――最悪だ。

 三鷹にキスをされた。

 ――最っ悪だ。

 三鷹とキスをしてしまった。

 間近に迫ったあいつの顔、あいつの唇の感触が、帰宅して風呂に入ってもベッドに横になり目を瞑っても消えない。

 全身の熱が全然引いてくれない。

 小学生の頃の告白に怒りを覚えた。
 何年も昔のこととはいえ、ふざけんなと思った。
 当時俺がどれだけショックを受けたか。お蔭で性格だってこんなにねじ曲がってしまった。
 
 ……なのに。

 それより何より一番最悪なのが。

(なんで俺、あいつにキスされて嫌じゃなかったんだよ……っ)

 それどころか、俺は――。

「……?」

 そのときスマホに通知が来ていることに気づいた。
 そういえば祭りの最中一度もスマホを見なかった気がする。
 色々な通知の中に、鳶田からのメッセージがあった。

『デート、どうだった?』

 そんな短文にイラッとして、俺は返信するよりも通話を選んだ。
 ……どうせこのままでは眠れそうにない。話して少しでも気を紛らわしたかった。

 何度目かのコールで鳶田が出たのがわかって。

「デートじゃねーって言ってんだろ!」
『声でっか!』

 そして空気を読まない面白がるような声が続く。

『で、どうだったよ。キスでもされたか?』
「~~っ!?」

 いきなり図星を指され俺が何も言えずにいると、ちょっと引いたような声が返ってきた。

『……え、ガチで?』
「う、うるせー!」
『えーと、もしかしてそのまま付き合うことになったとか?』
「なわけねーだろ! あいつなんてもう顔も見たくねーし! やっぱ祭りなんて行かなきゃ良かった!」
『まぁまぁ、落ち着けよ雀野。何があったか話せるか?』

 流石にただ事じゃないとわかったのだろう。
 その声が本気(ガチ)トーンに変わって、俺は一度深呼吸してから話し始めた。



『なんつーか……想像以上にエっグいな』
「だろ? ほんと意味わかんねー。そこまでするか、普通」
『激重執着愛ってやつだな』
「あ?」

 また聞き慣れない単語が出てきて頭に疑問符が浮かんだが、鳶田の次の言葉で吹っ飛んだ。

『でもよ、お前だって同じようなことしようとしてたし、おあいこじゃね?』
「はぁ!?」
『あいつの好きな子奪ってやるとか言ってただろお前』
「そ、それとこれとは……」

 否定しようとして、強くは言えなくなった。
 確かに、我ながら随分最低なことを考えていたものだと思う。
 でも、それでも、ガキの頃の何も知らなかった自分が不憫に思えて、すぐには納得できそうになかった。

『まぁ、今でもその子に未練があんなら連絡とってみりゃいいじゃん。ワンチャンあるかも?』
「別に未練なんてねーよ。連絡先なんて知らねーし。そういうことじゃなくて……」

 そう、別に鴨下さんに未練があるわけではない。
 あのとき実は両想いだったと知ることが出来て嬉しくはあったけれど、でもだからと言って今付き合いたいかと言われたら、それは違う気がした。

『ふーん。で?』
「え?」
『三鷹にキスされてどうだったんだよ』
「!」

 少しの沈黙が流れて。

『当ててやろうか。今、お前顔真っ赤になってんだろ』
「うるせーー! ……当てんなよ、バカやろ……」

 真っ赤どころじゃない。
 今本当に酷い顔をしている自覚があって、心底通話で良かったと思った。
 友達にだってこんな情けない顔は見せられない。

『そっかそっか、それでやっと自覚しちゃったわけね』
「自覚ってなんだよ」
『いやそれはないわ~』

 そして鳶田はやけに優し気な声で続けた。

『お前も三鷹のことが好きだって自覚しちゃったんだろ?』

 俺は火照ってしょうがない顔を枕に埋め、小さくぼやいた。

「どうしよう、鳶田……」



 自分でもまだ信じられないが、どうやら俺は三鷹のことが好きらしい。
 あんな告白をされて確かに強い怒りを覚えたはずなのに、それでも嫌いになるどころか俺は……。

「もしかして俺、ドМだったのか?」
『知らんし。てか、どうしようもなにも、俺も好きだって告れば良くね?』
「でも俺、あいつに酷いこといっぱい言っちまったし」

 ――離せ!

 ――俺はお前なんか嫌いだ。

 ――最っ低だ。

 自分が言い放った台詞が次々耳に蘇る。
 今更ながら、なんて酷いことを言ってしまったのだろう。
 好きな相手からそんな言葉を浴びせられて、普通ならショックを受けるはずだ。
 俺は今までどれだけあいつを傷付けてきたのだろう。
 そう考えたら罪悪感で胸が苦しくなった。
 
「それに、ずっと嫌ってたのに今更好きなんて信じられるか? 俺だって自分でまだ信じらんねぇのに……」
『そうか? お前だってずっと三鷹に惚れてたようなもんだろ』
「は?」

 あっけらかんと言われて、間抜けな声が出ていた。

『長い間ずっと飽きずに一人をライバル視してよ。それって恋に似てるよなぁと思ってたし』
「こ、恋!?」

 熱がまた上がった気がした。

『あいつがずーっとお前に恋してたのと同じようにさ、お前はずーっとあいつのことライバル視してたわけだろ? ある意味両想いじゃね?」
「……」

 かなり強引な気もするが、言われて見ればそんな気もしてきた。

(両想い……)

 胸の辺りに先ほどとは違う熱を感じて、それが嬉しいという感情なのだと気付く。

『おーい、雀野? 聞いてるか?』
「……まずは、謝ろうと思う」

 そうだ。まずは謝らなければ。
 酷い言葉をたくさんぶつけてしまったことを。
 たくさん傷付けてしまったことを、ちゃんと謝罪しなければ。

『あー、そうだな。それがいいかもな』
「うん。それで許してもらえたら、告って……みる……かもしれない」
『なんでそこで弱気になるんだよ』
「だっ……て、告るって、俺があいつに、す、すす、好きとか……言える気がしねぇ~~」

 結局最後は泣き言になってしまって、スマホ越しに鳶田の溜息が聞こえてきた。



 その日はちゃんと眠れなかった。
 あいつに抱きしめられたことやキスされたことを思い出しては悶絶し、自分のこれまでの酷い言動を思い出しては悶絶しを繰り返し、気付けば朝になっていた。
 日曜で良かったと思った。

(こんなんで俺、明日ちゃんと謝れるのか?)

 不安しかないが、しかし謝らなければ。
 謝って、これまであいつを傷つけていたことが簡単に許されるとは思わないけれど。
 それでもちゃんと謝罪しなければ自分の気が済まなかった。

 しかし告白は、やっぱりできる気がしなかった。
 想像しただけで頭が爆発しそうになる。

(あいつ、よく言えたよな……)

 しかもあんな公衆の面前で。

 ――僕、雀野のことが好きだから。

 あの時の告白を思い出してじわじわとまた顔が熱くなっていく。

(もう一度告ってくれたら、今度は俺もって言えるのにな……)

 そんな他力本願なことを考えていたら、あっという間に1日が過ぎていた。



 そして、月曜日。
 俺は少し早めに登校し、下駄箱のところで三鷹を待ち伏せていた。教室だと皆の視線が気になるからだ。
 ドキドキ緊張しながら奴が現れるのを待つ。

(『ちょっと一緒に来てくれ』って誘って、屋上に連れていって、『これまで悪かった、俺、お前に酷いことたくさん言っちまって、本当にごめん』そう謝って頭を下げる。うん、完璧だ)

 昨日考えたシナリオを頭の中で繰り返し、俺はぐっと拳を握る。
 これできっと、謝罪の気持ちは伝わるはずだ。
 その後のことは三鷹の反応を見てから、そう考えていた。

 ――しかし。

(なんだあいつ、遅刻か?)

 いつまでたっても三鷹は現れない。
 そろそろ教室に戻らないと俺まで遅刻になってしまう。
 スマホで時間を見ながらギリギリまで粘ったが、仕方なく俺は教室に戻ることにした。

 その日、結局三鷹は学校を休んだ。

 次の日も、その次の日も、あいつは学校に来なかった。


  ***


「そんなに気になるなら連絡してみりゃいいのによ」

 一時間目が終わったタイミングで前の席の鳶田に言われ、俺は奴の席を横目に答える。

「……連絡なんてしたことねーし」

 連絡先は一応知っている。何度かメッセージを送ろうかと考えたが勇気が出なかった。
 もしかしたら俺のせいかもしれない。
 いや、タイミング的にそうとしか思えない。
 だからこそ、もしメッセージを送っても返事がなかったら……既読無視なんてされたらと思うと怖くて送れなかった。

「このままじゃ夏休み入っちまうぞ」
「……」

 そうだ。来週末にはもう夏休みに入る。
 いつもなら一番心が浮かれている時期なのに、俺の心は今日の空模様のようにどんよりと曇っていた。
 
「ねぇ、何か聞いてる?」
「え?」

 急にそんな声がかかり見上げると、いつの間にかクラスのギャル数人が机の横に並んでこちらを睨んでいた。
 これまでほとんど話したこともない連中だ。

(確か、いつも三鷹にくっついていた奴ら)

 ……嫌な予感しかしなかった。

「三鷹くんのこと、何か聞いてない?」

 案の定、訊かれたのは三鷹のことだった。

「いや、俺は何も」
「は? ガチで言ってる? だって雀野、三鷹くんと付き合ってんでしょ?」
「っ!? つ、付き合ってねーし!」

 思わず声がデカくなってしまった。ついでにまた顔が赤くなるのがわかった。
 するとギャルたちは揃って目を剥いた。

「はぁ? そうなの?」
「てっきり付き合ってんのかと思ってたわ、ウチら」

 鳶田が視界の端で肩を震わせているのを見てイラっとしながら、メガネを直すふりをして赤い顔を隠す。

「付き合ってないし、俺は何も聞いてない」

 ……まさか、俺のせいかもしれないなんて言えるわけない。

「そっちには連絡来てないのか?」

 そう訊いてくれたのは鳶田だ。
 するとギャルたちは不機嫌そうに答えた。

「来てないから聞いてんじゃん。メッセージ送っても既読にもならないし」
「こんなこと初めてだから、心配で」

(既読にも……?)

 顔を上げるとまた一斉に睨まれた。

「あたしら三鷹くんのこと応援してんだ」
「三鷹くんがどんだけあんたに惚れてんのか、見ててわかるから」

 それを聞いてまた顔の熱が上がる。

「だから、三鷹くんを悲しませたりしたら、あたしらあんたを許さないから」

 そう言い残して、彼女たちは行ってしまった。

(んなこと言われても……)

 以前の俺なら、なんで俺がそんなこと言われなきゃいけねーんだよと憤慨していただろう。
 でも今は理不尽な気はするが怒ることは出来なくて……。

「強火怖ぇ〜。やっぱ連絡してみろよ」
「え?」
「お前からの連絡を待ってるのかも?」
「……」

 そう言われ、俺は勇気を振り絞ってメッセージを送ることにした。
 迷いに迷って、いたってシンプルに。

『大丈夫か?』

 これが三鷹に送る初めてのメッセージになった。

 しかし。

「既読にもならねーし」

 放課後になっても結局返信はないままだった。
 スマホ画面を見ながら溜息を吐くと、鳶田も同じように溜息を吐いた。

「お前でもダメか〜」

 そう言われるとなんだか悔しくて。
 俺になら返信くれるかもと少なからず期待していた自分が恥ずかしかった。

「もう家まで行ってみろよ。知ってんだろ? あいつん家」
「知ってるけど……」

 いきなり家に行くとか、めちゃくちゃハードル高くないか?


 ……結局、俺にはそんな勇気なかった。
 メッセージを送るのだって勇気が要ったのだ。それを無視されて、直接会いになんて行けるはずがない。

 今にも降り出しそうな梅雨空の下を、最寄り駅から家に向かいながら俺は何度目かの溜息を吐いた。

(なんだよあいつ。勝手に昔のことを暴露して、勝手にキスして……俺に合わせる顔がないってことか?)

 これまでだって散々こちらを振り回しておいて、なんで今更。
 それともやはり、俺のこれまでの言動がいけなかったのだろうか。
 それを謝りたいのに、謝ることも出来ない。

(どうすりゃいいんだよ……)



「ただいま」
「おかえりなさい。早いのね」

 帰宅すると母が居間から顔を覗かせた。

「もう夏休み近いし、午前授業」
「いいわね~、夏休み」

 そのまま二階へ上がっていくと、母の声が続いた。

「そういえば、蓮くんのお別れ会とかやらないの?」
「は?」

 ――お別れ会?

 階段を上る足を止め振り返ると、母が階段下で首を傾げていた。

「もうすぐでしょ? 蓮くんが海外行っちゃうの」
「なに、それ」

 意味が分からなすぎて、思わずカタコトで訊くと母は眉をひそめ続けた。

「何それって、だってこの間お母さん聞いたわよ、蓮くんママから。蓮くんもうすぐ海外に留学するって。カナダ? オーストラリアだったかしら」

 階段を駆け下り母の傍らを抜けて玄関で脱いだばかりの靴を履く。

「なによ、聞いてないの? って、どこ行くのよ。真央!?」

 母の驚いた声が聞こえたけれど、答える余裕なんてなかった。

 俺は、そのまま三鷹の家へと夢中で走った。