「生活保護、受けますか?」

その言葉は、まるで遠い世界の言語のように思えた。
だけど、あの日、倒れて運ばれてきた病院のベッドの上で、それが“唯一の選択肢”だということも、もう分かっていた。

「…どうしよう……」

絞り出すように答える紗英に、ケースワーカーの女性は決して責めることなく、ただ静かに、資料の束を差し出した。

「借金があるなら、債務整理するなりしてね。こちらが、申請書類です」

「……はい」

資料の間に、そっと挟まれた小さな法律事務所のパンフレット。
そこには「女性のための無料相談」「生活再建のサポート」と書かれていた。



病院を退院してから数日後。
紗英は、震える手でその法律事務所に電話をかけた。

「はい、たなはし法律事務所です」

「あの……債務整理のことで相談したくて……」

声はかすれ、涙がこみあげそうになるのを抑えながら話した。
電話口の女性は、落ち着いた声で言った。

「大丈夫ですよ。まずはお話を聞かせてくださいね。辛いこと、たくさんありましたよね」

その言葉だけで、紗英の心の壁が、少しだけ崩れた気がした。



債務整理の手続きを進める傍ら、紗英は役所にも足を運び、生活保護の申請をした。
初めて役所の面談室に入った日、紗英は深く頭を下げていた。

「……ごめんなさい。こういうの、頼るなんて、情けないって……ずっと思ってました」

ケースワーカーは、にこりと笑って言った。

「誰にでも“立ち止まる”時期はあります。恥ずかしいことじゃないですよ。大事なのは、この先どうするか、です」

その言葉に、救われるような気がした。




生活保護を受給するようになった紗英は、まずは最低限の暮らしを整えることに集中した。

六畳一間の市営住宅。暖房もなく、簡素な家具があるだけの部屋。

だけど、久しぶりに“鍵のかかる自分の部屋”があることに、紗英は静かに涙を流した。

初めて炊いた白米を、お味噌汁と一緒に食べながら、ふと、遠い日々を思い出す。

──私立の女子高に女子大。
──お嬢様と呼ばれ、何不自由ない暮らし。
──そして、陽介と出会ってしまった四ヶ月間。

今は何もかもが違う。
けれど、“生きること”を選んだのだ。



窓の外に、春の気配が見えていた。
街路樹の枝先が、ほんの少しだけ赤みを帯びていた。

紗英は、自分の手のひらをそっと見つめる。

何も持っていない。でも、まだ、自分には“生きている身体”が残っている。

「……これからだよね」

小さな声でそうつぶやいた。