月のかけら。



『三笠燈月』が死んだのは、中学一年生の春だった。

 下校途中の交通事故で、なんでも居眠り運転で歩道に乗り上げた乗用車に、ブレーキ無しで轢かれたらしい。
 そこは人通りの少ない裏道で、運転手が事故の衝撃ですぐに目を覚まし、救急車を呼んで病院に運ばれた。
 けれど打ち所が悪かったらしく、そのまま彼女は、二度と目を覚ますことはなかった。
 わたしはそのことを、翌朝のホームルームで、悲痛な面持ちで語る担任から聞かされて知った。
 
 燈月を含むわたし達三人は、幼稚園からの仲良し……所謂、幼馴染みだった。『燈月』と『美織』と『綴』だから、三人の頭文字を取って『ひみつ』だなんて、三人だけの合言葉を作って。内緒話をする時や、お手製の秘密基地に入る時、意味もなく使う度に、わたし達は何か特別なものになれたようで、とても嬉しくなった。

 幼稚園の頃のことは、正直細かい出来事はもうあまり覚えていないけれど、わたし達は家族ぐるみの付き合いで、あちこち遊びに行った写真がアルバムにはたくさん眠っている。

 小学生になった頃からは、覚えたての漢字を使って交換日記を始めたり、庭の隅に段ボールを組み立ててお粗末な秘密基地を作ったり、初めての買い食いを公園の遊具で果たして「わたし達も、これでもう大人だね」なんて悪戯っぽく笑い合ったりして、何気無いことも共有してはしゃぐ、いつでも一緒で、一番仲良しの友達。

 それぞれ性格も趣味も違ったし、得意不得意もバラバラだったけれど、何年も傍に居て、互いのことを誰より理解していた。
 クラス替えの度に仲良しの子を変えるような他所の即席の女子グループのように、陰で悪口を言い合ったりすることはなく、喧嘩だってほとんどしたことのない、心からの親友。

『これからもずっと、三人は一緒』

 まだ中学生になったばかりだけれど、きっと高校も同じところに進学して、同じ青春を生きていく。
 そして大人になったら、同じアパートの隣同士に部屋を借りて、毎晩遊びに行ってゲームパーティーやお菓子パーティーをするのだ。
 結婚なんてしない。わたし達は三人で一緒におばあちゃんになって、支え合って生きていく。例えボケたとしても、お互いのことは決して忘れたりしない。

 そのはずだったのに、どうして、こうなってしまったんだろう。


*******


「ねえ、つづる……」
「燈月が死んだ……って、嘘だよね?」
「……つづる、ちょっと」
「だって、昨日だって、あんなに元気で……」
「つづるってば!」
「……、……美織?」

 肩を揺さぶる美織の大声に、ぐるぐると巡る思考の海から引きあげられ、わたしはハッとして顔を上げる。
 ようやく反応したわたしに対して、美織は安心したように一息吐いた。

 ホームルームで聞かされた突然の幼馴染みの訃報に、わたしは動揺を隠せなかった。
 その衝撃を突き付けた担任は職員室に戻ったのかそこには居らず、いつの間にかホームルームは終わり、一時間目の授業が始まる前の僅かな準備時間となっていた。

 頭を抱えてぶつぶつと呟いていたわたしと、珍しく大声を上げる美織に、クラスメイトの戸惑いの視線が刺さる。

 同じ小学校の生徒半数と、もう一つの近隣の小学校の生徒が集まったこの中学校では、進学して間もないこの時期でも燈月のことを良く知っている生徒が複数居た。
 だからショックを受けている様子の子は他にも居たけれど、皆もまだ、あまり実感を得ていないようだった。

 だって、わたし達はまだ中学一年生。ついこの間まで、小学生だったのだ。『死』は、まだまだわたし達にとって遠いものであって、せめて親戚のお年寄りだとか、寿命や病気、それらに付随するもので。こんな風に唐突に、身近な、同じ『子供』の誰かに訪れるようなものではなかった。

 動揺、悲しみ、衝撃、混乱、不安。その全てが成長期の未成熟な身体に一気に詰め込まれて、奥の方から渦巻いて、重くなった心が処理しきれずに震えている感覚。
 けれど同じくらいショックを受けていはずの美織が心配して声を掛けに来る程、とりわけわたしは酷い顔をしているようだ。

 それでも、涙は出なかった。
 心の中は酷くざわついているけれど、きっとまだ半信半疑で、信じたくない気持ちが脳に膜を張って、溢れた動揺だけが先に押し寄せているのだ。

 わたしは揺れる心と裏腹に、冷静に自分を分析する。だって、誰よりも燈月のことを知っていたはずのわたしが、人づてに彼女の最期を聞いたのだ。
 それはどこか画面越しのフィクションめいていて、本質的な部分はまるで実感がなかった。
 今にも「また遅刻しちゃった」なんておどけた笑みを浮かべて、燈月がいつものように駆けてくるのではないかと、ぼんやりと教室の入り口へと視線を向ける。

「ねえ、保健室、行きましょう?」
「え……?」
「だってつづる、今にも倒れそうな顔してるわ……酷い顔色」
「……そっか。うん、ごめん……」
「何で謝るの。ほら、立てる?」
「うん……」

 いろんな感情が心の内にせめぎあっているのを感じるのに、それを明確に表す言葉をわたしは持たなかった。
 呆然として、上手く脳が働かない。いっそこのまま倒れて、これが全部夢だったら良いのにとさえ思う。

 やたらに重たく感じる腰を上げて立ち上がると、視界が僅かにくらりと揺らいだ。
 足はきちんと地についている。もしかしたら、世界の方が歪んでしまったのかもしれない。

 美織に手を引かれ教室を出る間際、ふと気になって教室の後方の、燈月の席へと視線を向ける。
 いつの間にか、持ち主の居なくなった机の上に、見慣れない花瓶があった。そこには名前も知らない小さな花が供えられていて、綺麗なのに物悲しいその光景が、やけに目に焼き付いた。


 美織に手を引かれながら覚束無い足取りで廊下に出ると、授業のために教室に向かうところだった担任にもその顔色を心配される。
 わたしは今、そんなにも酷い顔をしているのか。
 自分では分からなかったけれど、担任がすぐ近くの保健室の養護教諭に事情を話してくれ、わたし達は頭を休ませるための権利を得た。

 そして、そこからわたし達は互いに交わす言葉は持たずに、視線のみで頷き合って、カーテンで仕切られた隣り合わせのベッドにそれぞれ横になる。
 入学して間もないわたし達にとって、授業に出ないのも、保健室を利用するのも、初めての経験だった。

 身体を横たえて、長く息を吐く。呼吸の仕方を忘れていたようだ。
 少し休もう。そう思うけれど、自分のものではない白い布団が、かえって落ち着かない。
 保健室にも響く始業のチャイムを聞きながら、ただぼんやりと見慣れぬ天井を見上げる。

 とても静かだ。燈月が死んだというのに、他の皆はいつもと変わらず一時間目の授業を受けているのだ。
 それがとても奇妙で、天変地異のような衝撃と淡々と進む現実の狭間で、立ち位置を見失い迷子になりそうになる。

 わたしは途端に不安になって、隣のベッドに寝ている美織へと声を掛けようとして、寝返りを打つ。
 すると、不意に小さな音が耳に届いた。布団に潜っているのか僅かにくぐもった、小さなしゃくりと鼻を啜る音。

 美織が、このカーテン一枚を隔てた向こうで、泣いている。

 それを聞いて、ここに来るまでずっと気を使われていたことに、わたしはようやく気が付いた。
 動揺するわたしに心配をかけまいと、彼女は気丈に振る舞っていただけだったのだ。

 幼稚園から三人の中で背も一番高く、誕生日も早い少しお姉さんで、真面目で保護者からの信頼も厚い、女の子らしくおしとやかで、けれどいつもしっかり者だった『当麻美織』。

 その彼女が、声を殺して泣いている。
 そうだ。当たり前だ。幼馴染みを亡くしたのは美織も同じなのに、わたしだけが暗闇に取り残されたような気持ちになっていた。

 わたしは、自分のことばかりだった。その事実が、より胸を締め付ける。わたしは美織に、何の言葉も掛けられなかった。

 そしてわたしは美織の泣き声を聞いて初めて、燈月がもう居ない現実を、突き落とされるような感覚と共に唐突に『事実』として自覚した。

 その途端、今まで感じなかった涙の気配が、鼻の奥や喉に熱く押し寄せる。そうなるともう、抑え込むことなんて出来なかった。

 滲む視界はどこまでも布団やカーテンの眩しいくらいの白で。燈月のお気に入りのワンピースの色だな、なんて、もう二度と見ることの出来ない彼女の笑顔を思い出してしまって、駄目だった。

 互いの涙の気配は静寂を介して伝播するのに、やはり掛ける言葉は見付からない。わたし達は言葉を交わすことなく、布団の中で泣き続けた。

 燈月が居なくなった日。これからも続くはずだった三人の世界は、あっさりと、何の前触れもなく、終わってしまった。


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