まったく予想外の方向から話が飛んできて、俺は思わず目を白黒させた。
 今までいくらだって時間があったのに、どうして今、こんな話をするんだろう。

 「全然、どんなふうに呼んでくれてもいいですよ。音羽でも、音っちでも、瑞稀……でも……」

 最後の〝瑞稀〟だけ、声が自然に柔らかくなって、顔まで熱くなる。
 なかなか呼ばれないけど、俺が一番好きな呼ばれ方だ。
 先輩がそう呼んでくれるなんてちょっと夢みたいで、嬉しくて胸が苦しくなる。

 「じゃあ瑞稀。決定ね」

 先輩の声は弾んでいて、心の底から嬉しそうだった。
 今日の先輩は、やっぱりどこか違う。
 真剣な顔をしたかと思えば、ふっと笑ってみせて、俺も緊張でぎこちないけど、先輩も少しちぐはぐに見えるのは、気のせいなんかじゃないと思う。

 「じゃあ……俺も、利久先輩って呼んでいいですか?」

 ここまで仲良くなれたのが奇跡みたいで、俺はちょっと欲張ってしまった。
 もっと近づきたい。呼び方だって、もっと特別なものにしたい。

 「別に、お前も利久って呼んでいいよ。仲良しじゃん、俺ら」

 利久……は、さすがに先輩と後輩という立場で、呼べるわけがない。
 でも、呼んでいいって許されたことが嬉しくて。
 特別な存在だって言ってくれているみたいで、勝手に勘違いしそうになるのを必死で耐えた。

 「よ、呼べるわけないじゃないですか……先輩、学校の王子様なんだし。俺みたいなモブが呼んだら、女子に刺されますって!」

 なんとか笑ってごまかすと、先輩は肩をすくめて、口角を上げた。

 「じゃあ俺が女子に言うよ。 『俺の瑞稀に触んな』って」

 「は、俺の瑞稀……とか。何、言ってんの」

 余裕がなくて、初めてタメ口になってしまう。
 ずっと押さえていた想いがあふれそうだ。
 ずっと先輩とこうしていたい、かも。
 やばい、もっと名前を呼ばれたい。
 もっと先輩の笑顔を見ていたい。
 もっと、先輩のいろんな顔を見てみたい。
 本気で先輩を独り占めしたい。

 震える声で、俺は勇気を振り絞って訊いた。

 「あの、先輩……。さっき、美海ちゃんが言ってたオーディション、受けるんですか?」

 先輩は一瞬黙り込んで、視線を伏せる。
 瞳はどこか遠くを見ているみたいだ。

 「ん……まだ迷ってるよ。正直、また挫折したらと思うと怖い」

 こうして俺に正直に気持ちを伝えてくれて、嬉しい反面、心の水面を揺れた。
 もし頑張るって言うなら、俺はもちろん全力で応援したい。
 でも――もし先輩がアイドルになったら、あっという間に遠く行ってしまいそうで、怖い。

(でも、絶対に……先輩はアイドルになれるんだよな)

 応援団で見た、先輩の舞う姿が脳裏に浮かぶ。
 淡い光の中で、誰もが息を呑む美しさと優雅さ。
 感情が体中から伝わってくる、あの圧倒的な輝き。
 誰もが先輩の踊りに、魅了されていた。
 誰がどう見ても、先輩は〝踊りを届けなくちゃいけない人〟だ。

 「瑞稀、どうしたの?」

 先輩がそっと、止まった俺の手に触れる。

 「すみません……先輩が踊ってる姿、思い出してて」