春の終わり、街のあちこちに紫陽花の蕾がふくらみ始めた頃、紗英の元に一通の封筒が届いた。



差出人は「湊市立こども図書館」。



封筒を開けると、折りたたまれた画用紙と数枚の便箋、それに一冊の冊子が入っていた。冊子の表紙には、あの女の子──図書館で出会った「ママがいない」と言っていた女の子が描いた、くまくんの絵。クレヨンで一生懸命描かれたくまくんは、丸くて少し不恰好だったけれど、とても温かみがあった。



手紙には、こう綴られていた。



> 「くまくん、がんばったね。わたしも、がんばるよ。くまくんのえほん、だいすきです。ありがとう。」







紗英は、それを読んだ瞬間、胸がじんわりと熱くなり、自然と涙がこぼれた。



「あの時……描いてよかった……」



彼女は一人ぼっちのアパートの中で、封筒の中身を何度も読み返した。手紙をくれたのは、あの時声をかけてきた司書の先生が中心となって、子どもたちと一緒に送ってくれたものだった。



その数日後、紗英の携帯が鳴った。編集者の長谷川からだった。



「紗英さん、今お時間いいですか? ちょっと嬉しい話があって」



「え?」



「『くまくんのとおいみち』、口コミで少しずつ広がってまして。各地の図書館や保育園から問い合わせが来てるんですよ。で……社内で話が出たんです。続編、出しませんか? “くまくんの帰りみち”ってタイトルで」



その言葉に、紗英は思わず言葉を失った。



「え……私が……続編を?」



「もちろん。くまくんを描けるのは、紗英さんしかいません。読者の子たちが、“くまくん、どこに帰るの?”って言ってるんです」



紗英は、ゆっくりと口を開いた。



「……描きたいです。ぜひ……描かせてください」



電話を切ったあと、彼女は机に向かい、白いスケッチブックを開いた。震える手で鉛筆を走らせながら、小さく笑った。



「くまくん、次はどんな景色を見るんだろうね」









その夜。何年ぶりかに、実家の母から電話がかかってきた。



「元気にしてる?」



母の声は、あの頃より少しだけ丸く、やさしく聞こえた。



「うん……なんとか。お母さんこそ、元気?」



「……手紙、読んだの。絵本、買って読んだよ。“くまくん”、まるであんたみたいだね」



「……そうかもしれないね」



「……帰ってきてもいいのよ。無理にじゃなくていい。でも、父さんもね、あんたのこと、ずっと気にしてた」



紗英は目を閉じた。どんなにすれ違っても、どんなに傷つけあっても、帰る場所があるという言葉に、彼女の心は少しだけ軽くなった。



「……ありがとう。帰ってみようかな。くまくんも、“帰りみち”を歩いてるから」









そして、6月のある朝。



紗英は小さなスーツケースに、スケッチブックとノートパソコンを詰め込んだ。着る服は少ししかなかったけれど、絵本の原稿と、もらった手紙はちゃんと持っていた。



新幹線の車窓から見える景色は、幼い頃に何度も見た田舎の風景と変わっていなかった。



駅に着くと、少しだけ年を取った両親が、改札の向こうで待っていた。母は、遠慮がちに手を振り、父は照れ隠しのようにうつむいていた。



「……おかえり」



「ただいま」



それだけで、紗英の目に涙が浮かんだ。









夜。



古い実家の部屋で、紗英はスケッチブックを開いた。くまくんが描かれたページに、新しい一行を書き加える。



「くまくんはね、とおいみちを歩いて、たくさんの涙と、やさしさに出会ったよ。そして──ようやく“帰りみち”を見つけたの」



窓の外では、カエルの声が聞こえていた。どこか懐かしく、あたたかな音だった。







人は間違える。傷つく。迷う。だけど、必ず“帰りみち”がある。



紗英はそう信じられるようになっていた。