石化の沼は王国の南部に位置する。周囲は広範囲な湿地帯で人口密度は低い。
 山々の盆地から水と魔力が流れ込み、危険地帯になったとのだとされている。

 テレポート魔術でぐいーんと身体が引き伸ばされる感覚を味わい、目を開けると一行は石化の沼に到着していた。

「雰囲気ありましゅね!」

 到着したその場所は高台であった。沼を監視するヴェネト王国軍の砦でもある。

 目の前の沼地は濃い赤色に濁り、ボロボロに枯れた木が点在する。
 何回か雪が降ったのか、赤色に濡れた積雪箇所も多い。

 書物通りの景色にライラのテンションが上がる。
 モーニャが毛先をいじいじした。

「おー……せっかく整えた毛が汚れそうですね」
「だいじょーぶでしゅ! 汚れたら何度でも拭いてブラシしてあげましゅから!」
「おふたりは……何ともなさそうですね」

 酸っぱい匂いと濃密な魔力が沼に漂っている。

 その魔力だけでシェリーは気分が少し悪くなっていた。
 高台下では数百の兵士がきびきびと働いており、かがり火が所狭しと並んでいる。

「陛下、お迎えにあがりました」

 屈強の鎧騎士を伴い、高台に登ってきたのはバルダーク侯爵であった。
 アシュレイの要請により、彼もまた石化の沼に下向してきたのだ。

「悪いな、バルダーク」
「もったいなき御言葉……それでは、そちらのお嬢様が?」
「ああ、お前はもうシニエスタンで噂を聞いているだろうが……」

 ライラとモーニャがぴょんと前に出る。

「あたちはライラでしゅ! よろしくでしゅ!」
「モーニャといいますぅー!」
「……ふむ」

 バルダークが目を細める。アシュレイほどにも反応しない。
 背は180センチ、隻腕、肩幅も広くて威圧感があり……ちょっと気まずい。
 モーニャがライラにごにょごにょ耳打ちする。

「主様、やっぱりこの挨拶はフランクすぎたのでは?」
「もう手遅れでしゅよ。押し切りましゅ」

 バルダークがそこで膝を屈め、懐に手をやる。

「――っ!」

 ライラが思わずびくりとすると、バルダークが懐から可愛らしい花柄の袋を取り出した。
 袋からは香ばしいバターの匂いが漂っている。モーニャが鼻をひくひくさせた。

「……それはなんです?」
「クッキーだ。家内に焼いてもらった。ぜひ食べてみてくれ」

 ライラが袋を受け取り、中を開ける。
 バニラとチョコの美味しそうなクッキーがぎっしりと入っていた。

「おおっ! おいしそーでしゅ!」
「うぁー! 食べちゃいます!」

 ライラもモーニャも美味しいものが大好きである。

 その場ですぐさまポリポリとクッキーを食べ始めた。
 ほどよく柔らかく、砂糖も多め。4歳児向けのクッキーだった。

「うーん、すばらしーでしゅ!」
「はぁ〜幸せ〜!」
「家内はちょっとした菓子店も経営している。口に合ったようで良かった」

 ぽりぽりぽり……!

 ふたりはクッキーを食べ続けていた。一段落するまでシェリーは見守るだけだ。
 さすがに4歳児にクッキーをくれとは言えない。

「すっかりクッキーに夢中ですね」
「ふむ、菓子を自作か……」

 ぽつりと呟くアシュレイにバルダークが応じる。

「陛下も挑戦いたしますか? 料理の道は武と同じで果てしないそうですが」
「……国内がもう少し静穏になったらな」

 ここに来た理由はライラの付き添いだが、広くは魔法薬の生産と暴走事件の解決にある。

「しかし、驚きました。陛下から石化の沼を訪れたいと連絡のあった時は……。ここはかろうじて封じ込めておりますが、掃討の目処もない危険地帯です」
「ライラが行きたいと言うものでな」
「ここの魔物は泥の魔力と一体化して、とても強靭です。普通の魔術は効果がありません。手はありますので?」

 クッキーをごくんと飲み込んだライラが勢いよく手を挙げる。

「だいじょーぶでしゅ!」
「口の端にクッキーがついてるぞ」

 ぐいっとモーニャがライラの口の端のクッキーを拭う。

「爆裂薬もさほど効果はなかろう。毒の類も効かん。だが、方策はあるんだな?」
「……きっといけるでしゅ!」
「ふむ、試してみられれば良いでしょう」

 ライラたちが高台を降りて砦に向かう。
 砦では兵士たちが首を伸ばしてざわついていた。

「この沼に挑むつもりらしい……」
「陛下と将軍と言えども……」

 駐在する兵はこの沼の危険性をよく分かっている。
 何百年の間、打開策もなく封鎖することしかできていないのだから。

 それは即位したアシュレイにとっても同じだ。バルダークが念を押してくる。

「この沼の魔物は動きが遅いですが、討伐は非常に困難。冒険者も命知らずが奥へと挑みますが死にゆくのみ……」

 石畳の道が終わり、沼にさしかかる。
 間近に来るといくつもの敵意が背を刺すようだった。

「すでに待ち構えているな」
「はい。魔物どもは不用意な獲物が足を踏み入れるのを待ち伏せしております」

 ライラはバックパックからごそごそと瓶を取り出す。
 小瓶の中にあるのは緑色のどろっとした液体――毛生え薬だった。

「それをどうするつもりだ?」
「ふっふふ……でしゅ! へーか、まず魔物をおびき寄せてくだしゃい!」
「……なんだと? 説明を聞いただろう。ここの魔物に攻撃用の魔術は効果がない」
「おびき寄せるだけでいいでしゅから!」

 ライラがせがむ。
 アシュレイは口の端を曲げながらも首肯した。

「わかった。引きつけよう」
「はいでしゅ!」
「陛下、危険ですぞ」

 バルダークが呼び止めるがアシュレイは歩みを止めない。

「俺を誰だと思っている。ここの魔物にも遅れはとらん」

 それだけ言うとアシュレイは魔力を解き放ち、空へと舞い上がった。

「さて、と。どうせ効果が見込めないなら派手にやるか」

 アシュレイが両手に魔力を集め、凝縮させる。
 魔力が渦巻く光になり、アシュレイはそれを沼へと放った。
 飛行魔術と攻撃魔術を併用できるのは、最高クラスの魔術師だけである。

「へーかもやりましゅね……」

 渦巻く光が沼に着弾し、爆発を起こす。大地が揺れて沼が沸き立った。

 沼から赤紫の沼水をしたたらせながら、枯れた大木の魔物が姿を見せる。
 石のように灰色の身体と腕のような枝が生えていた。
 幹に空いた黒い穴が目と口の役割を果たし、うめき声を漏らす。

「ウウウウ……ッ!!」

 植物系のA級魔物、ドライドウッドだ。身体は石のように硬く、防御に長けている。
 他の地域では動きが鈍く、炎に弱いのでそこまで危険ではない。

 だが、ここにおいては沼の魔力を吸って遥かに強力になっていた。
 魔術を弾き、炎も寄せ付けない。

 実際、アシュレイの攻撃魔術を受けても傷ひとつついていなかった。

「モーニャ、空から撒くでしゅ!」
「はーい!」

 ライラから毛生え薬を受け取ったモーニャが空へとくるくる飛んでいく。
 ドライドウッドがモーニャに向くが、アシュレイがそこに火炎魔術を打ち込む。

「おっと、お前の相手はこっちだ」
「ウウウウッ!!」

 ドライドウッドが腕に魔力を集め、枝を弾丸として撃ち出してきた。
 だがアシュレイはそれを華麗な飛行魔術で回避して翻弄する。
 その隙にモーニャがドライドウッドの上に飛び、瓶を開け放つ。

「いきますよぉー! それー!」

 ぱーっと緑の毛生え薬がドライドウッドへと降りかかる。

「……毛生え薬で何が起こるんだ?」
「まー、見てなしゃいです」

 毛生え薬が触れた箇所に自然の力が発現していく。
 ドライドウッドの身体の魔力がどんどん緑の葉へと変わり、弱っていく。

「ウウググ……ッ!」
「なんと、体内の魔力が置換しているのか!」
「まさかこんな効果があるなんて……!」

 バルダークとシェリーが呆然と成り行きを見つめる。

 砦の兵士たちも防壁越しにこの戦いを見守っていた。
 ドライドウッドが膝をついて、枝を打ち出すのも止まる。

「あんな戦い方があるのか……」
「さすがは陛下の連れている方々だ……!」

 少しするとドライドウッドは完全に沈黙した。
 体内の魔力が緑の芽吹きによって尽きたようだ。

「今でしゅ!」
「ああ、終わりにしよう!」

 アシュレイが大気に満ちる魔力を操り、魔術で鋭利な刃を形作る。

 純粋な巨大な銀の鎌がアシュレイの手の先に出現した。
 鎌の刃のサイズは大の大人を遥かに上回っている。

「はあっ!」

 アシュレイが右手で鎌を投げつけると、高速の刃がドライドウッドへ向かう。
 パリン……っという甲高い音を立ててドライドウッドが両断された。

 べしゃ。ドライドウッドの巨体が沼に崩れ落ちる。
 魔力の脈動も消え、討伐できたようだ。

 その様子を見て砦の兵士が熱狂する。
 こんなに簡単にドライドウッドを討伐した者などいなかったからだ。

「すげぇ! 本当に倒した!」
「アイツはどんな攻撃も通じないのに! やったぁ!」
「魔術王様! バンザイー!」

 一連の様子を見ていたバルダークが残った左手を顎に当て、感嘆する。

「ううむ、まさか……本当にこれほど短時間で撃破されるとは。信じがたい成果ですな……」