パンを一切れ咥えて、口の中で無理やり咀嚼しながら、通学バスに駆け込んだ。

 俺は音羽瑞稀(おとわみずき)。高校二年生、まだまだぴちぴちの十六歳。だけど遅刻ギリギリ常習犯だ。

 この辺りは企業のオフィスが多いエリアで、通勤客はある地点で一斉に降りてくれる。
 その隙に、いつもの後方の窓際の席を迷わず確保した。
 エンジンから少し離れていて、振動も少ない。揺れないし、静かで、最高のコンディション。
 俺にとって、ここは一日の中で数少ない落ち着ける場所のひとつだ。

 乗車時間は、おおよそ二十分。そこから歩いて十分で、清岬(きよみね)高等学校にたどり着く。

 普段なら、スマホで音楽を流したり、体調次第ではちょっとしたゲームを進めたりして時間を潰すけれど、今日は……ダメだった。
 昨夜の寝不足が祟って、目を開けてるだけでもしんどい。
 俺は、何のためらいもなく窓に体を預け、全体重を投げ出した。

 窓の外には、雲ひとつない青空。
 白く滲む太陽が、世界をまるごと照らしている。
 流れる風景の中に、人や花、電柱や信号、舗装された道端の雑草まで……ありとあらゆるものがある。
 太陽の光がそれらを照らすたび、まるで全部が「頑張れよ」と声をかけてくるように見えた。

(うんわかってる。だから静かにしてて?)

 キンキンに冷えた車内は、そんな外の熱気を完全に遮断してくれる。
 静かで、寒すぎず、揺れもちょうどよくて、運転手さんが気を配ってくれてるのが伝わってくる。
 こんなにも穏やかで、何も要求されない場所があるなんて最高だ。
 気づけば、意識がどんどん沈んでいった。

(できれば、ずっとここで寝ていたい。学校、正直めちゃくそだるい)

 中学の頃までは、あんなに元気で、やる気もあって、色んなことに夢中になれてたのに。
 今は、ただのもぬけの殻人間。

 最初は、どうしてこんなに気力が湧かないのか、自分でもわからなかった。
 それがなんとなく気になって、いろいろ調べて……ようやく辿り着いた名前がある。

 バーンアウトーー日本語で燃え尽き症候群というらしい。

 聞こえは少し大袈裟かもしれない。でも、俺にはこれがしっくりきた。
 部活も勉強も、友達との付き合いも、何もかも……スイッチが入らない。
 少し前向きになったとしても、いつの間にか沈んでいくような、そんな感覚ばかり。

 事の発端は、二年前。中学二年の頃から頑張っていたバドミントン部を、高校受験を理由に退部したのが始まり。
 代わりに、塾で何時間も過ごして、全ての時間とエネルギーを受験に注いでしまった。
 ただ一つの願い『好きな人と、同じ高校に行きたい』という、それだけのために。

 けれど、現実は甘くなかった。俺は落ち、あいつは受かった。
 そしてその瞬間に、俺の中の夢と希望が、音を立てて崩れていった。

 あんなに意気込んでいたのに、あいつに告白はできなかった。
 「落ちた自分が何を言っても、格好悪いだけだ」と、思ってしまったから。
 俺から連絡を絶ち、それっきりだ。

(ダサいよな、俺。世界で一番カッコ悪い……って、笑える)

 でも、実際そうなのだ。
 受かる自信があった分、落ちたときのショックは想像以上で、気まずさと恥ずかしさで潰れそうになって、何もかも投げた。
 その日を境に、俺は何かに挑戦することが怖くなり、殻に閉じこもるようになっていった。

 まだ、かろうじて学校に通えているんだ。
 せっかく合格して、もう一年半も頑張って通ってる。
 だからせめて、このまま卒業までは持ちこたえたい。

 もう、新しい刺激とか、人間関係の変化とか、そういうのは本当にいらない。
 何も起こらず、穏やかに、静かに……それだけでいい。
 せめて、ゲームの中だけで悔しい思いをするくらいの生活が、今の俺にはちょうどいいのだ。

 「おーい、起きて。もうすぐ到着するよ」