保健室とは違う落ち着く布団の感触にくるまれながら、今日一日で感情という感情が頭の中で無理矢理シェイクされたような疲労感に、思わずぐったりとする。
しばらくしてリビングから響いた母親の声に、わたしは重怠い身体を起こした。世界は相変わらず歪んでいるのか、足を床につけているのに何だか波のように揺れているように感じた。
けれどそんな不安定に気付いていないふりをして、わたしはいつものように妹の隣の椅子に座り、用意された夕食を口に運ぶ。
口に含んだお母さんの唐揚げがいつもより美味しく感じられて、こんな時なのにお腹はしっかり空いていたんだと実感する。
泣いて眠って昼を食べ損ねたせいだろうか。それまで特に空腹は感じなかったはずなのに、ちゃんと味わう前に飲み込んで、胃に流し込むように食べ進めた。
身体の真ん中にぽっかりと穴が開いたような心地がするから、それをとりあえずご飯で埋めようとしているのかも知れない。
「あら。綴ってば、お腹空いてたの?」
「……そうみたい」
「わかった、お姉ちゃんダイエットしてお昼抜いたんでしょ」
「そんなんじゃないよ」
お母さんも妹の紡も、いつもと変わらない。今日一日で今までの世界が壊れてしまったのは、わたしだけだ。
あっという間に用意された食事を全て胃に詰め込んで、一息吐く。
一気に食べ過ぎたせいですぐに気分が悪くなりそうだったけれど、吐き出すべきは胃の内容物ではない。
わたしはつとめて感情的にならないよう、世間話のように、二人へと世界の終わりの言葉を告げた。
「あのさ……昨日、燈月が……」
幼い頃から知っている彼女の訃報を知った我が家の食卓は、一気に静まり返る。お母さんも紡も、箸を置いてしまった。しかし、何を言ったら良いのかわからない様子だった。
それは今朝の美織との、言葉のない共感とは少し違った。幼馴染みとして一番傍に居たわたしが一番ショックを受けていることを、二人も知っている。だから今冷静なわたしを前に、大袈裟に嘆くこともしない。
けれどしょっちゅう家族ぐるみで遊んでいたのだ、二人の悲しみと喪失感、動揺も無理はなかった。
しばらくして、口を開いたのは紡の方だった。
「燈月ちゃんが……? うそでしょ……? ああ、でも、だからあいつ、休んでたのか……」
「あいつ? 龍介くん、だっけ……燈月の弟くん」
「うん……いつも元気なのに、休むなんて変だと思ったんだ」
燈月には弟が居た。三笠龍介くん。紡と同い年の小学五年生。
小さい頃は燈月にくっついてうちにも良く遊びに来て居たのだが、この年頃にもなると女子の集まりに参加するのが恥ずかしくなったようで、わたしは彼とめっきり会わなくなった。
紡は龍介くんと学校外で遊べなくて寂しそうにしていたけれど、小学校では今は同じクラスらしい。夕食時の話題には時折名前が出たから、そこそこ友好的な関係は築けていたのだろう。
今夜もわたしが話を切り出さなければ、紡は龍介くんの珍しい欠席の話をしようとしていたようだった。
幼馴染みを亡くしてこの苦しみなのだ、姉を亡くした彼は、どんな暗闇に居るのだろう。
小学生なんて物の分別がつかないような幼いものと思われがちだけれど、わたしだって、ついこの間まで小学生だったのだ。近しい人が亡くなることの悲しみが、難しい感情や思考を抜きにしてダイレクトにその小さな身体に詰め込まれることくらい、想像がついた。
けれど、家族が皆健在なわたしには、三笠一家の本当の苦しみは想像も出来なかった。
夕食後、食器の片付けもそこそこにスマートフォンとにらめっこするお母さんは、燈月のお母さんへと送るメッセージに頭を悩ませているようだった。
その姿を見て、わたしにはまだスマホがなくて良かったと、どこか他人事のように感じる。
いつでもどこでも繋がれるということは、とても便利なことではあるけど、その分時間に縛られて、急かされて、タイミングに左右される気がするのだ。
『訃報を知ったのにすぐに声を掛けてくれなかった』とか、逆に『葬儀の準備に忙しいけれど、せっかく気遣ってくれたのだから返事をしないとならない』とか、『既読スルーされてるのは、何かメッセージが気に障ったからかな』とか、必要以上に色々考えてしまいそうだ。
紡は早く自分のスマホが欲しいと誕生日やクリスマスの度に言うけれど、それが叶うとしたら、先ずは姉のわたしがスマホを得てからだろう。
だけど言葉を頭の中で練る時間があって、自分の好きなタイミングで書いて、いつ来るかと受け取るのにわくわく出来る交換日記くらいが、わたしにはちょうど良かった。
食事を終えて、わたしは一番風呂で湯船に浸かる。頬にこびりついた涙のあとを洗い流し、温かなお湯に身を委ねながら、寝過ぎて凝り固まった身体と疲れた心を溶かすように、長く長く息を吐く。
今日一日でこんなにも世界が変わってしまったのに、明日からも日常が続くのだ。
何だか不思議な感覚だった。わたしの身体はお湯に溶けてしまうことはなく、変わらぬ形を保っている。
燈月の身体は、もうじき焼かれて骨と灰になってしまうのに。暗く沈んだ気持ちに、枯れたと思っていた涙が、再び溢れた。
湯上がりには長めの髪を乾かすのもそこそこに、わたしは全て投げ出すようにベッドに飛び込んだ。濡れた髪が火照る頬に触れて、ひんやりとする。涙の温度とは、少し違った。
夜中になっても眠ることが出来ず、ぼんやりと寝転びながら、わたしは脳裏にこびりついた日記の一言を思い浮かべた。
『一緒にかえりたかった』というのは、昨日のことだろうか。
わたしは昨日の放課後、燈月を置いて先に帰ってしまったのだ。
なんてことはない。ただ見たいテレビ番組があって、燈月の掃除当番を待っていたらそれに間に合いそうになかった。
交換日記にもそのテレビの感想を書いたのだが、今にして思うと、なんて下らないのだろう。
最後になるなら、待っていれば良かった。
最後になると知っていたら、交換日記に書くからと出し惜しみせずに、もっと色んなことを直接伝えた。
最後ならわたしだって、一緒に帰りたかった。
最後だったなら、もっと……
ひとつ浮かんでは更に膨らむ後悔を幾つもするけれど、ふと、気付いてしまった。
もしかすると燈月は、先に帰ったわたしに追い付こうとして、近道として普段通らない道を通って、車に轢かれたのかもしれない。
だって普段、あんな人通りの少ない道を選ぶことなんてなかった。
わたし達はいつも、大通りから季節の移ろいを映すであろう並木道を眺めながら帰るのだ。
「わたしの、せい……?」
その考えに至った瞬間、湯上がりで布団に潜り温まっていたはずの身体から、さぁっと血の気が引くのを感じた。
『一緒に帰りたかった』は、文字通りの希望や後悔ではなくて、『死にたくなかった』というわたしに対する怨み言だったのかもしれない。
わたしはもう、そこから朝まで眠ることは出来なかった。
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