油利木くんと合わせたその日から、大学で彼を見かけることが多くなった。僕からは声を掛けることはせず、ただ遠くから見ているだけだったが、油利木くんが僕に気が付くと必ず声を掛けてきた。それが、他の誰かと一緒にいる時でも、なのだ。
「あの、油利木くん。友達が待ってるみたいですけど。早く戻った方がいいのでは?」
思い切ってそう言ってみたが、油利木くんはあまり気にしている様子はなく、
「え? 別にいいじゃん。ちゃんとあいつらには、じゃあなって言ってきたぞ。それよりさ、今日仕事? またワタルのピアノ、聞きたいんだけど」
「えっと。今日は仕事です。来てくれるなら、何か希望の曲を弾きましょうか」
油利木くんは僕の質問には答えず、
「いや、それよりさ。いつまで敬語使うんだよ。オレたち、仲良しじゃないのか? もう、敬語は禁止だからな。それと、オレのことは名前で呼べ。もう、名字で呼んでも返事しないからな」
急に何を言い出すんだろう。仲良し? 敬語禁止? 名前呼び?
僕は、あまり砕けた話し方が得意ではないし、名前の呼び捨てもしたことがない。
「それは、たぶん無理です。油利木くんでいいじゃないですか」
「オレ、返事しないって言ったぞ。今から実行します」
油利木くんが僕をじっと見る。名前で呼んでほしいとの期待が込められたような目をしている。いや。そんな目をされても無理だから、と心の中で抗議する。そして、敢えて名字で呼んでみた。
が、予告していた通り、油利木くんは返事をしない。さらに何回か呼んでみたが、やはり返事をしなかった。仕方ない、と覚悟を決めた。僕は息を吐き出すと、
「和寿」
慣れないことをして、緊張感はものすごく、声が少し震えてしまった。名前呼びをされた油利木くん……和寿は、みるみる笑顔になり、
「やっぱり名前で呼ばれる方がいいな。あとは、敬語をやめてくれたら、もっといいんだけど」
「だから、それは難しいって言ってるじゃないですか」
「仕方ないな。じゃあ、徐々に。それならいいか?」
譲歩してきた。僕は頷き、
「あ、はい。努力します」
「よし。約束だぞ」
「はい」
和寿が笑い出したのにつられて、僕も笑った。少し距離が近づいたような気がして、嬉しかった。
「それで、ワタル。伴奏の件なんだけど……。どうかな? やってもらえる? それとも……。何か、宝生先生、反対っぽくなかった? 先生がダメって言うなら、無理だよな」
「反対しているのかどうか……。それがわからなくて。君の好きにしたらいい、みたいに言われたんですけど、それも本気で言ってるのか、わかりません。先生のこと、読めないんですよ」
宝生先生は、本当に不思議な空気を持つ人だ。どれが本音か理解出来ないのだ。
和寿は、「そっかー」と残念そうな感じに言うと、
「でもさ。君の好きにしていいんだよな? ワタルはどうしたいんだ? 大事なのは、そこだろ?」
「僕は……」
本当の気持ちを伝えていいんだろうか? 僕は少しの間、考えたが、やはり答えはそれしかなかった。僕は和寿と視線を合わせると、
「出来るかわからないですけど、やってみたいです。この前、すごく楽しくて……またやってみたいって思って……」
「本当か? マジで? やった。すんごく嬉しいんだけど。本当の本気か? もう訂正は受け付けないぞ」
「訂正しませんよ。だって、本当にやってみたいって思ったんですから。心が……心がウキウキするって言うか……。上手く説明出来ないんですけど……」
「ありがとな」
ものすっごい笑顔だ。それを見て、僕の心臓がドキドキし始める。これは何だろう? いや。それが何か、わからない方がいいのかもしれない。きっとそれは、哀しい結果を生むことになるだけだ。そんな気がした。
「和寿。これから、よろしくお願いします」
「こっちこそだよ。ワタルと演奏出来るなんて、夢みたいだな」
「夢……」
夢なら覚めないでほしい。いつまでも覚めないでほしい。そんなことを思ってしまった。
翌日、宝生先生を食堂で見かけ、走ってそばまで行くと、
「先生。僕、和寿……油利木くんの伴奏をやろうと思います」
声を掛けられた先生は、ゆっくりと顔を上げて僕を見た。そして、眉一つ動かさずに、
「そうですか」
「あの……」
やっぱり反対なんですか、とは訊けなかった。でも、賛成してくれているとは、とても思えない。
先生は、僕から視線を外すと、何事もなかったかのように食事を再開した。それからいっさい僕を見なかった。
昨日は希望に満ち溢れて心が弾んでいたのに、急にもやもやし始め、落ち着かなくなってしまった。
「あの、油利木くん。友達が待ってるみたいですけど。早く戻った方がいいのでは?」
思い切ってそう言ってみたが、油利木くんはあまり気にしている様子はなく、
「え? 別にいいじゃん。ちゃんとあいつらには、じゃあなって言ってきたぞ。それよりさ、今日仕事? またワタルのピアノ、聞きたいんだけど」
「えっと。今日は仕事です。来てくれるなら、何か希望の曲を弾きましょうか」
油利木くんは僕の質問には答えず、
「いや、それよりさ。いつまで敬語使うんだよ。オレたち、仲良しじゃないのか? もう、敬語は禁止だからな。それと、オレのことは名前で呼べ。もう、名字で呼んでも返事しないからな」
急に何を言い出すんだろう。仲良し? 敬語禁止? 名前呼び?
僕は、あまり砕けた話し方が得意ではないし、名前の呼び捨てもしたことがない。
「それは、たぶん無理です。油利木くんでいいじゃないですか」
「オレ、返事しないって言ったぞ。今から実行します」
油利木くんが僕をじっと見る。名前で呼んでほしいとの期待が込められたような目をしている。いや。そんな目をされても無理だから、と心の中で抗議する。そして、敢えて名字で呼んでみた。
が、予告していた通り、油利木くんは返事をしない。さらに何回か呼んでみたが、やはり返事をしなかった。仕方ない、と覚悟を決めた。僕は息を吐き出すと、
「和寿」
慣れないことをして、緊張感はものすごく、声が少し震えてしまった。名前呼びをされた油利木くん……和寿は、みるみる笑顔になり、
「やっぱり名前で呼ばれる方がいいな。あとは、敬語をやめてくれたら、もっといいんだけど」
「だから、それは難しいって言ってるじゃないですか」
「仕方ないな。じゃあ、徐々に。それならいいか?」
譲歩してきた。僕は頷き、
「あ、はい。努力します」
「よし。約束だぞ」
「はい」
和寿が笑い出したのにつられて、僕も笑った。少し距離が近づいたような気がして、嬉しかった。
「それで、ワタル。伴奏の件なんだけど……。どうかな? やってもらえる? それとも……。何か、宝生先生、反対っぽくなかった? 先生がダメって言うなら、無理だよな」
「反対しているのかどうか……。それがわからなくて。君の好きにしたらいい、みたいに言われたんですけど、それも本気で言ってるのか、わかりません。先生のこと、読めないんですよ」
宝生先生は、本当に不思議な空気を持つ人だ。どれが本音か理解出来ないのだ。
和寿は、「そっかー」と残念そうな感じに言うと、
「でもさ。君の好きにしていいんだよな? ワタルはどうしたいんだ? 大事なのは、そこだろ?」
「僕は……」
本当の気持ちを伝えていいんだろうか? 僕は少しの間、考えたが、やはり答えはそれしかなかった。僕は和寿と視線を合わせると、
「出来るかわからないですけど、やってみたいです。この前、すごく楽しくて……またやってみたいって思って……」
「本当か? マジで? やった。すんごく嬉しいんだけど。本当の本気か? もう訂正は受け付けないぞ」
「訂正しませんよ。だって、本当にやってみたいって思ったんですから。心が……心がウキウキするって言うか……。上手く説明出来ないんですけど……」
「ありがとな」
ものすっごい笑顔だ。それを見て、僕の心臓がドキドキし始める。これは何だろう? いや。それが何か、わからない方がいいのかもしれない。きっとそれは、哀しい結果を生むことになるだけだ。そんな気がした。
「和寿。これから、よろしくお願いします」
「こっちこそだよ。ワタルと演奏出来るなんて、夢みたいだな」
「夢……」
夢なら覚めないでほしい。いつまでも覚めないでほしい。そんなことを思ってしまった。
翌日、宝生先生を食堂で見かけ、走ってそばまで行くと、
「先生。僕、和寿……油利木くんの伴奏をやろうと思います」
声を掛けられた先生は、ゆっくりと顔を上げて僕を見た。そして、眉一つ動かさずに、
「そうですか」
「あの……」
やっぱり反対なんですか、とは訊けなかった。でも、賛成してくれているとは、とても思えない。
先生は、僕から視線を外すと、何事もなかったかのように食事を再開した。それからいっさい僕を見なかった。
昨日は希望に満ち溢れて心が弾んでいたのに、急にもやもやし始め、落ち着かなくなってしまった。

