(は? なに、が……?)

 俺の腹に三鷹の両腕がしっかりと回っていて、背中に奴の体温を感じた。
 首の後ろにはサラサラとした髪の感触があって。

 そこでやっと、俺は今三鷹の奴に抱きしめられているのだと理解した。

「ねぇ、雀野……」

 耳のすぐ後ろでそんな低い声が響いて、途端、全身が沸騰したみたいに熱くなった。

「――っ、離せ!」

 怒鳴りながら奴の腕を振り払い、俺はすぐさま奴から距離を取った。

「い、いきなりなんなんだよ!」

 顔が赤いのを誤魔化すためにメガネの位置を直しながらもう一度怒鳴る。

 三鷹は酷く驚いたように目を見開いていた。

「……あ、ご、ごめん」

 その目を伏せ謝罪の言葉を口にした三鷹は、すぐにいつもの笑顔に戻って続けた。

「ちゅんのとたくさん話せて嬉しくなっちゃって、つい。ごめんね、びっくりしたよね。忘れて!」

 そう言い残し、三鷹は俺の横をすり抜け逃げるように校舎の方へと走って行ってしまった。

「……」

 残された俺はそんな奴の背中を見送りながら、まだざわざわと落ち着かない胸の辺りを押さえていた。
 が、ハタと我に返る。

(あれ? 俺いま、コクられるところだったのでは?)


  ***


「そんで、みすみすチャンス逃してヘコんでんのか」
「だってよ……」

 体育祭当日。
 どんよりとした空模様は相変わらずだが、なんとか午前中は雨も降らず無事全ての競技が終了した。
 太陽が出ていない分紫外線も少なく涼しくて、このまま降らずに持ってくれれば絶好の体育祭日和と言えるかもしれない。

 今は昼休憩。
 俺は鳶田とふたり、クラスの皆から少し離れた木陰で弁当を食べていた。

「いきなり抱きしめられてビビったんだな?」
「ビビってねーし! ただ、びっくりして……」

 そうだ。
 断じてビビったわけじゃない。単に驚いただけだ。

 ――あのあとで俺は気付いたのだ。
 ネットで調べた相手から告らせる方法、「相手を褒める」「二人きりの時間をつくる」「告白しやすい雰囲気作り」を、あのとき図らずも全てクリアしていたことに。
 だからあいつもその気になったのだろう。ネット情報恐るべし。
 なのに俺はその絶好のチャンスを自ら潰してしまったのだ。

「あああああもう一回やり直してぇ~~」

 俺が頭を抱えていると鳶田が溜息交じりに言った。

「でもよ、あいつそれで十分ダメージ負ったんじゃねーの?」
「え?」
「だってよ、コクろうと思ったらその前に拒否られたわけだろ? 俺だったらめちゃくちゃへこむけどな」
「でもあいつ、その後も腹立つくらいフツーだぞ」

 クラスの皆に囲まれ楽しそうに笑っている三鷹を小さく指差し言うと、鳶田もそちらに視線を向けた。

「ああ見えて、内心では深く傷ついてるかも」
「そうか?」
「だからもうやめてやれって」
「いや、俺の積年の恨みはこんなもんじゃ晴れない」

 すると長い溜息を吐いて鳶田は言った。

「お前さ、もっと凄いことされたらどうすんの?」
「は?」

 凄いこととは?

「昨日あいつから抱きしめられたんだろ? それも俺的にはあんまし聞きたくなかった情報だけど。そんなんでビビっててよ、キスでもされたらお前の方がダメージデカいんじゃね?」
「だからビビってねーって……キ、キスぅ!?」

 思わず声がひっくり返ってしまった。
 キスって、唇と唇を合わせる、恋人同士がやるあれか!?
 あれを、俺と三鷹が……?

「あ、ああああるわけねーだろ!?」
「わっかんねーよ? キスならまだいいけどよ、そのまま押し倒されたりしたらお前どーすんの?」
「おおおおおお前何バカなこと言ってんだ!」
「てか動揺っぷりが凄ぇし。顔真っ赤になってんぞ」
「なってねーし! お前が変なこと言うからだろ!」

 指差し笑われて俺はズレてしまったメガネの位置を直した。
 そのまま校舎に掛けられた時計を見上げ、そろそろ本部の方に戻らなくてはならない時間だと気付く。

「悪い、俺そろそろ行くわ」
「おお、大変だな。リレーも頑張れよ」
「ああ、ありがと」
「コケんなよ」
「コケるかよ」

 笑って、俺は鳶田に手を振りその場を離れた。
 そう、体育祭のラストには一番盛り上がるクラス対抗リレーがある。
 俺も三鷹も毎年のように選手として参加しているが、リレーに関しては去年に続いて同じクラスなのであいつと一位を争うわけじゃない。
 しかしリレーの花形であるアンカーは俺ではなくあいつで、それが少々気に食わなかった。
 ちなみにアンカーのあいつにバトンを渡すのは俺である。



「うわ、降ってきた」

 誰かのそんな声で俺は暗い空を見上げた。
 ポツっとメガネのレンズに雫が落ちてきて渋面を作る。

(ここでかよ)

 これからリレーが始まるという時に。

 雨脚は強まる一方だったが、流石にここまできて体育館に移動はないだろう。
 応援合戦も雨の中最高潮を迎えている。
 案の定このまま決行のアナウンスが入り、ピストルの合図で第一走者たちが一斉にスタートした。

 トラックをひとり半周するリレーは目まぐるしく順位を変えながら進行し、あっという間に俺の前の奴がバトンを受け取り半周向こうを走り出すのが見えた。
 リレーなんて慣れたものだが、やはり少しの緊張を覚える。
 軽く準備運動をしてからコースに出てそいつが来るのを待つ。その間に2人俺の傍らを走り抜けていった。
 うちのクラスは現時点で3位。三鷹にバトンを渡す前になんとか今の2人抜きたいところだが行けるだろうか。
 そんなことを考えながら俺は前の奴からバトンをしっかりと受け取り、走り出した。


 全身で雨を受けながら、先ず一人を抜き、現一位の奴との差をどんどん詰めていく。

 ――行ける。

 基本、三鷹以外の奴に負ける気はしなかった。
 そして俺は一位に躍り出た。わっと歓声が巻き起こり、俺は束の間の一位の座に興奮を覚える。
 このまま前方で待ち受ける三鷹にバトンを渡せば俺の役目を終わりだ。

 三鷹が俺の方を振り返りつつ走り出す。
 掛け声を合図に後ろに出された奴の手に俺は押し込むようにしてバトンを手渡した。
 颯爽と走り出す三鷹。
 俺は後続の奴らの邪魔にならないようトラック内に入りすぐさま三鷹を目で追った。
 あいつならこのままぶっちぎり1位間違いなしだろう。そう誰もが思ったはずだ。
 ――しかし。

「!?」

 雨でぬかるんだ地面に足を取られたのか急に三鷹は足をもつれさせ、そのまま思い切り転倒した。
 歓声が一転、大きな悲鳴に変わる。

「嘘だろ……?」

 喉から小さく声が漏れていた。
 あの三鷹が、あんなふうに無様に転ぶなんて。
 泥だらけになってなんとか体勢を立て直そうとしている三鷹を後続の奴らが次々抜いていく。
 いつも腹が立つほどに完璧で、なんでもスマートに熟すあいつのあんな惨めな姿を見るのは初めてだった。

(三鷹……?)

 そのとき、なぜか先ほどの鳶田の声が蘇った。


 ――ああ見えて、内心では深く傷ついてるかも。


「っ、何やってんだ蓮! 走れーーー!!」

 気が付けば、俺は思いっきりそう叫んでいた。
 こんなにデカい声を出すのなんてガキの頃以来で、喉がビリビリと震えた。
 お陰でしっかりと届いたのだろう、三鷹の奴が驚いたようにこちらを見るのがわかった。
 奴はすぐに前に向き直ると再び駆け出した。

 それからの追い上げは凄かった。
 先ほど抜いていった奴らを次々追い越し、そしてあいつは見事1位でゴールテープを切った。

 一瞬の静寂からの凄まじい大歓声。
 泥だらけになりながらも皆から、別クラスの奴らからも祝福される奴を見て、俺はふぅとため息をついた。

(ったく。驚かせやがって……)

 雨のせいで大分見づらくなっていたメガネを外し、体操着で軽く水気をふき取って再度掛け直す。

 ……あいつのことは気に食わないが、あいつが他の奴らに負けるのはもっと気に食わない。

(お前を負かすのはこの俺なんだからな)

「雀野!」
「へ?」

 顔を上げると、今さっきまでトラックの半周向こうで皆に囲まれていた奴が目の前にいた。

 近くで見ると本当に泥だらけで、あちこち血が滲んでいた。
 早く救護テント行けよと思っていると案の定女子連中が心配そうにこちらに駆け寄ってくる。

「好きだ」
「……は?」

 奴の口から発せられた言葉に、俺は間抜けな声を返していた。おまけにかなりの間抜け面をしていたと思う。
 そんな俺をまっすぐに見つめ、三鷹は続けた。

「僕、雀野のことが好きだから。覚えておいて」

 そうしてにっこりと満足げな笑みを浮かべると、奴はひょこひょこと足を引きずりながらひとり救護テントの方へと歩いていく。

 残された俺は固まっていた。
 ついでに周りの空気も完全にフリーズしていた。
 いっそこのまま時が止まってくれればいいのにと頭の隅で思ったが、当然そんなことはなく。

「えぇーーーー!?」
「いやあああーー!!」
「うそ〜〜~~!」

 ……女子たちの阿鼻叫喚で今年の体育祭は幕を閉じたのだった。