あの日から、ほっと息をつく間もなく迎えた体育祭当日。
 朝七時三十分、まだ完全に目が覚めきらないまま、俺は別館の生物室の扉を静かに開けた。

 「あれ、いない……?」

 広い教室には朝日がキラキラと差し込み、まるで舞台の幕が上がる瞬間みたいに輝いている。
 でも、俺を呼び出した張本人はどこにもいなかった。
 昨晩、七海先輩から【朝練の三十分前に集合】と命令文みたいなメッセージが来ていたのに。

 待ち合わせ時間を五分過ぎても、先輩の姿はない。
 スマホを確認しても、昨晩のやりとりだけで、それ以降の連絡はなかった。
 先輩が三十分前に俺を呼んだ理由は、わかってる。
 本番直前のダンスを最後にチェックしてくれるつもりだ。
 こんなに面倒見がいい先輩は、他にいない。

 なのに、今はいない。

 「音羽ー! ごめん、お待たせ!」

 突然聞き慣れた声が響いた。顔を上げると、体操着姿の先輩が大きな黒いバッグを持って笑っている。
 「すぐそこのコンビニで色々買ってたら遅くなった」

 「えっ……王子?」

 彼のゆるく巻かれた髪は赤い鉢巻に映え、化粧で整えられた顔はまるでアイドルそのものだった。
 男の俺でさえ胸が高鳴るくらい、魅力的で、誰もが振り返る存在だ。

 「やっぱり音羽、何も準備してないな。俺がかっこよくしてやるから、ここに座って動くな」