「おはよう、つづる。良く眠れた?」
「おはよう……美織。……あんまり」
「……そっか、私も」
燈月が居なくなっても、当然のように新しい朝はやって来た。
眩しいくらいの日の光は、色んな生き物を覚醒へと導き起こすのに、燈月のことはもう起こしてくれない。
家も近所で、朝練のある部活に所属している訳でもないわたし達は、待ち合わせずとも大抵同じ時間帯に通学路である大通りで会った。
朝に弱い燈月は必ず一番遅くに家を出て、ふわふわとした色素の薄い髪を揺らしながら、わたし達の後を追って駆けて来る。
その髪色は地毛にも関わらず目立ち、幼稚園の頃から周りに色々言われてきたけれど、わたし達はその明るい柔らかそうな色がとても好きだった。
燈月が完全に朝寝坊した日には道中合流出来れば御の字で、たまにチャイムギリギリで駆け込んで来ては、クラスの皆に「またか」と笑われていた。
そんな燈月に「遅いよ」と笑い掛けて、わたし達の一日が始まる。
けれどもう、振り向いたってそこには、追い掛けてくる彼女は居ないのだ。
並木道の桜はもう散り始めていて、春は燈月を連れて終わりを迎える。
通学路でのいつもより少ない会話、ぎこちない空気。桜吹雪の物悲しい光景。美織と二人だけでは、どうしても彼女の欠けた空白を埋めることは出来なかった。
教室に着いてからは、燈月の席に花が飾られていること以外、世界はいつも通りだった。
昨日ショックの表情を見せていたクラスメイト達も、もうその名残を感じさせない。皆の世界は、燈月が欠けたままでも機能しているようだった。
「……あ、そうだわ。ごめんねつづる、昨日は日記を書けなくて、持ってきてないの」
「……うん、仕方ないよ……」
もしわたしの順番だったとしても、とてもじゃないがしばらくは書けそうにない。
いつもなら日々の中から取り留めのない言葉が浮かぶ心の中は、もう見ることの叶わない過去の燈月の笑顔に囚われていた。
「それでね、昨日見た『一緒にかえりたかった』っていうのは……」
「あ、あのさ美織! 昨日休んじゃった授業のノート、誰かに借りないとね!」
「え……ああ、そう、ね」
美織からの言葉に、わたしはあからさまに話題を逸らしてしまった。
だって、わたしが一緒に帰らなかったことで、燈月が死んでしまったのかもしれないのだ。
一瞬にして、心の中の燈月の笑顔は霧散して、見た訳でもない事故現場の想像が脳裏に過ぎる。
わたしは、自らの罪が露見するのが怖かった。
美織は何か言いたそうにしていたけれど、チャイムが鳴って、それぞれ席に戻る。
後方から視線は感じたものの、振り返ることなく、会話はそこで途切れた。
授業の内容は、あまり頭に入って来なかった。昨日一時間分抜けている教科なんかは、最早理解不能の呪文のようだ。わたしは早々に諦めて、思考の海へと意識を沈ませる。
『ひみつ』から燈月が抜ければ、残されたのは美織の『み』と綴の『つ』だけ……『蜜』ならば甘いけれど、この場合『罪』なのかもしれない。
燈月は置いて帰ったわたしの『罪』を暴こうとしているのか、それとも、単に日記を続けることで三人の関係を保とうとしているのか。わたしには分からなかった。
ぼんやりと意味不明な記号を連ねた黒板を眺めていると、開いた窓から入り込む春風に揺れる先生の髪色が、ほんの少し燈月の髪に似ていた。日に透けると煌めく、美しい色だった。
本人も「髪の毛が完全に黒かったら、男子からの名前の弄りが悪化したかもしれない」と話していたことがある。
燈月は『ひづき』と平仮名にすると『ひじき』に似ているからと、小さい頃から心無い幼稚な男子にからかわれて嫌がっていた。
逆にわたしは『綴』という名前の漢字に何と無く固いイメージがあって、『つづる』と平仮名表記の方が柔らかく感じられて好きだった。
だからわたし達は、学校で習うよりもっと前に『燈月』の名前は漢字で書けるようになったし、わたしの名前は漢字で書けるようになっても、変わらず平仮名で書いてくれていた。
それがわたし達の中での当たり前になり、けれどわたしはその字を意識する度に、嬉しくなった。
振り返りながら、不意に思う。幼稚園の頃の出来事が曖昧なように、そんなわたし達にとって大切な思い出も、喜びも、いつか朧気になり、忘れてしまうのだろうか。
その時燈月は、忘れたわたし達によって二度目、三度目の小さな死を迎えてしまうのだろうか。
想像して、怖くなる。わたし達が、再び記憶の燈月を殺す。それはきっと、純然たる『罪』に違いなかった。
*******



