さくらんぼの仕訳作業は、無事に終わった。
おばちゃんが言うには、あと梱包が残ってるらしい。
「山光くんがよかったら、梱包も手伝ってくれて良いのに」
「いえ、三日の約束だったので」
一人で家を三日も開けたのは、初めてだった。
久しぶりの自宅が恋しい気持ちもある。
「じゃあ、柴田さん、山光くんをよろしくね」
「はい、今年もお世話になりました」
「さくらんぼも、ご家族と食べて!」
おばちゃんに貰ったさくらんぼは、ツヤツヤと真っ赤に輝いている。
袋をしっかりと握りしめて、もう一度お辞儀をした。
「じゃ、あっくん、またね!」
きららはバイバイと手を振る。
恥ずかしさを隠しながら、小さく俺も振り返した。
きららはまだ、少しお手伝いがあるらしい。
だから、今日はここでバイバイだ。
先ほどおばちゃんに渡された封筒を、握りしめる。
初めて、自分で稼いだお金。
誇らしい気持ちで、柴田さんの車に乗り込む、
「家どこらへん?」
柴田さんは、ナビを操作する。
どう答えれば伝えやすいか、考えながら近所のスーパーの名前を告げた。
柴田さんは分かったようで、ナビの操作をやめる。
車が発進する。
あんこ先輩が寂しそうに、こちらを向いてる気がした。
また、いつか会いにくるよ。
あれだけ、俺に愛を向けてくれたのは、あんこ先輩くらいだから。
ぬるい感傷に浸っていれば、柴田さんは笑い出す。
今日から、笑われっぱなしだ。
イヤな気分ではないけど。
「なんすか」
「いや、本当にまっすぐな子だなと思って。すれてない」
「柴田さん笑い上戸っすよね」
「まぁまぁかな。で、バイト代何に使うの?」
決めていなかった。
きららに誘われるがまま、来ただけ。
それでも、あんこ先輩とも、柴田さんとも出会えたから。
幸せに少し近づけた気はする。
使うとしたら、何が良いだろうか。
欲しいものは特に思いつかない。
それに、封筒をそっと撫でる。
自分で初めて稼いだお金は、あまりにも尊すぎた。
「決めてないんかーい! 旅とかいいんじゃないの? 自分探してるんでしょ」
幸せの定義を聞いただけ、なのに。
柴田さんは昨日から、自分探しと言う。
ただしくは、幸せ探しなのだけど。
自分を見つけたいわけじゃない。
俺のゴールは、幸せになることだ。
「自分は探してないって言ってるじゃないっすか」
窓から吹き込む風で、涼みながら移り変わる景色を眺める。
大きな通りに出れば、見覚えのあるものばかりだ。
いつも過ごしてる日常のすぐ近く。
それなのに、バイトが非日常的な体験に思えていた。
「幸せ探しは、自分探しと一緒じゃないか?」
「え?」
「自分が思うことが、幸せに繋がんだよ」
柴田さんの格好つけた言い方は、よくわからない。
それでも、自分探しも幸せに繋がる。
それは、しっくりと来た。
「じゃあ、旅でもしますかね、きららと」
「あのお嬢ちゃんとは、どういう関係? 恋人?」
「ちが、違いますよ!」
きららは、だってあんなに美しくて、明るい子だ。
恋人の一人や二人、いや不誠実だと言ってるわけじゃなくて。
誰に聞かせるわけでもないのに、心の中で言い訳を募らせる。
「きららは、俺の道標です」
「時々かっこつけるよな、山光」
「柴田さんよりは、普通だと思いますけど」
きららが残ると聞いた時、俺も延長を考えてしまった。
また会う約束はしてるけど、惜しい気がしたんだ。
自宅近くになってきた景色に、胸が切なく痛む。
柴田さんとの別れも、惜しい。
もっと、話してみたいことはあった。
柴田さんの話を聞いていたら、自分も幸せも、簡単に見つかる気がする。
それでも、目的地には到着してしまう。
告げたスーパーの駐車場を、指でさし示す。
「ここで、大丈夫です」
「おう」
柴田さんが空いてるスペースに、車を停める。
まだ、話せていないことがある気がして、脳内を検索した。
でもわからなくて、沈黙が流れる。
「連絡先、教えておいてよ」
柴田さんの提案に、何回も首を縦に振る。
まだ、繋がっていられる。
そんな事実に、光が灯ったようだった。
メッセージアプリのIDを交換してから、車を降りる。
柴田さんは「気をつけろよ」と言ってから、また大笑いした。
そして、最後に、一言。
「山光、本当に可愛いわ。困ったらすぐ連絡しろ、なんでも助けてやる。犯罪以外ならな」
「困らなくても連絡していいですか」
「ほどほどになら。今しかない時間を、今しかない出会いを大切にしろ。俺と山光はいつだって繋がれる」
また、よくわからない格好つけた言葉だ。
今回だけの関係じゃないことだけは、伝わった。
いくつになっても、いつになっても、相手をしてくれるということだろう。
また、星を一つ増やして良いと思えた瞬間だった。
家に帰ったら、自分でも折ってみようか。
考えながら、柴田さんの車に手を振る。
そして、背中を向けて帰宅した。
三日ぶりの自宅は、何も変わらない。
父も母もまだ仕事中らしく、家の中はシーンとしている。
貰った封筒を開けば、お金と一緒に星が一つ転がり落ちた。
紫色の星と、黒い星。
まるで、柴田さんとあんこ先輩みたいだ。
きららにも、二人との出会いが俺の幸せに繋がることが見えていたように思える。
きららは、どこを見てるんだろう。
俺がわかっていないことまで、理解してるような気がする。
次は、どんな予定を、告げられるだろうか。
考えるだけで、体の奥の方が燃えていく。
「食べるかなぁ」
近くにあったメモ帳に、『お土産です』と書いて、さくらんぼの袋にテープで貼り付けた。
冷蔵庫を開けば、タッパーに入った作り置きが目に入る。
まだ、お腹は空いていない。
作り置きの上にさくらんぼを置いて、冷蔵庫を閉める。
部屋に戻れば、体の力が抜けていく。
緊張感とアドレナリンで、動けていただけらしい。
布団に倒れ込めば、眠気が一気に襲ってきた。
思ったよりも疲れた体が、あちこち痛い。
気づけば布団で、眠りこけていた。
窓の外を見れば、夜が深まっている。
お腹が減った……。
足音を立てず、リビングに降りる。
父さんも母さんも、ごはんは食べたようだ。
キッチンの洗い物カゴには、二人分の食器が並んでいた。
冷蔵庫を開けて、食べられそうなものを探す。
お土産に貰ったさくらんぼは、無くなっていた。
父さんも母さんもデザートにでも、食べてくれたのだろう。
二人とも、食べ物に好みがない人間だ。
おいしいと思ってくれたかどうかは、わからない。
感想をそもそも求めていなかったけれど……
小さい頃から食べられさえすれば、良いという感覚だった。
ごはんが不味いわけではない。
それでも、義務的に感じていたのは、確実に両親の影響だろう。
父は、高校で国語を教えている。
俺が苦手とする、国語を。
その割に、感情表現豊かな人ではないし、俺の気持ちを理解してるとも思えない。
でも、何よりも文章を愛してる人だった。
ご飯を食べてる時も、家でくつろいでる時も、何かしらの文章を熱中して読んでいた。
小さい頃は、俺も父さんの真似をして、なんでも読み漁った。
まぁ、俺には何も響かず、国語が苦手になってしまっている。
父さんの文章好きは、もはや中毒だ。
小説、ビジネス書、はては、看板まで食い入るように見つめて読み込む。
そんな父さんが母さんと、結婚したのは、やはり文章が理由だと思う。
母さんは、小説家を生業にしていた。
今は、エッセイやシナリオなんかも、書いてるらしいけど。
母さんも父さんの中毒と同じく、病気的に書くことにのめり込む人だ。
ごはんは、片手でも食べやすいものや、素早く食べられるものを優先で作る。
母さんにとっても食事は、義務でしかないらしく味は二の次だった。
人がいると集中できないらしく、自分の稼ぎで近くのアパートを借りている。
俺が幼い頃から毎朝、普通の会社員のようにアパートに出勤していた。
だから、どこかに勤めてるもんだと、勝手に思い込んでたんだ。
小学生の頃のよくありがちな『両親の仕事について調べましょう』という課題がなければ。
母さんのことも真似して、小学生の頃に一つだけ小説を書いたことがあった。
面白いとも思わなかったし、そんなもんかという感覚だった。
母さんと父さんに見せた時に、びっしりと入れられた赤字に嫌気が指して一回で辞めたけど。
二人を見ていても、文章好きにならなかったのだから、俺には合っていなかったのだろう。
かと言って、インドアな二人の子どもだ。
アウトドアな趣味があるわけでもない。
子どもらしく小学生の頃は、サッカー教室、野球クラブ、バスケクラブ、いろいろ試しては、違うと諦めた。
どこにいっても、俺ができることなどなかったから。
楽しいと思えることも……
大きな挫折を味わうこともなく、楽しめることもなく、ここまで生きてきた。
両親を見てると、あれが幸せなんだろうと思う反面。
この世界には、俺の幸せは用意されてないんじゃないかとも思ってしまう。
とにかく、結果が出せそうなことに手を出しては、興味も惹かれず、何もできなく終わってきた。
だから、誰かに必要とされることに賭けてしまってるのかもしれない。
俺の幸せは、成長の先にない気がしてるから。
他人に、認められることがないから。
他人に必要とされることへ、委ねたかった。
夢を語るクラスメイトに、なりかった。
父さんみたいに何かに熱中できる人に、母さんみたいに多くの人に愛される人に、なりたかった。
心の中に、薄いモヤが掛かる。
視界が歪んできた気までした。
お前には無理だ、と剣を突きつけられてる気分だ。
ぐううっとお腹が鳴って、空腹を主張する。
冷蔵庫に食べられるものはないし。
コンビニに行くしかない。
部屋に戻って、財布をズボンのポケットに押し込む。
そのままスマホを手にすれば、届いてるメッセージに気づく。
三件。
父さんと母さんからの、心配メッセージだ。
明日の朝、起きれたら顔を見て話そう。
もう、家を出た後だったらメッセージで返すか。
そう思いながら、父さんと母さんのメッセージを閉じる。
もう一件は、きららからだった。
『あの公園で集合! 待ってるね』
時間を確認すれば、まだ数分しか経っていない。
足音を立てずに、家を出る。
空は曇っていて、今日は月も星も見えそうにない。
とりあえずこの空腹をなんとかしてから、行こう。
そう思って公園近くのコンビニで、適当にパンを買った。
半額のシールが貼られてる甘いパンを、二つ。
それと、きららと食べるようにクッキーとポテチも。
店員さんにお願いして、おしぼりも二つ入れて貰った。
夜の公園は変わらず人気がなく、静かだ。
ブランコは酔うので、滑り台の上に登る。
高いところにいれば、きららが来たらすぐわかるだろう。
一番上で座り込んで、きららのメッセージに『OK』のスタンプだけ送り返す。
すぐに既読がついて『十分後に行く!』と返信が届いた。
些細なやりとりに、つい頬が緩む。
そして、お腹がまたぐうっと鳴って主張した。
パンを頬張りながら、川の流れる音を聞く。
ザァアアっとかすかに耳に届いた。
二つ目のパンを頬張った時、月が雲から顔を出す。
月の光を浴びながら、きららを待つ。
もう少しの手伝いは、今日で終わったのだろうか。
呼び出された理由は、バイト代の使い道か?
きららの用件を想像しながら、最後の一口を飲み込んだ。
パンを一気に詰め込んだせいか、ノドが乾く。
一緒にミルクティーか何か、買えばよかった。
俺は両親とは違って、ほどほどに食に興味がある人間だと思う。
母さんの作る薄味の和食に飽きて、「ラーメンが食べたい」「焼肉が食べたい」とわがままを言ってかなり困らせた記憶がある。
俺の誕生日だけは、外食へ行くのが恒例行事になったのはそのせいだ。
父さんも母さんも嫌な顔はしなかったけど、本当は興味がなかったのだろう。
だから、高校生になってからは「友だちと行きなさい」とお小遣いをその都度多めにくれるようになった。
まぁ、一緒に行く友だちなんかいない。
自ずと、一人で色々な店に行くのが趣味になった。
といっても、バスや電車で行ける範囲内だけだけど。
遠くの方から人影が、見える。
ぼんやりと白く発光している気がした。
近づいてくるその影は、きららだった。
「あっくん、やほー!」
「おう、バイト終わった?」
「うん、箱詰めまで手伝ってきたよー!」
俺の方を見上げながら、答えてくれる。
公園が広いからと、気が緩んで大きな声で会話してしまった。
こんな夜中に。
早く登っておいでよ、と手招きすればきららはこくこくと頷いた。
そして、滑り台の階段を登りきって、俺の隣に座る。
こんなに暑いのに、長袖だ。
女の子は寒いくらいなんだろうか?
感覚がわからないから、なんともいえなかった。
「はい、サイダー飲める?」
きららの差し出したサイダーを、ありがたく受け取る。
ノドがもうカラカラだった。
「さんきゅ」
受け取って、開ける。
プシュッと軽快な音が鳴った。
ゴクゴクと流し込めば、渇きが潤う。
「で、呼び出した用件は?」
「用が無かったら、呼び出しちゃダメなわけ?」
きららの意外な言葉に、目を丸くする。
不愉快そうな顔をして、ツンっと顔を背けられた。
「会いたかった、だけ?」
気が、緩んでいた。
だから、調子に乗ってそんなことを口にしてしまったんだ。
きららは、否定せずに、かすかに頷く。
そんな仕草に、俺の心は勝手に舞い上がる。
「俺も会いたかった!」
「はずかし」
「言ったの、きららだろ!」
急にハシゴを外されて、ズコッとお笑いのようにコケそうになった。
くすくすと笑ってくれるから、まぁ良しとしよう。
「きららは、バイト代何に使うの?」
「あ、そうそう! あっくん、旅行に行かない?」
「旅行?」
柴田さんと話したばかりだからか、以心伝心に嬉しくなってしまう。
俺も、そう思ってた。
大きく頷けば、きららはガイドブックを開く。
県内の観光名所が、ずらりと並んでいる。
「スマホで調べればすぐなのに」
「こうやって情報収集するのが、楽しいのに。わかってないなぁー!」
ピシッと鼻先に突きつけられた人差し指が、消えてしまいそうなほど白かった。
腕を上げたことで引っ張られた袖から、手首が見える。
青いアザが、また、目に入った。
さすがに、多すぎないか?
じっとアザを見ていたことに、気づいたらしい。
きららは、袖を伸ばして隠す。
「やだ、見ないでよ。収穫大変なんだから」
「え?」
「さくらんぼの収穫! 木とかにぶつけて、あちこちアザだらけなの。恥ずかしいから見ないで!」
両手で、俺の目を覆うような仕草をする。
収穫のせいであちこち、アザだらけなのは痛いだろうな。
それに、あれだけ白い肌だ。
目立ってしまうのだろう。
でも、そんな頻繁にぶつけるだろうか?
きららはさくらんぼの作業に慣れているようだった。
おばちゃんも、よく来てくれると言っていたし。
恥ずかしそうにさするきららに、首を横に振る。
寒いのかと思った長袖は、それを隠すため。
アザがあるのを見られるのは、確かに恥ずかしいかもしれない。
自分の気の利かなさに絶望しながら、目を逸らした。
「悪い。あ、お菓子買ってきたから食べよう!」
ごまかすように、買ってきたクッキーを開けた。
きららも気にしてないように、サクサクとクッキーを食べはじめた。
「やっぱり海はみたいよねぇ」
「海の何がいいの?」
「え、あっくん、海嫌い?」
嫌いも、好きもない。
俺の住む寒河江市は、山の真ん中にあるせいか海には縁遠かった。
まぁ両親がインドアなせいか、遠出したことがほぼないせいもあるだろう。
俺の中で海は、テレビやスマホで見るものだ。
川と何が違うのか、どうして人を惹きつけるのか、理解できない。
「海楽しいじゃん、夏って感じがして」
「だいぶ、抽象的だな」
「よし、海にしよ海。鶴岡か酒田だね。ラーメンも食べたい! ラーメンは? 好き?」
ラーメンは、多分好き、だ。
一人で入りやすいという理由もあるが、外食の大半はラーメンにするくらい。
県民性も、あるだろう。
なんてたって、ラーメンの消費量日本一になったことがあるくらいだ。
今はどうか知らないけど。
「割と好き、かな」
「よし、じゃあここのラーメン食べよう」
ガイドマップに、赤ペンできららが丸を書き込む。
見開き一ページ、ラーメン屋さんが載っている。
それなのに、一店舗にあっさり絞った。
「きららが行きたかっただけだろ」
「バレた?」
「バレるだろ!」
どこのラーメン屋さんもおいしそうだから、文句はないけど。
ペラペラとめくって、きららの手が止まる。
「甘いものも食べたいんだけど……どう?」
急にしおらしく窺う。
きららの好きにしてくれ、は突き放してる感じがするから。
言葉を探した。
出てきたのは……
「付き合うよ」
「あんまり好きじゃない?」
「嫌いでも好きでもない」
「じゃあ、スイーツも勝手に決めちゃお」
ラーメンは勝手に決めてた自覚があったことに、ぷっと吹き出してしまった。
甘いものも、よく食べる方ではあると思う。
誕生日といえば、ケーキが出てきた。
両親とも一切れだけ食べて、残りは全て俺が食べてる。
両親は甘いものも、あまり好きじゃないのだろう。
まぁ、食べること自体に興味がない人たちだから当たり前か。
「海に行くなら海鮮も、外せないよねぇ」
海鮮こそ、食べた記憶がほとんどない。
寿司も、選択肢に入れることはあまり無かったから。
食べてみれば、おいしいのだろうけど。
「あっくんは、これ! っていうのないの?」
ないから、きっと、自分の幸せを見つけられないんだよ。
「なぁ、きららの幸せの定義って何?」
「人を幸せにすること、かな」
「どうして?」
「ど、どうして?」
聞き返されると思っていなかったのか、きららの肩が揺れる。
そして、うーん、うーんと唸りはじめた。
人を幸せにすると、幸せになれるのだろうか。
正論とも思える。
だって、母さんの幸せは、父さんの幸せに繋がっているし。
家族の中で俺だけ、その矢印の中には入れていないけど。
「だって、人を幸せにできないと生きてちゃいけないでしょ」
きららの言葉に、どくんっと胸が脈打つ。
暑いくらいの気温のはずなのに、身体の芯から急激に冷えた。
体温が奪われていくのがわかる。
「どういうこと?」
「え?」
「それ、どういうことだよ」
語気が、つい強くなってしまった。
俺の知らなかったきららの価値観に、変な汗が出る。
生きてちゃいけない。
そんな言葉、どうして出てくるんだ。
嫌な予感が、身体中に張り付いた。
「だって、え、怒らせたり悲しませたりする人は、生きてちゃいけないでしょ?」
恐る恐るといった感じに俺を見つめて、きららは言葉を選んでる。
手をバタバタと忙しなく動かして、戸惑っているのが見てとれた。
生きてちゃいけない?
そんな人間いるはずがない。
誰が、どうして、そんなことをきららに教えてるんだ。
「なんで、そう思ったの?」
「みんな、そうでしょ?」
「みんなって、なに」
「だって、人が生きるためには色んな人に助けられるんだから。自分のことより、他人のことを考えなくちゃ」
自分に言い聞かせるような言い方に、目の奥が痛む。
人に迷惑を掛けて生きてることは、わかってる。
それでも、他人のことだけを考えなくちゃと思うほど俺たちはまだ大人じゃない。
親や周りの大人に諭されながら、それでも、自分の未来を想像していられる子どもだ。
幸せはまだ、俺には見えない。
それでも、きららの言葉が今の俺たちには正しくないことがわかる。
自分に生きる価値がないと思ったことは、何度もあった。
俺には、何もないから。
それでも、当たり前のように誰かに押し付けられた価値観で、生きてちゃいけないと、きららが口にすることが腹立たしい。
「そんなことないだろ」
「ある、から。私は、そうなの! だから、人を幸せにすることが私の使命なんだよ。生きていくために」
掠れていく声に、ついきららの腕を掴む。
「おかしいと思わないのかよ」
「おかしくないよ。私は、そういう人間なの。人より、ワガママだし、迷惑掛けちゃうし、本当は、生きてちゃいけないから」
絶対にそんなことはない。
きららに生きる価値がある人間だ。
誰かを悲しませたり、怒らせたり、人は間違うことくらいある。
それでも、俺が言えることじゃなくて、言葉をうまく出せない。
「あっくん、痛いよ?」
「悪い」
「どうしちゃったの、急に」
深呼吸して、ごまかす。
どう伝えればいいのか、わからない。
きららには価値があるよ、って言ったところで伝わらないだろう。
自分の無力さに、吐き気がする。
俺はどうしたらいいんだ。
「そんなことより、あっくんの幸せはどういうものか、わかってきた?」
いつもと変わらない、きららの笑顔。
それが今は、胸を苦しくさせる。
俺の幸せのほうが、どうでもいいよ。
それでも、きららはまっすぐ俺を見つめる。
「ねー!」
「まだ、わからないかな」
本当にわからない。
俺なんかが、幸せを望んでいいのかも。
きららの生きていていい理由になるなら、幸せになるべきだと思った。
でも、そんな幸せは本物なのか?
幸せが何か、わからない。
むしろ、ますます分からなくなった。
誰かを幸せにしないと生きてちゃいけないと考えるきららは、それでも幸せだと言う。
「幸せってなんなんだろうな」
「迷宮入りしちゃってるじゃん! ダメだよ、あっくんを幸せにするって決めたんだから」
「おう」
本当に心からそう思ってるきららの表情に、次の言葉が浮かばなかった。
「どういう時が、嬉しい?」
「どうだろうな」
嬉しかったことは、数えられないほどあるはず。
あるはずなのに、頭がうまく働かない。
今は目の前の痛々しい、きららのことで脳内が埋め尽くされてる。
「バイトは、どうだった?」
バイト代を貰った時は、たしかに嬉しかった。
自分で稼いだ初めてのお金。
達成感も相まって、心が震えた。
それは、本心だ。
でも、きららの前ではそれがちっぽけなことのように思える。
「あっくん!」
両頬をきららの手で、挟まれる。
柔らかい手のひらの感覚が、伝わってきた。
「なに?」
「上の空じゃん! あっくんの幸せを探すために私ここにいるんだよ」
裏を返せば、見つからなければずっとここに居てくれる?
そしたら、生きてちゃいけないなんて、きららに教えな人から離れられる?
……旅はいいかもしれない。
相手が誰かはわからないけど、旅に出てしまえば誰であろうと離れることができる。
「旅、行こう」
「え、うん? 旅は行くけど、急に何?」
「初めての経験が、多分、俺には必要だから」
取ってつけたような言い訳だ。
それでも、きららは良いように受け取ってくれたらしい。
「バイトも楽しかったって、ことだね! よかったー!」
「うん、きららのおかげだよ」
だから、生きてていいんだよ。
本当はそんな理由なくても、生きてていいんだけど。
きららが生きてる理由に、なろう。
いつかは、そんな考え方すら忘れさせてやるけど。
「ほら、泊まるとことかも決めよう」
ガイドマップを、きららの前に突き出す。
夏休みはどうして、こんなに短いんだろう。
もっと長かったら、たくさんバイトをして、もっと長い間旅に出られるのに。
俺は、どうしたら、きららの考え方を変えられる?
烏滸がましいかもしれないけど、このままじゃダメだ。
きららに、誰かを幸せにしなくても生きていていいと伝えなくちゃ。



