俺の準備が終われば今にも出れそうだ。

 着替える手が重たい。
 チェックアウトの時間はわかっているし、柴田さんと待ち合わせもしてる。
 早く出なくちゃいけないのに、名残惜しい。
 切なさを胸に溜めたまま、浴衣を脱ぐ。

 普段着てる服に腕を通せば、日常に戻ってしまう気がした。
 それでも、まだやらなきゃいけないことはたくさんある。
 きららが望んでようが、望んでなかろうが、俺はきららが辛い目に遭わないようにしたい。

 だから、方法を考えなければ。
 高校生の、力の持たない俺ができることを。

 *  *  *

 あっという間に、鶴岡は遠ざかっていく。
 運転してる柴田さんは楽しそうに、鼻歌を歌っていた。

「ずいぶん、楽しかったんすね」

 後部座席から話しかければ、柴田さんは一瞬振り返る。
 旅に付き合ってくれるとは言っていたけど、何をしていたんだろうか?

「そりゃあもう、最高だった……!」

 うっとりとした言い方に、少し気味の悪さを感じる。
 何をしていたか聞くのはやめよう、と思い、窓の外を眺めた。
 山をグングンと、登っている。
 いつもの景色に近づいてる感覚がして、後ろ髪を惹かれた。

「何してたんですか?」

 せっかく俺が聞くのをやめたのに、きららが前のめりになって質問してる。
 止める前に、柴田さんが笑い出す。

「ふふふふ、ふふふふ」
「こわっ」
「さすがにちょっと、気味悪いです柴田さん」

 きららも同じ意見だったようで、軽く引いた顔をしてる。
 変な人だと思った第一印象は、そこまで間違っていなかったようだ。
 いや、頼れる大人でもあるんだけど……

「聖地巡礼! ほんとまんまそこなの、わかる?」
「わかりません」
「わからないっす」

 きららがあんなに前のめりで聞いていたのに、今はイスに沈み込むように座ってる。
 俺も、適当に返せば、柴田さんはつまらなそうに口を尖らせた。

「聞いたのは、二人だろ! 手のひら返し早くない?」
「いやぁ、ちょっと……」
「なんだよ、そういう二人も楽しかったんだろ!」

 きららの方を向けば、視線がぶつかる。
 柴田さんの前なせいか、むずがゆい。
 恥ずかしさが、身体の奥から湧き上がってきた。

「それは、もちろん……楽しかったに決まってるじゃない、ですか」
「なに、なんか変だぞ、あ! わかった!」
「なんすか!」

 変なことを言わないように、祈る。

「ふーん? そういうことね?」
 
 柴田さんはバックミラー越しに俺たちを見てから、うんうんと頷いて黙った。
 余計なことを詮索されたくなくて、俺も黙り込む。
 きららも、何も言わずに窓の外を眺めている。

 静かな空間のせいか、車の揺れのせいか。
 俺もきららも、眠ってしまっていたらしい。
 気づけば、見慣れたいつもの街に辿り着いていた。

「待ち合わせのコンビニでいいんだよな?」

 起きた俺に、柴田さんの声が優しく響いた。
 こくこくと頷けば、「りょーかい!」と軽々しい返事が返ってくる。
 それでも、バックミラー越しの表情がニヤニヤしてる気がした。
 
 俺ときららの関係に気づかれた、だろうか。
 バレても問題があるわけではないけど、恥ずかしさで頭から火が出そうだ。

 いつものコンビニの駐車場に、柴田さんは車を停めた。
 まだ寝てるきららを、揺らす。
 相当眠かったらしい。
 瞬きをしたあと、もう一度目を閉じる。

「ねむい」
「きらら!」
「んー?」

 朝早く起きてしまったから、眠いのはわかる。
 わかるけど、柴田さんのふーんっという視線が痛い。
 きららをブンブン揺さぶれば、一瞬怯えた表情をした。
 そして、身体をこわばらせる。

「ご、ごめん!」
「寝ぼけてたな」
「ちょっと、だけ。柴田さんもすみません」
「休んでから降りてもいいぞ」

 柴田さんのあたたかい声色に、きららの緊張が緩んだ。
 俺は先に降りて、荷物を下ろす。
 きららもふわぁっとあくびをしながら、降りてきた。

「柴田さん、ありがとうございました」
「楽しかったなら、なによりだよ」
「あ、お土産!」

 きららが思い出したように、お土産を柴田さんに渡す。
 おもちゃの入った、おせんべい。
 俺たちの分を割るのも、忘れていた。
 また後日持ち寄って割ることにしよう。
 次回の約束がある方が、安心できる、

「へー、おもちゃいり? おもしろー」
「柴田さん好きそうだな、って」
「俺子どもに思われてる!?」
「いやぁ、あははー」

 きららが誤魔化してる声に、つい、笑ってしまった。
 柴田さんが肩を組んでくる。
 そして、俺の顔を覗き込む。

「俺、そんな子どもっぽい?」
「否定はしないっすねぇ」
「ひど! 旅行について行ってあげたのに?」
「それは、ありがとーございました」

 柴田さんは、はぁとわざとらしいため息を吐き出す。
 そして、俺ときららを交互に見てから、にやりと口元を緩める。

「末長く仲良くな」
「それは、もちろん……」

 モゴモゴとしてしまった言葉に、柴田さんは俺の背中をバシバシと叩いた。
 満足したのか、「じゃあな」と後ろで手を振りながら車に戻っていく。
 映画のワンシーンみたいに、カッコよくて見えた。
 きららと二人で荷物を持ったまま、柴田さんの車を見送る。

「じゃあ、とりあえず帰ろっか」

 きららの言葉に、首を横に振りたくなる。
 できれば、帰したくない。
 それでも、今すぐ解決できることでもなかった。
 だから、しょうがなく、頷く。

「なに、寂しいの?」
「それも、あるけど」
「あっくん、かわいー!」

 わざとらしく、明るい声に苛立ちが募った。
 俺は何にもできない。
 変えたいと思ってるくせに、きららの背中を見送ることしかできないんだから。
 それでも、今なら、できることを探せる。
 一人で無理なら、大人を頼るしない。

「きららの家ってどっちの方なんだよ」
「え、うち?」
「そう、送る」

 まだ、離れ難いのもある。
 それと、敵情視察だ。
 解決策を考えるにしても、相手を知っておく必要はあるだろう。
 きららは、きょろきょろと宙を見ながら答えた。

「大丈夫、一人で帰れるから」

 明確な拒絶。
 知られたくないんだろう。
 家のことなのか、暴力を振るってる相手のことなのかは、わからないけど。

「どっちの方とかだけでも教えろよ」
「えー? そんなに知りたいのー?」
「教えて」

 あやふやにしようとするきららに、真剣な顔で近づく。
 きららは一瞬ためらった後、父さんの高校がある方を差し示した。

「あっち」
「わかった」
「家に来るのはナシだよ! さすがに、困るっていうか」

 焦った表情で、きららは手をブンブンと振る。
 さすがに、こっそりストーカーして追いかけるつもりまではない。

「こっそり着いて行くとかしねーって」
「あっくん、しそうな勢いだったから。私は大丈夫! あっくんがくれた星もあるし」

 何が、とは言わないのは優しさだろうか。
 胸の奥がぎゅっと、締め付けられる。
 信じていいんだろうか。
 小さく頷けば、きららは俺をくるんっと回した。

「早く帰りなよ、疲れてるから、ね?」
「また連絡する」
「うん、次の約束考えておく!」
「きららがしたいことも考えておいてな」
 
 きららは、あまり多くを望まない。
 ラーメン食べたいやスイーツ食べたい、程度だ。
 俺がしたいことを、逐一確認してそれを優先する。
 きっと、そうやって生きてきたのだろうけど。

「わかった! また、メッセージするね」
「俺もするから」
「はーい! じゃあ、またね」

 手を振りかえして、自宅を目指す。
 何度も振り返る度にきららは、大きく手を振る。
 きららの姿が、ぼやけていく。
 どんどん遠ざかって、まるで、二度と会えないような焦燥感に駆られた。
 戻ろうか、と思ったところで、母さんの声が聞こえる。

「おかえり、明輝」
「えっ? 迎えに来たの?」
「柴田さんがコンビニで別れたって連絡くれたから」

 本当に、両親に報告を送っていたらしい。
 一緒に居なかったタイミングも、うまく送ってくれていたのだろう。
 心配そうな表情はしていない。

「楽しかった?」
「楽しかったよ」
「そう、良かったね」

 母さんに、聞いてみようか。
 母さんなら、いろんな知識を持ってる。
 素直に、暴力を受けてる子がいると言えば、心配をするだろうか。
 関わるな、と言われる?

 どう尋ねればいいか思案していると、身体が軽くなった。
 手に持っていた荷物を、母さんが持ってくれたようだ。

「それぐらい、いいよ」
「いいの、これくらいしたいの。どんなことが楽しかったか聞かせてよ」

 ゆっくりと歩きながら、思い出を振り返る。
 小学校の入学の時に、一緒に歩いた以来だろうか。
 母さんとじっくり話すということ自体、久々だ。

 水族館が楽しかったこと。
 炉端焼きが異常に暑かったこと。
 話してるうちに、きららの表情が脳裏に蘇る。
 あまりにも、幸せすぎる時間だった。

「母さん」
「急にどうしたの」

 話を中断して、母さんの方を見る。
 久しぶりにしっかり見た母さんは、優しい表情をしていた。
 不器用なだけで、俺のことは思ってくれているんだろう。

「もし、友だちが暴力を受けてたらどうしたらいいと思う?」
「それは、誰から?」

 予想でしかない。
 それでも、可能性は高いだろう。

「家族」

 母さんは言いづらそうに、呼吸をする。
 そして、俺の方を見つめた。

「助けたいのね」
「そう、したい」
「児童相談所、かしらね。本を貸してあげる」

 母さんの蔵書。
 小説を書くのに、使ったのだろう。
 読んだ限りでは、そういう話はなかった気がするけど。

「書いてないわよ。あなたが生まれてから、書けなくなっちゃったんだから」
「え?」
「創作の世界でも、子どもを辛い目に合わせるのができなくなっちゃったの。創作だっていうのにね」

 母さんは遠い目で、空を見上げる。
 不器用すぎる母さんに、笑いが込み上げてきた。
 嬉しいような、もどかしいような、なんとも言えない感覚だ。

「明輝のせいではないからね」
「わかってるよ」
「まぁ、そんなことはいいのよ。一緒に考えるよ、お父さんも私も」

 どれほど心強いだろうか。
 父さんと母さんが居たら、何にも負ける気がしない。
 二人の知識で俺は、きららを救える。

 道路沿いの花が揺れて、木々が涼しい風を運んできた。
 まるで、背中を押すように。