ライラの日常が変わり、1か月ちょっとが経過した。
 冬に至り、ぱらぱらと雪が降る日も出てきている。

 白く変わった外を見ながら、ライラは工房で古びた分厚い本を読み漁っていた。

「……ふむふむ、でしゅ」
「今日も休まないのか」

 同じく工房にいるアシュレイがコーヒーを飲みながらライラに問う。

 ヴェネト王国で使われる暦は地球と同じ七日サイクル、最後の日が休みだ。
 この辺はなぜだか世界が違っても変わらないらしい。
 なので王宮に勤める人も今日は少ない。政務機能はほとんど停止しているからだ。

「休んでましゅよ」
「……古文書を読むのがか?」
「あたちはそーなんでしゅ。というか、とーさまも仕事しているじゃないでしゅか」

 アシュレイの手元には文官の作成した報告書の束があった。

「これは来週読む分の先取りだ。仕事のようで仕事じゃない」

 机に寝そべるモーニャが顔をごしごしする。

「主様と変わらないように思いますけどね」
「血筋ってやつでしゅよ。ふむふむ……」

 心ここにあらずというライラにアシュレイが興味を引かれる。
 熱心に本を読むことは多々あるが、ここまで本に集中するのは珍しい。

「それは何の本なんだ?」
「分身薬の本でしゅ。けっこーレアな本でしゅ」
「……分身。それは魔術にもある分身でいいのか?」

 自分の分身を生み出す魔術はいくつもある。土くれから生む土分身、影から生む影分身など。
 単純で短気な魔物に対する囮役として、非常に有効な高等魔術だ。

「そーでしゅ。とーさまも使えるんでしゅか?」
「使えるぞ。待っていろ」

 コーヒーカップを置いたアシュレイが魔力をみなぎらせる――アシュレイの影がゆらりと動き、立体感のある人形のように立ち上がった。
 黒一色の影の中にぼんやりとアシュレイの顔と服装が再現されている。

 ライラは前世で見た蝋人形の黒色版だと思った。
 魔物は騙されるだろうが、人間が見間違えることはありえないだろう。

「こーなるんでしゅね」
「これは影分身だが、中々に有用だ。魔術大学の戦闘学科では必修だしな」
「へぇー、やっぱり使える魔術なんですねぇ」
「あの氷河ヘラジカの誘導でも使われたはずだ。即席の囮としては十分だからな。しかしなんで分身の魔法薬なんだ?」
「自分がふたりいたら、便利かなと思いまちた」
「…………」
「わかってましゅよ! 分身にせーこーな動きをさせるのは難しいってことは! でもあたちが鍋を見ている間に、素材を切ったりしてくれたら……」

 ライラの言う通り、分身魔術はそんなに万能ではない。
 分身を思った通りに動かすのはとても大変でセンスがいる。使い手のほとんどは分身を使い捨てのカカシとして割り切っているはずだ。

「自分と違う動きをさせるのは超人的な難易度だぞ。俺でも難しい」
「でも不可能じゃないんですよね?」
「東の国には分身が大変得意な一団もいるらしいが……当人は弓を使いながら分身には剣で戦闘させたりな。」
「何も全身を再現しなくてもいいでしゅ。上半身だけでも増やせたら……」

 アシュレイが頭の中にもやもやとライラの構想を思い浮かべる。

 ライラの上半身を模した土人形。
 それをテーブルに置き、当人は別の作業へ。土人形は素材を切り揃える。

「……まぁ、その用途なら全身を再現する必要はないか」
「でしゅよね。というわけでコレを頑張るでしゅ」

 毛生え薬を薄める研究にも一段落がついたので、別のこともやりたくなったのだ。

 アシュレイとしてはもうライラには大いに働いてもらっているので、何も言うつもりはなかった。
 なにせ4歳児なのだから。

 そこにロイドが工房へとやってくる。
 この数日、彼は国に戻って様々な公務をこなしていた。
 それが終わり、また王都に戻ったのだ。

「やぁ、ただいま」
「おかえりでしゅ!」
「先方は問題なさそうか」
「うん、ライラのおかげでね。魔物退治と魔法薬の供給のおかげだ」

 アシュレイはライラの製作した魔法薬を切り札として流通させていた。
 高品質の魔法薬は誰でも欲しがる。諸国の評価も極めて高い。

「にしても簡単な魔法薬――煙幕や解毒薬、ポーションでいいんでしゅか?」
「爆裂薬を輸出はマズいだろう。ポーションでもお前のは超高品質じゃないか」
「うん、僕たち竜族にはポーションの効きも弱いはずだけど……しっかり効果あるよ」

 視覚が異常発達した魔物には煙幕だけでもとても有用だ。
 解毒薬についてはどんな国でも冒険者ギルドでも欲しがる。

「需要はあるところにはあるんでしゅね」
「お前はどんな魔物相手でも爆裂薬を投げて倒すから不要だろうがな」

 ロイドが納得して頷く。

「ああ、そっか。傷ひとつ負わないからね」
「それにこのモーニャもいますからね!」

 モーニャがふもっと前脚を上げる。
 彼女もこれでいて風の魔術はかなり強力である。

「で、国に戻ったら……氷河ヘラジカの件で調査が進んだよ」
「ほう、共有してもらえるのか?」
「もちろん。竜の鋭敏な感覚でシニエスタン周辺をもう一回調べたら、痕跡が残っていたんだ」
「我々の調査では何も出なかったが……。手間を取らせたな」
「構わないよ。ただ、大部分は風と土に紛れてしまっていたけどね」

 ロイドが皮袋を取り出す。そこには魔力がかすかに残る砂が入れられていた。
 砂は赤紫に変色していて、何かが砂に作用したように見えた。

「総出でかき集めて、このくらいだ。何かの足しになるかい?」
「もちろん、重要な手がかりだ。受け取らせてもらおう」

 アシュレイが皮袋を受け取る。

「……ふむ、でしゅ」
「どうかしたか、ライラ」
「ウチの国では魔物の暴走が相次いでいるんでしゅよね?」
「そうだな、ヴェネト王国の近辺で多発している。今、一番頭を悩ませている問題だ」
「最近、魔物の暴走があったところもロイドしゃんに調べてもらったらどーでしゅ?」
「僕は構わないよ。この件は僕の国でも重大案件だからね」

 アシュレイが皮袋に目線を落とす。
 その瞳には言いしれぬ悲壮さがあった。

「……ここ近年の暴走事件では、サーシャのが最大だった」

 その言葉の意味をわからないライラやロイドではない。
 アシュレイの指が皮袋をなぞる。古傷に触れるように。

「何度調べても、何も分からなかった。単なる不幸な事件としかな。だが、これほどまでに暴走事件が起きている……何か裏にあるんじゃないかと思わざるをえん」
「僕も同じ見解だ。竜の歴史を紐解いても異常な頻度だよ」
「やはりそうか……。そう、だよな」

 アシュレイが長く息を吐く。

「サーシャの事件現場、彼女の研究所跡は保存してある。四年前だが何か残っているかもしれない」
「……とーさま」
「他の事件が起きた地点も内務省で記録している。ロイド、君が調べてくれるなら被害者も喜ぶだろう。どうか頼む」
「わかった。じゃあ僕はライラの手伝いをしながら事件の地点を調べて回るよ」
「あたちはその砂をちょっと調べてみるでしゅ」
「……何だって?」
「どーいう魔力なのか、魔法薬で調べられるでしゅ」

 魔法薬には試験薬の類もたくさんある。
 魔力や魔物の痕跡を割り出すなら、魔法薬の右に出るものはない。

「いや、だがな……」
「主様より適役がいるんですか?」
「……いない」

 アシュレイが渋々と認める。

 4歳児だが魔法薬について、ライラに比肩する人材は国内にいないだろう。
 その上、機密という点でもライラ以上に信用できる人間もいない。

「わかった。だが、くれぐれも扱いには気を付けてくれ」
「はいでしゅ! これも頑張るでしゅよ!」
「うん? これも……?」

 ロイドが小首を傾げる。
 ライラはロイドが来る前に話していた分身薬のことを力説した。

「ふふっ、なるほどね……君らしい」
「そーいうわけで、素材集めにはまた手を借りるでしゅ」
「わかった。もちろん協力するよ」

 こうして新しい目標に向けてライラは意気込むことになった。
 これがヴェネト王国を大きく変えることになろうとは、この時のライラは思いもしなかった。