月のかけら。




 気が付くと、すでに放課後だった。グラウンドから響く運動部の掛け声、少しずれた吹奏楽部の演奏、廊下から聞こえる誰かの話し声。
 涙に染まっていた世界に、日常の音が戻っていた。あのまま泣き疲れて、眠ってしまっていたようだ。

 枕は涙を吸って冷たかったし、目や頬は涙が乾いたのかがびがびとした。ややあって鉛のように重たい体を起こすと、泣き過ぎて痛む頭に眉を寄せる。
 燈月が居なくなったのは、質の悪い悪夢ではなかったのだ。

「……つづる、起きたの?」
「うん……おはよう」

 不意にカーテン越しに声を掛けられて、わたしは小さく返事をする。無理に声を押し殺して泣いたせいか、喉も焼けたように痛かった。
 ベッドを囲むカーテンを開けると、直接夕日が差し込んでくる。窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。

「……美織、待っててくれたの?」
「こんな状態のつづるを一人で帰すのも、心配だもの」

 やっぱり美織はお姉さんだ。夕日に染まる泣き腫らした目元には涙の名残があるけれど、その表情はいつも通りの控えめな笑顔だった。

 すっかりぐちゃぐちゃになった髪を手櫛で整えていると、美織が教室から取って来てくれたのであろう、わたしのカーディガンと鞄を差し出してくれた。

「ありがとう……」

 わたしは差し出された鞄を受け取ろうとして、まだ寝惚けているのだろうか、手に思ったよりも力が入らずその場に取り落としてしまう。

「……わっ」
「ちょっと、大丈夫?」

 落下の後、思いの外大きな音が連なり、わたしは目を見開く。鞄が開いていたのか床に盛大に中身をぶちまけてしまっていた。
 しゃがんで拾ってくれる美織に申し訳なさを感じつつ、わたしもベッドから降りると、相変わらず、地面は歪んだ感触がした。

 床に広がるのは、中学に上がったからと新調したペンケースや、まだ数ページしか進んでいないテキスト。あんなにも楽しみだった中学校生活の序章を彩る物達は、この不安定な世界において、まるでわたしの物ではないみたいだ。

 そんな風にどこかぼんやりとしながらもベッドの下に飛んでいった一冊のノートを何とか拾い上げ、一瞬手が止まる。それは、三人の『交換日記』だった。

「……あ、それ……」

 美織もノートを見て、何とも言えない沈黙が流れる。燈月が居なくなった今、このノートをどうするべきなのだろう。
 交換日記自体は、小学生の頃から欠かすことなくずっと続けていた。最後のページまで書かれた日記を受け取った人が新しいノートに返事を書き、完結したノートは自宅に保管すると言うルールのもと、わたし達の家にはそれぞれ、もう何冊もページの埋め尽くされた友情の日々の証があった。

 友情の証といっても大したものではなく、日々の愚痴やお気に入りのテレビの感想、時にはイラストだったり宿題の答えだったり。
 どうせ毎日顔を合わせるのだ。話せば済むものの、わたし達は飽きることなく、思うままにとりとめのないことを綴っていた。何気ない日々を詰め込んだ、流れ行く今を切り取ったもの。それこそわたし達の『ひみつ』のノートだった。

 手元のこれは、中学に上がるのに合わせて、つい先月三人で選んだノートだ。それぞれ好みはあまり合わなくて、雑貨屋さんでたっぷり時間をかけて色んな絵柄のノートを見比べて、やっと三人が気に入った品だった。

 今までは何だかんだキャラクターものやファンシーで可愛らしいものが多かったものの、これからは中学生になるのだからと、今まで選ばなかったような物を候補として見繕った。
 少し背伸びした大人っぽい紺色のシンプルな表紙に、ダイヤル式の鍵付きの、三人だけの秘密の交換日記。
 新調したてのまだ五ページほどしか埋まっていないそれは、わたしが昨日書いて、今日燈月へと手渡す予定だった。

 もう埋まることのない、次のページ。燈月を飛ばして二人で続けるべきなのだろうか。それとも、終わりにするべきなのだろうか。

「……」

 答えが出せないまま、わたしは落とした衝撃で壊れてしまっていないかと、鍵のダイヤルを回して確認する。
 三桁の数字を入れるそれは、わたし達の合言葉だった。三人合わせて『ひみつ』だから、語呂合わせで『132』。単純な数字の羅列も、わたし達には特別だった。
 かちかちと指先程の小さなダイヤルを回せば、僅かな手応えと共に難なく鍵は開いた。

「美織、これ、どうしようか……」

 最後にわたしが書いたページを開き、答えの出ない問いを美織へと投げ掛ける。
 我ながら狡いなと自嘲しながら美織の様子を伺うと、どういう訳か彼女の視線は驚きの色を持って、交換日記へ向けられていた。

「……美織?」
「ねえ、つづる、これって……」
「……?」

 不思議に思い手元のそれへと視線落とせば、空白であるはずの隣のページの隅っこに、小さく一言だけ記されていた。

『一緒にかえりたかった』

「……え?」
「これ、燈月の字、よね……」
「……、うそ、なんで……?」
「燈月に渡してたの?」
「渡してない! 燈月には、今日、渡すつもりで……」
「じゃあ、どうして……」

 わたし達はしばらくの間、その特徴的な小さく丸い筆跡の、たった一言だけの文字から目を離すことが出来なかった。


 ノイズ混じりに響く下校のチャイムと、施錠のために戻ってきた養護教諭に急かされて、わたし達は慌てて保健室を後にする。

 あれが何なのか、いくら考えたところで当然答えは出なかったものの、一旦交換日記は次の順番である美織に引き継いだ。日記を回す順番も、決まって燈月、美織、わたしと『ひみつ』の順だった。

 不思議ではあったけれど、気味が悪いとは思わなかった。失ったはずの友から言葉が届いたのだ。
 わたし達は喜んで、交換日記を続けることにした。

 けれど、家に帰り部屋着に着替え、慣れた自分の部屋のベッドに寝転ぶと、ようやく日常に戻った感覚からか、先程見た一文の非日常感に今更ながらぞくりと背筋が粟立った。

 一瞬、鞄を持ってきた美織の悪戯かとも思ったが、あの様子だとそうではなさそうだ。
 そもそも彼女は、そんな悪趣味な真似はしないだろう。教室から離れていたとはいえ、他の生徒の悪戯とも考えにくい。
 交換日記は鍵付きだ、開けた形跡はなかったし、あれはわたし達だけの秘密の合言葉なのだ。
 そして何より、わたし達が燈月の字を見間違える訳がないのだから。


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