戻ってきたモーニャがライラの頭上にぽふっと着地した。
「ドライドウッドってそんなにヤバい魔物なんですか?」
モーニャの問いにシェリーが答える。
「普通のドライドウッッドはそこまでではありませんが……炎が効きますからね。でもこの沼のドライドウッッドは弱点がなく、正面から戦うことはできません」
「その通りだ、シェリー。ここのドライドウッドはミスリルの刃さえ無効にする。基本的に沼から出てきそうな個体は慎重に誘い出し、落とし穴に落とすしかない」
モーニャが砦を見渡す。
「この砦に落とし穴があるんですか?」
「この中央通路以外は落とし穴だらけだ。数百の落とし穴がある」
「ひぇっ! 危ない!」
「モーニャは飛べるじゃないでしゅか」
「……それもそうでした」
「そうやって落とし穴に誘って、力尽きるのを待つんでしゅよね?」
「ああ、それが唯一確実に沼の魔物を倒す手段だからな。しかし力尽きるまで何日もかかる……危険な戦いだ」
「それが……ほんの数分で終わってしまいましたね」
「記録上、こんな戦いをした者はいない。沼に生息する魔物は植物系しかいないが……まさか、全部にこの手が有効なのか?」
「そーでしゅ! 多分、このやり方ならけっこーいけるでしゅ!」
ライラの断言にバルダークが問う。
「お嬢様、どうしてそう思われたのです?」
「うーん、なんか魔物図鑑を見てたら思い浮かんだんでしゅ!」
ライラが元気良く答える。たったそれだけの情報で最適解に行き着くとは。
バルダークもこの4歳児が想像以上の傑物だと認めざるを得なかった。
(陛下の親族、もしくは子なのではと噂があったが……これは、もしや……)
公的にアシュレイはライラの存在を明らかにはしていない。
真実を知るのはアシュレイの側近だけのはず。
(仮にもボルファヌ大公派の私の前で、彼女の力を示してくるとは……。陛下は私を試しておられるのか)
兵士はたやすく沼の魔物を倒した一行に歓声を上げ続けていた。
当然だ。沼の魔物が減れば砦の兵は助かる。国土も守れるのだから。
上空からアシュレイが地上に声をかける。
「倒すのは1体だけでいいのか?」
「うーん、待ってくだしゃい!」
とととーっとライラが倒れたドライドウッドに走り寄る。全く恐れていない。
ライラは動かなくなったドライドウッドの腕を持ち上げようとしていた。
「い、意外と重いでしゅ……!」
「ちょっと無茶ですよ!」
シェリーも続いて魔物の腕を持ち上げる。
「で、なぜ腕を……?」
「この付け根の部分が欲しいんでしゅ!」
ライラがお目当ての部分に顎を向けると同時に、バルダークが前に進み出る。
「刀剣で斬っても?」
「だいじょーぶでしゅ!」
スパッ! バルダークが長剣を抜き放ち、ドライドウッドを切り裂く。
その斬撃は神速にして正確無比――ドライドウッドの腕と付け根の部分が上手く切断されていた。
「おーっ! こーしゃくさま、凄いでしゅ!」
「バルダークで結構ですよ。……ふむ、息絶えてからならはっきり分かりますが、両腕の付け根に魔力のコブがありますね」
「わかりましゅか! これが必要なんでしゅ!」
ライラがバルダークによって切り離されたドライドウッドのコブを掲げる。
白く乾いた木の皮だが、中には魔力が秘められていた。
「まだまだひつよーでしゅ! どんどんいくでしゅよ!」
「なるほどな、この沼に巣食う植物系の魔物のコブか……わかった!」
一行は沼の魔物をさらに討伐すべく、行動に移る。
それは砦の兵をも駆り立てた。
「こうしちゃいられねぇ! 将軍! 俺たちも手伝います!」
「囮や運搬なら、力になれるはずです!」
「……お前たち」
バルダークが目を閉じる。
この地の魔物に対して駐在兵はあまりにもか弱い。
常日頃、力の不足を感じながら仕事に就いている。
それを払拭する機会がまさに今日だった。
「よし! 討伐の邪魔にならないよう、連携して作業に当たれ!」
こうして砦の人も動員して大規模な討伐作戦が始まった。
アシュレイが攻撃魔法で上手く魔物を引き寄せ、モーニャが薬を散布する。
そうして弱ったところを再度、アシュレイが仕留める――というものだ。
もちろん全てが簡単に済むわけではない。
「主様、こいつ薬を振りかけても動きますよー!?」
「むぅ! そいつは背中、背中にたっぷりかけてやるでしゅ!」
たまに瘤が変わった場所に生えている個体もいる。
そうした個体に対処するのがライラの役目だった。
また、解体作業の指示も基本はライラだ。
彼女以上に魔物に詳しい人間はいないのだから。
「あっ! そいつは目の部分もいけそーでしゅ! とっておいてくだしゃい!」
「承知した……!」
「あわわ! 素材は私が回収、保管していきますのでー!」
ライラの使う大切な素材はシェリーがきちんとメモを取りながら取り分けていく。
あっという間に数時間が経過し、陽がやや傾いてきた頃。
砦の前には魔物の残骸が大量に積まれていた。
「ふぅ……こんなもんでしゅかね」
「ああ、そうだな。凄まじい戦果だ」
「はひぇー、終わりましたかぁー」
ずっと空を飛んでいたモーニャがライラの懐に飛び込む。
それをよしよしと撫でるライラ。
「お疲れ様でしゅた」
「んぁー」
全身を脱力させたモーニャを抱えながら、ライラはシェリーの元に向かう。
「かなり集まりましたよ、ご確認ください!」
「はいでしゅー。おおー……想像以上でしゅね」
シェリーがメモとバッグに集めた素材を披露する。
素材自体は乾いた木の皮や炭化した木材だが、ライラには黄金に光って見えた。
「ふふふっ、これだけあれば、でしゅ……!!」
ライラがバッグパックから包丁や鍋、即席コンロ、すり鉢やすりこぎ棒を取り出す。
近くに着地して戻ってきたアシュレイが首を傾げた。
「……何をしようとしてるんだ?」
「もちろん、ここで調合するでしゅ! あの分身薬を即、作りたいでしゅからね!」
「現地でやるつもりだったか……」
ライラの活躍を目にしていた兵が即座に反応する。
「この場で魔法薬を作るってよ!」
「そりゃあいい! ぜひとも見せてくれないかな……!」
しかも兵だけでなくバルダークさえも乗り気だった。
「陛下、何を作るかの仔細は存じませんが……砦を使われるなら、ぜひとも」
「ありがとーでしゅ!」
アシュレイが答える前にライラが身を乗り出す。
やれやれと思いながら、止めないほうがいいだろうとアシュレイは判断した。
なんだかんだ言ってもアシュレイはライラに甘いのである。
砦の一角を借り、ライラとモーニャが荷物を並べていく。
即席コンロやら鍋やら……あっという間に調合場が完成していた。シェリーが手伝う隙もないほどだ。
「とても慣れておられますね……」
「お外でのまほーやく作りこそ、楽しいんでしゅ!」
「古の時代には工房もなく、野外での魔法薬作りこそ本命とはあったが……」
アシュレイが古書の一節を思い出している間に、ライラは調合をスタートさせていく。
「ふんふんふーん♪」
鼻歌をしながら木の皮を物凄いスピードで削り、あるいは刻んでいく。
まな板に止まることなく音が鳴り、近くにいる見学者の誰もがそれに注目していた。
「なぁ……この沼の魔物の素材ってあんな簡単に切り分けできたか?」
「いや、将軍ならまだしも……信じられねぇ」
素材のカットが終わるとライラは鍋に逐次放り込んでいく。
ここからが腕の見せどころだ。
「モーニャ、風が欲しいでしゅ」
「はーい」
モーニャ、そしてライラ当人の魔力を織り込めながらじっくりと煮込む。
もくもくもく……と物凄い量の煙が鍋から出始めた。
「なんだか煙が恐ろしい勢いで出てないか?」
「吸い込んでも無害でしゅ!」
「……これだと野外でやるしかないな」
全部で2時間ほど作業をしただろうか。
鍋をぐるぐるぐる回していたライラがお玉を止める。
「よし、できましたでしゅ!」
「おー! これがもしかして……!」
「分身薬でしゅ!」
どーんとライラが胸を張る。鍋の中身は灰色であまり美味しそうな色でもなかった。
素材が素材なので、匂いも木の皮の匂いである。
「さて、誰が一番に飲むかでしゅけど……」
「主様は飲まないので?」
「アレンジを加えたので、他の人の観察を優先したいところでしゅ」
「……主様が飲まないなら私も……」
モーニャがちょっとだけ鍋から離れる。
「そういうことでしたら! ぜひとも私が!」
びしっと腕を上げたのはシェリーであった。
アシュレイが感心して頷く。
「勇気があるな」
「あれ? 陛下は……?」
「俺は毛生え薬で先陣を切ったから、今回は別の人間に試飲の栄誉を譲りたい」
「は、はぁ……そこまで名誉な行為と言われると逆にドキドキしてきてしまいますが……」
シェリーとしては軽い気持ちで手を挙げたのに、こう言われると身構えてしまう。
とはいえ撤回はせず、ライラから分身薬が入った木のコップを渡してもらう。
コップのサイズはかなり小さく、ライラの手のひらほどしかない。
「で、では……っ!」
ごくっ。
「……っ!!」
苦い。
さらに舌がピリっとして――シェリーは涙目になってくる。
「全部でしゅ! もっともっと、飲み切るでしゅ!」
「ふぐっ、はい……っ!!」
シェリーも国王付きの騎士。
根性を見せて激マズの薬を一気に流し込む。
「ぷはっ、はぁ……はぁっ……」
「大丈夫か、死にそうな顔をしているぞ」
「味はまぁまぁキツめかもでしゅからね」
「……まぁまぁのレベルではなさそうだが……」
「味はおいおい、かいりょーしてくでしゅ。で、シェリーたんはどうでしゅうか?」
「……はい、なんだか肩のところが熱くなって……」
「おおっ! 読み通りでしゅ!」
「くぅ、でも……これ、うくっ!」
シェリーが肩当てを外し、身をよじる。
と、シェリーの肩から蒸気が立ち昇ってきた。
「だ、大丈夫なんでしょうか!?」
「……問題ないでしゅ!」
「主様、ちょっと額に汗が……」
モーニャが前脚でライラの汗を拭う。
そして蒸気がシェリーの上半身をすっかり包み込んだ。
「おわぁー!!」
「おいおい、これはまた凄いな……!」
やがて蒸気が弱まり、シェリーの上半身が再び姿を見せる。
そこには右肩から腕が生えたシェリーがいた。
増えた腕は色も形も完璧に右腕である。
「……え」
すっすっと三本目の腕が動く。
「おー……うん、まぁ……予想通りでしゅ!」
「えええー!! 腕が、肩から腕がっ!」
「落ち着いてくだしゃい! それは自由に動くでしゅよ!」
シェリーの3本目の腕がVサインをした。
「た、確かに……思い通り動きます!」
「ほう、なるほど……」
アシュレイが腕を組んでシェリーに生えた3本目の腕を眺める。
「腕だけを分身させるのか。面白いアレンジだな」
「んむ、でしゅが……肩からだと微妙に不便かもでしゅ」
3本目の腕も長さは通常通り。
生えた位置的に両腕と同じようには使えそうになかった。
「そこも計算通りじゃないんですか、主様」
「肩から腕が出てこないとわからないでしゅよ」
「まぁ、しかし成功は成功だろう。効果時間は?」
「あのコップ一杯で一日は持つはずでしゅ」
「そんなに? それこそ凄いじゃないか」
「効果がすぐに切れちゃったら、無意味でしゅからね」
肩から腕の出ていたシェリーをバルダークが興味深そうに見つめる。
謎に生えてぴょこぴょこ動く腕を眺めると、彼の失われた右腕が疼いてきた。
「その分身薬、私にも試させてもらえませんでしょうか」
「……なんだと?」
「試飲係はいくらでも大歓迎でしゅ!」
訝しむアシュレイと対照的にライラは両手を上げる。
「もし右腕のない私が試したら、どうなるのでしょう?」
「わからないでしゅ!」
あまりにはっきりした答えにモーニャやシェリーはがくっとした。
「……この魔法薬は戦傷に苦しむ同胞を救う鍵になるかもしれません。どうか、試させてください」
「だが、貴卿は王国の要……」
「将が先陣を切らねば、部下はついていきません。私が試して上手く行けば、信用も得られましょう」
「ふむ……だそうだが、大丈夫か?」
「だいじょーぶでしゅ! ダメでも頭や股間から腕が生えるくらいでしゅ!」
「主様、地味に問題じゃありません?」
「明日には消えるでしゅよ!」
そんな副作用を聞いてもバルダークの決意は揺らがなかった、
「構いません。おかしな所に腕が生えても、改良に活かせるのなら……!」
「キマってましゅね! そーいうの、好きでしゅよ!」
ライラが手のひらサイズのコップに灰色の液体を注ぐ。
バルダークはコップを受け取ると、味にも匂いにも頓着せずに――ぐぐっと一気に飲み干した。
「おー! いい飲みっぷりでしゅ!」
「木の根や野草に比べれば、飲める味です」
で、少し待つとバルダークの上半身からも蒸気が立ち昇り――すっぽりと彼を包む。
「どうなるんでしょー……」
「見守るでしゅ」
「あからさまにワクワクしてますね、主様」
そして蒸気が弱まり、バルダークが姿を見せ――なくした腕の部分からしっかりと右腕が生えていた。
しかも生えてきたのは、しかるべき長さの右腕だ。
それはまるで失われていた腕が戻ったかのようであった。
バルダークが右腕を見つめながらくいくいっと動かす。
「問題はありましゅか?」
「いいえ……自由自在です。左腕と同じように動きます」
「まー、そうじゃないとダメでしゅからね!」
ライラがふんっと胸を張った。肩に腕を生やしたままのシェリーも頷く。
「ビジュアルは置いておいても、確かに違和感なく操作はできますね……」
「ふむ、ちょっと失礼」
バルダークが剣を抜き放ち、両手で構える。そのまま一閃。
その剣速は片腕の時よりも速いように思えた。
「……体幹のバランスは考えねばならないでしょうが、慣れればまず問題ないでしょう」
魔法薬の効果を見て、兵たちが盛り上がる。
「すげぇ、腕が生えるのか!」
「将軍万歳ー!!」
思ってもみなかった反応にライラが目をぱちくりさせた。
「こんなに喜んでくれるとは、予想外でしゅね」
「兵の協力もあっての今日の討伐だからな。それがこうした成果に結びついて、嬉しいのさ」
「なるほどでしゅね」
「さて、どうする? 調合は終わったわけだが……」
「お腹が空いたでしゅ」
お腹を押さえるライラに剣を納めたバルダークが向き直る。
「では、ぜひとも砦でお食事を。すぐに用意させます」
「そーでしゅね。あとは……」
ライラが魔物の残骸をじーっと眺める。
「あれも使えるでしゅ!」
「魔物は食べられませんが……?」
「それが! なんとでしゅね!」
ライラがバッグパックからどーんと色々な瓶を取り出した。
「あたちのスパイスを使うと、まぁまぁ……そこそこの味になるはずでしゅ!」
アシュレイは残骸となった植物系の魔物を見やる。
獣系の魔物はまだわかるが、植物系のこれらはどうなるというのか。
が、それは杞憂であった。ライラはスパイスを駆使して魔物の調理を始める。
料理用の鍋に木の皮や根、葉などをぶちこみ……煮込みにする。
するととんでもなく美味い出汁が取れたのである。
「いい感じでしゅねー、スープは香味野菜が決めるでしゅ」
そこに色々な肉がぶち込まれていく。
とはいえ、元は砦の備蓄の肉だ。さほど上等ではない。
だが、筋張った牛肉も硬めの豚肉もこの魔物スープに煮込まれると美味しく変身する。
「あいあーい、こっちももう食べられるでしゅよ!」
多めの味見をした後、ライラが兵に呼びかける。
兵たちも興味半分、怖さ半分で鍋を食べ始め――。
「うーん、一緒に入れた肉の臭みがこんなに消えるとはなぁ……」
「美味い、スープがとにかく美味い!」
「おかわり、もっとおかわり!」
兵たちがライラの謎鍋を絶賛し、ガツガツと食べていく。
気が付けば鍋に兵が群がり、空になろうとしていた。
その光景を見てアシュレイも肩の力を抜く。
「食には本気だったな、そう言えば」
「もちろんでしゅ!」
もしゃもしゃ。
ライラが魔物の根っこを噛み砕く。
濃厚なジャガイモみたいな味がして、実に美味い。
「にしても、よくやった」
「何がでしゅか?」
「いや、お前の魔法薬はきっと多くの人のためになる……という話だ」
「当たり前でしゅ。あたちのまほーやくで皆もハッピー、あたちもハッピーになるんでしゅ!」
口調は舌っ足らずでやっていることも滅茶苦茶、だがライラはこういう存在なのだ。
アシュレイは改めてそれを思うのだった。
宴が落ち着いてくると、ライラは疲労と満腹感でゆらゆらと寝そうになっていた。
「ふにゅ……」
「主様はもう眠たいみたいですねぇー、ふぁっ……」
そんなことを言うモーニャもあくびをしていた。
アシュレイが一働きをしたふたりを優しく眺めていると、バルダークがやってくる。
「少しよろしいでしょうか、陛下」
「ああ、構わんぞ」
バルダークに言われ、アシュレイはライラたちから少し離れる。
アシュレイにしては不用心であるが、それはバルダークに対する信頼の現れでもあった。
「今回の件、誠に感謝のしようもございません。沼の魔物も減り、このような魔法薬まで……」
「俺はすべきことをしたまでだ。それよりも腕に違和感はないか?」
「風や湿気は感じませんが、動かすのには不自由しません。思いのまま動いてくれる義手のようですな」
「なら、実用に耐えそうか」
「ええ……強力な魔物が暴れるたび、手足を失う者が出ます。その者たちへの大きな手助けとなるでしょう」
そこでバルダークは言葉を選びながら発した。
「ボルファヌ大公はまだ陛下の慧眼と先見の明を認められないようですが」
「ふん、叔父殿と門閥貴族はまだ俺に不服か」
「しかし陛下の切り崩しが功を奏し、焦っておられるご様子……」
「ほう……」
アシュレイが腕を組んで思考を巡らせる。
バルダークはボルファヌ大公に近しいとはいえ、職務上は必ず中立を保ってきた。
しかし今、彼の心中に変化が訪れつつあるようだ。
「ボルファヌ大公の手の者が、ここや国内の他の場所を行き来しているのはご存知でしょうか?」
「……どこら辺だ?」
バルダークがヴェネト王国の地名をいくつか上げる。
そのどれもが聞き覚えがあれど、大公の手の者が動くような場所ではない。
「グローデン、石化の沼……その他の場所も魔物が活発な場所だな」
「ここでも魔物の討伐に手を貸して、素材を持っていっているようで」
「リストはあるのか?」
「もちろん。とはいえ、全て合法ですが……」
「そうだな、魔物の討伐に部下を送り込んで素材を優先的に確保しても、何ら罪にはならない。それはライラもしていることだ」
ボルファヌ大公はアシュレイとは違い、その魔力や知識の全てを魔法薬に注ぎ込んでいる。
素材も魔法薬へと投じているのは想像に難くない。
「……ですが、何を手に入れているかがわかれば、陛下のためにもなるかと」
「ふむ、そうだな……」
ボルファヌ大公の作る魔法薬は彼自身の力の源泉のはず。
その詳細は知れなかったが、バルダークとライラの協力があれば……。
「わかった、可能な限りの情報を教えてもらおう」
少し仮眠を取ったライラがむくりと起きる。
日は傾き始めており、寒い風が吹いていた。
「むにゃ……」
「うーん、もっと溺れるくらいのジュース……」
ライラの抱き枕になっているモーニャが口をぷるぷるさせている。
そのモーニャを撫でていると、ライラの頭が少しずつ再稼働してきた。
視界の端でシェリーが書類仕事をしている。
「おはようでしゅ。どのくらい寝てまひしたか?」
「おはようございますっ。えーと、で2時間くらいですね」
「寝たりないよーな、お昼寝としてはじゅーぶんなような」
ライラの元にアシュレイもやってきた。
当然、彼はしっかりと起きていたらしい。
「起きたか」
「あい」
「起きてないような……」
「だいじょーぶでしゅ。んん?」
アシュレイがライラの膝下に紙を広げる。
そこにはバルダークから知らされた様々な情報が書き込まれていた。
「なんでしゅか、これは」
「とある人物の部下が、定期的に魔物の討伐をしている。その場所と獲得した魔物の素材だ」
「……ふむふむでしゅ」
ライラはそのとある人物を知らないが、わずかな口調の変化からそれがアシュレイの政敵だと理解した。
「ここまでの情報が掴めたのは初めてだが、これを見てわかることはあるか?」
「うーん、魔物の素材も色々と使い道がありましゅからねぇ」
「魔法薬の分野だけでいい。多分、その人物が素材を得るのは目的は魔法薬のためだからな」
「んむ……だとすると、ずいぶんと高度な魔法薬を作ってそうな感じでしゅね」
グローデンの満月蜘蛛の糸などなど。
これらの素材は市販されるような魔法薬で使うには希少すぎる。
にしても頭の中で考えるだけでは考えがまとまらない。
ライラはモーニャに並んでうつ伏せになった。
「えーと、紙とペンを持ってきてもらえましゅか」
「どうぞこちらをお使いください!」
シェリーから紙とペンを渡されたライラはそのままの姿勢でぐりぐりと素材を書き連ねる。
「うーんと、この素材とこの素材は……」
魔法薬にはレシピがある。
ライラもアレンジはするが、それでも使う素材の大半は変わらない。
そして特定の素材は決まった魔法薬でしか使わない……こともある。
「えりくちゃーなら、これを……」
「ど、どれだけライラ様には魔法薬の知識が入っているんでしょうね」
「恐ろしいほどだな」
「うんん? んん……」
ライラが小首を傾げて止まり、また再開する。
書き始めて15分後。書き終えた紙はぐちゃぐちゃに文字が書き込まれていた。
「……悪いがさすがに読めない」
「じゅーよーなのは紙の下のほうだけでしゅ」
上よりはマシな字で紙の下のほうに書き込みがされていた。
「ロイドが見つけてくれた、あの砂を覚えてましゅか」
「ああ、もちろん。魔物の暴走事件の現場に残されていた砂だな……」
「あたちもあたちであの砂が何かなー、とは思ってまひた。でもこーほが多すぎて、確信はなかったでしゅ」
「……ふむ、それで?」
「このリストには高難度だけど、よく知られている魔法薬の素材もたくさんあるでしゅ。で、それらを取り除くと……いくつも素材が余るんでしゅ」
「……余った素材から何ができる?」
「試してみないとわからないでしゅが、あの砂に近いせーぶんになるかもでしゅ」
「――!!」
アシュレイが目を見開く。
早々にここまでの成果が出るとは思っていなかったが、これは大きな進展だった。
「本来ならすーかげつかけて、ちまちま調べようと思ってたんでしゅが……バルダークしゃんのおかげで早くできまひた」
ライラの言葉を聞きながら、アシュレイはその意味を考えていた。
ヴェネト王国で多発する魔物の暴走事件。
誰かの手引きであれば、それは近隣諸国だろう。
あるいは国内も十二分にあるとは思っていたが……。
「とーさま、なにを考えてるんでしゅ?」
「国内に黒幕がいれば、そんな力を持つ存在は多くない。バルダークはこのリストの素材を集めているのがボルファヌ大公の手の者だと言った」
その意味を察したシェリーが青い顔をする。
「陛下、ということはあの砂とボルファヌ大公が繋がっていると?」
「そういうことになるな」
「ボルファヌしゃんはそんなに怪しいんでしゅか」
「父の弟、俺の叔父殿だ。魔力もあるし勢力としては極めて大きい。俺のことが嫌いな門閥貴族の代表格だな」
「じゃあ、動機もあるんでしゅね」
ライラも門閥貴族とアシュレイの対立は知っている。
アシュレイはそれをなるべくライラには見せないようにしていることも。
「動機で考えれば俺の敵は100人を下るまい。それだけでボルファヌ大公をどうこうはできん」
シェリーがごくりと息を呑む。
「……内戦になりますものね」
「そうだ、下手に突けば門閥貴族に口実を与え、周辺国も巻き込んで戦争になる」
「せーじの話しはむつかしーでしゅ」
「そうだな、ライラにはまだ難しいか」
アシュレイが苦笑いする。魔法薬の知識と腕はずば抜けていても、まだ4歳。
国内事情でさえ理解してもらうには早すぎる。
「だが、足掛かりは得た。俺も動こう」
「あたちにできることはありましゅか?」
うつ伏せのまま聞くライラの髪をそっとアシュレイが撫でる。
心配をさせないように。
「こっちのことは俺の専門だ。ライラは魔法薬のことをしてくれればいい」
その場の他の誰も気付いてはいなかった。
アシュレイの瞳に静かに燃えるような闘志が宿っているのを……。
それからライラたちは石化の沼を後にし、王宮へと戻った。
帰還したアシュレイは早速、手の者を動かし始める。狙いはボルファヌ大公とその一派。
(これまでは内戦を恐れて間接的な動きに終始せざるを得なかったが……)
もし魔物の暴走事件に黒幕がいるなら、死刑は免れられない。
それゆえに嫌疑でさえ大きな波紋を呼ぶ。
しかし、アシュレイはライラの言葉を信じて動こうと決意した。
それが妻への弔いなのだから。
(……もし黒幕が本当にボルファヌ大公であるならば、容赦はしない)
雪がしんしんと降り続く季節になり、ライラは魔法薬の研究を思う存分、進めていた。
「うーん……」
「主様、やっぱり分身薬はもうちょっと味をどーにかしましょうよー」
分身薬の改良品を飲んだモーニャの尻尾がふたつになっている。
そのふたつをもふもふしながら、ライラは唸っていた。
「砂糖をいれると成分変わっちゃうでしゅ。むしろ、もっと苦くして効果時間を増やすのはどーでしゅ? 飲む回数を減らせましゅ!」
「ええー!? これ以上、苦くなるんですかぁ……」
渋るモーニャ。
ふたりが議論を戦わせている時にロイドが工房を訪れる。
「やってるね」
「ふぅ、各地を回って色々と情報を仕入れてきたよ」
「ありがとでしゅ!」
「……君の推理通りかもね」
ロイドもアシュレイやライラから様々な話を聞いていた。
なにせ魔物の暴走事件はロイドの紅竜王国にとっても大問題――むしろそれを探るためにロイドはここにいるくらいなのだから。
ロイドがメモ帳をテーブルの上に置き、ぱらぱらとめくる。
「ボルファヌ大公から売りに出されている魔法薬は冒険者ギルドにも入っているけど、用途不明の素材が確かにいくつもある。貴族側に売り出した魔法薬を消し込んで、余った素材を組み合わせると……」
ライラがメモ帳をぐーんと覗き込む。
「ある種の興奮剤になるかもでしゅ。本で読んだことがありましゅ」
「フェロモンみたいな作用だね。確かに一部の魔物は仲間を呼び集めたりするけど」
「でも、そういう魔法薬は伝説では?」
シェリーもそういう魔法薬は知っている。
しかし本物と確認されているモノはほとんどないはずだ。
「そうでしゅね、本に書いてあった素材を揃えて調合しても多分ダメでしゅ。色々とアレンジしないとでしゅけど……」
ロイドがそこで眉をひそめた。
「それでも破格の効果だ。S級魔物を百体近くも集め、さらに暴走させるなんて……」
「実在したらとんでもない魔法薬でしゅ。まー……推測でしゅけどね」
「そんな魔法薬があるかもなんて……」
ライラが手元にある古書の表紙をぽんぽんする。
「伝説によると古代にはそーゆー種類の魔法薬も結構あったみたいでしゅ。でも今はレシピしかありましぇんが」
「……対策はあるのかい?」
そこでライラが腕を組み、天井を見つめて考え始める。
「あの砂が残留物で、使っている素材がこれらなら……つまり、うーんと……魔物を呼び集める魔法薬は作れましぇんけど、打ち消すような魔法薬はできるかもでしゅ」
「それって暴走事件を止められるということですか!? 凄いじゃないですか!」
「よそーされる素材から効果を推測して、対処するだけでしゅ。でも多分、使われるときにぶつけないと意味ないでしゅよ」
「なるほど……使い方が難しいね、でもなんとかするよ」
ロイドが力強く頷く。
その瞳には決して揺らがない勇気があった。
「ここまでやってもらったんだ。最後の詰めは大人がやらないとね」
「そうですね……! ライラちゃんに何でも頼るわけにはいきません!」
シェリーも闘志を燃やしていた。
「無理はしないようにね。君が倒れたら大変だ」
「あい、それはぜぇーたいにしないでしゅ」
前世が過労死のライラからしてみたら、今回も過労死は馬鹿すぎる。
それは避けたい。
「魔力で強化されていても、身体は普通の子どもだからね」
ロイドの瞳がまっすぐライラを見つめている。
なぜだか、ライラは魂の奥底まで見られている気がした。
「……何か顔についてましゅか?」
「ううん、君という存在は本当に凄いなと思っただけさ」
バルダークが会合に姿を見せなくなると、ボルファヌ大公派は徐々に切り崩されていった。
さらに毛生え薬が少しずつ世に出てきてアシュレイを支持する声も増えていく。
わずか数か月でずいぶん政治状況が変わってしまった。
「禿山に森が戻れば、材木業も助かる」
「魔物に荒らされた荒野も復興が早まるだろう」
もちろんアシュレイは慎重に魔法薬を使ってはいたが、他国からも問い合わせが数多くやってきている。
いわく、塩害には使えるのか。本当に緑が戻るなら、これだけの大金をすぐに用意する――などなど。
ライラはそうした声をアシュレイから通して聞いて、魔法薬にして返していく。
実際、ライラの魔法薬製造能力は他の誰をも圧倒していた。
ヴェネト王国全体が好景気に沸くと、門閥貴族も動きを控えざるを得なくなる。
さらに分身薬は兵の間でアシュレイ支持を決定的に高めることに繋がっていく。
バルダークは分身薬を『戦傷者への福音』として紹介し、自身も服用を続けた。
この効果は絶大であり、いよいよボルファヌ大公派は身動きができなくなっていった。
屋敷の大広間でボルファヌ大公が机を叩く。
「くそっ、退役兵協会も支持を鞍替えだと……!? これまでの恩を忘れおって!」
これまで治療薬でコントロールしてきた層が離れだし、ボルファヌ大公は焦りを隠せない。
執事が主への恐怖に震えながら報告をする。
「隣国の商人どもも、自然増強薬(毛生え薬の別名)や分身薬がこちらから手に入らないのなら取引を縮小すると通告してきております……」
「ぐっぅぅ……っ!」
ボルファヌ大公も試みたが、彼の技量では毛生え薬も分身薬も作れなかった。
その敗北感がさらに彼を怒らせていた。
「こんな高度な魔法薬をすぐに模倣などできるか! 素人どもめが……!」
悔しさと喪失への恐怖。
このままでは危惧していた通り、全てがアシュレイの思うがままになってしまう。
「させてなるものか、あんな若造に……!」
「し、しかし……手はありますので?」
「……誘魔の薬を使う」
「っ!? も、もうあの魔法薬を使うのはおやめください!」
諫言する執事に向かい、ボルファヌ大公が腕を振る。
「うるさい! 散布場所はこの王都だ!」
「そんな……! どれほどの犠牲者が出ることか!!」
「ふんっ、知ったことか。アシュレイとそれを支持する愚民どもを片付けてくれるわっ!」
ボルファヌ大公が動こうとしていた頃、ライラはのんびりと魔法薬を調合していた。
「るんるんるーん」
「ご機嫌ですねぇ、主様」
「まほーやくの調合が楽しいでしゅからね」
ここ数日、雪は降っておらずそこそこ快適な日が続いている。
さらに毛生え薬、分身薬。どちらも最終完成ではないけれど、かなりの成果が出ていた。
それが嬉しい……あとは素材集めも。
石化の沼のような一般冒険者立ち入り禁止の区域も、アシュレイたちがいればなんとかなる。
つまり、調合できる魔法薬の種類はまだまだ広がるということだ。
これぞ楽しい王宮生活……!
「にしても外はさむそーですねぇ。陛下は郊外で演習でしたっけ?」
テーブルの上に丸まるモーニャ。
ライラはその前脚を意味もなくぷにぷにする。
反対側の腕ではフラスコ瓶をゆらゆらと揺らしていた。
「そーでしゅ。雪が止んでる今日が訓練日和なのだとか……」
「雪はまだ積もってますけどねぇ……さむさむ。暖炉から離れると冷えますぅー」
「うーん、ずーっと温かい湯たんぽみたいなモノができれば……」
カイロみたいな……。
この例えは伝わらないので心の中でだけ呟く。
「それはいいですねっ、主様! ぜひ作りましょう!」
「アイデアだけでしゅよ。ふつーの発火ポーションだと激しく燃えまちゅ」
「火は出ないでほどよく温かいのは無理ですかぁー……」
「まー、数か月かかるかもでしゅ」
「春になっちゃいますよぉっ」
だらだらと喋るふたり。こんな時間もふたりにとっては愛おしい。
ライラがフラスコを振る手を止める。
「ふー、とりあえず反発薬も一段落したでしゅしね……」
「それが魔物を呼び寄せる魔法薬への対抗薬なんですね」
「そうでしゅ。ばら撒かれるとよそーされるフェロモンと反応すると、嫌われるフェロモンになるはず……でしゅ」
しかしこれには問題もあった。
まず、使うには魔物を呼び寄せる魔法薬の現場でないと意味がない。
どこで次の暴走事件が起きるか分からない以上、量産して備えないと効果はなさそうだ。
「あとはテストが問題でしゅね。本当に効くのかわからんでしゅよ」
「主様って絶対にテストしますもんね」
「当たり前でしゅ!」
「いきなり人に使いますけど……」
「たいじょーぶでしゅ! ポーションとかは完備してるでしゅ!」
そういう問題ではない気がするけれど、モーニャも慣れたものなのでツッコまない。
「で、次は――」
と、ライラが言いかけたその時。
大気中の魔力がわずかに揺れた気がした。
「……?」
「南から魔力の波動が来たような……。主様も感じました?」
「ほーこーはわからなかったでしゅが、そうみたいでしゅね」
これだけの波動はめったにあるものではない。
悪寒が背筋を這い上がる。工房の外からどたどたと足音。
ライラのいるこの区画は選ばれた人間以外は立ち入り禁止で、こんなに騒々しくなることはない。
「なにか緊急事態みたいでしゅね」
「ライラちゃん!」
工房の扉をノックなしに入ってきたのはシェリーだった。
額には汗を浮かべ、いつもは整っている髪が乱れている。
「今の魔力の波動、感知しましたか!?」
「あい。何があったんでしゅか?」
「魔物が……王都郊外に魔物の群れが現れました!」
モーニャが尻尾を逆立てる。
「なっ! この近くにですか!?」
「郊外って演習中のよーな……とーさまは?」
「すでに陛下はロイドさんと一緒に展開しています!」
ライラが頬をぱんとはたいた。
「わかりまひた! あたちも出撃でしゅ!」
「はい……! ありがとうございます!」
「五分、いや三分で魔法薬をまとめて出るでしゅよ!」
その頃、王都郊外。演習中だったアシュレイはすでに演習中止し、兵を再編成していた。
この演習は対魔物を想定しているため、冒険者も同行している。
浅く雪が積もる草原に天幕が並び、一番大きな天幕に首脳部が控えていた。
その場には冒険者代表としてロイドもいる。
アシュレイがロイドへ呟いた。
「……まさか演習中に起こるとはな」
「狙われたね」
アシュレイはテレポート魔術を使えるため、居場所を捕捉するのは困難だ。
王宮には結界もある。狙うならこうした機会しかない。それを的確に突かれていた。
伝令官が天幕に駆け込む。
「南方より三つの大群、集結しつつあります!」
「ふむ……」
「進路は変わらず北上! 一目散に王都へ向かっております!」
天幕に緊張が走る。状況は緊迫していた。
しかしアシュレイは冷静さを崩さない。
「魔物の種類は?」
「一番多数はレッドバッファローですが、亜種も相当数いるものと……。他にバッファローの踏み荒らした獲物狙いで、バルチャー類も確認できております」
「やはり獣系か……」
アシュレイとロイドが視線を交わす。
証拠はないが、このタイミングでの魔物の暴走事件は疑わざるを得ない。
机上に示された予測進路と到達時間。手元にいるのは兵と冒険者が合わせて2000人……だが、シニエスタンに比べると圧倒的に時間が足りない。
(あの時は住人の避難もできたし、魔物を倒す追い込み場所も用意できたが……)
レッドバッファローはB級の魔物で、単体ならアシュレイやロイドの敵ではない。しかし群れは大きくなりやすく、合流し続けると指数関数的に危険度が高くなる。
「強引に兵を投じることはできるが……」
しかし犠牲は出る。それを可能な限り抑えなくてはいけないし、ボルファヌ大公も追いかけなくては――。
そんな数々の思考はさらなる伝令官によって中断された。
「ライラ様、ご到着!」
「来たか」
胸を張りながら、もこもこ服のライラとその胸に入ったモーニャがやってくる。
魔法薬がたくさん詰め込まれたバッグパックもセットだった。
「あい! 状況はどうでしゅか!」
頭の中で整理したことをアシュレイはかいつまんで説明する。
「作戦はあるんでしゅか?」
「今、早急に考えているところだ……」
アシュレイが他の参謀や伝令官に命じる。
「少し外してくれ」
「ははっ!」
天幕に残されたのはアシュレイ、ロイド、ライラだ。
アシュレイがゆっくりとロイドとライラを見渡した。
「……実はもう作戦を立てている」
「じゃあ、それをすればいいじゃないでしゅか!」
「皆を外したということは、問題があるんだね?」
「まぁ、な……。今回で決着をつけるなら、こうするしかないという作戦はある」
父がこんなに悩んでいるということは、作戦自体もちょっと突飛なのかもしれないとライラは思った。
だが、アシュレイを信じられるくらいの絆はあるつもりだ。
「……やりましゅ!」
「主様、何も聞かなくてもいいんですか?」
モーニャの頭をぽんぽん撫でる。
「そこは信頼ってやつでしゅ。ね、とーさま!」
アシュレイの作戦を踏まえ、ライラたちが展開することになった。
巨大な角と3メートルを超える巨体。まさに怒れる闘牛だ。
真っ赤なレッドバッファローが雪原を蹴飛ばし、粉雪をまき散らしながら走る。
集団で興奮状態になったレッドバッファローを止められるものはない。
群れの先にある木は押し倒され、岩は砕かれる。
その数はざっと1000体以上。全速力で北上して王都に向かっていた。
その上空をライラとモーニャは飛んでいる――竜の姿になったロイドの背に乗って。
「おおおーっ! 飛んでますぅ!」
「凄いでしゅね、これは」
ロイドはかなり遅めに飛行していた。
ライラが背に掴まりながら、じっくりと下の状況を見定める。
「これならちゃんと狙えましゅ」
ロイドが軽く頷く。この形態だと声を出しづらいと言っていた。
でも意思疎通はちゃんとできる。
『作戦は単純だ』
アシュレイの言葉を思い返す。
『地上は俺とヴェネト軍と冒険者で阻止する。ライラ、モーニャ、ロイドは滞空して攻撃』
『思い切りましたでしゅね』
『もはや群れを追い込むのは間に合わない。これが最善手だ』
『攻撃って言うけど、具体的にはどーするんでしゅ?』
『任せる』
『……はいでしゅ?』
『吟味している時間もない。広範囲の毒は使って欲しくないが、いざという時は許可する』
『…………』
アシュレイは強い。いざという時は腹を括れる側の人間だ。
『魔物に対してどうすればいいか、お前はよく分かっている。だから任せる』
『……分かりましたでしゅ』
逃げるという選択肢はない。それでは王都が被害を受ける。
もちろんライラも逃げたくはなかった。
『さて、俺も最前線だ。また会おう』
ぎゅっと目をつぶったライラがロイドへ声を掛ける。
「レッドバッファローは迂闊に攻撃すると怒るでしゅ。まずは後ろに、でしゅ!」
レッドバッファローに対処する際は、群れの後方からが鉄則だ。
先頭を先に攻撃してしまうと、手が付けられないほど凶暴化しかねない。
ロイドがぐるりと旋回し、群れの後方に向かう。
「なんか……続々と後ろに来てません?」
レッドバッファローの赤い巨体が紙に垂らしたインクのように。
群れの後方へレッドバッファローがどんどんと合流している。
群れの総数はさらに増えるだろう。
どこかで群れを分断できればアシュレイの負担も減る。
「まずは後ろからでしゅ」
焦ってはいけない。自分の知る最善手を打つ。それがもっとも効果的だ。
さきほどの地図には気になる地点があった。そこに行けば……。
「ありまひた!」
群れの最後尾までいくと、広範囲の林と茂みが見えた。
針葉樹の林は葉がまばらだけれど、枯れてはいない。
この林の奥からレッドバッファローが次々に群れへと合流してくる。
「ここでしゅ! ロイドしゃん、しばらく旋回してくだしゃい!」
ぐっとロイドが高度を下げて林のすぐ上に向かう。
竜の身体が樹木の先端に触れそうだった。
「モーニャ、毛生え薬をまくでしゅよ!」
「は、はいさー!」
バッグパックから毛生え薬を取り出し、ふたりで空中から林にばらまいていく。
すると樹木からメキメキと音が鳴り――枝と葉が物凄い勢いで伸び始めた。
「ロイドしゃん、当たらないよう高度を!」
呼びかけるまでもなく、ロイドは空に向かっていた。
雪を被った針葉樹が夏の活力を取り戻す。地面の茂みも苔も同様だ。
眠っていた自然が毛生え薬で目覚め、急速に繁茂する。
「グモォー!!」
「グモ、グモー!!」
レッドバッファローは突然の緑化に驚き、混乱する……。
脚をとられて転ぶもの、角がつっかえるもの――暴れる自然が邪魔で走るのに支障をきたしていた。
さらにレッドバッファローの毛が少し伸び、赤い毛が植物に絡まる。
アシュレイの時のように移動もできなくなるほど……の長さにはならなかったが。
「あらま、レッドバッファローの毛はそこまで長くならないですね」
「でしゅね。元々が人間用だから仕方ないでしゅ」
レッドバッファローにちょっとだけでも効くだけ御の字だ。
しかし針葉樹や苔も伸び、上手く足止めになっている。
この様子ならしばらくは後ろの勢いが止まるだろう。
林の外を見てもレッドバッファローの群れは途切れていた。分断は成功だ。
群れ全体の勢いを殺すことができた。
ロイドの声が空に響く。
「うまく、後続を断ったね」
「でしゅ! とーさまは大丈夫でしゅかね。ロイドしゃん、全速力で先頭へ!」
「わかった。捕まってて」
一気に加速したロイドが群れの先頭を目指す。
北に行くにつれて魔力の波動が大気を揺らすのがわかる。大気がピリっとするのだ。
これはシニエスタンでの戦闘の時と同じであった。
「やってましゅね……!」
地平線の先に、茶色の線が引かれている。盛り上がった土壁だ。
高さは4メートルほどだろうか。一直線に群れの進路を防ぐよう、分厚い壁ができていた。
分厚い壁の上には兵士が隙間なく控えている。さらには土の櫓までできていた。
あんな壁はさっきまでなかったので、アシュレイ率いる軍の魔術によるものだろう。
即席の長城といったところか。
レッドバッファローの先頭はすでに壁際に到達し、角で壁を突破しようとしている。
「あれ、群れの中にも壁ができているような?」
「前方だけじゃダメでしゅからね、何層も壁を作るつもりでしゅ」
群れを分断しようと、即席の壁がレッドバッファローの荒れ狂う中に壁ができては壊されていく。
しかし今のところ、それは奏功していないようだ。
群れの先頭は構わず兵のいる壁へ突撃をしかけていた。
「どうする、ライラ」
「手持ちの魔法薬だと足りないでしゅね……」
攻撃用魔法薬の瓶は40本。仮に1本で5体の魔物をふっ飛ばしたとしても、200体だ。
もちろん戦果としては大きいが、魔物の群れはもう1000体を遥かに超える。
「どーしましょ、どーしましょう!」
慌てるモーニャに対してライラは冷静だった。
「毒を使うしかないでしゅね」
「こんな平たい場所でですか!? 味方も巻き込んじゃいますよ!」
「わかってましゅ。空気散布は使えましぇん」
シニエスタンの時は人工的にくり抜かれた峡谷に追い詰め、完全に封じ込めることができた。
しかしここではもうそれは不可能だ。さらに今日は風も強い。
「ロイドしゃんも聞いてたと思いましゅけど、シニエスタンで使った毒は水にも溶けましゅ」
「……そうだね。でも水源は遠いよ」
「あい、でも……この軍なら雨を降らせる魔術もできるでしゅ。雨雲に毒を仕込めば……」
「な、なるほど! 毒の雨を降らせるんですね! えげつなーい!」
「狙いは群れの中央部でしゅ。これなら何百体も行動不能にできましゅ」
少ししてロイドが巨大な首を動かし、翼をひらめかせた。
「君の戦術に従うよ。陛下は中央で戦ってる」
「案内してくだしゃい!」
ロイドがぐっと下降する。ライラからは全然見えなかったが、ロイドからはアシュレイの位置がよくわかっていたらしい。
さすがは竜の知覚力だ。
まもなく、ライラにもアシュレイの銀髪が戦列の中でわずかに見えた。
「とーさま! 飛んできてくだしゃい!」
ライラが叫ぶとアシュレイが反応する。
「……!? わかった!」
戦闘の中にいてもライラの声は判別できたようだ。
すぐにアシュレイが飛行魔術の印を結び、空へと飛び上がる。
アシュレイはすでに額に汗を流していた。
「いい作戦を思いついたのか?」
「あい、魔術の雨に麻痺毒をまいて、群れへ降らせましゅ」
ライラの構想にアシュレイが一瞬、思案する。
「……あの毒は水溶性だったか。それならば可能性はあるな」
「だから全体に呼びかけて雨を――」
「それは無理だ」
「はえ?」
にべもなくアシュレイが首を振る。
「降雨の魔術は高度で、戦闘中に使えるようなものではない。できるのは――俺ぐらいだろう」
降雨の魔術も本で読んだことがあるだけなので、実際がどうだかライラも知らなかった。
「大丈夫なんでしゅか?」
「魔力を全開放する。可能な限りの雨を降らせるよう努力しよう」
アシュレイが兵に向かって呼びかける。
「ライラの作戦に従う! 各自、雨が降るまで防御優先! 雨が降って群れに変化があったら全力で反転攻勢だ!」
「「イエッサー!!」」
さすがにアシュレイ直下の精鋭軍だけあって、短い命令にも混乱することはない。
兵全体が攻撃を控え、盾や壁の魔術を優先しているのが見える。
「やるぞ」
「あい……!!」
群れの中央にライラたちが飛ぶ。
眼下は怒れるレッドバッファローで埋め尽くされていた。
どこが群れの中央なのか……ということだが、竜であるロイドの視力は的確に中心を探り当てていた。
数分後、見渡す限りのレッドバッファローの中でロイドが首を巡らす。
「ここが中心部だ」
「よし……背に乗るぞ」
空を飛んでいたアシュレイがホバリングするロイドの背に着地し、魔力を手に集める。
同時にアシュレイの静かなる詠唱が始まった。
「遥か遠き雲の精霊、天にあまねく大いなる恵みの業よ――」
手に集められた魔力が強烈な青色を発する。
それは純粋な水のようで。
「渇く者に無上の慈悲を。乾く大地に至上の慈愛を――」
雲ひとつない晴天に魔力の波動が伸びていく。
ピリピリとした凄まじい魔力を背に感じながら、ライラはバッグパックから瓶を取り出していた。
「我は請い、願う。いざ太陽を覆い、涙よ形となれ」
青の魔力がライラたちのいる高さに広がり続ける。
それは水面の波紋のようで。
輪のように連なるアシュレイの魔力に大気が反応し、湿っぽくなる。
「粒よ、降れ」
アシュレイの魔力がぱぁっと空へ弾けた。同時にあるはずのない雲が形成される。
雲ができて雨が降りそうになってもアシュレイは詠唱の態勢を解かない。
恐ろしいほどの魔力がアシュレイの身体から空へと拡散し続けている。
異常な量の魔力放出に、不安になったモーニャがライラに確認してきた。
「もしかして、ずっとこのままなんです?」
「雨を降らせてる限りは、多分そうでしゅね。 モーニャ、手早くやらないとダメでしゅよ!」
「ア、アイアイサー!!」
雲がより濃く、黒くなってくる。
雪原のレッドバッファローの何体が上空に目を向けるが――邪魔されることはない。
ロイドが空に角を向ける。
「くるよ」
ロイドの言葉とともに。黒雲から水滴がぽつりと落ちた。
雨が降り始めてくる。ロイドが高度を上げ、雲へと突っ込む。
「いきましゅよ、モーニャ!」
「はーい!」
ライラが両手に純緑の瓶を構える。
麻痺毒の瓶は二本。それらを受け取ったモーニャが空へと舞い上がった。
雨は降り続け、勢いが増していく。
雨粒が段々大きくなり、小雨から豪雨へと変わる。
「いっきますよー!!」
モーニャが上空で小瓶をすいすいっと放り投げ、爪を振るう。
ぱりんっ!
二本の瓶が割れ、緑の雲が広がった。
任務をこなしたモーニャがロイドの背にさっと戻ってくる。
「任務かんりょーですぅ!」
「ロイドしゃん! 離れてくだしゃい!」
ロイドが翼をはためかせ、毒から急速離脱した。
緑色の雲が黒天に溶け込み、雨へと移る。
麻痺毒が水に溶け込むのが魔力の具合からもわかった。
「成功でしゅ!」
自然にはありえない緑の雨が広がり、レッドバッファローを打つ。
雨は魔物の体皮を透過し、その内部を麻痺させていく。
もちろんレッドバッファローに緑の雨が毒だということは分からない。
脚に力が入らなくなり地面に崩れ、怒りも霧散するという事実だけが残る。
「グ、グモ……!?」
「グモォォ……!」
上手く麻痺毒が群れへと浸透していく。
群れの勢いが雨に降られた部分から削がれていった。
「やりました! 効果出てますぅ!」
「……良かったでしゅね」
しかし豪雨が広範囲で続かないと麻痺毒も機能しない。
アシュレイはまだロイドの背で精神を集中させ、魔力を放ち続けている。
(こんなに魔力を……だいじょーぶでしゅ?)
雨はさらに強く、毒を孕んで降り続ける。
レッドバッファローの群れの足元が濡れ、緑色の水が雪原を染めていく。
魔物の勢いが中央で鈍ると、視覚のよく効くロイドが言った。
「ヴェネトの兵が反撃を始めたね」
ライラがアシュレイから壁に目を移すと、ヴェネト軍の攻勢がよく見えた。
一斉に火炎や竜巻の魔術が放たれ、群れの先頭を攻めている。
「あたちもやるでしゅ……! 群れの前をぐっーと横一直線に横切ってくだしゃい!」
ライラとモーニャが爆裂薬を構える。
ロイドがライラの指示通り飛ぶ、その瞬間。
「えーい!」
「ほいほーい!」
ふたりはどんどん爆裂薬を下へと投げていく。
狙いは壁に近いレッドバッファローだ。
ぽんぽんぽんと爆裂薬が落下し、派手に爆裂する。
「グモーー!?」
高速で空を飛ぶロイドからの魔法薬攻撃は、さながら爆撃のようであった。
赤き爆発がロイドの飛んだ跡に連続して巻き起こり、レッドバッファローを吹き飛ばす。
「僕も……!」
飛ぶことに専念していたロイドも大口を開け、猛火を群れへと叩きつける。
ドラゴンっぽい攻撃にモーニャが驚く。
「そんなのできたんですかっ!?」
「……さすがにそんなには吹けないよ」
ロイドのブレス攻撃に合わせて、ふたりはどんどん魔法薬を投下していく。
「くっ……」
雨はまだ群れの中央で降っている。
視界の奥でレッドバッファローが倒れ、緑の毒が広範囲にまで広がっているのが見えた。
「とりあえず! 魔物の固まっているところに投げるでしゅよ!」
「はーい!」
数々の爆風と爆発。
ライラの手持ちの魔法薬が尽きてきた1時間後、群れの勢いは見る影もなく弱まった。
雪原には大量のレッドバッファローの死体と数え切れないほどのクレーター。
そしてヴェネト軍の作った何重もの壁が構築されている。
群れは壁を突破しようとするが、次の壁に阻まれて進めない。
さらには北から冒険者の一団もやってきていた。
「ここからは俺たちに任せろぉ!」
「王都は俺たちの街だー!」
どうやら知らせを受けた義勇兵も混じっているらしい。
魔物も減って、援軍を得て。明らかに兵の士気が上がっていた。
ヴェネト軍のほうが遥かに優勢だ。
その様子は空からでもしっかり見える。
「危機は脱したようだね」
「ふぃー……なんとかでしゅ」
回復薬の類もほとんど地上へ回し、ライラのバッグパックはほぼ空になっていた。
こんなにバッグパックが軽くなるのは初めてだ。
でもやりきった。
問題は――。
「だいじょーぶでしゅか」
「……ああ」
すでに雨は止んで、黒雲が風に散らされようとしている。
アシュレイの魔術も終わり、彼自身はぐったりとロイドの背で息を整えていた。
顔は青白く、手先が震えている。魔力が急激に失われた時に起こるショック症状だった。
「無茶しちゃダメでしゅよ!」
「エリクサーの類を持っているんだろう?」
「もちろんありましゅけど、魔力の補充には限界がありましゅ! 効くまでに死んじゃったら意味ないでしゅ!」
「ふっ、そうだな……」
アシュレイが生気のない顔で頷く。
こんなアシュレイをライラは見たことがなかった。
「お前がいるから、無茶をしても大丈夫だと思った」
「……もう! とーさまったら!」
ライラもなぜこんなに言うのか、自分でもわからない。
もしかしたら、こんな遠慮のない言葉の関係が家族なのかも……絆なのかもしれない。
「まぁまぁ……とりあえず体調を整えたら下に降りません? まだ戦いは終わってないですし」
ふよふよ浮かぶモーニャにアシュレイが微笑む。
「そのことなんだが――俺の策もまだ終わっていない」
夕日が王都を染める頃。
魔物の襲来に怯える王都の中にあって、ボルファヌ大公だけは違った。
彼は野心にぎらつく眼を武装した配下に向ける。
ボルファヌ大公が集めるだけ集めた手勢が庭にもおり、総勢は数百名にもなった。
名目は魔物の襲来に備えるため。しかし、ボルファヌには異なった思惑があった。
「あの若造のことだ。魔物の襲撃は退けるだろう……。しかし消耗しきるはずだ」
アシュレイさえ消してしまえば、他はどうとでもなる。
否、どうにかしなくてはならない。
これ以上座していては、ますます勢力に差が開いてしまう。
(そんな事実は認められん……!)
アシュレイの軍が大打撃を受けていれば、ボルファヌ大公はこの兵でもってクーデターを実行するつもりであった。
もちろんアシュレイの軍が無事なら、また別の機会を待つしかないが。
だが、何度も魔物の襲来を王都周辺で起こせば勝機はある――ボルファヌ大公はそう頭の中で算段を立てていた。
「そのためにもあの若造の軍がどうなったか、押さえねばな……」
そこにボルファヌ大公のスパイが息を切らせて飛び込んできた。
「申し上げます、大公様!」
「おお、あやつはどうなった?」
「魔物の襲撃に対し、アシュレイ陛下は孤軍での戦闘を開始! 戦闘自体は勝利され、軍も健在のようですが――陛下は大怪我をされ、瀕死とのこと!」
「なんだと!? それは本当か!」
「は、はい! 近衛軍は勝利したものの、祝う者はおりません……」
ボルファヌ大公は野蛮に歯を剥き出した。
「……やはり青臭い奴よ。どうせ兵を見捨てられず前線に立ち、傷を負ったのだろうな」
やはりアシュレイは王の器などではなかったのだ。ボルファヌ大公はひとりごちる。
俺ならば王都を危険に晒してでも生き残る。最後に生きていた者が勝者なのだから。
「よし、儂は出るぞ! ヴェネト王国の実権を我が手に取り戻すのだ!!」
ボルファヌ大公は馬へ騎乗し、完全武装の兵を引き連れて大通りへと向かう。
いつもは喧騒あふれる市内も死んだように静まり返っている。
アシュレイの悲報とともに活力を失ったようだ。
ボルファヌ大公は意気揚々と王宮に向かう。
アシュレイが動けない今、王宮を押さえれば門閥貴族も自分を支持するに違いない。
大通りを威圧しながらボルファヌ大公は進む。
ここまでは順調だった。
「……あれは」
大通りを塞ぐように数十人の騎士がいる。
その先頭に立つ男に目をこらし――ボルファヌ大公は笑った。
「バルダーク! 来たのか!!」
それはバルダーク侯爵の一隊であった。
全員がボルファヌ大公も見覚えがある名うての騎士や魔術師だ。
なんという遭遇。このタイミングで合流できるとは。幸先が良い。
「……閣下、テレポートや飛行などで集められるだけの戦闘員を集めて参りました」
「ほっほう! ご苦労だった! よし、我が後ろに加われい!」
バルダークが加われば日和見主義者も腹を決めるだろう。
ボルファヌ大公が自分の後ろを顎差す。
だがバルダークは微塵も動かなかった。
バルダークの隊が動かないとボルファヌ大公の軍は進めない。ボルファヌ大公が眉を寄せる。
「いえ、私はこのまま陛下の元に馳せ参じるつもりでしたが……閣下はなぜ、このような軍を連れて王宮への道を進まれるのです?」
「お前は聞いていないのか、あの若造が瀕死なのだぞ。王宮を空ける訳にはいかんだろうが!」
ボルファヌ大公が叫ぶとバルダークが負けじと叫び返す。
「真に王国を想えば、門外にて魔物を防ぐよう陣を張られるはず! 陛下が危急の折り、このように王宮に乗り込むのは大逆の誹りを免れませんぞ!」
バルダークがボルファヌ大公の軍を睨みつける。更に彼の兵も一歩も引かない構えだった。
ボルファヌ大公が歯をぐぐっと噛む。
「貴様……! 我が行軍を邪魔立てするか! どけい!」
「閣下! 王都の外で魔物と戦われるというのであれば、このバルダーク! 喜んで先陣を切り、大群の中で死にましょう!」
そこでバルダークが剣を抜き放ち、両手で構える。
すでに彼は分身薬を飲んでいた。
「しかしながらこのまま進むと仰せであれば、命を賭してお止めせねばなりません!」
「……その右腕、貴様もアシュレイに鞍替えしおったか」
「これが最後です、閣下! どうか!」
ボルファヌ大公が右腕を上げる。彼の近衛が前に出て、戦闘態勢を取った。
「国家存亡の危機に、貴様と問答している時間はない! 構わん、敵はたったの数十人だ! 踏み潰せい!」
「我が兵よ! 閣下はご乱心だ! お止めせよ!」
互いの兵が抜刀し、前進する。
こうしてボルファヌ大公とバルダーク侯爵の兵はお互いに切り結ぶことになった。
激しい剣戟が巻き起こり、通りに魔術が飛び交う。
通りに面した家が破壊され、市民は逃げ惑った。
「ヴェネトの騎士よ! 一歩も引くな!」
ボルファヌ大公のほうが兵は多いが、練度と士気はバルダーク隊が上回っている。
十倍の敵を前にしてもバルダークは引かず、隊が崩れる様子もなかった。
「くそっ! こんなところで足止めされるとは……」
ボルファヌ大公は前線から下がり、歯噛みする。
時間をかければバルダークの隊をすり潰し、王宮には迫れる。
しかしそれまでに兵を失いすぎ、時間をかけすぎれば不確定要素が増す。
王宮を押さえるには速度がもっとも重要だった。
こんなところで時間は浪費できない。
「……馬鹿な男め」
ボルファヌ大公は呟くと懐から魔法薬の瓶を取り出す。
真紅の液体が満たされたその瓶は、激しく泡立ちながら凶々しい魔力を放っていた。
「新作の誘魔の薬――切り札を用意して正解だったな。これがあれば……!」
王都を多少破壊することになるが、バルダークの処理のほうが優先だ。
アシュレイがいなければ、追及はどうとでもなる。
ここまで来てしまったら、やるしかない。
「ふん、魔物と戦いたいと抜かすなら、戦うがいい……!」
ボルファヌ大公が誘魔の薬を握りしめ、戦闘が行われている地面へと叩きつける。
「なんだ、これは……!?」
真紅の液体が即座に煙となり、バルダークの隊を包む。
煙はすぐに消えたものの、煮詰めた砂糖のように甘い匂いが立ち込めた。
この誘魔の薬はこれまでの獣系を呼び集めるタイプとは違う。
昆虫系の魔物を呼び寄せる新作だった。
どんな魔物が来るかは未知数だが、昆虫系は空を飛ぶものも地中を掘り進むものも多い。
即座にこの場へ魔物がやってくるだろう。
大公の予測はすぐに当たった。
「……なんだ!?」
戦闘中の兵士がざわめき、手を止める。
王都の大通りがわずかに揺れていた。
崩れかけた家がさらに壊れ、重苦しい地鳴りが地下より響く。
同時に地面が隆起する場所もあった。普通の地震ではない。
何かが地中を叩き、集まってきてくるような……。
「これは……」
ボルファヌ大公はにやりと笑い、兵に号令する。
「我が兵よ、後ろに下がれい!」
ボルファヌ大公の兵は戦闘を中断し、後方に集結する。
息を切らせるバルダーク隊は不自然な揺れに戸惑うばかりだった。
ただ、その中で魔物戦の達人であるバルダークだけはこの揺れに覚えがあった。
「まさか、このタイミングで……」
彼方に視線を向けると、遠くの家や王宮は全く揺れていない。
つまりこの大通り周辺だけ、謎の揺れに襲われているのだ。
「はははっ! バルダーク! お前さえいなけなれば、ヴェネト王国は俺のものだ!」
「――それはどうかな?」
「なにっ!? ……空か!」
聞き覚えのある声にボルファヌ大公が空を向く。
そこには赤き竜のロイドに乗ったアシュレイ、ライラ、モーニャがいた。