月のかけら。




 あれから幾つもの季節を越えて、燈月の未来を描いた日記は、全部で二冊になった。完成したそれらをわたしと美織で、一冊ずつ分けて持つ。

 二冊目の最後のページを書き終わった時、わたし達は既に高校生になっていた。

 日記の中の燈月も、今はわたし達と同じように高校生になっていて、相変わらず無邪気で天真爛漫な彼女と三人、楽しく変わらない日々を過ごしている。

 そしてそのまま、当然のように三冊目を書こうともした。わたし達は、日記の中でなら一緒に成長し続けられる。
 けれど不意に、未来を紡ぐ手が止まる。どうしても、それ以上大人になった燈月を想像出来なかったのだ。

 遅刻しなくなった燈月。
 無邪気さを落ち着きに変えた、大人の燈月。
 お化粧を覚えて、白いワンピースなんて着なくなって。
 いつか、見知らぬ相手と恋をして、わたし達が一番じゃなくなる。
 そうしてやっぱり、わたし達の傍から離れていってしまう。

 それはきっと彼女にとって幸せで、本来あるべき未来だったのかもしれない。
 けれどそんなのは、わたし達の知っている燈月じゃなかった。
 わたし達にとって燈月は、いつまでも『あの頃』のままだったのだ。

 それを自覚してから、わたしは続きが書けなくなった。
 美織もきっと、同じだった。同じ地元ではあるものの、別々の高校生に進学した美織とは、少しずつ会う機会が減っていた。

 そう、日記の中の三人の日々は、とうに現実から大きく乖離していたのだ。

 二冊目が終わる頃までは辛うじて、休みの日に予定を合わせて会っていたのに。お互い何と無く察していたのか、三冊目に取り掛かれないまま、気付くとしばらく時間が経ってしまっていた。
 そうなると、連絡を取るのもたちまち躊躇するようになる。
 あの頃は、何もなくても交換日記に書くことは絶えなかったし、日が暮れるまで公園ただお喋りを続けていられたのに。

 お互い過ごす環境が変わって、付き合う人間も変わって、進学してより難しくなった勉強に、初めてのアルバイトに、それぞれの部活。
 美織には多分、恋人も出来た。それがシュウ先輩なのかは、わからないけれど。

 あれだけまだ要らないと思っていたスマホだって、わたし達は手に入れた。けれどそこには、燈月の番号が登録されることはない。

 忙しく過ぎる毎日の中で、わたし達は一秒ごとに、嫌でも燈月を置いて大人になってしまう。
 そのことを、日々の端々で思い出したように実感するのだ。

 柔らかな心に受けた青春の傷は、直視するのも辛いくらい生々しくて、根が深い。治し方だって、誰も教えてなんかくれない。
 けれど、その傷に時間をかけて瘡蓋を張っていくことが、きっと大人になるということだ。それがきっと正しくて、成長するのに必要な通過儀礼。

 わたし達は傷を受けたのが早かったから、きっとその経験の分早く成熟して、大人になる。

 だけど、そんなのは嫌だった。

 だからわたしは、何度だって出来かけの瘡蓋を無理矢理剥がした。
 忘れそうになる度に、過去になりそうになる度に、鮮明に胸の痛みを思い返して、傷を抉る。
 痛みを伴うことで、かつて確かにそこにあった幸せな時間を刻むように留めようとした。

 矛盾しているのは分かっていた、それでも、こうする他なかった。
 どうしたって身体は成長するし、時計の針は止まらない。周りの環境だって、否が応でも変わっていく。
 けれど心だけは、燈月と共に、三人で過ごした少女の頃のままで居たかったのだ。

「燈月……一緒に、かえろう」

 今度はもう、わたしは彼女を置いて行ったりしない。数え切れないくらい、痛みにそう誓った。

 わたしはひとり、流れるような日々の合間を縫って、永遠に少女で在り続ける燈月を断片的に書き綴る。

 きっと美織も、もう燈月すら、望んでいないであろう自己満足の行為。それでも、やめることなんて出来なかった。やめてしまったら、彼女は今度こそ、もう何処にも居なくなってしまう気がした。

 だからわたしは、何年経っても、何度だって瘡蓋を剥がして、もう戻れないあの頃に心を沈めて、少女に還る。

 彼女をもう、死なせたりしない。
 世界が変わってしまっても、わたし達は、ずっと一緒だ。

 あの日世界が歪んでしまったのなら、わたしも合わせて歪むしかなかった。
 美織はきっと、歪んでしまったわたしとは違って、正しい世界で、正しく成長し生きている。彼女はすぐに、大人になってしまうだろう。

 三人の世界は、とっくにバラバラになってしまっていた。

 それがいくら寂しくても、先に進む美織と、止まってしまった燈月と、立ち止まり続けたいわたしとでは、もう同じ世界を見ることは出来ない。

 それはもう決して覆らないことを、連絡のないスマホを見る度に、心の何処かで理解していた。
 だから、もがき縋るようにひとり綴り続けるひみつの日記は、歪なわたしだけの罪で、祈りで、秘密の贖罪だ。

『132』わたし達の、秘密の合言葉。
 わたしは今日も、最早幻想でしかない何冊目かも分からない日記を、その合言葉と共に大切に閉じる。

 燈月は、ここに居る。
 これからも、ずっと一緒。
 あの頃を、何度でもやり直そう。
 わたしはもう、何も失わない。

 断片的で痛切な、祈りとも似た呪いの言葉と共に、鍵はあの頃と変わらない小さな音を立てて、燈月のかけらを、その中にそっと閉じ込めた。