「今、女子どもの間では雀鷹か鷹雀かで二分してるみたいだぞ」
「たかすず……? なんだそれ」

 体育館入口の段差に腰掛け、単語帳片手に菓子パンを頬張りながら俺は首を傾げた。
 梅雨に入り、最近は屋上が使えず専らこの場所で雨音を聞きながら鳶田と昼休みを過ごしている。

「分かりやすく言うと、お前と三鷹、どっちが女役かってことだな」
「はぁ!?」
「ちなみにそこに俺が入って三角関係ってのもアリらしい」
「はぁ……どうなってんだよ女子の頭の中はよ」

 俺は呆れ果てて再び手元の単語帳に目を落とした。
 しかし、そこでふと気づく。

「てか、お前それどこ情報だよ」

 三鷹の噂といい、女子の間の流行といい、いつもどこからか情報を得てくる鳶田。
 だがこいつが学校で俺以外の奴と話しているところをほとんど見たことがない。
 今更ながら不思議に思って訊くと鳶田は平然と答えた。

「主に妹から情報」
「あぁ、妹……は!? ちょっと待て、お前の妹確かまだ中学だったよな!?」
「そ。中学の方までお前らの噂は広まってるってこと」
「……最っ悪だ……」

 中高一貫校のこの学校に鳶田の妹がいるのは聞いていたけれど、まさかそこまで俺たちの話が広まっているなんて……。

 メガネを外し眉間を押さえていると、鳶田がそんな俺の顔を覗き込んできた。

「それよりお前クマ凄いけど、ちゃんと寝てる?」
「毎日3時間は寝るようにしてる」
「いやいや、少ないだろ!」
「あんな宣戦布告されて、今度こそ負けるわけにいかねぇだろーが」

 期末テストまであと1週間。
 三鷹も俺のことを意識しているとわかった今、本気で負けるわけにはいかなくなった。

「なんとしても、今回は俺が1位をとる」

 宣言して単語帳に目を落とすと隣で鳶田が大きな溜息をついた。

「倒れても知らねーからな」
「そんなヤワじゃねーよ」

 ――あれから、三鷹からは特に何のアクションもない。
 たまに視線を感じることはあっても基本気付かないふりをしているし、表面上は以前と変わらない日常が戻っていた。

 ただ知っておいて欲しかった、と奴は言った。

(それで俺が絆されるとでも思ったのか?)

 あり得ない。
 完全なる戦略ミス。
 ざまぁみろだ。

 どうせもう嫌っていることは知られているのだ。徹底的に嫌ってやろうと決めた。
 その上で、次こそはあいつに勝ってやろうと俺はいつも以上に闘志を燃やしていたのだった。


 ――しかし。


 それは期末テストを3日後に控えた、梅雨の合間の真夏日だった。

 4時間目の体育の授業、俺たちのクラスは体育館でバレーボールの練習試合をしていた。
 窓はどこも全開で風が通るにしてもムシムシとうだるような暑さで、全身が火照って仕方なかった。

(あー、早く教室戻って内職してー)

 内職、無論テスト勉強のことだ。
 一分一秒だって惜しい今の俺にとって、体育の授業ほど面倒で無駄に思える授業はなかった。

(初日コミュ英と古典だったよな、そろそろ完璧にしとかねーと)

「雀野頼む!」
「へ?」

 誰かの声でハッと我に返ったときには遅かった。
 気づけば白く大きなボールが眼前に迫っていて。

 バンっ!

 俺は顔面でバレーボールを受け止めるハメになった。
 目の前がブラックアウトし頭がぐらりと揺れる。

(や、べ……)

 そのまま俺は床に倒れ込んだ。

「キャーー!」
「大丈夫か!?」
「――!」

 悲鳴や慌てた声、バタバタと皆が集まってくる足音が遠く聞こえる。

「雀野!?」

 そんな中最後にはっきりと聞こえたのは、あいつの……三鷹の声だった。

 そこで、俺は意識を手放した。


  ***


「ちゅんの!」

 子供特有の甲高い声が耳に響いた。

(誰だ……?)

 ――いや、知っている。
 酷く懐かしいこの声は。

「ちゅんのはいいなぁ」

 ……そうだ。
 これは小学生の頃のあいつの声だ。

「僕、ちゅんのみたいになりたい」
「俺みたいに?」

 訊き返すと、あいつは「うん!」と勢いよく頷いた。

「ちゅんのみたいに、明るくてカッコ良くて皆に優しい人気者になりたい!」

 そんなふうに言われて嬉しくて、でも少し恥ずかしくて。

 ――俺はあのとき、あいつになんて答えたのだったか……?



「――」
「――!」

 誰かの言い合うような声が聞こえて、俺の意識はゆっくりと浮上していった。

「……とにかく、これ以上あんま刺激すんなよ」

 鳶田の声だ。
 いつも飄々としているあいつが何やら珍しく怒っているようだ。

「俺にとっては大事なダチなんだからな」
「……わかってるよ」

 続いて聞こえてきたのは三鷹の声――。

(……三鷹!?)

 一気に覚醒し、俺は目をかっぴらいた。
 まず視界に飛び込んできたのは白い天井。次に白いカーテン。
 そして自分が白いベッドに寝かされていることに気付いた。

(そうか、俺ぶっ倒れて……)

 瞬間病院かと思ったが、窓から校舎が見えてここが保健室だとわかり少しだけほっとする。
 だがすぐに先ほどの出来事が蘇り、俺は両手で顔を覆った。
 ボールを顔面に食らってぶっ倒れるなんて、マジで格好悪すぎる。
 穴があったら入りたい。そのままいっそ埋まってしまいたい。

 と、そのとき足音が近づいてきて俺はとっさに寝返りを打ってそちらに背を向けた。
 カーテンが開けられてじっと息をひそめていると、ベッドの足元が揺れて誰かがそこに腰掛けたのがわかった。

(鳶田か? それとも)

「ちゅんの、起きてる?」

(お前かよっ)

 最っ悪だ。
 俺はこのまま狸寝入りを決め込むことにした。
 同じコート内にはいなかったが、こいつもあのとき体育館にいたことは確かで。
 あんな醜態を晒してしまって顔を合わせられるわけがなかった。

(俺は寝てんだよ。早くどっか行けー!)

 しばらく無言のときが流れて、あいつの小さな吐息が聞こえた。

「鳶田に聞いたよ。君が睡眠時間を削ってまで勉強してるって」

(鳶田の奴、余計なことを……)

 というか、なぜこいつだけ残して行ってしまったのか。
 あとで会ったら絶対に文句言ってやると、先ほどまでいたはずの友人に毒づいていると。

「無理させたかったわけじゃないんだ。ただ、ああ言えば君が僕を見てくれるってわかってたから」

(はぁ?)

 寝たふりをしながら思わず顔が怒りに引きつってしまった。
 『わかってた』ってなんだ。人を単純バカのように言いやがって。
 寝たふりをやめて怒鳴ってやろうかとシーツの中で拳を震わせていると、奴はぽつりと呟くように言った。

「……やっぱり、言うんじゃなかったかな」

 その声が明らかに落ち込んでいて、俺は一先ず拳を緩め続きを聞くことにした。

「でも、あのとき君がまた僕の背中を押してくれて、あの頃に戻れたみたいで、すごく嬉しかったんだ」

(俺が、背中を押した?)

 体育祭のときのことだろうか。
 しかし、『また』とは……?
 以前にあいつの背中を押したことなどあっただろうか。
 全く覚えがなくて頭に疑問符が浮かぶ。

 ぎしっとベッドの足元が揺れて三鷹が立ち上がるのがわかった。
 やっと行ってくれるのかとほっとしかけた、そのときだ。

(……!?)

 後ろ髪に感触を覚えて、ぎくりと全身が強張った。
 続けて数回、まるで壊れモノを扱うように優しく撫でられて息が詰まる。

「これ以上寝たふりを続けるなら、キスするよ」
「どぅあぁーーー!?」

 耳元で囁かれ自分でも意味不明な叫び声を上げながら俺は跳ね起きた。
 ベッドに身を乗り出していた三鷹がそんな俺を見て目を丸くしていて、それからくすくすと可笑しそうに笑った。

「良かった。思ったより元気そうで」
「お前、なぁ……っ」
「軽い熱中症だって。そこのスポーツドリンクちゃんと飲んで。あとメガネ」
「え」

 奴が指差した方を見ると、ベッド横の棚の上にペットボトルと俺のメガネが置いてあった。

「レンズに問題はないみたいだけど鼻のとこ大分曲がっちゃってるから、お店で直してもらった方がいいかもね」

 そう続けて奴は今度こそ立ち上がった。

「これから午後の授業だけど、もう少し休んでなよ」
「や、出るに決まってるだろ」

 こんなことでテスト直前の授業を欠席なんて出来ない。
 出題のヒントがいつ出るかわからないのだ。

「授業内容なら鳶田が教えてくれるよ」
「いや、」
「僕は、体調崩してる相手と勝負なんてするつもりないから」

 鋭く言われてぐっと言葉に詰まると、奴はお得意のイケメンスマイルを見せた。

「お互い、万全の体勢で臨もう」
「……っ」

 何も返せずにただ睨んでいると、奴は背中を向けてカーテンを捲った。

「――そうだ。無理をさせてしまったお詫びと言ってはなんだけど、もし君が勝ったら君のことはきっぱりと諦めることにするよ」
「は?」

 ぽかんと口を開けた俺を残して、三鷹はそのまま保健室から出ていってしまった。

(……諦める?)

 俺のことを諦めるということは、もう俺に好きとか言ってこなくなるということか。

(いいじゃねーか。絶対に勝ってすっぱり諦めてもらおうじゃねーの)

 ぐっと拳を握って、なのになんだか胃の辺りがもやりとして、そういえば水分を摂らなければと俺は棚の上のペットボトルを手に取った。

(あいつが買ってくれたのか?)

 だとしたら借りを作ってしまったと苦い思いでキャップを開ける。
 と、そのときガラリと再びドアが開く音がした。

(誰だ? 先生? まさかまたあいつじゃ)

「お、目が覚めたか」

 カーテンからひょっこりと顔を覗かせたのは鳶田だった。

「お前! なにあいつと俺を二人きりにしてんだよ!」
「仕方ねーだろ、先生はお前看てちょっと用事あるからって出てっちまうし、三鷹の奴がふたりで話したいっていうから。――あ、ひょっとして何かされちゃった?」
「されてねーよ!」

 思わず声がひっくり返ってしまった。
 いや、断じて何もされてない。
 髪に触れられてキスするよとかなんとか言われはしたが、されてはいない!

「うわ、あっやしい~」
「あやしくねーし! それよりお前、あいつに色々ベラベラ喋ったな!?」
「あー……だってよ、お前が日に日に酷い顔になってくの見てんの嫌だったし」
「はぁ?」
「というか、倒れても知らねーぞって俺言ったよな? マジで倒れやがって」
「うっ」

 半眼で低く言われて俺は結局また言葉に詰まってしまった。
 そして溜息を吐きながら頭を下げた。

「心配かけて悪かった。今日からちゃんと寝る」
「ん。そうしてくれ。でないと、また姫扱いされんぞ」
「姫?」

 首を傾げて俺は手に持ったままだったスポドリを飲みはじめる。
 さすがに喉が渇いていたようで、全身に水分が浸透していく感じがした。

 と、鳶田がなぜか憐れむような目で俺を見ていることに気づく。

「あぁ、覚えてないのか」
「?」
「お前、三鷹に姫抱きされたんだぞ」
「ぶふーーっ!」

 思いっきりスポドリを吹いてしまった。

「げほ、ごほっ……は、はぁあ!?」

 むせる俺に追い打ちをかけるように鳶田は続けた。

「いやー、三鷹の奴まさに王子様だったわ。こりゃ鷹雀に軍配が上がったなと俺は思ったね」

 またよくわからない単語を使って鳶田がひとりうんうんと頷いている中、俺はあいつに姫抱きされている自分を想像して怒りに身体を震わせていた。

(あーいーつーーーっ!)

 ――3日後のテスト、なんとしても絶対に俺が勝つ!!

 こうして、俺は決意を新たにしたのだった。