入学式の日、学長からの祝辞を受けて、新入生代表の男子学生が舞台に上がった。細身で長身。髪は、やや茶色がかっていて、さらさらしている。スーツ姿がよく似合っていた。

 彼は学長に向かって礼をすると、手に持っていた紙をゆっくりと広げていった。マイクの向きを少し直すと紙に目をやり、

「桜咲く美しいこの日に、私達は入学を許されました。これから私達は本格的に音楽の世界に入って行きますが、諸先生方、どうか私達をお導き下さい。音楽に精進していく事をここに誓います。総代(そうだい)、バイオリン科、油利木(ゆりき)和寿(かずとし)

 声がとても良かったので、この人は声楽科の学生だろうか、と思ったが、違っていた。声楽科の学生ならば歌っているのを聞いてみたい、と思うような声だった。が、バイオリン科と言われれば、バイオリンを弾いているところを見てみたい、という気持ちにもなった。

 それが、油利木くんの存在を知った日だった。


 食事を終えてピアノ演奏に戻ってからも、何となく彼らのことが気になっていた。が、仕事中だと自分に言い聞かせ、なるべくそちらを見ないように努めた。そうしている内に少しずつ気持ちが落ち着いてきて、ピアノの演奏に集中出来るようになっていった。

 スタッフが各テーブルを回り始めたのに気が付き、ピアノの横の壁に掛けられている時計を見ると、もう最後の曲を弾く時間になっていた。深呼吸をしてから、弾き始めた。

 曲の途中でゲストが宝生(ほうしょう)先生たち三人を残すだけになったので、手を止めた。すると、油利木くんがそばに来て、

「何でやめるんだよ。最後まで弾いてよ。聴きたい、聴きたい」
「いや、でも……。それがここでのルールなんですけど」

 反論してみたが、油利木くんは聞いてくれなかった。

「ルールなんてどうでもいいからさ。弾いてよ。続きからでいいから。ね?」

 油利木くんの訴えに、宝生先生も頷き、

吉隅(よしずみ)くん。続きを弾いてください」

 冷静な口調で言われてしまった。

 ──この人には逆らえない……。

 僕は諦めの境地になって、最後までその曲を弾いた。鍵盤から手を離して彼らの方を見ると、三人は大きな拍手をくれた。特に油利木くんは、頭の上に手を上げて勢いよく叩き続けている。そうされて、ちょっと恥ずかしくなってきた。僕は小さな声で、

「あの。ここでは、僕、拍手をもらったらいけないんですが。そんなに目立ったらいけないんです」

 自分の立場を説明してみたが、宝生先生は涼しい顔で、

「今日は特別です。いいじゃないですか」

 微笑を浮べながら言った。僕は大きく息を吐くと、

「先生。良くないです」
「いいじゃないですか」

 宝生先生と言い合いしていると長田(ながた)店長が来て、僕と先生の肩を同時にぽんと叩き、

「はい。ブレイクです。吉隅くん。油利木くんと演奏してくれるって聞いたんだけど、本当にやってくれるのかい」
「はい。油利木くんに頼まれたので」

 そう言って油利木くんの方に目をやると、彼は僕を見ながら頷いて、

「どうしても合わせてみたくなって。店長。ここを使わせてくれてありがとうございます」

 店長に向かって頭を下げた。店長は、ニヤッと笑って、

「で? 何を聞かせてくれるのかな?」
「そうですね……」

 そう言いながら油利木くんは、バイオリンケースから楽譜を何冊か取り出した。そして、それらをパラパラとめくった後、僕に一冊の楽譜を渡してきた。