スマホを閉じ、立ち上がった俺は、無意識に息をひとつ吐いてからリュックを肩にかけた。
 たった二週間。けれど、濃かった。
 音羽をどうにかしてやりたい——そんな一心で走ってきたこの日々は、俺にとっても確かに意味があった。
 体育祭が終われば、きっと少しは肩の荷が下りるんだろう。でも、代わりに空白が残る気がする。
 その隙間が、ほんの少しだけ、寂しい。

 俺は頑張る誰かを見るのが好きだ。
 ひたむきに努力する姿は、それだけで胸を打つし、自分まで奮い立たされる。
 だから、音羽を応援することが、俺にとっても救いだったのかもしれない。

 スタジオの店長に軽く頭を下げて扉を開けると、ツン……冷たい風が頬に突き刺さった。昼間は爽やかな風が吹いてるが、夜はすっかり寒い。もう本格的な秋に入ろうとしていると思うと、少し切なくなった。
 足元は薄暗く、先が見えにくい。寂しく灯る電灯の光を頼りに、歩みを進める。

 (俺、これから……どうすればいいんだろうな)

 ふと、胸の奥からぽつりと零れるように、そんな思いが湧いた。

 ひとりになると、ときどきこうやって気持ちが沈む。
 表には出さないけれど、俺の心の中には拭えない影のようなものがずっとまとわりついていた。

 二年前の冬、俺はひとつ、大きな夢を諦めた。それまでの人生の軸だった。
 努力して、積み重ねて……ずっと目指してきた舞台にたどり着いたけれど、最後は、届かなかった。
 何もかも失ったように感じて、あの頃の俺は空っぽになった。
 食事の味も、音楽のリズムさえも、全部が遠くに感じるようになった。
 だから今、こうして学校に通い、バイトをし、生徒たちと笑っている自分がいるのは、奇跡みたいなものなのだ。

 今年の春、担任に言われて、進学という道も考えた。
 けれどうちは、母子家庭で早くに父親を亡くしているし、母さんは、俺と妹のために朝から晩まで働いて、倒れそうになりながら踏ん張ってくれている。そんな状況で、これ以上、母さんに甘えられない。

 それに、やりたいことがないのに大学や専門学校に入って何年間も〝模索〟するなんて、今の俺には贅沢すぎる気がした。
 だから俺は、ダンススクールの講師として働くことを選びたいと思っている。
 生徒たちの成長を支える時間には、ちゃんと意味があると思えるから、だ。

 「はぁ……寒いな」

 ずっと避け続けてる〝何か〟があるのは分かってる。
 でもそれを直視した途端、また自分が壊れるような気がしてる。

 脳裏に、今でも焼きついている光景がある。
 あの時、一緒に夢を追いかけていた仲間が泣きながら俺を抱きしめた。
 『お前と一緒に行きたかった』
 その言葉が今も俺の胸に重く沈んで、離れない。

 俺はその夢の扉を開けなかった。いや、開けなかったんじゃない。〝開けられなかった〟。

 (〝俺も一緒に行きたかった。でも、行けなかった〟それだけを、受け止めるのに今も精一杯だよ)

 暗い気持ちを抱えたまま自宅にたどり着き、夕飯前のルーティンでストレッチと軽い筋トレを始める。
 体を動かしていると、少しだけ思考が整理される。
 それでも、ふとした瞬間に心が止まる。

 そばに置いていたスマホが小さく震えた。
 画面を見ると、音羽からのメッセージが届いていた。

 【明日、練習終わり少し時間くれたりしますか?】