月のかけら。


 わたしの様子がおかしいことに気付いていたのだろうか、その後美織が『美術部のシュウ先輩』の話をすることはなく、告白にどう返事をしたのかも聞くことはなかった。

 こちらから話しやすいように話題を振れば良かったのだが、何と無く聞きたくなかった。そして、言い訳じみているが聞くタイミングもなかったのだ。

 翌日には、燈月のお葬式が控えていた。その日は学校があったけれど、最後のお別れにはわたし達が参加出来るようにと三笠家で取り計らってくれたようで、何人かが代表として、お葬式に参列することになった。

 当日の朝になり、急遽クラスからその代表を選ぶ。わたしと美織、そして小学校から一緒だった他の三人の、計五人が彼女の見送りに行くことになった。

 その三人は、わたしと美織とはそこまで仲良しという訳ではなかった。ただ小学生と中学校が同じだけの近所に住む子供。ただ偶々今年クラスメイトになった人達だ。

 だから、そんな三人がわたし達と同じように選ばれて、内心少し複雑ではあった。けれど三人とも、聞けば燈月の中学校での同じ部活のメンバーだったり、小学校の頃同じ係だったり、習い事が同じだったりと、それぞれ燈月と交流があったのだ。

 美織だけじゃない。考えてみれば、燈月にも『わたし達三人』じゃない時間が存在した。
 当たり前のそのことを、今になってようやく知る。その事実が、少し寂しかった。

 選ばれた五人の中で、わたしと美織が友達代表として、お葬式で短いお別れのスピーチをすることになった。
 急な話に戸惑ったけれど、二つ返事で引き受けた。わたし達が特別だと、皆から認められた気がした。

 担任から原稿用紙を貰って、その日の一時間目の授業は免除されながら、教室の隅で二人で一生懸命相談して書いた。この時ばかりは、気まずさなんて二の次だった。
 お別れのスピーチなんて、当然そんなもの経験がなかった。何を書けばいいのか分からない。原稿用紙は何度も書き直したせいで、よれよれになってしまった。

 燈月にお別れの言葉を伝えられるのは、それがきっと最後の機会だというのは理解出来た。そんな大切な言葉を、妥協も諦めもしたくはなかった。

 教室に満たされるノートにシャープペンを走らせる音や、教科書のページを捲る音、音読の声に紛れて、わたし達の鼻を啜る音が静かに響いた。

 三時間目の授業を抜けて、わたし達五人を乗せた担任の大きな車は、近所なのに足を踏み入れたことのない葬儀会場へと向かう。
 制服が学生の喪服代わりになることを、わたしはその時初めて知った。まだ新しい制服に、嗅ぎ慣れないお線香の匂いが染み込む。

 それはどこまでも非日常で、悲しいくらい現実だった。

 初めてのお葬式は、粛々と進んだ。聞き慣れないお経も、黒一色の空間も、噎せ返るような生花の匂いも、それに合わさるお線香の匂いも、大人達の涙も、それら全てわたしの知っている燈月とかけ離れていて、それが燈月のための式だと理解していても、何だか少しだけ怖かった。
 作法も何も分からずに、ただひたすら背筋を伸ばして座り、数珠を固く握りしめて、花に囲まれた遺影の笑顔と見詰め合う。

「友人代表スピーチ、音更綴さん、当麻美織さん、お願いします」
「はい。……行こう、つづる」
「うん……」

 不意に知らない大人に不意に名前を呼ばれて、更に背筋が伸びた。わたし達は頷き合って、僅かに緊張しながら皆の前へと移動する。
 燈月の眠る棺の側で、たくさんの白い花を背景にして、黒枠の中でいつも通り微笑む燈月と三人で並ぶ。それはとても、おかしな感覚だった。

 前に立って初めて、会場中を見渡せた。これだけの人達が集まっていたのだ。ここに居る皆が、燈月を愛して悼んでいる。そのことが、誇らしくもあり悲しかった。

 最前列に居た少年、久しぶりに見る龍介くんは、記憶の中よりもかなり成長していたけれど、幼い頃と同じように泣き腫らした目を真っ赤にさせていた。
 その隣の燈月のご両親は喪主として気丈に振る舞おうとしているけれど、最後に会った時よりもかなり憔悴していた。

 会場には他にも、わたしのお母さんや美織のお母さんも居た。知らない人もたくさん居た。
 わたし達が知るよりも多く、燈月には燈月の時間があったのだ。
 それらが全て唐突になくなってしまって、もう今後新しく増えることはない。
 燈月の時間は止まってしまったのだ。『死』というものを、その時改めて突き付けられた。

「……燈月へ」

 深呼吸の後、わたしは消しゴムをかけ過ぎて破れかけた原稿用紙を広げ、少し高いマイクに向かって声を吹き込む。静かな会場に、わたしの息遣いまで響いた。

「わたし達の出会いは、幼稚園の頃でした。燈月と美織とわたしはたまたま同じ組になって、お母さん同士が仲良くなって、それから幼稚園の外でも遊ぶようになって……きっと、それが始まりです。きっとって言うのは、幼稚園の頃の記憶はあんまりなくて……うん。記憶よりも先に、燈月の居る時間が、わたしの日常で、当たり前でした」

 原稿用紙を握る指先が冷たくなっていくのに、反対に喉や目の奥はじわじわと熱くなり、マイクに乗せた声がどうしても震える。

「小学生になっても、相変わらずわたし達はいつも一緒で。わたしのアルバムの写真には、ほとんど燈月と美織が写ってて……わたしのアルバムじゃなくて、三人のアルバムみたいになってるのを……この間、中学の入学式の写真を入れる時に見返して、お母さんと紡と笑ったばかりでした」

 今後同じアルバムを見て、きっともう二度とそんな風には笑えないのだと、もう二度と三人の写真は増えない事実に、胸が締め付けられる。

「……三人でしてた交換日記は、全部でもう十冊以上になるかな……六年間途絶えずに書き続けた日記。毎日色んなことをして、人から見たらくだらないような、でも笑いが絶えない楽しい時間を、たくさん一緒に過ごしたね。そんな……、そんな、今この時間だけじゃ語りきれない程の、燈月との、たくさんの思い出は、わたし達の、宝物、です……」

 言葉にした途端、たくさんの思い出が、記憶が、まるで走馬灯のように脳内を駆け巡った。燈月も、最期の瞬間にわたし達のことを思ってくれただろうか。

 胸の内に溢れる愛しい記憶が涙となって溢れてしまわないよう、言葉を詰まらせながらも、必死に耐えた。耐えるしか、出来なかった。
 わたしは隣の美織へと残りの原稿用紙を手渡し、語り手を交代する。

「……燈月。私達の大切な親友。これからも、ずっと一緒に、たくさんの思い出を作りたかった。これからも、一緒に居られると思ってた。……まだ、あなたが居なくなった事実を、受け止めきれていません」

 大人達の啜り泣く声が、遠くに感じる。
 すぐ隣の美織の声を聞きながら、わたしは隣で上を向いて、滲む視界で眩しい照明を見上げる。
 堪えるように、新しい制服のスカートを、皺になるのも気にせず握り締めることしか出来なかった。

「燈月、本当にありがとう。私達は、あなたのことを、決して忘れません。……いつになるかわからないけれど、私達がそっちに行ったら、また、一緒に遊んでね。天国で、また三人で、楽しい思い出、作ろうね……」

 美織の声も震えていた。涙も、彼女は堪えきれてはいなかった。
 それでも、燈月への最後の手紙となる原稿用紙を、最後まで止めることなく、わたし達は二人で読み続ける。

「……さよならは、言いません。必ずまた会えるって、信じてるから。……燈月、その時まで、ゆっくり休んでね」
「……今度は、いつもと違って、わたし達が遅刻する番だから……わたし達がそっちに着いたら、今度は燈月が『遅いよ』って言って……また、いつもの笑顔を見せてね」

 わたし達はどちらともなく、真っ赤に充血した目で視線を交わし頷く。
 最後の一文となった手紙を、笑顔の遺影ではなく、彼女が眠る棺に向けて言葉にすることにした。
 喉の奥に熱が籠って、もう声を発するのもやっとだ。

「「……燈月。今までも、これからも、ずっと大好きだよ」」

 重ねた二人の声は震えていて、上手く言葉に出来たか自信がない。
 当然返事はなかったけれど、この気持ちが、ひとり眠る彼女に伝わっていたらいいと、切に願った。


 式はその後も滞りなく進行し、あっという間に最後のお別れの時。見送りに並んだわたし達の間を、燈月を閉じ込めた冷たい棺が進む。
 顔に位置する部分が窓のような蓋になっていたけれど、それは最後まで開けられることはなかった。

 彼女の色んな表情をこれまで見てきたけれど、棺の中の燈月がどんな顔をしているのかは、想像出来なかった。
 わたしの記憶の燈月は喜怒哀楽がよく顔に出る子で、感情も体温も無くした彼女は、当然知らなかったのだ。
 せめて安らかな寝顔であって欲しいと思っていたけれど、見せられないということは、そういうことなのだろう。

 顔を見たかったという気持ちと、見てしまったら、その顔がきっと燈月の最後の記憶になってしまうという二つの感情を抱えたまま、わたしは遠ざかる棺をただ呆然と、遠くの景色のように見送るしか出来なかった。

 さよならは、告げなかった。
 だってまた会おうと約束したのだ。

 だからわたしの中では、とてつもなく寂しかったけれど、最後という明確な区切りはなかった。つけたくなかった。

 けれど隣で見送る美織は、あの日のように声を殺すことはなく、それが最後とばかりに嗚咽混じりにぼろぼろと大粒の涙を溢して、棺が見えなくなる頃には声を上げて子供のように泣いていた。

 お葬式を終えて、担任の車でわたし達はそれぞれの家に帰された。
 お母さんはまだ会場に居るのだろうか。誰も居ない家の中を歩くと、制服や髪にお線香の匂いがまだ残っていて、動く度にふわりと香る。

 お別れの名残が纏わり付くようで、わたしはそれを洗い流すようにシャワーを浴びた。部屋に戻り、鞄からくしゃくしゃになったスピーチの原稿用紙を取り出すと、これにも仄かにお線香の匂いが染み込んでいた。

 わたしはそれを、引き出しの奥へと仕舞い込む。これ以上、終わりを意識したくはなかった。
 そして意識を切り替えるように、今朝美織からわたしに回って来た交換日記を見る。
 わたしの書く予定のページの次、燈月の書くはずだった空白のページに、また燈月の丸い文字が増えていた。

『ありがとう』

 前回とは違う、今にも消えそうな筆跡の、短い言葉。
 わたし達の気持ちが届いたのだろうか、彼女も、さよならは言わなかった。それだけで、少し報われたような気持ちになった。
 わたしはその言葉が涙で滲んでしまわないように、スピーチの時と同じように上を向いて涙が溢れるのを堪える。

「わたしこそ、たくさんありがとう、燈月……」

 再びふわりと香ったお線香の匂いは、先程よりも寂しくは感じなかった。

 結局、その後もそのノートを使い、わたしと美織で変わらず交換日記を続けた。けれどあれ以降、燈月の言葉が書き足されることは、二度となかった。
 お線香の匂いも、もうしない。燈月の名残が消えてしまった一抹の寂しさと、彼女は天国に行くことが出来たのだという安心感を覚えて、しばらくしてその紺色のノートは最後のページを迎えた。

 しかし書こうとして、気付いてしまった。
 燈月の言葉は、もう書き足されることはない。つまり三人での交換日記は、三人での日々を綴ったものは、これを書き終えると完全に終わってしまうのだ。

 それはわたしにとって、燈月との日々を明確に『過去』に変えてしまう、とても恐ろしいことだった。

 思い出は美化されていく。そしてそれと同時に、事実も証明しないと風化されていくものだ。
 燈月はもういない。この世の何処にも、存在しない。残されたのは、わたし達の記憶の中の燈月だけ。
 たとえ些細な出来事だとしても、それらは燈月を形作る大切なかけらだった。

 美織にとって美術部での時間や家族との時間があるように、燈月にもわたし達の知らない時間があったことは、既にちゃんと理解していた。
 だからお葬式に参列したクラスメイトや、弟である龍介くんから、わたし達の知らない時間の話を聞くことは出来る。何ならその方が、彼女の生きた時間をより形作ることが出来るだろう。

 けれどわたしはどうしても、片寄ると知りつつも『わたし達の燈月』だけを留めておきたかったのだ。

 わたし達しか知らない、わたし達だけの『ひみつ』の時間。それらを忘れることはわたしにとって、燈月の死を幾度も繰り返すことと同義だった。

 紺色の交換日記の最後を中々回さないわたしに、どうしたのかと理由を聞いてきた美織にわたしの本心を伝えると、既に涙と共に区切りをつけ過去のものとしていたであろう彼女も、同意してくれた。

 共感ではなく感傷か、あるいは同情かもしれない。それでも良かった。
 わたしはどうにかして、燈月が完全に『過去』になってしまう前に、忘れたことにも気付けない何かを忘れてしまわぬ内に、それらを形に残したかった。

「でも、形に残すって、どうやって? 写真や動画はもう撮れないし……頭の中のことを、どうやって形にするの?」
「それは……」

 思いを形にするもの。何よりも胸に届くもの。そして、ずっと残るもの。

 そう考えた時に、回さず手元に残った紺色の交換日記と、引き出しの奥に閉じ込めたお別れのスピーチの原稿用紙を思い出して、『これだ』と思った。


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